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第10章 時
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菜々の声ではない。確かにその声は礼奈のものだった。菜々の声色は礼奈のそれよりも明るい。しかし今俺のすぐ後ろから聞こえている声は、まさに礼奈の声色だった。
「うん、ごめんね。着いたらまた連絡するから」
礼奈はそうして電話を終えたようだった。
足が笑っている。体が宙に浮いているようだ。いや、そんなはずはない。俺は確かに新宿駅の人混みの中で歩いている。そして今、俺のすぐ後ろには礼奈がいる。
声が似ているだけの赤の他人? そんなはずはない。俺が間違えるはずはない。そこにいるのは間違いなく礼奈、礼奈だ。
振り向け。振り向け。振り向け。
俺が暗闇から抜け出す唯一の方法だ。礼奈と話す。礼奈と。
礼奈と、何を話せばいい?
久しぶり、とでも言えばいいのか。覚えてるか、とでも言えばいいのか。礼奈は俺のことを覚えていてくれているだろうか。いや、さすがに覚えているだろうが、しかし。
いやだめだ。これではだめだ。こうして悩んで、振り向かずにやり過ごすのは簡単だ。けれどもこのチャンスを逃したら、俺は一生礼奈の呪縛に囚われ続ける。どうしようもない憂鬱に囲まれて、そして俺は永遠に後悔し続けることになる。
考えるな、悩むな。どんな結果が待っていても、俺は先に進めるのだ。拒絶されることを怖れるな。それはそれでいいのだから。
今、何か行動に移さなければ。
人混みの中、俺は2歩分右へとずれた。それから歩く速度を落とす。すぐに礼奈は俺の横に並び、そして俺を追い抜いた。結果、俺と礼奈の位置が入れ替わった。俺が礼奈のすぐ後ろを歩く形に変えたのだ。
彼女は薄手の黒いライダースジャケットに、細身なカーキのロングスカートを合わせていた。髪は肩甲骨のあたりまで伸びていて、綺麗な栗色に染まっている。
少し前にSNSで見た礼奈の画像と雰囲気が同じだ。礼奈に間違いない。あとは声をかけるだけだ。ナンパでも何でもない。俺と礼奈は知り合いなのだから。
声が出ない。息が漏れていく。喉の奥で声を出す弁だけが閉まっているかのようだ。それなら肩を叩いて振り向いてもらおう。そうすれば会話もできるはずだ。
震える指先。俺は拳を握った。それから拳を開き、礼奈の肩へと手を伸ばす。そして彼女の右肩を2回、触れるように叩いた。
礼奈はゆっくりと振り返り、それから俺の顔を見た。彼女の目が次第に大きく開かれていく。
「……優樹?」
「久しぶり」と俺は言った。
「本当に。どうしてここに?」
「見ての通りだよ」
そう言って俺は自分のスーツを指差した。
「ああ、そうだよね。それはそうだ。平日の朝だから」
「礼奈は?」
「私は休みでさ。お出かけ」
「そうか」
礼奈は俺をまじまじと見た。頭から足の先まで、俺を観察しているようだった。
「優樹、変わらないね」
「良い意味? それとも」
「どちらかといえば、良い意味」
「何だよそれ」
礼奈は笑った。口角を上げて、楽しそうに。
やっぱり礼奈だ。礼奈の笑い方だ。奈々じゃない、俺の目の前には確かに礼奈がいる。
礼奈は高校の同級生で、知り合いで、友達。ただそれだけなのに、俺はこうも緊張している。まるで夢を見ているみたいだ。たとえ芸能人を目の前にしていたって、こんな心持ちにはならないだろう。
「私、西口の方。優樹は?」
「あ、ああ。俺は東」
「私、もう行くね。もっと話でもしたいところだけれど。優樹もこれから仕事でしょ」
「……そうだな」
「そうだ、今度飲みにでも行こう。せっかくだしさ」
飲みに行く。飲みに行く。つながった。俺が話しかけたことで、その先につながった。底なし沼から這い出るチャンスが生まれたのだ。まさか礼奈からお誘いをもらえるとは思わなかった。礼奈は言ってみただけで行くつもりなどないのかもしれない。いや、それでも。
「もちろん。俺から連絡するよ」
「待ってる。それじゃ」
礼奈は俺に背を向け、西口改札へと向かって歩いていった。俺はただただ無意識に、その背中をぼんやりと眺めた。やがて彼女が見えなくなって数分経った頃、俺はようやく意識を取り戻した。その時突然、新宿の喧騒が俺の耳に戻ってきた。まるでそれまでは時が止まっていたかのように。
「……あぅ」
言葉にならない声が自分の口から突然漏れた。誰かに聞かれていないかと、俺はすぐに辺りを見回す。しかしそこは普段通りの人混みであった。
ああ。緊張が解けたからか。こんな調子では、礼奈と飲みに行くことなんてできるのだろうか。2人で話すことなんてできるのだろうか。
俺は次第に、自分の中で何かが湧き上がってくるのを感じた。指先が震える。しかし礼奈に話しかけようとしていた時とは違う震え。そして体の中のエネルギーが爆発的に増えていくような感覚。高揚感。
やった。やった。やった。俺はようやく、礼奈と会話をした。7年ぶりに、俺の中で何よりも大きな存在となっていたあの礼奈と。そして礼奈は俺を拒絶まではしなかった。だから俺は。
俺は嬉しくてたまらないのか。
当たり前だ。結局、俺は礼奈のことが好きなのだから。簡単なことだ。ただ俺は礼奈に片思いをしているだけなのだ。それを自分自身で、異常な深刻問題として作り変えてしまっただけ。
いずれにせよ、俺は礼奈にぶつからなくてはならない。そのチャンスを礼奈から貰えたのだ。飲みに行こう、と社交辞令のつもりで言ったのだとしてもいい。俺には礼奈を誘う権利が確かにあるのだから。
腕時計を見る。電車が新宿駅に着いてから15分が過ぎていた。俺はようやく東口改札へと向かって歩き出す。足は軽く、しかし力に満ち満ちていた。
「うん、ごめんね。着いたらまた連絡するから」
礼奈はそうして電話を終えたようだった。
足が笑っている。体が宙に浮いているようだ。いや、そんなはずはない。俺は確かに新宿駅の人混みの中で歩いている。そして今、俺のすぐ後ろには礼奈がいる。
声が似ているだけの赤の他人? そんなはずはない。俺が間違えるはずはない。そこにいるのは間違いなく礼奈、礼奈だ。
振り向け。振り向け。振り向け。
俺が暗闇から抜け出す唯一の方法だ。礼奈と話す。礼奈と。
礼奈と、何を話せばいい?
久しぶり、とでも言えばいいのか。覚えてるか、とでも言えばいいのか。礼奈は俺のことを覚えていてくれているだろうか。いや、さすがに覚えているだろうが、しかし。
いやだめだ。これではだめだ。こうして悩んで、振り向かずにやり過ごすのは簡単だ。けれどもこのチャンスを逃したら、俺は一生礼奈の呪縛に囚われ続ける。どうしようもない憂鬱に囲まれて、そして俺は永遠に後悔し続けることになる。
考えるな、悩むな。どんな結果が待っていても、俺は先に進めるのだ。拒絶されることを怖れるな。それはそれでいいのだから。
今、何か行動に移さなければ。
人混みの中、俺は2歩分右へとずれた。それから歩く速度を落とす。すぐに礼奈は俺の横に並び、そして俺を追い抜いた。結果、俺と礼奈の位置が入れ替わった。俺が礼奈のすぐ後ろを歩く形に変えたのだ。
彼女は薄手の黒いライダースジャケットに、細身なカーキのロングスカートを合わせていた。髪は肩甲骨のあたりまで伸びていて、綺麗な栗色に染まっている。
少し前にSNSで見た礼奈の画像と雰囲気が同じだ。礼奈に間違いない。あとは声をかけるだけだ。ナンパでも何でもない。俺と礼奈は知り合いなのだから。
声が出ない。息が漏れていく。喉の奥で声を出す弁だけが閉まっているかのようだ。それなら肩を叩いて振り向いてもらおう。そうすれば会話もできるはずだ。
震える指先。俺は拳を握った。それから拳を開き、礼奈の肩へと手を伸ばす。そして彼女の右肩を2回、触れるように叩いた。
礼奈はゆっくりと振り返り、それから俺の顔を見た。彼女の目が次第に大きく開かれていく。
「……優樹?」
「久しぶり」と俺は言った。
「本当に。どうしてここに?」
「見ての通りだよ」
そう言って俺は自分のスーツを指差した。
「ああ、そうだよね。それはそうだ。平日の朝だから」
「礼奈は?」
「私は休みでさ。お出かけ」
「そうか」
礼奈は俺をまじまじと見た。頭から足の先まで、俺を観察しているようだった。
「優樹、変わらないね」
「良い意味? それとも」
「どちらかといえば、良い意味」
「何だよそれ」
礼奈は笑った。口角を上げて、楽しそうに。
やっぱり礼奈だ。礼奈の笑い方だ。奈々じゃない、俺の目の前には確かに礼奈がいる。
礼奈は高校の同級生で、知り合いで、友達。ただそれだけなのに、俺はこうも緊張している。まるで夢を見ているみたいだ。たとえ芸能人を目の前にしていたって、こんな心持ちにはならないだろう。
「私、西口の方。優樹は?」
「あ、ああ。俺は東」
「私、もう行くね。もっと話でもしたいところだけれど。優樹もこれから仕事でしょ」
「……そうだな」
「そうだ、今度飲みにでも行こう。せっかくだしさ」
飲みに行く。飲みに行く。つながった。俺が話しかけたことで、その先につながった。底なし沼から這い出るチャンスが生まれたのだ。まさか礼奈からお誘いをもらえるとは思わなかった。礼奈は言ってみただけで行くつもりなどないのかもしれない。いや、それでも。
「もちろん。俺から連絡するよ」
「待ってる。それじゃ」
礼奈は俺に背を向け、西口改札へと向かって歩いていった。俺はただただ無意識に、その背中をぼんやりと眺めた。やがて彼女が見えなくなって数分経った頃、俺はようやく意識を取り戻した。その時突然、新宿の喧騒が俺の耳に戻ってきた。まるでそれまでは時が止まっていたかのように。
「……あぅ」
言葉にならない声が自分の口から突然漏れた。誰かに聞かれていないかと、俺はすぐに辺りを見回す。しかしそこは普段通りの人混みであった。
ああ。緊張が解けたからか。こんな調子では、礼奈と飲みに行くことなんてできるのだろうか。2人で話すことなんてできるのだろうか。
俺は次第に、自分の中で何かが湧き上がってくるのを感じた。指先が震える。しかし礼奈に話しかけようとしていた時とは違う震え。そして体の中のエネルギーが爆発的に増えていくような感覚。高揚感。
やった。やった。やった。俺はようやく、礼奈と会話をした。7年ぶりに、俺の中で何よりも大きな存在となっていたあの礼奈と。そして礼奈は俺を拒絶まではしなかった。だから俺は。
俺は嬉しくてたまらないのか。
当たり前だ。結局、俺は礼奈のことが好きなのだから。簡単なことだ。ただ俺は礼奈に片思いをしているだけなのだ。それを自分自身で、異常な深刻問題として作り変えてしまっただけ。
いずれにせよ、俺は礼奈にぶつからなくてはならない。そのチャンスを礼奈から貰えたのだ。飲みに行こう、と社交辞令のつもりで言ったのだとしてもいい。俺には礼奈を誘う権利が確かにあるのだから。
腕時計を見る。電車が新宿駅に着いてから15分が過ぎていた。俺はようやく東口改札へと向かって歩き出す。足は軽く、しかし力に満ち満ちていた。
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