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田園にて1
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陽の暖かさを含んだ、気持ちのいい風が吹いている。
翡翠は夏風に、閉じていた目を開いた。
「……」
そこは、広く広くひろがる、夏さなかの青田の世界。
頭上には突き抜ける青空、太陽は光も熱も世界へと注ぎ、遠く霞む端には墨絵のような山々が、美しい稜線を見せている。吸い込む空気は、煌めくほどに澄んでいた。
翡翠はひとり、不思議な盆地に立っていた。
血の汚れも無い白鼠色の着物、一人立つ足元はあぜ道。田を起こした時に盛られた柔らかい土と、水田に実を飛ばさない慎ましい緑が、土の上を覆っている。前後に広がる青田は水を引き込み、膝上まで育った青稲が、途切れぬ風に絶える事なく歌っていた。
青稲を揺らす青田風で、稲面はまるで水面のように揺蕩い続けている。
「……」
小さな音ではあったが、耳が確かに捕えた。
さっとしゃがみ込み、稲の根の森を覗く。
水田のなか、ゆるゆると波紋を引き、小さな白ヘビが泳いできた。
翡翠は袖が浸るのも気にせず、水田に両手を差し入れた。やって来た白ヘビは、心得ているように、さも当然というように、その手へと身を滑らせ上がる。
娘が思わず「あっ」と声を上げた。
「火傷しないか、未蛇」
未蛇は水田に浸されたままの手の平で、鎌首を立て、ちろりと舌を出した。
「私の鱗は人肌に耐えられる。軟い魚とは違うんだよ。上げてくれ、翡翠」
「ん」
未蛇は本当に小さかった。その丈は、娘の指先から手首を少し越したほどしかない。これを祟りと見たのは、本当に人の心の恐ろしい事だ。
翡翠は、小さな白いシマヘビを落としてはいけないと、しゃがんだまま顔の高さへと上げたが、立ち上がってくれとせがまれた。そっと立ち上がれば、未蛇は人の背の高さで青田を振り返り、その美しい田園風景を眺めた。
手の平を通し、未蛇の満足そうな気配が伝わると、翡翠もまた、心が満たされた。
(ここがあの世でも、ま、いいか)
そんな娘の心持ちをヘビは見抜き、振り返ると柔く尾で手首を打ってみせる。
「あの世ではない。翡翠を奪おうなんて思わない。何より、神の道理で言えば、お前は他の生類で徳を積みすぎている。そんな娘を理不尽に裁いたりしないよ」
翡翠が可笑しそうに笑った。
「私は人に裁かれた前科者なのにな」
「人の道理なんぞ、私達の目から見れば蟻共の目より小さい。……奴ら、その目さえも、飾り物のように振舞う時がある」
シマヘビだった頃に蟻と揉めたのだろうか。未蛇は鎌首を振り、考えを払う仕草を見せた。
娘にはそれが愛らしく映り、思わず笑ってしまう。
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