日刊幼女みさきちゃん!

下城米雪

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第五章 未来のこと

合コンした日

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 今年の正月は過去最高に幸せだった。

 大晦日は兄貴の店で忘年会を行って、帰宅したのは十一時を少し過ぎた頃。
 みさきはもう寝ていると思っていたが、なんと小日向さんと二人で寿司を食べていた。
 どうやら一緒に年を越す約束をしていたらしい。

 もちろん俺も混ぜてもらうことにした。
 年が明ける直前には三人でカウントダウンをした。今までは数字を数えるだけで何が楽しいのか理解出来なかったのだが、なるほど、来年もやろう。

 年が明けてからも、みさき色の時間が続いた。
 初詣に行って、おみくじをして、他にもいろいろなことをした。最後は疲れて眠ってしまったみさきを背負って帰ることになって、みさきの可愛い寝言が聞けて……とにかく幸せだった。

 翌日。
 俺は気持ち良く、それはそれは良い気分で会社に向かった。
 
 そして、その日の夜。
 俺は合コンに参加することになった。

 ……なぜだ。

 忘年会でロリコンと彩斗が荒れ狂っていたのは覚えている。
 そこで合コンがどうとかいう話が出たのも覚えている。
 軽い口約束をしたのも覚えている。

 しかし、まさか本気だとは思わなかった。

 会社に着くと、いきなりケータイを手渡された。
 彩斗は仕事で朱音の連絡先を知っていたようで、電話して合コンをセッティングしろとのこと。

「おいロリコン、おまえ十歳以上には興味ねぇんだろ? 合コンなんかしてどうなるんだよ」

 当然やりたくないから、なんだかんだで発言力のあるロリコンに助けを求めると、

「うるさい! だって無理じゃん触れないじゃん! いくらVRで完璧な幼女を作り出しても映像だけじゃん! 幸せな家庭を作って合法幼女ループできないじゃん!! パパとかじーじとか言いながら抱き付いてくれないじゃん!!!」

 何を言っているのか半分も分からなかったが、会話をしても無意味ということはよく分かった。

 こうして俺は朱音に電話をかけることになった。

 電話に出た朱音の驚いた声を鮮明に覚えている。
 合コン!? という声も忘れることが出来ない。

 絶対に断られると思っていたのだが、どうやら朱音の近くに悪ノリするタイプの奴がいたらしい。

 電話を切ってから十分後、場所などの詳細を書いたメールが届いた。

 日時:今日の18時
 場所:添付した画像を見てね(*´ω`*)

 ……何者だよ、こいつ。



 そして18時。

 場所はモールの近くにある店で、どうやら個室を予約したようだ。
 俺達は出入り口付近で朱音達と合流して、そのまま店員に案内された。

 店内はタバコの臭いがしたから禁煙というわけではないらしい。
 独特な悪臭を懐かしく思いながら個室に入ると、消臭剤のような香りが鼻をくすぐった。

 ここで飯を食うのかと考えると少し気が引ける。
 みさきに会う前なら気にしなかったのだが……店を出たら消臭しねぇとな。

 それにしても、どうしてこうなった。
 忘年会では少し結婚を意識してみようと考えたけれど、いきなり合コンとは驚きだ。
 まあ、飯を食うだけになるだろうが……。

 さておき個室内は座敷で、机の下に穴が空いているタイプだった。
 此方の人数を伝えたからか、朱音達も四人で来たようだ。工場で見た時には派手な外見をした女ばかりだったような気がするけれど、どうやら大人しい見た目をした奴が集まったらしい。

 男女で分かれて座ると、直後に誰かが手を叩いた。

「では皆さん集まったんで、とりま自己紹介とか?」

 朱音の隣に座っていた茶髪が元気に言った。
 するとロリコンが「うぇぇぇぇい!」と、見ていて悲しくなるテンションで叫ぶ。

「いいね兄さん! んじゃまず言い出しっぺのあたしから!」

 茶髪は身軽な動きで立ち上がって、

「あねさ、朱音さんのとこで働かせてもらってます。しーちゃんって呼んでください! 最近あたしの中で来てるのはネジ締めで、いやもう意味分かんないって思うかも知んないっすけど、ネジの締め方ひとつで物の出来が変わるっていうか、そこに感動しちゃって――」

 ネジについて意気揚々と語った茶髪のしーちゃん。

「ネジ締めぇぇぇぇぇ!」

 と叫んだロリコン。
 俺は合コンに参加するのは初めてだが……テンションおかしいだろ。小学生でもここまでイカねぇぞ。

「よし! 次は僕が――」

 こうしてテンションの高い二人による自己紹介が終わった後、残る六人の常識的な挨拶が終わった。

 キャッピキャピな合成音声を用いて会話している拓人の自己紹介はどうなるのかと思っていたが、今日は男の声を用意していたようだ。普通に声を出せよ。

 ともあれ、過半数のメンバーが普通で良かった。
 それは良いのだが……朱音が目を合わせてくれないのが気になる。

「あっれぇ〜? 朱音さん、もしかして体調悪いんすか?」

 相変わらずのハイテンションで茶髪が言った。


(……マジでやるのか?)
(もちっすよ。姉さんの為の合コンなんすから)


 何やら話しているようだが、声は聞こえない。

「朱音、調子が悪いなら無理しないでくれ」

 さておき、マジで体調が悪そうだから声をかけた。
 頬とか赤くなってるし、熱があるのかもしれない。

「そっすよ朱音さん! あーでもフラフラの女の子を一人で帰すのはなぁ……どうしよっかなぁ……」

 すげぇ大袈裟な口調で俺を見ながら言う茶髪。

「送っていこうか?」
「いいっすね! 朱音さんっ、そうしましょうよ!」

 要求に応えると、茶髪はキンキンする声で言った。
 流石に朱音も鬱陶しいと思ったのか、細い目で茶髪を睨んでいる。

 ところで俺の隣に並ぶバカ三人からも鋭い視線を感じるが、いや、きっと気のせいだ。

「朱音、どうする?」

 問いかけると、朱音は茶髪から俺に目を移した。
 それから少し俯いて、小さな声で言う。

「……頼む」
「分かった」

 俺は立ち上がって、

「というわけだ。まだ何もしてないが、先に帰る」
「気にするな天童龍誠。ほんと、気にするな」

 ロリコンの作り笑顔がとても乾いているように見えるのは、きっと気のせいではない。

「体調不良なんだ、仕方ないだろ」
「べっつに何も言ってないから。抜け駆けとか思ってないから」
「そんなこと思ってたのか……まあいい、またな」

 軽く手を振って、朱音に目を向ける。
 ちょうど彼女も立ち上がったところだった。

「自分で歩けるか?」
「……当たり前だろ」


(姉さんっ! そこは違うっすよ!)
(……うっさい、静かにしてろ)


「なに話してるんだ?」
「べつにっ、挨拶しただけ」
「そうか」

 朱音の様子が少しおかしい。
 思ったよりも体調が悪いのかもしれない。

「行こうか」
「……おう」

 こうして、俺にとって初めての合コンが終わった。
 正直ネジの話しか思い出せないが、まあバカ三人に無理矢理引っ張られただけだし悔いはない。


 *


 店を出てから、俺達は真っ直ぐ駅に向かった。

「悪いな、急にあんな電話して」
「……ほんと、ビックリしたし」
「すまん、なんか断れない空気だった。というか、よく引き受けてくれたな」
「……べつに、気にすんな」

 やはり体調が悪いのか口調が弱々しい。
 無理に声をかけない方が良さそうだ。

 そう判断して、朱音のゆっくりとした歩調に合わせて駅を目指す。
 こうして朱音と二人で歩くのは五月に仕事で再会して以来だったか……。

 あの時と同じで会話は無いけれど、あの時と違って妙な緊張感は無い。
 朱音の体調的な意味での緊張は別として……。

 果たして無言のまま歩き続けていると、モールに着いた。
 あとはここを真っ直ぐ歩けば駅に着く。

 ほんの一週間前にはツリーやイルミネーションでクリスマス仕様だったモールだが、今日は見事に何も残っていない。みさきと見た思い出が失われたようで少し寂しい気持ちになるが……また来年だな。

「……龍誠?」

 いかん、思わず立ち止まってしまった。
 今は朱音を送るのが最優先だ。

「なんでもない。行こうか」
「……」

 再び歩き始めようと声を掛ける。
 しかし朱音は俯いて、そのまま動かない。

「どうした? ……まさか、悪化したのか?」
「いや、体調は、大丈夫、平気」
「カタコトじゃねぇか。無理すんな」
「してない、ほんと」
「なんなら近くの店で休むか?」
「ほんとっ、大丈夫だから」

 朱音は少し強い口調で提案を拒んだ。
 ……ちょっと過保護だったか。

「わるい、しつこかった」
「こっちこそっ、心配してくれてんのに……ごめん」

 謝ると、朱音は少し慌てた様子で言った。

 ……なんか、変だ。

 朱音とは昔みたいに話が出来るようになったと思っていた。実際、俺の中では昔と同じように接しているつもりだ。だけど、やはり離れていた時間が長かったせいか、距離感が掴めない。

 まだ無意識に遠慮してしまっているのか、それとも別の理由か……。

「……やっぱり、ちょっと休まないか?」

 なんとなく流れで立ち止まっていると、朱音が小さな声で言った。
 直前に提案を断っているせいか、目線はバツが悪そうにそっぽを向いていて、なんだか拗ねた子供のようである。こういうところを見ると昔と変わっていないように感じるのだが……やはり、何かが違う。

 さておき、返事だ。

「分かった。どこで休もうか」
「……何か、食べたい」
「食べられるのか?」
「……少しなら」

 食事か。そういえば食べる前に店を出たんだったな、忘れてた。
 となると……ちょうど目の前にファミレスがある。

「そこでいいか?」
「……おう」


 こうして俺達はファミレスに入った。


 時刻は六時を半分ほど過ぎたところ。
 半端な時間だからか、それとも運が良かったのか、待つことなく席に座れた。

 店内はほぼ満席で、案内された席は四人用のテーブル。
 座席は柔らかいベンチシートで、そこそこ座り心地が良い。これなら、最悪の場合は店員に事情を話して朱音を横にするのも有りかもしれない……ありなのか?

 さておき俺達は向き合って座った。

「俺はもう決めてる。ゆっくり選んでくれ」

 テーブルの隅に立っていたメニュを取って朱音に手渡す。
 朱音は軽く頷いて、メニュを受け取った。

「……」
「いろいろあって迷うよな」
「……そうだな」

 やっぱり様子が変だ。
 体調のせいもあるだろうけど、それだけじゃないような気がする。

「龍誠は、何を頼むんだ?」
「俺はチーズハンバーグ定食ってやつ。この前みさきと食った時に美味かったんだよ」
「……みさき」

 なんだその態度、みさきに恨みでもあるのか……って、ああそうだ思い出した。みさきと会った時は不機嫌だったから、なんか思い出しちまったのかもしれない。

 だがここは、みさきには罪が無いということを印象付けておこう。

「朱音、みさきに罪は無い」

 ダメだ反応が薄い。
 こういう場合は何を言えばいいんだ? とりあえずみさきの魅力を伝えればいいのか?
 いや、それだと店が閉店するまでに話が終わらねぇ……ちくしょうっ、どうすれば!

「なんで頭抱えてるんだ?」
「ちょっと待ってくれ、今みさきの魅力を一時間以内に話せるように考えてるところだ」

 まずは起承転結を決めよう。
 始まりはどうする?
 やはりみさきとの出会いからか……いや、それでは尺が足りない。

「あのさっ」
「どうした?」

 朱音は少し強張った表情で、

「その、みさきって子のこと……ちゃんと話してくれよ。全部、ちゃんと」
「……そうか。そうだよな」

 俺はどうかしていた。
 みさきのことを話そうってのに、中途半端な説明なんて有り得ない。

「みさきは、俺の前に現れた天使だった。現れた……? 違うな、意味合いとしては堕天と言った方が近いのか……」
「龍誠ストップ、ぜんぜん分からん」
「すまない、上手い表現が見つからなかった。とりあえず、みさきはそういう存在なんだと思ってくれればいい」

 なんだかあまり伝わっていない感じの表情だな。
 みさきは間違いなく天使だろ。それどころか神にも匹敵する存在だ。

「なあ龍誠、怪しい宗教か何かにハマっちまったのか?」
「みさきは怪しくねぇし宗教でもねぇ!」
「……怒るなよ、悪かったって」

 思わず机を叩いちまった。
 俺、ちょっとやばくねぇか? これじゃまるで……。

「悪い、みさきは宗教だったかもしれない」
「ほんと、大丈夫か? 悩み相談なら、結構得意だぞ」

 いかん、本気で心配されている。
 これも全てみさきの魅力が高すぎるせいか……まったく末恐ろしい娘だぜ。

「なんで誇らしそうな顔? ……ほんと、大丈夫か?」
「問題ない、むしろ幸せだ」

 喋る度に朱音の表情が暗くなっているように思えるのは、きっと気のせいではない。

「さて、朱音が知りたいのは俺とみさきの関係でいいのか?」
「……うん、そう」

 正直に言うと、朱音が聞きたいことは最初から正しく理解していた。
 だけど話していいものかどうか悩んでいた。

 話すのならどこまで話すのか、話さないのならどうやってごまかすのか。
 そんなことを考えているうちに頭が追いつかなくなって、思わずふざけてしまった。
 二割くらいは本気だったけど。

「みさきは……」

 結論から言えば、みさきは捨て子だ。
 これは変えることの出来ない事実で、みさきとの関係を正しく伝えるのなら避けることの出来ない内容だ。だけど、それを口にすることに抵抗がある。

 理由を説明するのは難しい。
 言いたくないから言いたくない、そんな風にしか表現出来ない。

 実際、俺の知り合いで事実を知っているのは結衣だけだ。
 本当のことは小日向さんにすら話していない。

「そんなに話しにくいのか?」
「……まあ、それなりに」
「そうか」

 朱音は深く追求することなく口を閉じた。
 納得していなそうな表情を見るに、気を遣ってくれたのだろう。

 会話が途切れる。
 周囲は変わらず賑やかだから、まるでこの机だけ違う世界に飛ばされてしまったかのような気分だった。

 俺も朱音も、次の言葉を探していた。
 やがて朱音が俺に向かって手を伸ばす。

 体感では十分。
 実時間では一分ほど経っていただろうか。

「ふたつ、答えてくれ」

 二本だけ指を立てて言った。
 俺は頷いた。

「みさきって子、今は何歳なんだ?」
「六歳だ。もう少しで七歳になる」

 朱音は軽く息を吸って、

「その子と初めて会ったのは、いつ?」
「二年前だ」

 即答した後で、なるほどと思った。

 結果論になるけれど、俺が口にしたくなかったのは、みさきが捨て子であるということだ。それに対して、朱音が聞きたかったのは俺とみさきの関係だ。

 今の質問は偶然にも二人の要求を満たしていたのだ。

「……そっか」

 朱音は直前までの緊張がスッと抜けたように息を吐いて、背もたれに体重を預けた。
 彼女は俺の返答を聞いて何を考えたのだろうか。

 訳有り、ということだけは間違いなく伝わったと思う。
 客観的に考えて余計に疑問が増えると思うのだが、朱音はいくらか納得したらしい。

「もういいのか?」
「うん、満足」

 そう言って、朱音は微笑んだ。
 俺は少しの間だけ言葉を失って、やがて朱音と同じように脱力した。

「おまえ、大人っぽくなったな」
「なに言ってんだよ。昔から龍誠のお姉さん的な立場だっただろ?」
「ふざけんな。俺はずっと学校に行けクソガキって思ってたよ」
「龍誠だって高校行ってないじゃん」
「俺はいいんだよ。義務教育終わってたから」
「なにそれ。なんか屁理屈」

 軽口を言い合って、同時に吹き出した。
 小さく肩を揺らしながら、懐かしいと感じた。

「さて、そろそろ飯を頼もうか。朱音は何にする?」
「待って、まだ決めてない……けど、いいや。龍誠と同じやつで」
「了解」

 ボタンを押して、忙しそうにやってきた店員にチーズハンバーグ定食を二つと伝えた。
 それから頼んだ品が届くのを待つ間、朱音と話をした。

「龍誠、背が伸びたよな」
「朱音はあまり変わってないな。むしろ縮んだか?」
「うそ、縮んでる? 最近はちゃんと飯くってるぞ」
「最近って、前はどうだったんだよ」

 久々に会った友人と話すというのは、こういうものなのだろうか。
 初めての経験だけれど、とても楽しいと思えた。

 なら……いや、あいつと会うことは無いだろうな。

「龍誠? どうかしたのか?」
「いや、ちょっと小学生の頃を思い出してた」

 小学生の頃。
 思い出せるのは、ただひたすらに勉強させられた時間と、妙に元気な女に絡まれたことだけ。

 思えば、あいつに出会わなければ今の俺は無かったわけだ。
 公立の中学校に通うこともなかったし、みさきと出会うことも無かった。

 朱音と再会したのだから、あいつとも何処かで会うことになるかもしれない。
 もう十年以上前の出来事だから、すっかり忘れられている可能性もあるけれど……あいつも覚えていたらどうしようか。

「小学校か。小学生の龍誠って、ちょっと想像できないな」
「だろうな」

 ともあれ、もしも再会することになったら、きっとこんな風に話をするのだろう。

「龍誠ってどんな小学校に通ってたんだ?」
「どんなっていうと難しいな。なんか、金かかってそうなとこ」
「なにその小学生っぽい感想」
「そりゃ小学生の時の印象しか残ってないからな……」

 朱音は興味津々といった目をして、

「なんて名前の学校だったんだ?」
「なんだっけ……天ノ雅あまのみや小学校とか、そんな感じだった気がする」
「なんか難しい漢字使ってそうな学校だな」
「なにその小学生っぽい感想」

 すかさず直前に言われた言葉を言い返すと、朱音は不機嫌そうな表情を見せた。
 それが可笑しくて、俺は笑った。

 そういえば朱音の体調はスッカリ回復したらしい。
 無理をしているのかも知れないが、店に入る前とは見違えるようだった。

 そう思った直後、頼んだ品を持った店員が現れた。

「お待たせしました」

 そう言って品を机に置く店員。
 その後ろを誰かが駆け抜けた。

 顔は見えなかったけれど、あのスーツ姿には見覚えがあるような……まあ、気のせいか。

「おー、うまそうだな」

 朱音の声を聞いて、机に目を戻す。

「そうだろそうだろ。みさきを満足させた飯だからな。見た目も味も完璧だ」
「出た、みさき」
「なんだその言い方。みさきに何か恨みでもあんのか」
「……べつに?」

 拗ねたガキみたいな態度を見せる朱音。
 俺は少しムッとして、忙しなく口を動かした。

 何を言ったのかは、ほとんど覚えていない。
 他にも覚えていないことは沢山ある。

 それは当然のことで、人の頭は出来事の全てを事細かに記憶出来るようには出来ていない。

 だから重要なことだけを覚えておけばいい。朱音と話した時間が楽しかったということだけを覚えておけば良い。

 家に帰って日記を書いている時も、思い出すのは感覚的なことだけだった。

 ただ、後になって思い出す。
 もうひとつ、覚えておかなければならないことがあったのだと――






 深夜。
 コン、コン、とドアを叩く音がした。

 反応は無くて、ゆいは静かにドアを開けた。もう寝ているかなと思っていたけれど、部屋には小さな灯りがついていて、結衣は大きな本を読んでいた。

「ママ?」

 ゆいが声を出すと、結衣は読んでいた本をパタンと閉じて、ゆいの方を見た。
 その様子は少し不自然だったけれど、ゆいは寝ぼけていたから特に気にしなかった。

「ママ、トイレ……」

 深夜に目が覚めたゆい。
 一人でトイレに行くのが怖かったから、クマのぬいぐるみを抱いて、隣にある結衣の部屋に訪れた。

 少し前までは一緒に寝ていたけれど、小学生になったのをきっかけに、ゆいは自分の部屋を与えられて、一人で寝るようになった。

「はい、分かりました」

 結衣は本を枕元に置いて、ゆっくりとベッドから降りた。

「……てん、ノ……」

 眠そうな声で、ゆいは呟いた。
 それは直前まで結衣が読んでいた本に書かれていた文字だ。

 結衣は、

「あれは、天ノ雅と読みます」
「……むずかしい」

 また眠そうに言ったゆい。
 結衣は半分くらい寝ている娘の姿が可愛くて仕方がない。

 そう思った。
 だからいつものように微笑んだ。

 だけど自分が今どんな顔をしているのか、結衣には分からなかった。
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