最後の大陸

斎藤直

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第1章 さまよえる狼

さまよえる狼

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 市街から北へ数里。
 黒い軍服に身を包み腰に剣を帯びた女性が、青鹿毛あおかげ駿馬しゅんめの背にまたがり、ゆっくりと歩を進めている。フードを被っているため、はたからその表情をうかがうことはできない。
 辺りには牧草地が広がり、あちこちに羊の群れが認められる。羊たちのモコモコとした毛皮がとても暖かそうで、少しうらやましく思った。
 真冬とは言え、自由都市サキアスは温暖な地域にあり、冬の寒さはさほど厳しくはなく、雪が降ることもほとんどない。
 大きな農場の広大な土地の一角に別宅があり、その煙突から煙が上がっている。
 馬から降り、入口へと向かう。
 扉を開ける前に、深呼吸をして気分を落ち着かせようとする。
「よし」
 小さく気合を入れて、いざ中へ入ってみると、暖炉に火が入り、とても暖かい。
「レイ?」
 返事はない。
 フードを外すと、艶やかな長い黒髪が現れた。上着をハンガーへかけ、工房へ向う。
「レイ?」
 やはり返事はない。工房の中を見渡すが、誰の姿もない。ただ、雑然とした中に、キャンバスだけが光って見えた。そこには精緻な風景画が描かれている。
「…」
 のことは分からないが、なかなかのモノであることだけは分かった。遠方にサキアスの市街を望み、港町で働く人々に焦点を当てた作品である。繁栄する街と、活気がみなぎる人々。希望に満ちた画だ。
 引き寄せられるように、しばらくその画から目を離すことができなかった。
 室内は静まり返ったままである。
「レイはどこへ行ったのかしら?」
 
 どこからか、馬のいななききが聞こえる。
 その方向へ近づいてゆくにつれて、子供らしき声も聞こえ始めた。丘の上に上がると、その向こうに、一人の大人と三人の子供らしき人影がある。どうやら、子供たちに乗馬を教えている最中らしい。
「あ、蕃人ばんじんの女が来る!」
 誰かがそう叫んだ。
「蕃人に女なんていないんだぞ!」
「ほら、あれを見ろよ!」
「あ、本当だ! 蕃人の女だ!」
 ちょうど馬に乗っていたアレフも、それが気になってそわそわし始めた。
「こらっ。馬に乗っているときは集中していないと危険だぞ」
「でもさ、僕も蕃人の女を見たい!」
「わかったよ。ほら、気をつけて降りなさいな」
 アレフは馬から降りると他の子供たちを追いかけて行った。
「やれやれだな」
 レイは馬の手綱を握り直しながら、振り向いた。丘の方から近づいてくる人影は、確かにアズマ人の、黒髪の女であった。
 女は、子供たちの好奇の眼差しを物ともせず、堂々とこちらへと歩いてきた。
「誰かと思えば、君だったとはね」
 リリアであった。
「久しぶりね」
 リリアは気恥ずかしさを何とか隠そうとしていた。
「ど、どうかしら?」
「何が?」
「もう! 私の髪のことよ!」
 このところ、リリアは持ち前の明るさを取り戻している。旅の準備で何かと忙しくしているせいであろう。自然体の彼女を見るだけで安心する。
「べつに…。普通に戻っただけじゃないか?」
「もう、いい! 話があるわ! アトリエへ行くわよ! 」
「了解」
 リリアに引きずられながら、アレフたちへ手を振って別れを告げた。

 レイは、紅茶をれると、ソファへ腰を降ろした。
「それにしても、子供たちは『蕃人』てのが、どういう意味だか、全く知らないんだから、怖いものだよ」
「蕃人に女はいない、とも誰かが言ってたわね。なんて失礼な。あ、この紅茶おいしい!」
 レイは素知らぬ顔であるが、紅茶の味を褒められて、まんざらでもない気分である。
は完成したのかしら?」
「そうだね。あんなもんでしょ」
「ふーん。それで、あの画はどうするの?展覧会に出すのかしら?」
「まさか。そんなことのために描いたんじゃないよ」
「?」
 展覧会へ出すこと、がレイにとっては『そんなこと』程度のことなのだったとは。
「友人への贈り物だよ」
「へー。そうなんだ」
 リリアはふと思った。
「だったら、私にも何かちょうだい」
「わかった」
「ほんと! うれしい!」
 レイは、近くに落ちていた羊皮紙を拾って画版に掛け、アシの茎から造ったペンにインクを付けて、さらさらと何かを描き始めた。作業は十分も経ずして終わった。
「できた」
「え? もう? 見せてみなさい!」
 リリアは興味津々で画版を受け取った。
「素敵!」
 それは今の彼女の姿を写した画であった。
 レイは自分のことをあまり見てくれない、と思っていたが、しっかりと頭の中に刻んでいてくれたのだ。そう思うとうれしかった。
「まさか、ただの落書きにそれほど喜んでくれるなんて。君は案外安上がりなんだね」
「ほ、ほっといてよ!」
 そう言いつつもリリアはご満悦であった。
「そうそう、出発は三日後の早朝よ。分かってるわよね?」
「分かってますよ」
「それで、いつこっちへ来るわけ?」
「明日、アレフたちがお別れパーティをやってくれるっていうから、明後日の朝に帰るよ」
 
 数時間後、リリアは再び青鹿毛の馬に跨った。その時、一陣の風が、彼女の美しい黒髪をなびかせた。
 レイは、それが画になる、と胸の中で思った。
「ね、一つだけ、訊いていいかしら?」
「何なりと」
「どうして任務を引き受ける気になったの?本当の理由を知りたいの」
「ちょっと言いにくいんだよね」
 するとリリアはいたずらっぽい表情をした。
「やっぱり、色仕掛けが効いたのかしら?」
「それは断じて無い、と言いたいところだけどね。まあ、その後、いろいろ僕なりに考えるところがあってね」
 リリアは微笑んでいる。
「何たって、あの無能な指揮官では心もとないんで。皇太子殿下のことが、たいそうお気の毒だなあ、て思っただけさ」

 レイの長かった冬は、ようやく終わろうとしている。
 目覚めた狼の行く先は、遥かなる荒野である。

                         第一章 さまよえる狼  完 
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