神よりも人間らしく

猫パンチ三世

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第九章 歪な夏

七十話 世界で一番美味しい唐揚げ

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 死ぬのだろうか、死ぬんだろう。
 
 ぐちゃぐちゃになった洋平の脳裏には、疑問とその答えが同時に浮かぶ。
 二発、たった二発だ。
 たった二発の弾丸が、洋平の勝敗どころか生き死にまで決めてしまった。

 体から熱が抜けていくのが分かる、視界はどんどんぼやけていく。
 あれほどうっとうしかったうだるような暑さが、今は恋しい。

 死にたくない。

 ぐちゃぐちゃになった洋平の脳内はパッと晴れ、ただその言葉だけが暗闇の中で輝く光のようにはっきりと見えた。
 それは初めて事だった、心の底から死にたくないと思った。

 理由は今は並べる事ができない、そんな事をしている余裕は無い。
 
 ただただ、死にたくなかった。

 まだ、終わりたくなかった。


「……はぁ」

 正義は大きく息を吐くと、倒れている洋平を見下ろした。
 すでに彼は大量の血と共に気を失い、動く事は無い。
 だがわずかに浮き沈みする体が、まだそこに命があるという事を教えていた。

 強かった、間違いなく自分がこれまで戦った選択者の中で一番強かった。
 正義にはそんな確信があった。

 今まで武器を壊された事もなければ、相手の攻撃が届く事も、掠めて行った切っ先に冷や汗を流す事もなかったのだから。
 そんな正義をわずかな眩暈が襲う、見れば体には致命傷とまでは行かなくともそれなりの出血を伴う傷がいくつもある。

「……血を……流しすぎたか」

 ぐらついた視界を支えるように、彼は顔に手を当てた。
 血は流れたが彼は勝った、自らの願いに一歩近づいた事を感じつつ、倒れた洋平に銃を向ける。
 受けた傷の癒し方を、彼は知っていた。

 引き金を引こうとした指が止まる、正義は自分が誰かに見られている事に気付いた。
 自分と同等、もしくはそれ以上の力を持った誰かが自分を見ている。
 引き金を引くよりも、この場から立ち去る事を優先しなければならない。
 
 目の前の死にかけの少年を殺す隙を、その誰かは待っている。
 そう感じた正義は、その場から立ち去る選択を取った。傷は痛み、出血もあるがまだ体は動く。

 彼は体に残された力を全て使って、その場から消え失せた。

 セイスンは、マガズミに何も言わなかった。
 煽る気もなければ、慰める気もさらさらなかった。

 選択者が、人間が戦い、一人が負け一人が勝った。ただそれだけの事だ。
 人が紡ぐ歴史の中で、神たちはそんな光景は数えきれないほど見て来たのだ。 

 一人残されたマガズミは、倒れた洋平の隣に立った。
 そして彼の手のそばに落ちた刃を拾い再び自分の腕に変え、倒れている洋平を見下ろした。

 ああ、またか。そんな感情が浮かぶ。
 悲しさでも、負けた悔しさでもなく、マガズミの中には枯れた花のような感情が浮かぶ。
 
 何回も、何十回も見て来た。
 自分の選んだ人間が、血溜まりに沈んでいく姿を何度も何度も見た。
 むしろ洋平は肉体が全て残っているだけでも幾分かはマシに思える、今までの選択者の中にはもっとグロテスクな死を迎えた者もいた、肉体が欠片も残らなかった者もいた。

 だからこの状況は、大して驚くようなものではなかった。
 今まで何度も繰り返してきた、そしてこれからも繰り返していくであろう事柄の一つに過ぎないのだから。

「いつか言ったかしら」

 マガズミはしゃがむと、洋平の顔を覗き込んだ。

「骨くらいは、拾ってあげるって」

 マガズミの白い手が伸び、細い指が洋平の喉に触れた。
 まだ息はある、だがそれはいつもの健康なものとは程遠い。
 
 浅く早い、死の呼吸。
 
 マガズミの指が、わずかに洋平の手に食い込んだ時だ。

 正義の感じていた視線の主が、路地の陰から現れた。


 ぼやけた視界が少しずつ色づいていく、目を開けて一番最初に見たのは病的なほど白い天井だった。

「お、目ぇ覚めたか」

 椅子に座っていた大介は、洋平に気が付くと読んでいた新聞を畳んだ。
 ソファーに寝かされていた洋平は、ぼんやりとしたまま部屋を見渡す。少しぼろい冷蔵庫にやや型遅れのテレビ、テーブルの細かな傷が光に反射している。

「こ……こは?」

「俺らの休憩室、つかほとんど俺の部屋。お前さん熱中症でぶっ倒れたんだよ」

「あなたが……俺をここに?」

「違う違う、見つけたのは俺の知り合い。病室に入ると金がかかっちまうから、ここに連れて来たってわけだ」

 大介は立ち上がると、冷蔵庫の中からスポーツドリンクの入ったペットボトルを取り出すとテーブルの上に置いた。

「喉、乾いてるだろ」

「ありがとう……ございます」

 重い体を起こし、洋平はペットボトルに手を伸ばした。
 彼の指先が届くか届かないかくらいで、大介はひょいとペッとボトルを取ると蓋を開けそれを手渡した。

「ありがとうございます」

 ペットボトルを受取り、洋平は一口飲んだ。
 流れ込んだ冷たい飲み物の感覚、食道を流れ落ちていく心地よさがはっきりと分かる。
 たまらず洋平はゴクゴクと喉を鳴らしながら、ペットボトルの半分程まで一気に飲んでしまった

「……はぁ」

 洋平は大きく、深くため息を吐いた。
 
「まあもう大丈夫だろうけど、一応ぶっ倒れたからな。今日のとこは帰って休んだ方がいい。それから家には連絡しておいたからな」

「家に? どうやって?」

「携帯、家から着信あったんだよ。悪いがこんな状況だ、勝手に出て事情は話させてもらった。お袋さん、すげぇ慌てようだったぜ」

 洋平が壁にかかった時計を見ると、すでに十九時を過ぎている。

「すいません……」

「構わねえさ、さっきと比べて気分はどうだ?」

「さっきよりは……だいぶ」

「よし、なら行くか。送っていくって話はしてある」

「大丈夫です、一人で……帰ります」

「バカ言え、医者として大人としてお前さんを一人で帰らすわけにゃいかねえな。どうせ俺ももう上がりだ」

 大介は早々に帰り支度を終えると、洋平の背を軽く叩き部屋を出た。
 二人は特に話す事も無く、廊下を歩く。途中で大介の同僚の医師や看護師に会った、彼らは大介と軽く世間話をしたが、事情を知っているからなのか洋平の事には触れず精々挨拶をする程度だ。

 病院を出てすぐの駐車場に止めてあった黒い乗用車に二人は乗り込む、車は洋平の家へ向かって走り出した。

「そういや自転車は病院の駐輪場に置いてある、話は通してあるから時間ある時に取りに来てくれ」

「分かりました、何から何まで本当にありがとうございます」

「良いって良いって」

 洋平の隣に座った大介は照れているのか、やや声が上ずっているようにも思える。
 
「そういえば俺をあそこに連れてきてくれた方は? 知り合いって言ってましたけど、あの病院の方なんですか? ちゃんとお礼を言いたいんですけど……」

「あー……いや、遠くの病院の奴だ。今日はたまたまこっちに来ててな、もう帰っちまったよ」

「そう……ですか」

「ま、気にすんな。礼なら俺の方から伝えておくよ」

 この日は車の通りも少なく、信号にも引っかからなかった。
 洋平を乗せた車は、ストレスなく走り続けあっと言う間に彼の家の前に着いた。

 家の前に止まった車に気付いたのだろう、家の中から京子と珍しく早く帰ってきていたかのか浩二が出てきた。
 大介と洋平が車を降りると、洋平の両親は大介に向かって頭を下げ、大介もそれに合わせて頭を下げた。 

「先ほど電話した芦屋です、息子さんを送るのが遅くなってしまい申し訳ありません」

「洋平の父の浩二と申します、この度は大変ご迷惑をおかけしました」

「お気になさらず、一応……知らない仲というわけでもないですし」

 そう言って大介は、隣にいた洋平の方を見て笑う。

「とりあえず今日は早めに休ませてあげてください、もしまた何かあればすぐに連絡を」

「本当にありがとうございます、また改めてお礼に伺わせていただきます」

 大介は浩二と京子の二人と少し話をしてから、洋平にまた何かあったら言ってくれと伝えると、車に乗り込み小さくクラクションを鳴らして去って行った。

 洋平は両親の言葉に生返事しながら、家の中へ入った。

 おかしい、そう彼は思った。
 
 おかしい、というか何か妙な感覚がした。

 家の中がいつもよりも明るい、見慣れたはずの廊下がやたらと明るく見える。
 ふわふわとした感覚のまま、リビングに行くとテーブルの上には京子の唐揚げがこんもりと置かれていた。

「本当に今日はびっくりしたのよ、大した事なかったから良かったけど……」

「ああ、ごめん……」

「最近ずっと暑かったし、今日は日差しも強かったからな。気分が悪くなるのもしかたない」

「そう……だね」

 両親の心の底から安堵したような声に、ぼんやりとしまま洋平は答える。
 妙な感覚はまだ消えていない、むしろ唐揚げの香りのせいで余計に頭の中がこんがらがってしまったような気さえする。

「とりあえずシャワー浴びてきなさい、着替えは用意してあるから」

「……分かった」

 洋平はテーブルの上の唐揚げを一つ掴み、それを持ったまま洗面所へ向かう。
 浴室の前に置かれたカゴには、彼の替えの服が入っていた。

 服を脱ぐ前に、洋平は手に持っていた唐揚げを口の中へ放り込む。
 今まで何度も食べた母の唐揚げは、美味しかった。
 口の中の唐揚げを飲み込み、服を脱いで洋平は浴室に入る。

 シャワーを浴びようとした時、浴室内に設置されている鏡に映った自分が見えた。

 彼は、泣いていた。

 情けない姿で、自分でも気づかないうちにボロボロと泣いていた。
 拭っても拭っても、涙が溢れてきた。

 涙でぼやけた視界、そこに撃たれた腹が映る。
 そこには撃たれた時の傷が、うっすらと残っている。

「あっ……ああ……」

 声を押し殺し、洋平は泣いた。

 あれは紛れも無い死だった。
 ぼやけていく視界、腹で感じた痛み、消えていく熱。

 あれは死だった、あれが死だった。

 なぜ自分が今ここにいるのか、なぜ生きているのかそれは分からない。
 そんな事はもうどうでもよかった。

 生きていて嬉しいのか、負けて悔しいのか、それとも死ぬ事が恐ろしかったのか、あるいはその全てなのか。
 今はまだ整理がつきそうになかった。

 ただ一つ言えるのは、先ほど食べた母の唐揚げは、今まで食べた食事の中で一番美味しかった。
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