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覚醒編
26 俊の記憶 2
しおりを挟む神谷の講演会に行くのは、オメガとしての部分が危険だと本能が教えた。だが一度本物を見てしまったら、彼の声帯から直接響く声を聞いてしまったら、もうダメだった。さすがに講演会でヒートをまた起こしたら、それこそ犯罪者として捕えられてしまう。そんなことは絶対にだめだ、そう思ったが抑えられない欲望が、俊を動かした。
実物の神谷を見た日から、俊のヒートが明らかにおかしくなっていた。周りからもフェロモンを少し感じるようになったと迷惑がられ、職場では肩身の狭い思いをするようになった。
ヒートが起こるタイミングは、俊にはわかっていた。
ヒートの原因は、神谷だ。俊は神谷を想うあまり、彼の行動を警視庁のホームページで調べていた。公式にわかっているイベントなどは、会場近くまで行く。それだけのことでいつも動悸が激しくなっていた。それでもその行動をやめられなかった。どうしても神谷の近くで神谷を感じたい、残り香でもいいから吸いたい、麻薬のような感覚に陥っていた。
またヒートが起こる可能性という恐怖から、直接講演会を聴講するという勇気はなかった。せめて近くに行きたいという想いから、俊は講演会が行われる日程を事前に調べ、会場の外でただぼうっとする行為をしていた。
彼の近くにいる、そう思うだけで幸せだった。
「ねぇ、一回だけ会いに行ってみたら? その乱れたヒートの原因かもしれないし、もう半年もそんなヒート繰り返して、いい加減オメガの機能がおかしくなるって」
「無理だよ、無理。また興奮してヒート起こしたら、それこそ犯罪者として捕まっちゃうから」
今まで順調だった発情期が乱れ始めた。神谷を知った日から、突発的なヒートは何度もきた。そして仕事を休むことが増えてしまい、頭を抱える日々を送ることになっていた。
「でも、もしまた会ってヒート来たならさ、それこそ一回抱いてもらえるチャンスじゃない? 俊は処女だから重く考えがちだし、一度経験した方がいいって。そうじゃなくても一度会って確認しなよ、それで神谷のことを諦めたなら、今度こそ俺がアルファを紹介するから。相手がいないと俊だって生きづらいでしょ」
「そんなこと……」
「大丈夫だって、まさか二度もヒートなんて来ないからさ。あの日は初めて推しに会った衝撃だよ。とにかくもう一度だけ生で見ておいで。このままじゃその乱れた発情期のせいで社会生活できなくなるよ、それこそ死活問題だし」
親友の裕は本気で俊のことを心配していた。ヒートの乱れは、オメガの社会生活の質に関わるもっとも重要なこと。
「どうしても緊張するなら、これ、使って」
「これは…?」
裕は飴玉のような包み紙を渡してきた。
「孝彦のとこで売りさばいているモノ。大丈夫、これさえ使えば神谷もイチコロだから!」
「えっ、これっ、なに?」
「運命疑似薬……つまり、ドラッグ。これを舐めた後に会ったアルファは、そのオメガを運命だと錯覚する。それで、一度だけ抱いてもらえばいいんじゃない? きっと俊のヒートは神谷じゃなくちゃ抑えられない。だけど俺たちみたいなオメガは神谷に近づけないし、顔が割れたら二度目はない。だったら奇襲をかけるしかないだろ?」
「でも、それじゃ、犯罪だよ! 好きでもない見ず知らずのオメガを抱きたいなんて絶対思わない。そんな相手を運命と勘違いして抱くなんて、目が覚めた時、神谷さんがどう思うか……」
裕は真剣な顔をして、俊を見る。その目の強さに、俊は驚いた。
「俊、良く聞け。俺たちはどうやってもヒートを正常に戻さなければ世の中を生きていけない。普通の家の子じゃない俺たちは、自分たちで勝ち取っていかなければいけないんだ。ちょっとオメガと遊んだくらいで、アルファは傷つかない。今は俊のヒートを正常化することが一番大切だ、俺たちはどれだけ社会に搾取されてきた? 不当な扱いを受けてきた? 俺たちが一度幸せを望むくらい、バチは当たらない。とにかく生きるために必要なことだ、その伝手が俺にはあった。それを親友に渡す。それだけだ」
裕の本気の顔を見たら、そうしてもいいのではないかと思ってしまった。自分がまともに生きられなければ、いつまでたっても裕は彼氏と一緒に過ごすことができない。自分が足かせにならないように、せめてヒート管理だけでも今まで通り普通にしなければならなかった。
「わ、わかった。僕、神谷さんの近くにいって、これを口にする」
そして決行の日、いつも通り講演会の会場の近くに来ていた。一番強く神谷の香りがするところを俊は探した。多分数時間前にここから出入りしたのだろう、ほんの少し神谷の香りの残るビルの裏口付近に隠れることにした。
講演会が終わったのだろう、女性の歓声が響き渡ってきた。
俊はこの日、自分の行動の全てが後で捜査されないように、計画的に荷物を持ってこなかった。ポケットに電車に乗れるくらいの小銭を入れただけ。万が一、身柄を拘束されても、身分がばれないようにするため、スマホすら持たなかった。あの薬の存在が警察に知られたら、協力してくれた裕に、さらには裕の彼氏の仕事にも迷惑がかかってしまう。だから絶対に身元を知られるわけにはいかなかった。
それからしばらくすると、俊はいつものように胸が高鳴り始めた。多分、近くにいる。いつもなら高鳴り始めた瞬間、会場から遠ざかるという行動をしていた。本格的に彼の前でヒートになったら困るからだった。でも今日は違う、ヒートになるという行動の前に、運命と感じてもらわなければならなかったので、彼と対面する必要性があった。
もうすぐヒートがくる、そう感じた瞬間に裕から貰った飴玉の包みをほどいた。そして口の中に入れると瞬時に溶けた。ラムネのようなものだった。薬というだけあって粉っぽかったが、それは甘いオレンジのラムネだった。
そして彼の香りが近づいてくると、俊はやはりと思った。本格的にヒートが起こってしまった。もしかしたらこの麻薬のせいでヒートは免れるかとも思っていたが、考えが甘かった。
彼が近づく、俊はうずくまってヒートに耐えていたが、耳が鼻が空気感が、世界が彼を導いてくれるのを教えてくれる。
「君、大丈夫?」
「はっ、あっ、いや、こないで」
神谷を見た瞬間、俊は予想していたにも関わらず驚き、思わず拒絶をしてしまった。
「ヒートだね? 抑制剤は?」
――どうしよう、やっぱりこんなことダメだ。出会った瞬間わかった、僕はこの人が好きなんだ。どうして初対面でそれに気が付いたのかはわからないけど、愛しているんだ。
好きと知った瞬間、これは間違いだと俊は思った。
“運命疑似薬”そんなもので騙していい人ではない。涙がでてきた。体は熱い、だけどこの人を巻き込むわけにいかない、俊はいろんな考えが頭をよぎるが、言葉は上手く出てこない。発情が急速に増してきた。
「やっ、だめ。お願い、僕から逃げて……」
「なんだって?」
ヒート状態に陥り力の出ない体だったが、俊は精一杯の勇気を振り絞り、神谷を拒絶しその場を去ろうと試みた。すると急に神谷のフェロモンが鼻腔に入ってきた。
きっと俊が接種した薬のせいで、神谷のアルファの本能が引き出されてしまったのだろう。
「君は、僕の運命だ。ここから逃がして、誰かの番になんてさせない」
「え!?」
まさか、本当に、薬がもう効いた? しかもこれほどの人に、恋焦がれた相手に疑似薬のせいだとしても、運命と言われたことに、俊は驚きと歓喜で心が乱された。
「あ、ああ!」
「もう、離さない」
急に抱きしめられた、俊のオメガのフェロモンがさらに高まる。
「この香り、僕のだ!」
「あっ、だめ、だめ、僕なんかじゃ、ダメ」
俊は焦った、このままでは自分の力では止められない。たとえ神谷が自分に騙されているとわかっていても、この瞬間は縋ってしまう。
「ダメじゃない。君が、君こそが僕の運命だよ」
「う、うんめい」
ずっと欲しかった言葉。自分だけが半年前から画面越しの神谷に恋をして運命だと思っていた。涙が止まらない。騙して運命と思わせているだけなのに、それでも、少しくらい望んでもいいんじゃないかと思った。
「そう、運命だ」
神谷は固く決意したような眼差しで自分を見つめる。その目が本物であると信じたかったが、それは調子が良すぎる。
せめて、運命と騙されてくれるのなら……。
「う、運命だなんて言うのなら……んん」
神谷にその先の言葉は、固く閉ざされた。それは俊の初めてのキスだった。
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