神よりも人間らしく

猫パンチ三世

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第八章 歪んだ世界のなおしかた

五十九話 歪な夏の匂い

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 うだるような熱に包まれた教室にチャイムが響く、あちこちから疲れと歓喜を含んだため息が漏れた。
 
 打ち上げを終えてから、テストの返却と結果に一喜一憂する日々を耐えた学生たち。彼らにとって最も喜ぶべき夏休みが始まろうとしている、先ほどのチャイムは夏休み前最後の授業の終わりを告げるものだった。

「終わったあああ!」

「今日どっか寄ってく?」

 授業の後片付けを終えると、クラスメイト達はそれぞれ夏休みの予定などを楽し気に話す。
 来年は大学受験や就職試験など、道はそれぞれあるがどの道を進むにせよ遊んでいる暇はほとんど無い。
 つまるところ今回の夏休みが高校最後の夏休み、と言ってしまっても過言では無かった。

 軽い清掃を終え、ホームルームが始まった。

「よーし、ホームルーム始めるぞー」

 正の話を妨げない程度に教室はまだざわついている、いつもならそこまで気にならない彼の話も、夏休みに片足どころか下半身を突っ込んでいる若者たちにとっては退屈の極みと化してしまっている。

 そんな明らかに浮ついている彼らに対して、正は怒りなどのマイナスな感情は抱いていない。
 なぜなら自分も同じだったからだ、夏休みを前にした胸の高鳴り。
 解放感、学校という窮屈な檻から今まさに解き放たれんとする感情は彼の学生時代の記憶に鮮烈に残るほど、熱く荒ぶっていたのだから。

 とはいえさすがにざわついたままでは話ができない、彼が静かにするように軽く注意してようやく教室はいつもの静けさを取り戻した。

「さて、明日からみんなが楽しみにしていた夏休みが始まる。多分もう予定を立てている人もいると思う」

 その言葉に教室の中にいた何人かはニヤリと笑って正を見た、彼らは正の言葉通りすでに予定を立てている。

「夏休みは自由だ。部活に励んでもいい、友達と遊んで思い出を作るのもいい、もちろん勉強に力を入れてもいい」

 先生としては勉強するのをおススメすると正が言うと、クラスのあちこちから笑いが漏れる。

「ただ忘れないでほしいのは、君たちは来年受験生だ。生きていく内でいくつかある大きな選択の一つにぶつかる、その準備は怠らないように」

 楽しい気分に水を差す言葉だと彼も分かっている、もちろん二度と来ない高校二年夏休みを思いっきり楽しんで欲しい。
 だが教師として、その選択を超えてきた人間としてこれだけは伝えておかなければならなかった。

 クラスの雰囲気が若干冷めてしまったのが彼にとっては心苦しい、だがそれを吹き飛ばすように堂々と声を張る。

「まあ色々言いたい事はあるけれど、先生から言えるのは実りある夏休みにしてほしいって事だけだ。夏休み明け、成長したみんなに会えるのを楽しみにしてる」

 そうして正は話を締め、最後に夏休みの課題や補習、夏期講習の話をしてホームルームを終えた。
 クラスメイト達が続々と帰っていく、洋平も長期休暇前の少し重たいカバンを持ち帰ろうとする。

「沢田、少しいいか?」

 気づけば正は洋平の机の前に来ていた。

「大丈夫です」

 断る理由も無い、どんな話かは分からないが正の表情を見るにそこまで深刻な話では無さそうだった。
 二人は空き教室に場所を移す、夏の暑さと浸かっていない教室の埃臭さが混ざり空き教室はあまり居心地が良い場所とは言えなかった。

「最終日に引き留めてすまない、長くはかからないから」

「いえ、それでどうしたんですか」

「ああ、その……最近は田所たちと遊んでるのか?」

 正は最近テスト作成などの業務に追われ、洋平にあまり気を掛ける事ができていなかった。
 雄一たちと一緒にいる所を何度か見てはいたが、それだけで安心できるほど洋平を取り巻いていた状況は軽いものではない。
 
「遊んでますよ、この前もテストの打ち上げをしましたし」

「そ、そうか。あとは……そう、宇佐美とよく一緒にいるな」

「そうですね、家も近かったのでちょくちょく一緒に帰ってます」

 洋平は最初、何の事かよくわからずに正の質問に答えていたが徐々に彼が何を聞いているのか、そして何を心配してくれているのかを理解した。
 
「……ありがとうございます」

 その言葉で正は自分の意図を洋平が理解した事を知った、本当はもっと上手く話を聞けただろうが彼はそういった本心を隠して人とペラペラと話をするのが得意な方では無い。
 
「礼を言われるような事は何もできていない、沢田が自分で乗り越えたんだ」

「そんな事はありません、こうやって気にかけてもらえるだけで自分としては嬉しいですから」

 そう言って洋平はもう一度、感謝の言葉と共に頭を下げた。
 その姿と言葉を目と耳に焼き付けると、正は引き留めた事に対する謝罪をし教室から出て行く洋平を見送った。

 一人になった彼はぼんやりと窓から校庭を眺め、少しだけ自分を顧みてみようとした。
 だがすぐにそれをやめ、彼は職員室へ戻るために教室を出る。
 それをするのは今ではないと気付いたからだ。


「あいつ、悪くないわね」

 帰り道、マガズミの口から珍しい言葉が出た。
 基本的にあまり誰かの事を褒めるようなタイプではないマガズミが、正の事を悪くないと言う。
 それが洋平には珍しく感じられた。

「良い人だよ、一年の時からの担任だけど授業も丁寧だし、優しいし」

「ふうん、ならついてるわね。教師っていってもまちまちだから」

「かもな」

 歩きながら洋平は空を見上げる。
 突き抜けるような青い空。
 頬を撫でるぬるい風。
 うっすらと額に滲んだ汗。

 何度も夏を繰り返して来たはずなのに。
 見慣れた夏のはずだというのに。
 これからも生きてさえいれば何度も繰り返すはずの夏だというのに。

 彼の人生の中でこの夏はきっと、浮いてしまうのだろう。
 他の夏とは違う夏として。
 同じはずなのに違うものとして。

 それがなぜなのか。
 隣にいる神のせいなのか。
 それとも自分のせいなのか。

 それはまだ分からない。

 だが始まったのだ。
 きっともう二度と戻れない。
 
 透明で歪な夏が。 
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