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第五章
ひとつの星の終わり
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生まれた故郷は、どんどんと姿を変えているように思えた。それは、活気づいた人々の表情や着々と完成へと近づいている温室という巨大な建造物が目につくから、というだけではないとアイシャは気がついていた。
ずっとひとりきりで張り詰めていた心がほどけ、親身になって寄り添ってくれたユウサクに心を許せるようになったことが、町の見え方にすら影響しているらしい。アイシャはそれほど自分の視野が狭くなり、世界を暗くしていたのだと知る。ユウサクはと言えば、相変わらずそんなアイシャを哀れむでもなく、ただ優しかった。その混じり気のない純粋な優しさが、彼女の心に安らぎをもたらしたのだった。
「もうすぐ完成ね」
「ああ、外側はね。大事なのはここからさ」
柔らかい砂の地盤にもしっかりと建つように広く平らに固めた土台を作り、それを囲うように美しいガラスのような、太陽の光を通す透明な壁ができている。天井も壁と似た素材で、どの角度からでも光を取り込める構造になっている。
「取り込んだ熱を逃がさず保てるよう内部に特殊なフィルムを貼って、その上で更に魔法で仕上げていくんだ。あとはその熱エネルギーを使って水を撒く装置を動かして……、湿度を上げられる装置もまだこれから。それらがうまく噛み合って初めて、この温室は完成するんだよ」
元の世界でも、植物に関する仕事をしていたのだというユウサクは、本当にものづくりが好きなのだろう。アイシャにはよくわからないその仕組みについて心の底から楽しそうに話して聞かせてくれた。理解はできなくとも、その様子を見ているだけで微笑ましいような気分になった。
けれど、アイシャのそんな安らかな笑みを見て、ユウサクは切なそうに眉を寄せるのだった。
「そう、だから、まだまだなんだ。まだまだだよ」
まるで作り終わりたくないというように、寂しそうに笑う顔が忘れられない。そしてそっと握られた手が小さく震えていたことも。
ユウサクは、アイシャに恋をしていたのだった。
毎日、順調に進んでいく作業に安心する心とは裏腹に、ユウサクはどうしたものかと頭を悩ませていた。元々色恋などには感心が薄く、自らがこんな状況になってしまうとは考えてもいなかったのだ。
一目見たときから、その憂いを帯びた色の瞳から目を逸らせなかった。どこか寂しげにしている背中も、日々の暮らしに疲れやつれた手も、心のどこか触れられたところのない部分を掴んできた。
旅の中で困っている人や町の抱えている問題に協力を惜しまなかったのは、今までだってそうだった。だからジュジの町を助けたいと思ったことは、決して下心なんかではない。それでも、皆で協力して作り上げようとしている温室の完成を心から喜ぶことができないのは、それが終わってしまえばアイシャの居るこの町に留まる理由がなくなってしまうからだった。それに気がつくまでにやや時間はかかったものの、それを気付かないふりができるほど器用でもなかった。
ユウサクは元は別の世界から来た青年で、アイシャはこの世界に住まう魔法使いの一族の娘で、文字通り住む世界の違うふたりである。いずれ別れがくることは、明白だった。
「終わりがあるからって、気持ちをなくせるわけじゃないだろ?」
そう言ったのは、ユウサクの旅の友である小さな魔法使いの少年だ。歳の割に達観した少年にずばり言い当てられてしまったユウサクは、この完成されることのない想いをすんなりと受け入れてしまうのだった。
元より素直な性格のユウサクは、自らの想いを認めたなら、ただまっすぐにアイシャと向き合い、慈しむ心を隠さなかった。アイシャもそれに気がついていた。
「きみに愛した人が居るのも、もちろん知ってる。僕はそのことも含めて、きみを愛しいと思ってるよ」
ユウサクのそんな言葉に、アイシャの心も素直に揺れた。亡くした夫を忘れたことはなかったが、亡くした悲しみと彼女の孤独に寄り添ってくれたユウサクのあたたかい心に、愛しさを感じたこともまた事実だった。
ユウサクが愛し慈しんだのはアイシャだけではなく、彼女のまだ小さな娘に対しても同じように愛を注いだ。アイシャが後ろめたさから名前さえ与えられずにいた娘に、『リサ』という名をつけてくれた。愛おしそうに何度も名を呼び、二人でリサを抱き、健やかであるように祈った。
二人が愛し合うようになるまでに、そう時間は必要なかった。しかし、想いが深まるほどに、別れの時間も近づいていたのだった。
「きみを、連れては行けない」
「私も、あなたについては行けないわ」
漸くと完成した、美しい温室の前で二人は語った。きらきらと陽の光を浴びて輝くそれを見つめる瞳には、目の前にあるものとは別の光が宿っている。
救世主の旅は、ときに激しい戦いに身を投じるものであり、その危険にアイシャを晒すことはできない。そしてまだ幼いリサや妹、体の不自由な家族を持つアイシャの生活もまた、簡単に手放せるものではない。二人は、別れを受け入れた。
「全て終わったら、また会いに来てもいいかな」
「会いに来て、必ず、無事で」
そう約束を交わした二人は、そっと繋いでいた手を離した。その指先は名残惜しむように何もない空間を僅かに泳いだが、何も掴むことなく、静かに降ろされる。ジュジの乾いた風が、アイシャの頬を濡らす雫を攫っていった。
身体に異変を感じたのは、それから数ヶ月経った頃のことだ。その異変の正体はすぐにわかった。かつて経験したことのある体調の変化であったからだ。
アイシャはそれを心から喜ぶことはできなかった。罪を犯したような気分でさえいた。無事に帰ると信じているが、どこにもその保証はない彼との子を、身籠っていたのだった。アイシャはまた、塞ぎ込む日々が続いた。豊かになった町には活気があり、生活は安定した。人々の心に余裕が生まれたことで、一人きりで切り盛りするのは大変だろうとアイシャに手を差し伸べ、宿を手伝ってくれる人たちも出てきた。アイシャはそれを頼り、家の中に閉じこもり、町の人々には知られず子を産んだ。その子のことを知る者は、宿を手伝ってくれていた近所に住まう穏やかな初老の女性と、妹だけだった。
「アイシャさん、それって」
それまで黙って話を聞いていた優人の口から、つい言葉がこぼれ落ちる。その声に、アイシャはゆっくりと、しかし確かに頷いた。
「……ええ、それが、あなたよ」
そうではないか、とは思っていた。けれどこうしてはっきりと言葉にされたなら、ほんの少しだけ心に動揺が走る。この砂の地に入り込んで以降ずっと感じていた懐かしさ、その答え。そして、ずっといないものだと思っていた実の母親が、この異世界で、今目の前にいるということ。
不思議と驚きはしなかった。言葉にならない心の揺れはあったものの、やっぱりそうだったのか、と、安堵さえあった。アイシャは切なそうに、申し訳なさそうに眉をひそめてはいるが、その面立ちはやはり優人にとって安心感を覚えるものだった。頭の中には記憶がなくとも、きっと体が覚えているのだろう。信じられないという疑いも、受け入れられないという拒絶も、まったく感じなかった。
アイシャの話は、もう少しだけ続く。
さらに月日は流れ、優人が産まれて一年が経とうとしている頃のことだ。
救世主であるユウサクが、その旅を終え戻ってくるという噂を、アイシャも耳にしていた。聞けば、救世主が西の果ての地にたどり着き、儀式を成したためにこれから暫くは魔物が新しく発現することはないのだという。魔物の脅威が弱まったことを知った町の人々は皆喜んでいた。アイシャはその報せを聞き、そうか、救世主の旅というのはそういうものなのか、と思いながら、彼の無事を喜んだ。
けれど、どうしよう。彼が戻ってくる。会えるのは嬉しい。ずっとずっと、会いたかった。生きて戻ってくることは、この上ない幸福だった。でも、会えてその後は?元は別の世界から来ている彼は、彼自身の子の存在を知り、どうするのだろうか。アイシャはそれが怖かった。
それほど月日が流れた訳ではない。ほんの二年も経たないほどの時間離れていただけだというのに、再会したユウサクの姿は変わり果てていた。
「……おかえりなさい」
「…………ただいま」
その真っ黒な瞳にかつてのきらめきはなく、疲れ切ったような顔をしていた。綺麗だった髪はパサつき、あたたかだった指先はひやりと冷たかった。ようやく会うことができた恋人をその目に映して、見たこともないような歪な笑顔を無理に浮かべていた。
アイシャはその姿を見て、何があったのかを聞けなかった。とても聞いてはいけない、その心にはっきりと見える傷は、簡単に触れていいものではないとすぐにわかった。西の果てで何を見たのか、アイシャは怖くなる。
そんなユウサクは、アイシャが抱く赤児を見て、少しだけ驚いたように目を見開いたあと、ああそうか、とだけ呟いた。
「すまない、苦労をかけてしまったようだね」
すっかり変わり果てたユウサクだったが、その体の隅に、心の隙間に残った優しさはまだ息をしていた。ひどくやつれたアイシャの頬に指を滑らせて、彼女を労った。
「いいえ、平気よ」
アイシャはその指の冷たさに、まるで戻ってきたのはユウサクによく似た他人のような気さえしたが、言葉を交わすうちに、ああ、会いたかった人だと実感していった。あの日々で感じた優しさは、そのまま彼の中に残っていたのがわかった。
それから二人はよく話し合い、生まれた二人の子をどちらが育てるのかを決めた。
「この子は、あなたに似ているわ」
アイシャはそう話したのは、何も容姿のことだけではない。生まれた子は、魔力を一切持っていなかった。つまりはアイシャのような魔法使いではなく、ユウサクと同じただの人間だということだ。
どこか魂の抜け落ちたような様子のユウサクを見て心配していたアイシャだったが、子が魔法を使えないということがわかると、はっきりとした口調で答えた。
「それなら、この世界で生きていくのは厳しいだろう。この子は僕が、僕の世界で育てる。それでいいかな」
魔法使いではない、力を持たない者が生きていくにはまだまだ危険な世界だった。ユウサクの判断は正しかったし、アイシャも同じ考えだった。ユウサクの様子を見る分には意外な選択であったが、その瞳にあるのは決意の光だった。そしてどこか、許しを乞うようなものでもあった。
「そうして僕は、この世界を離れて育ったんですね」
「ええ、ユウサクの世界は、魔物の危険などはない、平和な世界だと聞いていたから……。あなたが無事に、こんなに大きくなっていて、安心したわ」
それはそうだ。幼い頃から母親がおらず、そのことで苦労したことがないとは言えないが、生活に不自由はなかったし、命を落とすような危険な目にあったこともない。怪我も病気もなく生きてこられたのは、やはり父の選択と母の同意は正しかったのだと思う。
「……けど、どうして父は人が変わったような状態で戻ってきたのでしょうか。僕らも目指している西の果てという場所に、何があるんですか?」
「私は、何も知らないの。……ただ、あの人は一言『僕にはできなかった』と言っていたわ」
「……できなかった?」
「この世界を救えなかった、という意味だと……。でも、あの人が去ってから事実魔物の出現は減り、しばらくの間は比較的平和な時期が続いたのだから、救世主としての責務は果たしたのだと思うのだけど……。結局、その意味はわからないままね」
かつて自分と同じ救世主という任を負っていた父と、たどり着いたという西の果てという地のこと。そこで何かを成し遂げなければならなかったのに、彼は『できなかった』と言い残し、この世界を去ったのだという。父が成せなかったこととは何だろうか。それが、父が優人に対し多くを語らなかった理由なのだろうか。
アイシャの話は、これで終わりだった。すっかり冷めてしまったミルクを飲み干してしまうと、彼女がもう一眠りしなさい、と声をかけてくれた。その声があまりにも優しくて、優人は改めて、この人が母親なのだと感じる。
いまだ受け入れるには大きすぎる色々な事実に頭はおいつかず、思考はぐるぐると巡る。
もう朝日が昇る時間も近くなったが、優人はアイシャの去ったその部屋で再び眠った。夢は、よく覚えてはいないが、懐かしい夢を見たような気がした。
ずっとひとりきりで張り詰めていた心がほどけ、親身になって寄り添ってくれたユウサクに心を許せるようになったことが、町の見え方にすら影響しているらしい。アイシャはそれほど自分の視野が狭くなり、世界を暗くしていたのだと知る。ユウサクはと言えば、相変わらずそんなアイシャを哀れむでもなく、ただ優しかった。その混じり気のない純粋な優しさが、彼女の心に安らぎをもたらしたのだった。
「もうすぐ完成ね」
「ああ、外側はね。大事なのはここからさ」
柔らかい砂の地盤にもしっかりと建つように広く平らに固めた土台を作り、それを囲うように美しいガラスのような、太陽の光を通す透明な壁ができている。天井も壁と似た素材で、どの角度からでも光を取り込める構造になっている。
「取り込んだ熱を逃がさず保てるよう内部に特殊なフィルムを貼って、その上で更に魔法で仕上げていくんだ。あとはその熱エネルギーを使って水を撒く装置を動かして……、湿度を上げられる装置もまだこれから。それらがうまく噛み合って初めて、この温室は完成するんだよ」
元の世界でも、植物に関する仕事をしていたのだというユウサクは、本当にものづくりが好きなのだろう。アイシャにはよくわからないその仕組みについて心の底から楽しそうに話して聞かせてくれた。理解はできなくとも、その様子を見ているだけで微笑ましいような気分になった。
けれど、アイシャのそんな安らかな笑みを見て、ユウサクは切なそうに眉を寄せるのだった。
「そう、だから、まだまだなんだ。まだまだだよ」
まるで作り終わりたくないというように、寂しそうに笑う顔が忘れられない。そしてそっと握られた手が小さく震えていたことも。
ユウサクは、アイシャに恋をしていたのだった。
毎日、順調に進んでいく作業に安心する心とは裏腹に、ユウサクはどうしたものかと頭を悩ませていた。元々色恋などには感心が薄く、自らがこんな状況になってしまうとは考えてもいなかったのだ。
一目見たときから、その憂いを帯びた色の瞳から目を逸らせなかった。どこか寂しげにしている背中も、日々の暮らしに疲れやつれた手も、心のどこか触れられたところのない部分を掴んできた。
旅の中で困っている人や町の抱えている問題に協力を惜しまなかったのは、今までだってそうだった。だからジュジの町を助けたいと思ったことは、決して下心なんかではない。それでも、皆で協力して作り上げようとしている温室の完成を心から喜ぶことができないのは、それが終わってしまえばアイシャの居るこの町に留まる理由がなくなってしまうからだった。それに気がつくまでにやや時間はかかったものの、それを気付かないふりができるほど器用でもなかった。
ユウサクは元は別の世界から来た青年で、アイシャはこの世界に住まう魔法使いの一族の娘で、文字通り住む世界の違うふたりである。いずれ別れがくることは、明白だった。
「終わりがあるからって、気持ちをなくせるわけじゃないだろ?」
そう言ったのは、ユウサクの旅の友である小さな魔法使いの少年だ。歳の割に達観した少年にずばり言い当てられてしまったユウサクは、この完成されることのない想いをすんなりと受け入れてしまうのだった。
元より素直な性格のユウサクは、自らの想いを認めたなら、ただまっすぐにアイシャと向き合い、慈しむ心を隠さなかった。アイシャもそれに気がついていた。
「きみに愛した人が居るのも、もちろん知ってる。僕はそのことも含めて、きみを愛しいと思ってるよ」
ユウサクのそんな言葉に、アイシャの心も素直に揺れた。亡くした夫を忘れたことはなかったが、亡くした悲しみと彼女の孤独に寄り添ってくれたユウサクのあたたかい心に、愛しさを感じたこともまた事実だった。
ユウサクが愛し慈しんだのはアイシャだけではなく、彼女のまだ小さな娘に対しても同じように愛を注いだ。アイシャが後ろめたさから名前さえ与えられずにいた娘に、『リサ』という名をつけてくれた。愛おしそうに何度も名を呼び、二人でリサを抱き、健やかであるように祈った。
二人が愛し合うようになるまでに、そう時間は必要なかった。しかし、想いが深まるほどに、別れの時間も近づいていたのだった。
「きみを、連れては行けない」
「私も、あなたについては行けないわ」
漸くと完成した、美しい温室の前で二人は語った。きらきらと陽の光を浴びて輝くそれを見つめる瞳には、目の前にあるものとは別の光が宿っている。
救世主の旅は、ときに激しい戦いに身を投じるものであり、その危険にアイシャを晒すことはできない。そしてまだ幼いリサや妹、体の不自由な家族を持つアイシャの生活もまた、簡単に手放せるものではない。二人は、別れを受け入れた。
「全て終わったら、また会いに来てもいいかな」
「会いに来て、必ず、無事で」
そう約束を交わした二人は、そっと繋いでいた手を離した。その指先は名残惜しむように何もない空間を僅かに泳いだが、何も掴むことなく、静かに降ろされる。ジュジの乾いた風が、アイシャの頬を濡らす雫を攫っていった。
身体に異変を感じたのは、それから数ヶ月経った頃のことだ。その異変の正体はすぐにわかった。かつて経験したことのある体調の変化であったからだ。
アイシャはそれを心から喜ぶことはできなかった。罪を犯したような気分でさえいた。無事に帰ると信じているが、どこにもその保証はない彼との子を、身籠っていたのだった。アイシャはまた、塞ぎ込む日々が続いた。豊かになった町には活気があり、生活は安定した。人々の心に余裕が生まれたことで、一人きりで切り盛りするのは大変だろうとアイシャに手を差し伸べ、宿を手伝ってくれる人たちも出てきた。アイシャはそれを頼り、家の中に閉じこもり、町の人々には知られず子を産んだ。その子のことを知る者は、宿を手伝ってくれていた近所に住まう穏やかな初老の女性と、妹だけだった。
「アイシャさん、それって」
それまで黙って話を聞いていた優人の口から、つい言葉がこぼれ落ちる。その声に、アイシャはゆっくりと、しかし確かに頷いた。
「……ええ、それが、あなたよ」
そうではないか、とは思っていた。けれどこうしてはっきりと言葉にされたなら、ほんの少しだけ心に動揺が走る。この砂の地に入り込んで以降ずっと感じていた懐かしさ、その答え。そして、ずっといないものだと思っていた実の母親が、この異世界で、今目の前にいるということ。
不思議と驚きはしなかった。言葉にならない心の揺れはあったものの、やっぱりそうだったのか、と、安堵さえあった。アイシャは切なそうに、申し訳なさそうに眉をひそめてはいるが、その面立ちはやはり優人にとって安心感を覚えるものだった。頭の中には記憶がなくとも、きっと体が覚えているのだろう。信じられないという疑いも、受け入れられないという拒絶も、まったく感じなかった。
アイシャの話は、もう少しだけ続く。
さらに月日は流れ、優人が産まれて一年が経とうとしている頃のことだ。
救世主であるユウサクが、その旅を終え戻ってくるという噂を、アイシャも耳にしていた。聞けば、救世主が西の果ての地にたどり着き、儀式を成したためにこれから暫くは魔物が新しく発現することはないのだという。魔物の脅威が弱まったことを知った町の人々は皆喜んでいた。アイシャはその報せを聞き、そうか、救世主の旅というのはそういうものなのか、と思いながら、彼の無事を喜んだ。
けれど、どうしよう。彼が戻ってくる。会えるのは嬉しい。ずっとずっと、会いたかった。生きて戻ってくることは、この上ない幸福だった。でも、会えてその後は?元は別の世界から来ている彼は、彼自身の子の存在を知り、どうするのだろうか。アイシャはそれが怖かった。
それほど月日が流れた訳ではない。ほんの二年も経たないほどの時間離れていただけだというのに、再会したユウサクの姿は変わり果てていた。
「……おかえりなさい」
「…………ただいま」
その真っ黒な瞳にかつてのきらめきはなく、疲れ切ったような顔をしていた。綺麗だった髪はパサつき、あたたかだった指先はひやりと冷たかった。ようやく会うことができた恋人をその目に映して、見たこともないような歪な笑顔を無理に浮かべていた。
アイシャはその姿を見て、何があったのかを聞けなかった。とても聞いてはいけない、その心にはっきりと見える傷は、簡単に触れていいものではないとすぐにわかった。西の果てで何を見たのか、アイシャは怖くなる。
そんなユウサクは、アイシャが抱く赤児を見て、少しだけ驚いたように目を見開いたあと、ああそうか、とだけ呟いた。
「すまない、苦労をかけてしまったようだね」
すっかり変わり果てたユウサクだったが、その体の隅に、心の隙間に残った優しさはまだ息をしていた。ひどくやつれたアイシャの頬に指を滑らせて、彼女を労った。
「いいえ、平気よ」
アイシャはその指の冷たさに、まるで戻ってきたのはユウサクによく似た他人のような気さえしたが、言葉を交わすうちに、ああ、会いたかった人だと実感していった。あの日々で感じた優しさは、そのまま彼の中に残っていたのがわかった。
それから二人はよく話し合い、生まれた二人の子をどちらが育てるのかを決めた。
「この子は、あなたに似ているわ」
アイシャはそう話したのは、何も容姿のことだけではない。生まれた子は、魔力を一切持っていなかった。つまりはアイシャのような魔法使いではなく、ユウサクと同じただの人間だということだ。
どこか魂の抜け落ちたような様子のユウサクを見て心配していたアイシャだったが、子が魔法を使えないということがわかると、はっきりとした口調で答えた。
「それなら、この世界で生きていくのは厳しいだろう。この子は僕が、僕の世界で育てる。それでいいかな」
魔法使いではない、力を持たない者が生きていくにはまだまだ危険な世界だった。ユウサクの判断は正しかったし、アイシャも同じ考えだった。ユウサクの様子を見る分には意外な選択であったが、その瞳にあるのは決意の光だった。そしてどこか、許しを乞うようなものでもあった。
「そうして僕は、この世界を離れて育ったんですね」
「ええ、ユウサクの世界は、魔物の危険などはない、平和な世界だと聞いていたから……。あなたが無事に、こんなに大きくなっていて、安心したわ」
それはそうだ。幼い頃から母親がおらず、そのことで苦労したことがないとは言えないが、生活に不自由はなかったし、命を落とすような危険な目にあったこともない。怪我も病気もなく生きてこられたのは、やはり父の選択と母の同意は正しかったのだと思う。
「……けど、どうして父は人が変わったような状態で戻ってきたのでしょうか。僕らも目指している西の果てという場所に、何があるんですか?」
「私は、何も知らないの。……ただ、あの人は一言『僕にはできなかった』と言っていたわ」
「……できなかった?」
「この世界を救えなかった、という意味だと……。でも、あの人が去ってから事実魔物の出現は減り、しばらくの間は比較的平和な時期が続いたのだから、救世主としての責務は果たしたのだと思うのだけど……。結局、その意味はわからないままね」
かつて自分と同じ救世主という任を負っていた父と、たどり着いたという西の果てという地のこと。そこで何かを成し遂げなければならなかったのに、彼は『できなかった』と言い残し、この世界を去ったのだという。父が成せなかったこととは何だろうか。それが、父が優人に対し多くを語らなかった理由なのだろうか。
アイシャの話は、これで終わりだった。すっかり冷めてしまったミルクを飲み干してしまうと、彼女がもう一眠りしなさい、と声をかけてくれた。その声があまりにも優しくて、優人は改めて、この人が母親なのだと感じる。
いまだ受け入れるには大きすぎる色々な事実に頭はおいつかず、思考はぐるぐると巡る。
もう朝日が昇る時間も近くなったが、優人はアイシャの去ったその部屋で再び眠った。夢は、よく覚えてはいないが、懐かしい夢を見たような気がした。
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