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第2章 王の帰還
レイの策略
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旅団は今、ティザーン共和国とディナーレ公国との国境付近にいる。
眼前の巨大な森林を北へ抜けると、すぐに東西へ伸びる街道に至る。
その街道を右へ曲がり、北東へ数マイル進むと二股口があり、それを右に進めば翌日の夕方にはディナーレ公国の主要都市ベルフォードに到達することができるであろう。
「ちなみに、二股口の左は観光名所への道だ」
とレイはどうでもよいことを付け加えた。
左の道の先は行き止まりの断崖絶壁である。
古来、幾多の戦いにおいて、捕虜となることを拒んだ敗残兵が身投げした場所として名高く、今は『絶望の岬』という名の観光地になっている。
などと、余計な補足をしたが、反応は極めて薄かった。
ともかく、ディナーレ公国の城塞都市内に入ってしまえば、ひとまず安心である。なぜなら、ディナーレ公国は優れた警察組織を運営し、観光の目玉が「治安の良さ」と揶揄されるほど、安全な国なのだ。ただし、それは城塞の中だけの話ではあるが。
ディナーレ公国を無事に横断できれば、その後は狭い海峡を越えて、晴れて目的地のガルム王国に至る。
「と、いうわけです。ベルフォードに到着できれば、もう野営の必要はありません。毎日快適な宿で寝泊りができます。宿泊費の心配はご無用です。すべてティンブル家が負担してくださる、と思いますので」
とレイが説明すると、わずかな笑い声と小さな歓声が興った。
「だが、諸君。安心するのはまだ早い」
レイはこの数日の偵察状況を報告し、何者かがこちらの動向を監視しているフシがある、と告げた。つまり、内通者の存在を公開の場で示唆したのである。
「たとえば、君たちの隣の者が、内通者なのかもしれないよ」
そこでまた笑いが起こる。
いや、本来、笑っている場合ではないはずだが。
しかし、これまでさほど役にも立っていなかった、むしろ目の上のたんこぶだった指揮官二人が消えたところで、何も困りはしない。ゆえに鈍いのである。
奥の方で「質問!」と手が上がった。シュトゥークだ。彼は現状をよく理解している。
「内通者を抱えたまま、明日にも出発するのですか?」
「そうだよ」
「それは、いささか危険なのでは?」
「危険ではない。しっかり対策を取りさえすればね」
今さら内通者を探ったところで意味はない。時間も手間も惜しい。
「敵さんの狙いが何なのかまだわからないのだが、どうやら暗殺ではないようだ。ただし暗殺が目的の可能性も皆無ではないから、殺されそうな人物には護衛をつけておく。だったら、内通者を自由にしておいても生命の危険はないだろう」
「護衛が内通者だったらおしまいだ!」
と誰かが野次った。
「そのとおりだ。そのときは命令した僕を叱ってくれ。まあ、その時は後の祭りだけどね」
とレイが返すとまた笑いが起こった。
ライアル伍長が挙手し、
「ですが、情報が洩れます。それは何とかしないと」
と指摘した。
「情報なんてくれやればいい。そもそもこれを見てみなさい」
そう言って地図の上を棒で刺した。
「敵の実行部隊がこのあたりに潜んでいるとするだろう? ここへ至る道は、この森を抜ける一本しかない。他に獣道が数本あるが、いずれも馬が走られるような道ではない。つまり、用意ドンならば、相手に情報が届くころには我々も森の外に到達している、てわけだよ。森の外に出た時、北方に怪しげな集団がいればそれは敵だ。我々は街道を左へ進み、南の迂回路を通って逃走する」
皆、ポカーンとしている。
「あの、用意ドンのところがよく分かりません」
とライアル伍長。
「そうだね。分かりやすく言うとしよう」
レイは、おほん、とわざとらしい咳ばらいをした。
「我々は今から一時間後に出発する」
と宣言した。皆、ただキョトンとしている。
レイはいたずらっ子のような、何とも不敵な笑みを浮かべた。
「さあ、内通者よ、立ち上がれ! そして早く知らせにゆきなさい! 我々が森を抜け出すのが早いか、出口が塞がれるのが早いか、さあ競争だ!」
皆がざわついた。
一時間後に出発する、などと、誰も聞いていない。
「あの、今のは冗談ですよね。その、一時間後というのは…」
とライアル伍長。
「残念ながら決定事項だよ」
とレイは楽しげである。
「リリア・ティンブル隊長の了承も得ている。みんなにはこの後すぐに準備に移ってもらうつもりだからね」
「一時間でテントをばらして荷物を準備するのはいくら何でも無理ですよ」
とライアル伍長。
「テントは全部置いていく。その他の資材も全部だ。馬車はできるだけ軽くしてください。食料については、三日分を袋に詰めてあるから、各自それを必ず持ってゆくように。他に何を持ってゆくかは各自にお任せしますが、携帯できないものはダメですからね。とにかく一時間後に出発しますから、よろしく!」
場が騒然としてきた。もう出発の準備のことで頭が一杯になっている。
「静かに!」
とリリアが一喝した。
「まだ会議中です」
「…」
と場が静まったところで、ライアル伍長が再び手を挙げた。
「あの、話を戻しますが、どちらが早い、遅いの問題ではないのでは? こちらが早く出口に到達し得たとしても、敵がどこまでも追ってきたらどうするんです?」
「いい質問だ。あたかも仕組まれたかのような」
また、少し笑いが起こる。
「諸君、まさにここが作戦最大の要です。敵が現れたら、万事休ス、てやつです。全力で逃げます。私とザルツーグ中尉とで敵をできるだけ牽制しますので、その間に、街道の左方向へ進路を取り、南の迂回路を通ってティザーン共和国の首都へ舞い戻ります。同時に今回の帰還は断念します」
また騒然とする。
「敵が何十人もいたらどうするんです? いくら何でも二人だけでは防ぎきれないのでは? 私も加えてください」
とライアル伍長。
「心配はご無用です。毎日の偵察がてら罠を仕込んでおいたからね。君たちは逃走に専念してください」
とレイ。
「最後にもう一点。敵が現れる確率は高いのですか? 」
とライアル伍長。
「五分五分です。しかし見張り役と内通者がいるのは確かですから、こうして最大限の警戒をしておくわけです」
「大変よくわかりました。ご説明ありがとうございました」
「こちらこそ。伍長殿、任務ご苦労でした」
レイの話にはところどころ嘘が紛れている。中でも敵の発生確率は大きな嘘であった。しかし、下手に恐怖心を与えるのは得策ではないと判断した。
各自の表情を眺めると、動揺している者はおらず、ほとんどの者が荷造りの段取りを話し合っているようだ。作戦の趣旨はおおむね伝わったのであろう。
ところで、大半の者が橋が焼かれたことも知らず、フィッカー少佐の計略も、シャリルの容態も、ケイネス軍曹がレイを襲ったことも知らない。
リリアが拉致されたことだけは周知されているが、無事に保護された後に広まった話であり、恐怖心が醸成されるような事態には至っていない。
つまり、敵の襲撃を本気で畏れている者は、この中のほんのわずかであろう。
「森を出て、右へ行ければ明日のベッドを確保できる。左へ行く羽目になれば明日は野宿だ。あとは天、ではなく、敵さんにお任せです。他に質問がなければ解散とします」
皆、がやがやと話しながら、次々を席を離れ始めた。
すると、
「異議あり!」
と手を上げる者がいた。
意外にも、それは皇太子殿下であった。みな驚き、注目した。
「何だね、この会議は?」
昨日は温厚であった殿下が怒りを露わにしている。
「茶番もいいところだ。いくら何でも乱暴すぎる。私は軍事のことに明るくはないが、存在しているかどうかも分からない敵を過大評価しすぎなのではないかね。それにだね、ここまではるばるやってきておきながら、帰還は断念する、などと軽々に言ってもらっては困る、当事者の気持ちをまったく慮っていない」
興奮気味でもある。その矛先が変わる。
「ザルツーグ中尉、あなたは軍の経験が豊富なのだろう? 貴殿の目からみて、この作戦をどう思うかね。この者たちに気兼ねすることなく存念を申してみよ」
指名を受けたトニー・フォン・ザルツーグ中尉は、貴族らしい仕草で、恭しく辞儀をした。
「おそれながら殿下に申し上げます。レイ・カヅラキ殿は極めて優れた作戦を立案されております。現有のリソースにおける最大限の効果を発揮しうる内容と認識しております」
「…」
それでも皇太子はまだ怯まなかった。
「貴殿がそう言われるのであれば、その件は良しといたそう。だが、荷物を全部置いてゆくなんてできない。とんでもない価値があるものもあるのだ。せめて大事なものを吟味する時間を頂けまいか? せめて半日、いや三時間でもよい」
レイは微笑みながら首を横に振った。
「恐れながら、許可できません」
レイは、ちらりとリリアを見てから、言葉を続けた。
「なぜなら我々全員の生命がかかっております。ゆえに最大一時間です。大事な物があれば後からこちらで回収に参りますのでご安心ください。盗人の心配もないでしょう。いくら何でも、こんなところに宝物が放置されているなんて誰も思わないでしょうから」
「し、しかし…」
皇太子は二の句が継げず、しぶしぶ腰を下ろした。
その皇太子を、リリアが厳しいまなざしで凝視している。
人影が獣道を走る。服装から察するにティンブル家の私兵の一人であろう。
その行く手に突然二人の男が立ちはだかった。
クランジ軍曹、ケイネス軍曹であった。
「スパイ野郎め。ケイネス、こいつを縛るぞ、後ろへ回り込め」
「おう!」
ケイネスが男の背後に回り、両腕を抑えにかかる。
「触るな! この裏切り者め!」
「…」
クランジが男を抑えつけ、
「裏切り者はお前も同じだろうが!」
そう叫んだ。
「レイは捕まえるだけでいい、拷問はするな、と言ったがな、あとでマシーナの拷問をじっくり
味合わせてやる。楽しみにしてな」
捕縛が完了するとクランジは近くの岩の上に立ち、布を付けただけの旗を振った。
その情報がリリアの許へ届くのに五分もかからなかった。
「そろそろ時間だ。ケイネス、次へ行くぞ」
「ああ」
二人は捕虜を引っ張りながら山道を降りた。
定刻のだいぶ前、ほとんどの者がまだ出発の準備に追われている。
レイは、シュトゥークと共に、一足早く、斥候に出ようとしていた。
リリアは、馬に乗ろうとするレイを引き留めて、胸を合わせた。
「無理はしないでね。お願いだから…」
「ありがとう。君こそ何があっても冷静に。そうすれば何があっても大丈夫だ」
「うん」
二人はなかなか離れようとしない。
オットーとライアル伍長は、気が気でない。
だが、背後がざわつこうが関係ない。まだくっついている。
「銃声の合図、覚えてるよね。二発は警戒せよ、三発は?」
「全力で逃げろ」
「正解だ。さて、もう行くよ」
レイはリリアの体を引き離すと、鮮やかな身のこなしで鞍上に収まった。
画家志望の風来坊だった男が、いつの間にか戦士の風貌に変わっている。
どちらが本当の彼なのか、リリアには未だ判別がつかない。
「本当に二人だけで大丈夫なの?」
「大丈夫さ。べつに戦争するわけじゃない。大人の大真面目は鬼ごっこなんだからね」
レイが合図を送ると、シュトゥークが頷く。
馬は機嫌よさそうに嘶き、テンポ良く歩き始めた。
やがて二人の影は森の中へと消えた。
リリアはその後もしばらく森から目をそらすことができないでいた。
トニー・フォン・ザルツーグ中尉は、皆が出発の準備にかかりっきりとなっている中、所在なさげに歩いていた。
やがてセシリアが妹たちと荷物を片付けているところへ出くわした。
「あら、中尉さん」
「何なら、手伝うぜ」
「大丈夫、もう済んだから」
見ると、さほど大きくもない袋が一つあるだけだ。
「随分と質素な王女様ですな」
「あら、我が一族は、大陸で一二を争う貧乏な王家なのよ。ご存じなかったかしら?」
一陣の風が砂埃を巻き上げた。二人は同時に目をつむった。
「むこうの木陰へ行きましょうか」
「ああ、そうだな」
二人は木陰の下に座った。
「あの時はすまなかった。怖い思いをさせた。それを謝りたいと思っていたんだ」
「許してあげますわ」
「そうか。寛大な王女様でよかった」
セシリアは空を見上げた。
「レイが言っていたの。軍人は命令されれば従うしかないものだ、て。レイだって、あなたと同じ立場であれば、ソフィアを奪おうとしただろうし、邪魔する者が現れたら銃を放っただろう、て。だから、中尉さんを許してやってほしい。そう言われたのよ」
「そうか。やっぱ、あいつはカッコいいな」
「ウフフ。そうね。べつにカッコつけてないんだけど、カッコいいのよね」
「あいつのこと、好きなのかい?」
「分からない。いいえ、きっと好きなのよね。でも、私は高嶺の花をおいかけない主義なの」
「そうか。それはよかった。ところで、俺は滅法低いところに咲いているんだが」
「ウフフフ。でも、あまり低いところだと、踏みつけたことに気づかないかも」
ほどなくして、集合の号令が聞こえた。
トニーは先に立ち上がり、セシリアの手を取り、引っ張り上げた。
「俺は君たち姉妹の近くの護衛を任されている。何かあったら遠慮なく声をかけてくれ」
「はい。そうさせて頂きますわ」
定刻となった。
リリアは時間ぴったりに出発を命じた。
ライアル伍長が先導し、総勢四十名弱の旅団は、最後の難所へ向けて進み始めた。
空は高く、一陣の風が森の木々を騒がせる。春の嵐の頃のことであった。
眼前の巨大な森林を北へ抜けると、すぐに東西へ伸びる街道に至る。
その街道を右へ曲がり、北東へ数マイル進むと二股口があり、それを右に進めば翌日の夕方にはディナーレ公国の主要都市ベルフォードに到達することができるであろう。
「ちなみに、二股口の左は観光名所への道だ」
とレイはどうでもよいことを付け加えた。
左の道の先は行き止まりの断崖絶壁である。
古来、幾多の戦いにおいて、捕虜となることを拒んだ敗残兵が身投げした場所として名高く、今は『絶望の岬』という名の観光地になっている。
などと、余計な補足をしたが、反応は極めて薄かった。
ともかく、ディナーレ公国の城塞都市内に入ってしまえば、ひとまず安心である。なぜなら、ディナーレ公国は優れた警察組織を運営し、観光の目玉が「治安の良さ」と揶揄されるほど、安全な国なのだ。ただし、それは城塞の中だけの話ではあるが。
ディナーレ公国を無事に横断できれば、その後は狭い海峡を越えて、晴れて目的地のガルム王国に至る。
「と、いうわけです。ベルフォードに到着できれば、もう野営の必要はありません。毎日快適な宿で寝泊りができます。宿泊費の心配はご無用です。すべてティンブル家が負担してくださる、と思いますので」
とレイが説明すると、わずかな笑い声と小さな歓声が興った。
「だが、諸君。安心するのはまだ早い」
レイはこの数日の偵察状況を報告し、何者かがこちらの動向を監視しているフシがある、と告げた。つまり、内通者の存在を公開の場で示唆したのである。
「たとえば、君たちの隣の者が、内通者なのかもしれないよ」
そこでまた笑いが起こる。
いや、本来、笑っている場合ではないはずだが。
しかし、これまでさほど役にも立っていなかった、むしろ目の上のたんこぶだった指揮官二人が消えたところで、何も困りはしない。ゆえに鈍いのである。
奥の方で「質問!」と手が上がった。シュトゥークだ。彼は現状をよく理解している。
「内通者を抱えたまま、明日にも出発するのですか?」
「そうだよ」
「それは、いささか危険なのでは?」
「危険ではない。しっかり対策を取りさえすればね」
今さら内通者を探ったところで意味はない。時間も手間も惜しい。
「敵さんの狙いが何なのかまだわからないのだが、どうやら暗殺ではないようだ。ただし暗殺が目的の可能性も皆無ではないから、殺されそうな人物には護衛をつけておく。だったら、内通者を自由にしておいても生命の危険はないだろう」
「護衛が内通者だったらおしまいだ!」
と誰かが野次った。
「そのとおりだ。そのときは命令した僕を叱ってくれ。まあ、その時は後の祭りだけどね」
とレイが返すとまた笑いが起こった。
ライアル伍長が挙手し、
「ですが、情報が洩れます。それは何とかしないと」
と指摘した。
「情報なんてくれやればいい。そもそもこれを見てみなさい」
そう言って地図の上を棒で刺した。
「敵の実行部隊がこのあたりに潜んでいるとするだろう? ここへ至る道は、この森を抜ける一本しかない。他に獣道が数本あるが、いずれも馬が走られるような道ではない。つまり、用意ドンならば、相手に情報が届くころには我々も森の外に到達している、てわけだよ。森の外に出た時、北方に怪しげな集団がいればそれは敵だ。我々は街道を左へ進み、南の迂回路を通って逃走する」
皆、ポカーンとしている。
「あの、用意ドンのところがよく分かりません」
とライアル伍長。
「そうだね。分かりやすく言うとしよう」
レイは、おほん、とわざとらしい咳ばらいをした。
「我々は今から一時間後に出発する」
と宣言した。皆、ただキョトンとしている。
レイはいたずらっ子のような、何とも不敵な笑みを浮かべた。
「さあ、内通者よ、立ち上がれ! そして早く知らせにゆきなさい! 我々が森を抜け出すのが早いか、出口が塞がれるのが早いか、さあ競争だ!」
皆がざわついた。
一時間後に出発する、などと、誰も聞いていない。
「あの、今のは冗談ですよね。その、一時間後というのは…」
とライアル伍長。
「残念ながら決定事項だよ」
とレイは楽しげである。
「リリア・ティンブル隊長の了承も得ている。みんなにはこの後すぐに準備に移ってもらうつもりだからね」
「一時間でテントをばらして荷物を準備するのはいくら何でも無理ですよ」
とライアル伍長。
「テントは全部置いていく。その他の資材も全部だ。馬車はできるだけ軽くしてください。食料については、三日分を袋に詰めてあるから、各自それを必ず持ってゆくように。他に何を持ってゆくかは各自にお任せしますが、携帯できないものはダメですからね。とにかく一時間後に出発しますから、よろしく!」
場が騒然としてきた。もう出発の準備のことで頭が一杯になっている。
「静かに!」
とリリアが一喝した。
「まだ会議中です」
「…」
と場が静まったところで、ライアル伍長が再び手を挙げた。
「あの、話を戻しますが、どちらが早い、遅いの問題ではないのでは? こちらが早く出口に到達し得たとしても、敵がどこまでも追ってきたらどうするんです?」
「いい質問だ。あたかも仕組まれたかのような」
また、少し笑いが起こる。
「諸君、まさにここが作戦最大の要です。敵が現れたら、万事休ス、てやつです。全力で逃げます。私とザルツーグ中尉とで敵をできるだけ牽制しますので、その間に、街道の左方向へ進路を取り、南の迂回路を通ってティザーン共和国の首都へ舞い戻ります。同時に今回の帰還は断念します」
また騒然とする。
「敵が何十人もいたらどうするんです? いくら何でも二人だけでは防ぎきれないのでは? 私も加えてください」
とライアル伍長。
「心配はご無用です。毎日の偵察がてら罠を仕込んでおいたからね。君たちは逃走に専念してください」
とレイ。
「最後にもう一点。敵が現れる確率は高いのですか? 」
とライアル伍長。
「五分五分です。しかし見張り役と内通者がいるのは確かですから、こうして最大限の警戒をしておくわけです」
「大変よくわかりました。ご説明ありがとうございました」
「こちらこそ。伍長殿、任務ご苦労でした」
レイの話にはところどころ嘘が紛れている。中でも敵の発生確率は大きな嘘であった。しかし、下手に恐怖心を与えるのは得策ではないと判断した。
各自の表情を眺めると、動揺している者はおらず、ほとんどの者が荷造りの段取りを話し合っているようだ。作戦の趣旨はおおむね伝わったのであろう。
ところで、大半の者が橋が焼かれたことも知らず、フィッカー少佐の計略も、シャリルの容態も、ケイネス軍曹がレイを襲ったことも知らない。
リリアが拉致されたことだけは周知されているが、無事に保護された後に広まった話であり、恐怖心が醸成されるような事態には至っていない。
つまり、敵の襲撃を本気で畏れている者は、この中のほんのわずかであろう。
「森を出て、右へ行ければ明日のベッドを確保できる。左へ行く羽目になれば明日は野宿だ。あとは天、ではなく、敵さんにお任せです。他に質問がなければ解散とします」
皆、がやがやと話しながら、次々を席を離れ始めた。
すると、
「異議あり!」
と手を上げる者がいた。
意外にも、それは皇太子殿下であった。みな驚き、注目した。
「何だね、この会議は?」
昨日は温厚であった殿下が怒りを露わにしている。
「茶番もいいところだ。いくら何でも乱暴すぎる。私は軍事のことに明るくはないが、存在しているかどうかも分からない敵を過大評価しすぎなのではないかね。それにだね、ここまではるばるやってきておきながら、帰還は断念する、などと軽々に言ってもらっては困る、当事者の気持ちをまったく慮っていない」
興奮気味でもある。その矛先が変わる。
「ザルツーグ中尉、あなたは軍の経験が豊富なのだろう? 貴殿の目からみて、この作戦をどう思うかね。この者たちに気兼ねすることなく存念を申してみよ」
指名を受けたトニー・フォン・ザルツーグ中尉は、貴族らしい仕草で、恭しく辞儀をした。
「おそれながら殿下に申し上げます。レイ・カヅラキ殿は極めて優れた作戦を立案されております。現有のリソースにおける最大限の効果を発揮しうる内容と認識しております」
「…」
それでも皇太子はまだ怯まなかった。
「貴殿がそう言われるのであれば、その件は良しといたそう。だが、荷物を全部置いてゆくなんてできない。とんでもない価値があるものもあるのだ。せめて大事なものを吟味する時間を頂けまいか? せめて半日、いや三時間でもよい」
レイは微笑みながら首を横に振った。
「恐れながら、許可できません」
レイは、ちらりとリリアを見てから、言葉を続けた。
「なぜなら我々全員の生命がかかっております。ゆえに最大一時間です。大事な物があれば後からこちらで回収に参りますのでご安心ください。盗人の心配もないでしょう。いくら何でも、こんなところに宝物が放置されているなんて誰も思わないでしょうから」
「し、しかし…」
皇太子は二の句が継げず、しぶしぶ腰を下ろした。
その皇太子を、リリアが厳しいまなざしで凝視している。
人影が獣道を走る。服装から察するにティンブル家の私兵の一人であろう。
その行く手に突然二人の男が立ちはだかった。
クランジ軍曹、ケイネス軍曹であった。
「スパイ野郎め。ケイネス、こいつを縛るぞ、後ろへ回り込め」
「おう!」
ケイネスが男の背後に回り、両腕を抑えにかかる。
「触るな! この裏切り者め!」
「…」
クランジが男を抑えつけ、
「裏切り者はお前も同じだろうが!」
そう叫んだ。
「レイは捕まえるだけでいい、拷問はするな、と言ったがな、あとでマシーナの拷問をじっくり
味合わせてやる。楽しみにしてな」
捕縛が完了するとクランジは近くの岩の上に立ち、布を付けただけの旗を振った。
その情報がリリアの許へ届くのに五分もかからなかった。
「そろそろ時間だ。ケイネス、次へ行くぞ」
「ああ」
二人は捕虜を引っ張りながら山道を降りた。
定刻のだいぶ前、ほとんどの者がまだ出発の準備に追われている。
レイは、シュトゥークと共に、一足早く、斥候に出ようとしていた。
リリアは、馬に乗ろうとするレイを引き留めて、胸を合わせた。
「無理はしないでね。お願いだから…」
「ありがとう。君こそ何があっても冷静に。そうすれば何があっても大丈夫だ」
「うん」
二人はなかなか離れようとしない。
オットーとライアル伍長は、気が気でない。
だが、背後がざわつこうが関係ない。まだくっついている。
「銃声の合図、覚えてるよね。二発は警戒せよ、三発は?」
「全力で逃げろ」
「正解だ。さて、もう行くよ」
レイはリリアの体を引き離すと、鮮やかな身のこなしで鞍上に収まった。
画家志望の風来坊だった男が、いつの間にか戦士の風貌に変わっている。
どちらが本当の彼なのか、リリアには未だ判別がつかない。
「本当に二人だけで大丈夫なの?」
「大丈夫さ。べつに戦争するわけじゃない。大人の大真面目は鬼ごっこなんだからね」
レイが合図を送ると、シュトゥークが頷く。
馬は機嫌よさそうに嘶き、テンポ良く歩き始めた。
やがて二人の影は森の中へと消えた。
リリアはその後もしばらく森から目をそらすことができないでいた。
トニー・フォン・ザルツーグ中尉は、皆が出発の準備にかかりっきりとなっている中、所在なさげに歩いていた。
やがてセシリアが妹たちと荷物を片付けているところへ出くわした。
「あら、中尉さん」
「何なら、手伝うぜ」
「大丈夫、もう済んだから」
見ると、さほど大きくもない袋が一つあるだけだ。
「随分と質素な王女様ですな」
「あら、我が一族は、大陸で一二を争う貧乏な王家なのよ。ご存じなかったかしら?」
一陣の風が砂埃を巻き上げた。二人は同時に目をつむった。
「むこうの木陰へ行きましょうか」
「ああ、そうだな」
二人は木陰の下に座った。
「あの時はすまなかった。怖い思いをさせた。それを謝りたいと思っていたんだ」
「許してあげますわ」
「そうか。寛大な王女様でよかった」
セシリアは空を見上げた。
「レイが言っていたの。軍人は命令されれば従うしかないものだ、て。レイだって、あなたと同じ立場であれば、ソフィアを奪おうとしただろうし、邪魔する者が現れたら銃を放っただろう、て。だから、中尉さんを許してやってほしい。そう言われたのよ」
「そうか。やっぱ、あいつはカッコいいな」
「ウフフ。そうね。べつにカッコつけてないんだけど、カッコいいのよね」
「あいつのこと、好きなのかい?」
「分からない。いいえ、きっと好きなのよね。でも、私は高嶺の花をおいかけない主義なの」
「そうか。それはよかった。ところで、俺は滅法低いところに咲いているんだが」
「ウフフフ。でも、あまり低いところだと、踏みつけたことに気づかないかも」
ほどなくして、集合の号令が聞こえた。
トニーは先に立ち上がり、セシリアの手を取り、引っ張り上げた。
「俺は君たち姉妹の近くの護衛を任されている。何かあったら遠慮なく声をかけてくれ」
「はい。そうさせて頂きますわ」
定刻となった。
リリアは時間ぴったりに出発を命じた。
ライアル伍長が先導し、総勢四十名弱の旅団は、最後の難所へ向けて進み始めた。
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