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第22章(春雄)来訪

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 夏の暑さも今は昔、金木犀が秋の香りを運ぶ。

 日も沈みかけた頃、春雄は部屋で煙草を吸っていた。


 俺が楓さんと恋人になり、1ヶ月が過ぎた。俺達の周りを取り巻く環境とやらは忙しなく変化していくものの、俺は俺の瑣末な生活を過ごすだけだ。


 自分に恋人がいる、付き合っている人がいる。その事実を最近になってようやく受け入れることができた。まるで現実味がなくて、夢よりも夢のようであったから。

 付き合うことになってから何度も考えた。楓さんは何故俺を気に入ってくれたのだろうかと。

 しかしある時、俺はそれを考える事をやめた。

 いくら考えても答えは出なかったのだ。そしてそれを楓さんに直接質問する事もどこか憚られる。それならばありのままを享受する他ない、と。

 そもそも。誰かを好きになる、誰かに惹かれる、そういった思いには多くの場合、明確な理由などない。少なくとも俺はないと思う。

 俺が葵に惹かれる理由だって、言葉で説明しろと言われても無理だ。だからこそ、楓さんに俺のどこが好きなのかと質問するのは愚かであると思うのかもしれない。


 さて、こうして俺は夢のような日々を過ごしているけれど、問題がないわけではない。まず、俺は今も変わらず葵に惹かれているという問題がある。

 確かに楓さんは魅力的な人だ。本来、もっと良い男と付き合うはずの人なのだ。そんな彼女を持ちながら、俺は藍原葵にどうしようもなく惹かれていて。

 そして俺は、そのことを楓さんに伝えることができていない。けれども、楓さんはもしかすると俺の気持ちに気付いているのかもしれない。女子というのはそういうものだと敦志が言っていた気がする。多分。



 問題は他にもある。ようやく電磁波事故が世間に受け入れられたのだ。受け入れられた、というのは、好意的に受け止められた、ということではない。


 電磁波事故について報道され始めてから数日間は、あまりに異質な事故であるが故に多くの人にとって現実味が無かった。被害者達、その親族、そして無関係の世間の人々。誰もが理解できずに傍観していた。

 しかし電磁波事故について連日のように報道され、それが1週間も続いた頃。いよいよこの悍ましい事故が現実のものだと世間に認識されるようになる。


 被害者は推定1万人弱。大学周辺にいた者が被害者となった。とはいえまだ死者はいない。これといって症状を訴える者もいない。

 被害者の多くは、7年から12年ほどの余命宣告をされたのみという状況である。

 当然、この事故に対して激しく怒りを持った者、憤りを感じた者達が全国のあちらこちらで大規模なデモを行った。

 デモ参加者の中心となるのは、被害者の友人、親族、配偶者達だ。デモが訴える内容はと言えば、賠償金を上げろ、新型エネルギー開発研究を止めろ、といった類のものだった。

 つまりは当事者である俺達被害者はどうも生きづらい。渦中の人、というわけだ。



 今回の電磁波事故が起きた背景には、この国の電力事情が絡んでいた。というニュースをよく見る。

 10年前。日本では大きな地震と、それによる津波の影響で、歴史に残る凄惨な原発事故が起きた。それは原発反対の気運を大きく高め、今や殆どの原発が稼働していない。

 しかし、原発停止は電力供給コストの高騰を意味する。それがこの国の経済をより一層悪化させていた。

 当然、新たな発電方法が必要とされる。原発以外の既存の発電だけでは電力を賄いきれないのだ。そうして国の研究機関による研究が行われていた、ということらしい。


 俺にも数日前、賠償金及び治療費という名目でそこそこの額が国から振り込まれた。治療費と言っても、この事故の被害者には特別な権利者証が発行されていて、殆どの医療は無料で受けられるのだが。


 それにしても、1ヶ月でこれだけの対応をしているというのは手際が良すぎる。この事故が報道されてすぐに大学内の診断所が設置された事もそうだが、総じて対応がやたらスムーズだ。


 これから俺達はどうなるのか。誰もわからない。本当に俺は3年後に死ぬのか。もしくは死なないのか。それどころか明日、何かの症状が出て病院送りなのか。

 この恐怖に打ちのめされることなく、被害者の殆どが今までと変わらず生活しているというのが(これは本当に不思議だ)せめてもの救いというか、不幸中の幸いだろうか。



 吸い終わった煙草の火種を灰皿で潰すと、春雄は煙草の箱を手繰り寄せ、中から次の煙草を取り出そうとした。しかし箱の中は空だった。

 仕方ない。散歩がてらコンビニまで行こう。


 春雄が立ち上がったその時だった。


 部屋にインターホンが鳴り響いた。


 誰だ。ここに訪ねてくるのは2人しかいない。楓さんか、敦志。どちらとも会う約束はしていない。とりあえず出なくては。


 春雄は玄関へと歩き、片足を靴の上に乗せ、ゆっくりとドアを開けた。

 春雄の目にその客人が映る。その瞬間彼の体はぴたりと止まった。


 透明感のある茶色の髪がさっとたなびく。

 俯いていた彼女はゆっくりと顔を上げた。



 春雄はようやく声を絞り出す。

「葵?」

「こんばんは」


 外はもうすっかり暗くなっていた。
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