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第七章

希望の象徴

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 一番始めに『差し出した』のは、自分の妻だった。

 あの化け物が私の目の前に現れたのは、本当に突然としか言いようがない。相手は魔物であるのだから、人間に対する前触れなんて親切なものは、もともと持ち合わせていないのだろうと思う。

「許して、許してください。どうか、どうか……!」
 何に対して、自分が何を差し出して犠牲にして、保身に走ったのか。そんなことは、考える余裕はなかった。そのことに、不思議と罪悪感だとか、後ろめたさなどは感じ得なかった。
 だって、それはそうだろう。誰だってそうだろう。私はよくできた物語の主人公などではない。妻を守るために、自らを盾にしようだなんてそんなことは、少しも思わなかったと言えば嘘にはなるが、その瞬間の私にとって最優先すべき選択肢にはなり得なかった。
 ただ、命だけは。この命だけは助かりたいと、それだけを願ってあの化け物にすがった。妻の命がどうでもよかったのではない。ただ、ただ、生きたかったのだ。それしか考えられなかった。

 その魔物は、魔物である割に、そのおぞましい見た目とは裏腹に、随分と大人しいものだなと思った。魔物に対してそのような感情を抱くのは正しいことなのか私にはわからなかったが、そういう印象を持った。
 もちろん私の目の前に現れたあいつはハリボテの人の首の下を隠したりなどしてはいなかった。それに、あまり大食らいというわけではないようだった。妻のからだは無惨に引き裂かれ、その半身以上がその触手の中に隠れる鋭い牙が乱れ生えた口へと放り込まれてしまったが、それで魔物はもう腹を満たしてしまったらしい。それきり、残った半身に手をつけようとはしなかったし、代わりに私を襲おうともしなかった。魔物は満足したように、ふうとひとつ息を吐いたように見えた。私はそれを見て、なんて人間のような仕草をするものだろうか、とやけに冷静に思った。

 魔物は、そのまま去ってくれればよかった。けれど、そうはならなかった。信じられないことに、自らの妻を餌として差し出した私を、『餌を提供してくれる人物』として認識したらしい。

 冗談ではない。私はそのように思った。私は妻を犠牲にして自分の身を守った愚かで薄情な者ではあるが、それでも妻を食われた化け物への世話など、できるものか、してやるものかと思った。
 けれど、私に拒否権はない。何せ、この化け物とは意思疏通の方法がないのだ。


 私は私の身を守るために、この魔物からどうにかして逃れる方法と、この魔物となんとかうまく付き合う方法とを考えた。私はもともと、この魔物が現れた小さな教会の神父である。この寂れた村の教会に、私と妻以外の関係者はいなかった。妻は死んでしまったので、この教会にいるのは私だけになった。

 私はこの教会を捨てて生きていく場所も術も持ってはいなかったし、魔物も私たちの住まいにしていた教会の裏の小屋から離れていこうとはしなかった。であれば、この魔物から私が逃れるには、この魔物がいつかこの場所に飽いて出ていくのを待つか、何かこの魔物の嫌がるようなことをしてここから追い出すしかない。しかし、待っている間にまたこの魔物が腹を空かせて私を襲わないとも限らないし、下手に刺激をすれば同様に襲われて食われてしまうだろう。
 しばらく共に過ごしてみて、この魔物には食欲以外の感情がさほど見受けられないことに気がついた。もともと魔物という生き物に詳しくなどないから、それに感情と呼ぶべきものが備わっているものなのかどうかはわからない。けれど、腹を空かせていないときには特に人に危害を加えようとしたりはしないことがわかる。常に同じ空間にいる私のことでさえ、見えているようで見えていないような、興味のなさそうな様子でいた。朝にも夜にも眠っているような様子はなく、時々散歩でもするかのように、ふらりふらりと歩き回ることはあれど、それは本当にそれ以上の意味を持っていないようだった。家の外にまで出ようとするものだから、私は慌ててそれにたっぷりとした布を繕いローブのようにして着せた。幸い、それを嫌がることもなく、魔物は私の作ったローブで身を隠すことを黙って受け入れた。
 ただひとつ、私の妻を食らったという事実さえなければ、ただ何事もなく静かに時が過ぎているような感覚さえあった。魔物はそれほどに静かだった。
 けれど日々、私は焦っていった。今はなんの害もないような老人の顔をして窓の外を眺めたり、散歩としゃれこんでいるが、これは間違いなく人を食らう化け物なのだ。どれだけ今静かに過ごしていようと、妻を、人を食らった事実はなくなりはしない。このままこの魔物の一番近くに居れば、次に食われるのは私だろう。どうすればいい。次は何を犠牲にすればいい?どうすれば私は生き残れる?どうすればあんな恐ろしい目に合わずに済むのだ。そればかりを考えた。


 人に悪魔が宿るというのは、ああいうときのことを言うのだろう。
 魔物がいつものようにふらふらと歩き回り、家の外へと出たがるので、ローブを着せることを忘れることなく共に外へと出かけた。村は寂れていて、もともと外を歩く人間は少ない。けれども、居ないわけでもないし、当然人口の少ない村であるから、見知らぬ男と歩いていたならば、不審がられるのは仕方のないことだった。
「やあ、こんにちは、神父さん。その方は、初めてお見かけしたように思いますが」
 一人の村民が、私にそう話しかけてきた。その村民はこの村のなかでは比較的熱心に教会へと足繁く通ってくれていた信者のひとりだった。
 私はその瞬間に、驚くほどにはやく頭が回ったのがわかった。一瞬で、この状況を、この信者の男を、利用してやろうと思いついたのだった。有り体に言えば、次の餌をこいつにしてやろうと思ったのだ。
 けれど、この男だけを差し出しただけではこの事態は解決しない。私は、この教会ごと、この村ごと、巻き込んで利用してやろうと、そう思った。

 まるで幼子かオウムにでも言葉を教えてやるように、私は魔物に繰り返し、繰り返し、同じ言葉を聞かせ続けた。
 襲われやしないかと怯えながら過ごした日々ではあれど、この化け物にはある程度の知能があることに気がついていた。外へ出て行くときに決まってローブを身につけることも、そういうルーティンとして学習しているように思えた。だから、簡単な言葉を、音として覚えさせてしまえば、それらしい言葉を発しているようには聞こえるかもしれない。そう思った。
「祈りを捧げよ、然れば与えられん」
 その音の並びを発声できるようになれば、この村を希望で満たすための『象徴』の完成だった。

「この方は、救いの境地に至られた御方なのです」
 始めは、助かりたい、ただその一心だったように思う。
「同じように境地に至ることさえできれば、この御方のように、飢えることもなく、全ての怠惰から抜け出し、この世の苦しみから解放され、完璧な生物として生きることができる」
 出任せでしかない私の言葉があまりにも村民たちに強く響いたのは、この村が不毛の地だったからだ。この村が、やがて滅びるしかない運命にあるからだ。老いた民たちだけが残り、若者たちはどんどんと村を出ていく。田畑も、漁も、何もかも村を豊かにすることはできない。未来のない村に生きるしかない者たち、またそんな故郷を捨てる勇気のない者たちへ、私の虚ろな言葉たちはよく響いた。
「境地へ至ったものは、この世を捨てて『救いの地』で生きることさえできる。この御方は、その地より来られた。この御方に認められた者はいずれ必ず、『救いの地』へお導きいただけるだろう」
 我ながら、よくこんな言葉が出てきたものだと思う。私は、一介の神父に過ぎない。間違っても神ではないし、神の使いなどでもない。ただ田舎によくある、職業としての神父を務めているだけで、神に仕えているなどという感覚は、年老いた今でも覚えたことはない。
 けれど今こうして、こんな化け物を『神の依代』に仕立て上げ、まるで彼の代弁者であるかのように振る舞う。
「おお、素晴らしい。もう飢えに怯えることはないのか」
「こんな生活もうごめんだ、ああ、どうか我らをお救いください」
 言霊というのは不思議なものだ。こんな話はまったくのデタラメだというのに、こうして私が言葉を重ねて、多くの人々が信じて、それを求めるようになると、それが本物であるかのような気分になってくる。

 何より、こんなにも明るい表情をした村の人々を、いつ以来に見ただろうか。そう思った。
 これは、私の説いてきた教えなどでは至れなかった、紛れのない『救い』と呼べるものじゃないか。人々は奇跡を目の前にして、その奇跡を求め、私の言葉に耳を傾け熱心に祈った。
 これこそが、希望なのだろうと私は思った。そして、この走り出した偽りの希望は、もう止められない。一度発した言葉は、一度信じた救いは、なかったことにはできない。そうして、私の保身のための嘘は、人々の希望になったのだった。


 今にして思えば、罪悪感はなかったわけではないように思う。だんだんと、わからなくなってきていたのだ。
「神父様、これは、いったいこれは、どういうことですか」
 怯えきったその声に、後ろめたさを感じなかったわけではないだろう。始めはきっと、ごめんなさい、申し訳ない、許してくれ、と、そのように思っていた気がする。
 私の目論見通り、私を『餌を提供してくれる人物』と認識した魔物は腹を空かせた頃、私が集めた民衆のなかから美味そうに見える者を魔物にとっての巣でもある私の小屋へと連れ帰り、満足のいくまで食らった。私が促すように行動していれば楽に餌が手に入る、そういう風にこの魔物は学習していた。
「私たちは、救われるのではなかったのか!救いとは、救いの地とは、このような血塗られた部屋のことだったのか!」
 怒りの声を、恐れの声を、それは当然だと思っていたと思う。けれど、それを黙って受け入れた。いや、受け入れたのではない。聞こえないふりを、してきたのだ。
「私はこんなものを、死を、化け物に殺されることを望んでいたわけじゃない!こんなものを信じてきたわけじゃない……!」
 こんな風に叫ぶこの者たちも、この最後の瞬間の直前までは、希望の光を見ていたのだ。それがどんなに嘘で塗り固められた偽りであっても、それは間違いなく、希望だったはずなのだ。
「助けてくれ!死にたくない、死ぬために祈ったのではない、生きたい……!」
 不幸が蔓延るこの村でさえ、その希望のなかでは間違いなく、誰もが幸福だった。それは、間違いと呼べるだろうか?
「生きたかったんだ……!」


 この偽りの希望を、人々に満たすことにした。私は何もかもから目を伏せ、耳を塞いだ。その姿は、まるで祈っているかのようであった。目の前であがる血飛沫も、断末魔でさえも、私にはもう届かない。
「おめでとうございます」
 せめて誰しもに訪れるその最後のときまで、幸福であれるように。選ばれし者に訪れたその終わりに、祝福を捧げられるように。その行いが、間違っていると考えられるほどの冷静さを、私はとうに手放してしまっていた。

 始めは、ただ生きたかった。それだけだったように思う。
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