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第十六章【ハルの想い出】

第七十九節 幼い少年

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 “喰神くいがみの烙印”を伝承する隠れ里を取り囲むように、鬱蒼うっそうと樹木の生い茂る広大な森。昼間でも日の光が然程さほど射し込まず、薄暗い陰鬱な雰囲気を漂わせる。通称、迷いの森――。

 その森には、“喰神くいがみの烙印”の呪いに所縁ゆかりのある者――、“喰神くいがみの烙印”を継承した者、もしくはその加護を受けた“眷属”だけが伝承の隠れ里に辿り着くことのできる結界が張られており、部外者の侵入をかたくなに拒む力が働いていた。


 深い森の中に一人――、幼い少年が何かを探すように、辺りをキョロキョロと見やりながら歩む。

蝶々ちょうちょ……、見失っちゃったなあ……」

 少年は、誰に言うでもなく独り言ちる。

 この幼い少年の歳の頃は、五歳か六歳ほどであろう。
 赤茶色の髪に同じ色の瞳を持つ、まだ背も低く年端もいかない少年だった。

「ちぇ。せっかく捕まえて、父さんと母さんに見せようと思ったのに」

 少年は唇を尖らせて、不服げにして言う。

 “喰神くいがみの烙印”を伝承する隠れ里。そこが少年の暮らしている場所であった。
 隠れ里で遊んでいる最中、少年は珍しい模様を持つ蝶々ちょうちょが飛んでいることに気が付き、その蝶々ちょうちょを捕まえようと夢中になって追いかけ――、隠れ里の外にある迷いの森の中に入り込んでしまっていた。

 余程、夢中になって蝶々ちょうちょを追いかけていたのだろう。
 少年は――、迷いの森のかなり奥深くまで、たった一人で入り込んできてしまっていたのである。

「しょうがないや。家に帰ろう」

 仕方なさげに溜息を吐き出し、少年は自身の家に帰ろうと思い立ち、きびすを返す。

「あれ……?」

 そこで少年は、あることにフッと気付き、きびすを返して帰路につこうとした足を止める。

 気が付いた事態に少年は――、不安の色を窺わせる顔色を見せ、辺りを見渡していた。

「うえ……、ここ。どこ……」

 辺りは一面、日の光が辛うじて射し込むだけの、薄暗く樹木の生い茂る森の中――。
 少年は、漸く自分自身が気付かぬ内に、迷いの森の深い場所まで入り込んでしまっていることを理解したのだった。

「うわ、どうしよう。あれだけ森の中に入るなって、父さんたちに言われていたのに……」

 少年は――、自身の父親や母親、隠れ里の者たちに、決して迷いの森に足を踏み入れることのないように厳しく言い含められていた。
 それを破り、迷いの森に足を踏み入れてしまったことに、不安の様相をていしたまま、少年は狼狽うろたえてしてしまう。

 迷いの森の様子を少年は見回す。
 すると――、そこに一輪の白い花が咲いているのが、少年の目に映った。

「あ……、これ。蛍花……」

 少年の目にした白い花は――、蛍花だった。
 まだ日が射し込む時間帯なため、蛍花は淡い光を発してはいなかったが、少年はその花が蛍花だということを知っていた。

 蛍花を目にして、少年は一つの出来事を思い出す。

「――そういえば、父さんが蛍花に沿って歩いて行けば、里に帰れるって言っていたっけ……」

 それは、少年が自身の両親と共に里の外へ出て迷いの森を歩き、森の外にある街へと里の必需品の買い付けに赴いた際、父親が少年に話をしてくれた内容であった。
 その時は帰りが夜遅くになり、蛍花が淡い光を放ち――、少年たち親子を、あたかも“喰神くいがみの烙印”を伝承する隠れ里へと案内するように点々と咲いていた。

 そんな光景を目にした少年は、蛍花が光を放っていることを不思議に思い、自身の父親に蛍花のことを聞いていたのだった。

「この花の咲いている方に歩いて行けば……、家に帰れるよね……」

 少年は不安げに、点々と咲く蛍花を見ながら呟きを零した。

 だが、この幼い少年は知らなかった。
 “喰神くいがみの烙印”を伝承する隠れ里へと至る、陰鬱な雰囲気を醸し出す迷いの森には結界が張られており――、如何いかに蛍花の導きがあろうとも、まだ“眷属の儀”を受けずに“眷属”となっていない自身が、隠れ里に帰りつけることがないということに――。

 少年はそのようなことは微塵も認知せずに、蛍花の咲いている方向へ従って歩みを進めていった。


   ◇◇◇


(うう……、何だかさっきから同じようなところ、ぐるぐる回っている気がする……)

 どのくらいの時間を歩き回っただろうか。幼い少年は――、樹木の生い茂る深い森の中で、同じ場所を何度も通っているような錯覚に陥っていた。
 蛍花を目印にして歩みを進めていたものの、少年は一向に自身の家が存在する、“喰神くいがみの烙印”を伝承する隠れ里に辿り着けないことに疑念を持ち始める。

 ――もしかしたら、もう……、家に帰れないんじゃ……。

 思い至った不安感から、少年は目をしばたたかせ、それでもなお歩みを進めていく。

 少年が心許なさげに歩みを進めていた時だった――。
 森の一角でガサッ――と茂みの草木を鳴らし、何かが動く音が少年の耳に入った。

「え……っ?」

 唐突に耳にした音に少年は大きく肩を揺らし、反応を示す。

 そうして、恐る恐ると音のした方に少年が目を向けると――、茂みの中から数匹の狼のような姿をした魔物が唸り声を上げながら姿を現したのだった。

「ま……、魔物……っ?!」

 狼のような姿をした魔物を見とめた瞬間に、少年は青ざめた顔色を浮かべた。
 まさか、このようなところで魔物に出くわすなどと、全く考えも及んでいなかった少年は――、おののきから後退あとずさる。

「ウオオオオォォン――ッ!!」

 森を彷徨さまよい歩いていた少年という“獲物”を見つけた狼のような魔物――、欲深い狼ディプスハウンドの一匹が天を仰ぎながら鳴き声を上げる。
 欲深い狼ディプスハウンドの鳴き声は、まるで周りにいる仲間に獲物がいたことを教えるような遠吠えだった。

「――やば……っ!!」

 その遠吠えの声に、おののき一歩ずつ後退こうたいする様子を見せていた少年は、咄嗟にきびすを返して駆け出した。

「ガルルルルッ!!」

 背中を見せ逃げ出した少年を――、欲深い狼ディプスハウンドたちは逃すまいと、唸り声を上げながら追いかけていくのだった。


「はあ、はあ……っ!!」

 幼い少年は、その小さな手足を懸命に動かし、息を切らせながら、後ろを気にしてひたすら走っていた――。
 少年の後ろには――、欲深い狼ディプスハウンドたちが、彼を追いかけ迫って来ている。

「ううう……っ、追って来ないでくれよお……っ!!」

 どれだけ走って逃げても――、自身を獲物として追いかけてくる欲深い狼ディプスハウンドたちに、少年は涙声で訴える。
 だがしかし、その少年の言葉が欲深い狼ディプスハウンドたちに通じるはずもなく、欲深い狼ディプスハウンドの少年を追う足は止まらない。

 欲深い狼ディプスハウンドは、獲物に対しての執着心が強いのが特徴の魔物であり――、一度獲物に狙いを定めると、その獲物を確実に仕留めるまで集団で執拗に追い詰める習性を持つ。
 その習性故に、『欲深い狼ディプスハウンド』――という名称で呼ばれる魔物であった。

「うわ――っ!!」

 必死になって走っていた少年であったが、後ろを気にしすぎていたために――、森の樹木の根に足を取られてしまう。そして、大きな声を上げ、少年はその場に転がるように倒れ込んでしまった。

 しまった――と思い、倒れ込んだ少年が、地面に手を付いて頭を上げた時。
 倒れた少年の目の前に、先ほどの遠吠えで呼ばれ、この場に駆け付けたのであろう新たな欲深い狼ディプスハウンドが、低い唸り声と共に姿を現したのだった。

「ひ……っ!!」

 自身の目の前に現れた欲深い狼ディプスハウンドを認めた少年は、恐怖で小さく悲鳴を零す。

 ――囲まれちゃった……っ?!

 自身の周りを取り囲む欲深い狼ディプスハウンドたちを見回し――、少年は赤茶色の瞳に涙をいっぱいに浮かべ、恐慌きょうこうの思いを抱く。

 恐れおののいた少年は腰を抜かしてしまい、既にその場から動けなくなってしまっていた。

「ガウ――ッ!!」

 それを機と見た欲深い狼ディプスハウンドの一匹が短く声を上げ、動けなくなった少年に飛び掛かっていった。

 飛び掛かって来た欲深い狼ディプスハウンドに、少年は対抗することもできず――、自身の頭を両手で抱え込むように身を小さくさせ、目を固くつぶり覚悟を決めてしまった状態を見せる。

 その瞬間だった――。

「ギャワンッ!!」

 不意に欲深い狼ディプスハウンドの痛みを訴える、苦悶の悲鳴が上がった。

 その欲深い狼ディプスハウンドの悲鳴に驚き、少年がこうべを下げていた頭を軽く上げて視線を向けると――、少年に今にも飛び掛かろうとしていた欲深い狼ディプスハウンドが、地面に転がり悶絶している様が目に入ってきた。

「え……?」

 あまりにも突然の出来事に少年は、呆気に取られた声を漏らしてしまう。

 少年が目にした、痛みから地面をのたうち回る欲深い狼ディプスハウンドの腹部には、短剣が一本――、深々と突き刺さっていた。

「はあああ――っ!!」

 唖然としていた少年の耳に、力強さを感じさせる女性の声が聞こえた。
 それと同時に、鈍い音が迷いの森の中に響き渡り、欲深い狼ディプスハウンドのくぐもった声が少年の耳に届く。

 驚きから少年が伏せていた頭を勢い良く上げると――。そこには、その幼い少年を庇うようにして、亜麻色の長い髪をなびかせた翡翠色の瞳を持つ女性が一人、立っていた――。
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