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第八章
北で待つ人
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北の山へと進む道のりは、冷たくて、寂しくて、けれど頭がすっきりと冴えていくような、そんな旅路だった。丈夫に作ってもらった衣服をも貫くような冷気を持った風は、だんだんと長い時間さらされるほどに、冷たさよりも痛みを感じるようになった。それほどに、気温はぐんぐんと進むごとに下がっていっている。
ぎゅう、と音の鳴る地面は、薄っすらと雪で覆われている。比較的温暖な地域で育った優人にとって雪は珍しいものだった。車が走ったり、多くの人が行き交うわけでもないこの田舎道に積もる雪は、優人がこれまで見た雪よりもずっと白く、清らかである。
優人やカミーユ、シンシアの受けたショックが、消え去ることはない。本当は、この降り積もる雪が地面を覆い隠すように、見えなくなってしまえればいいのだけれど、そうはいかなかった。鼻先にこびりついた死の匂いはいくら時が経とうと離れてくれそうにないし、手に残ったヒトの肉のような感触は忘れられそうにない。
けれど、こうして澄んだ空気を吸い込み、新たな空の下を歩けば、それが和らぐことはあるのだなと、優人は思った。カミーユは相変わらず少し難しい顔をしているけれど、シンシアは表情にいつもの穏やかさが戻ってきているように見えた。
あのラルムの村で何が起こっていたのか、カミーユからひと通りのことは聞いたエリーは、それ以上何も聞かないと決めたものの、三人の様子はずっと気にかかっていたようであった。優人とシンシアの気持ちがだんだんと落ち着いてきているのを見て、エリーもほっとしたようだった。
忘れちゃいけないけれど、それでも進まなくちゃいけない。優人がそう思えたのは、これまでの旅路と、船乗りの青年リアンが優人たちの行いを肯定してくれたからだった。彼の言葉は、優人がこの旅を決心したときのことを、思い出させてくれた。誰にでも必ず訪れる終わりが、せめてもう少し先であるように。せめてもう少し、穏やかなものであるように。始めはなんの力も持たなかった、名ばかりの救世主だったからこそ、それに意味がないとは思わなかった。そして、優人が助けたかった彼自身も、そう言ってくれた。
この道を選ばなければきっと見ることはなかった惨状を目の当たりにして、きっと知ることはなかった感覚を覚えて、確かに深く傷ついた。それでも前に進もうと思えたことには、優人自身、少し驚いていた。それに、少しだけ、誇らしかった。
進み始めた頃はまだ薄っすらとしていた雪が、どんどんと深くなっていく。目的としていた山の麓にある町がようやく見えてきた頃には、膝まで埋まってしまいそうなほど深い雪に足を取られるような道になっていた。
「雪、すごいね……雪ってこんなに重たいんだ」
「わたしも、こんなに雪深いのは初めてだ。平気か? 優人」
「うん、なんとか」
慣れない雪道に苦戦する優人をエリーが心配する。この中で一番非力なのが優人とシンシアであるが、シンシアは案外すいすいと歩いているように見えた。
「シンシアは平気そうだね」
「私、こちらの大陸の生まれですから。こっち側の山の方ではありませんけれど、私の故郷も厳しい雪国でしたの。これくらいであれば、慣れっこですわ。マヒアド暮らしが長いので、この感じは少し久しぶりですけれど」
そう話すシンシアの歩き方は、確かに優人が雪を力任せにかきわけようとするのではない、少し変わった歩き方をしていた。見れば、カミーユも同じようにしている。旅に慣れているカミーユも、しっかりと雪道の歩き方を覚えているようだった。優人はそれを真似ることにした。
しばらくそうして雪の中を進んでいくと、ひとつの人影が見えてきた。その人影は、清らかな風景にふさわしく白く美しい男だったが、けれど静かな雪原には似つかわしくなく、大きな声をあげながらぶんぶんと力いっぱいに手を振っているようだった。
「おおい! みんな、こっちだよ、こっち! こっちのほうが歩くのも楽だから、はやくおいで!」
その姿も声も、優人は記憶にはなかった。ぽかんとする優人を気に留める様子もなく、だんだんと近づく彼はにこにこと笑っている。お互いに歩み寄って、ようやく顔を認識できる距離になっても、その男が誰なのか優人にはわからなかったが、彼は一行のことをすっかりみんな知っているような様子だった。
「やあ、やあ! 待っていたよ、救世主様。それからカミーユ、エリザベト。シンシアは、久しぶりだね」
「……マリオン様!?」
シンシアが驚いたような声をあげる。それは、マリオンと呼ばれた彼の言うとおりに久しぶりの再会だったから、というだけではなさそうだった。
「いいね、そのびっくりした顔! みんなを驚かせてやろうとやってきたかいがあったというものだ」
マリオンという名と、その軽い口調に、優人も思い出すことがあった。旅の間いろいろなことがあって忘れかけていたが、この旅を始めてそう経っていないころ……あの木の魔物が山頂に座していた鉱山の町カローナで、マリオンという名の男を兄に持つ少年イアンと確かに出会い、少年から受け取ったマリオンが書いた手紙のおかげで、ひどく冷や汗をかいた。あのときの記憶が徐々に蘇ってきた。
「マリオン様が、どうしてここにいらっしゃるのですか? カローナで療養中のはずではありませんの?」
「そうだよ。僕の体はカローナにいる。部屋のベッドで寝てるよ。そのほうが集中できるからね」
一行はてんでわけのわからないことを言うマリオンに呆気にとられっぱなしである。しかし、シンシアだけがハッとした顔をした。
「まさか、幻術の魔法ですか」
「あたり! だから今ここに見えてる僕は、君たちに『そう見せてる』実体のないものだよ。声を届けているのは、転移魔法の一種なんだけれど……これを一緒に使うのはなかなか大変なんだけれど。それを使ってでも、君たちに案内したい場所があるから、ここで待ってたんだ」
一行は大いに驚いた。優人はそんなことができるのか、という風に驚いていたし、シンシアやカミーユ、エリーが息をのむほどに、幻術というものは扱うことが難しい魔法らしい。確か前にシンシアから、マリオンはマヒアド騎士団を率いていながら、研究所のトップでもあったという、一流の魔法使いなのだと聞いていた。にこやかに笑い、軽く柔らかい口調からは、あまりそんな上位の地位にいる者には見えず、優人は思わずしげしげと彼の姿を見てしまう。
「特に僕が会いたかったのは君だよ、救世主様……ああ、やっぱり……よく似ているな」
「僕が……なんですか?」
「いや、その話は後でにしよう。寒いだろう、とりあえず町に入って休もう。案内したいのはさらにその先だから、町で昼食でも摂るといい」
本当にただ皆を驚かせたかっただけというわけではないらしく、マリオンはどこか急かすように、けれど至極優雅に先を促した。その様子からは、積もる話をしたがる親しみも、大事な話をしようとする緊張感も、どちらをも感じさせた。そのアンバランスさは、何故かこのマリオンという男をさらに妖しく、美しく見せた。
「わかりました」
確かにたまらない寒さを堪えていたのもあり、一行はそれに従い、また歩き始めた。
マリオンが呼び寄せた方には、細いけれどなんとなく人の足で踏み固められたような道があって、それが町のほうまで続いている。あまり頻繁に使われる道ではないようで、薄っすらと雪でまた埋まりそうになってはいるが、先程まで歩いていたような道をかきわけるよりはずいぶんとましだった。
道を変えたことで、遠くに見えていた町は思っていた以上にすぐに着けることができた。
「案内してくれてありがとう、マリオンさん」
「いいえ、当然のことをしたまでさ」
ふわりと笑うマリオンは、やはりどこか不思議な雰囲気を持ちながらも、優しい男だった。優人の中にあったマリオンのイメージは、カローナで渡されたあの手紙とも呼べない手紙のままだったので、親切で紳士的な、それでいて眩しさを感じるほどに美しい彼には、優人は少しばかりの意外さを感じていた。
辿り着いた雪の町も、皆あたたかく救世主一行を迎えてくれた。西大陸は王族信仰があまり浸透していないのだが、この町の背後に聳える雪山に王族のひとりであるブラッドリーが住んでいることから、この雪の町は王族を信仰しているわけではないが、ほんの少し特別な存在として扱ってくれているらしい。
「救世主様も、ここへ来てくださってありがとうございます。何もないところですが、ゆっくりしていってくださいね」
昼食をとろうと入ったお店では、店主の女性がそう言って笑いかけてくれた。
優人たちは、直前に訪れた村のあの惨状がまだ記憶に新しい状況だ。そこに、いつも通りだが当たり前ではない、あたたかい言葉をかけられ、一行はとても励まされたのだった。
ぎゅう、と音の鳴る地面は、薄っすらと雪で覆われている。比較的温暖な地域で育った優人にとって雪は珍しいものだった。車が走ったり、多くの人が行き交うわけでもないこの田舎道に積もる雪は、優人がこれまで見た雪よりもずっと白く、清らかである。
優人やカミーユ、シンシアの受けたショックが、消え去ることはない。本当は、この降り積もる雪が地面を覆い隠すように、見えなくなってしまえればいいのだけれど、そうはいかなかった。鼻先にこびりついた死の匂いはいくら時が経とうと離れてくれそうにないし、手に残ったヒトの肉のような感触は忘れられそうにない。
けれど、こうして澄んだ空気を吸い込み、新たな空の下を歩けば、それが和らぐことはあるのだなと、優人は思った。カミーユは相変わらず少し難しい顔をしているけれど、シンシアは表情にいつもの穏やかさが戻ってきているように見えた。
あのラルムの村で何が起こっていたのか、カミーユからひと通りのことは聞いたエリーは、それ以上何も聞かないと決めたものの、三人の様子はずっと気にかかっていたようであった。優人とシンシアの気持ちがだんだんと落ち着いてきているのを見て、エリーもほっとしたようだった。
忘れちゃいけないけれど、それでも進まなくちゃいけない。優人がそう思えたのは、これまでの旅路と、船乗りの青年リアンが優人たちの行いを肯定してくれたからだった。彼の言葉は、優人がこの旅を決心したときのことを、思い出させてくれた。誰にでも必ず訪れる終わりが、せめてもう少し先であるように。せめてもう少し、穏やかなものであるように。始めはなんの力も持たなかった、名ばかりの救世主だったからこそ、それに意味がないとは思わなかった。そして、優人が助けたかった彼自身も、そう言ってくれた。
この道を選ばなければきっと見ることはなかった惨状を目の当たりにして、きっと知ることはなかった感覚を覚えて、確かに深く傷ついた。それでも前に進もうと思えたことには、優人自身、少し驚いていた。それに、少しだけ、誇らしかった。
進み始めた頃はまだ薄っすらとしていた雪が、どんどんと深くなっていく。目的としていた山の麓にある町がようやく見えてきた頃には、膝まで埋まってしまいそうなほど深い雪に足を取られるような道になっていた。
「雪、すごいね……雪ってこんなに重たいんだ」
「わたしも、こんなに雪深いのは初めてだ。平気か? 優人」
「うん、なんとか」
慣れない雪道に苦戦する優人をエリーが心配する。この中で一番非力なのが優人とシンシアであるが、シンシアは案外すいすいと歩いているように見えた。
「シンシアは平気そうだね」
「私、こちらの大陸の生まれですから。こっち側の山の方ではありませんけれど、私の故郷も厳しい雪国でしたの。これくらいであれば、慣れっこですわ。マヒアド暮らしが長いので、この感じは少し久しぶりですけれど」
そう話すシンシアの歩き方は、確かに優人が雪を力任せにかきわけようとするのではない、少し変わった歩き方をしていた。見れば、カミーユも同じようにしている。旅に慣れているカミーユも、しっかりと雪道の歩き方を覚えているようだった。優人はそれを真似ることにした。
しばらくそうして雪の中を進んでいくと、ひとつの人影が見えてきた。その人影は、清らかな風景にふさわしく白く美しい男だったが、けれど静かな雪原には似つかわしくなく、大きな声をあげながらぶんぶんと力いっぱいに手を振っているようだった。
「おおい! みんな、こっちだよ、こっち! こっちのほうが歩くのも楽だから、はやくおいで!」
その姿も声も、優人は記憶にはなかった。ぽかんとする優人を気に留める様子もなく、だんだんと近づく彼はにこにこと笑っている。お互いに歩み寄って、ようやく顔を認識できる距離になっても、その男が誰なのか優人にはわからなかったが、彼は一行のことをすっかりみんな知っているような様子だった。
「やあ、やあ! 待っていたよ、救世主様。それからカミーユ、エリザベト。シンシアは、久しぶりだね」
「……マリオン様!?」
シンシアが驚いたような声をあげる。それは、マリオンと呼ばれた彼の言うとおりに久しぶりの再会だったから、というだけではなさそうだった。
「いいね、そのびっくりした顔! みんなを驚かせてやろうとやってきたかいがあったというものだ」
マリオンという名と、その軽い口調に、優人も思い出すことがあった。旅の間いろいろなことがあって忘れかけていたが、この旅を始めてそう経っていないころ……あの木の魔物が山頂に座していた鉱山の町カローナで、マリオンという名の男を兄に持つ少年イアンと確かに出会い、少年から受け取ったマリオンが書いた手紙のおかげで、ひどく冷や汗をかいた。あのときの記憶が徐々に蘇ってきた。
「マリオン様が、どうしてここにいらっしゃるのですか? カローナで療養中のはずではありませんの?」
「そうだよ。僕の体はカローナにいる。部屋のベッドで寝てるよ。そのほうが集中できるからね」
一行はてんでわけのわからないことを言うマリオンに呆気にとられっぱなしである。しかし、シンシアだけがハッとした顔をした。
「まさか、幻術の魔法ですか」
「あたり! だから今ここに見えてる僕は、君たちに『そう見せてる』実体のないものだよ。声を届けているのは、転移魔法の一種なんだけれど……これを一緒に使うのはなかなか大変なんだけれど。それを使ってでも、君たちに案内したい場所があるから、ここで待ってたんだ」
一行は大いに驚いた。優人はそんなことができるのか、という風に驚いていたし、シンシアやカミーユ、エリーが息をのむほどに、幻術というものは扱うことが難しい魔法らしい。確か前にシンシアから、マリオンはマヒアド騎士団を率いていながら、研究所のトップでもあったという、一流の魔法使いなのだと聞いていた。にこやかに笑い、軽く柔らかい口調からは、あまりそんな上位の地位にいる者には見えず、優人は思わずしげしげと彼の姿を見てしまう。
「特に僕が会いたかったのは君だよ、救世主様……ああ、やっぱり……よく似ているな」
「僕が……なんですか?」
「いや、その話は後でにしよう。寒いだろう、とりあえず町に入って休もう。案内したいのはさらにその先だから、町で昼食でも摂るといい」
本当にただ皆を驚かせたかっただけというわけではないらしく、マリオンはどこか急かすように、けれど至極優雅に先を促した。その様子からは、積もる話をしたがる親しみも、大事な話をしようとする緊張感も、どちらをも感じさせた。そのアンバランスさは、何故かこのマリオンという男をさらに妖しく、美しく見せた。
「わかりました」
確かにたまらない寒さを堪えていたのもあり、一行はそれに従い、また歩き始めた。
マリオンが呼び寄せた方には、細いけれどなんとなく人の足で踏み固められたような道があって、それが町のほうまで続いている。あまり頻繁に使われる道ではないようで、薄っすらと雪でまた埋まりそうになってはいるが、先程まで歩いていたような道をかきわけるよりはずいぶんとましだった。
道を変えたことで、遠くに見えていた町は思っていた以上にすぐに着けることができた。
「案内してくれてありがとう、マリオンさん」
「いいえ、当然のことをしたまでさ」
ふわりと笑うマリオンは、やはりどこか不思議な雰囲気を持ちながらも、優しい男だった。優人の中にあったマリオンのイメージは、カローナで渡されたあの手紙とも呼べない手紙のままだったので、親切で紳士的な、それでいて眩しさを感じるほどに美しい彼には、優人は少しばかりの意外さを感じていた。
辿り着いた雪の町も、皆あたたかく救世主一行を迎えてくれた。西大陸は王族信仰があまり浸透していないのだが、この町の背後に聳える雪山に王族のひとりであるブラッドリーが住んでいることから、この雪の町は王族を信仰しているわけではないが、ほんの少し特別な存在として扱ってくれているらしい。
「救世主様も、ここへ来てくださってありがとうございます。何もないところですが、ゆっくりしていってくださいね」
昼食をとろうと入ったお店では、店主の女性がそう言って笑いかけてくれた。
優人たちは、直前に訪れた村のあの惨状がまだ記憶に新しい状況だ。そこに、いつも通りだが当たり前ではない、あたたかい言葉をかけられ、一行はとても励まされたのだった。
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