ドラゴネット興隆記

椎井瑛弥

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第一章:領主一年目

マーロー男爵

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 翌日、朝食を取っていると宿の前に馬車が止まった。迎えが来たのだろう。少し待つと一人の若者が店に入ってきて俺に向かって頭を下げた。俺が言うのも違う気がするが、まだ若そうな男だ。御者席に座っていたようだが、御者という感じはしないので従僕フットマンだろうか。

 うちもそうだが、小さな家なら多くの使用人を雇うような余裕はなく、少ない使用人の一人一人がどんな仕事でもするようになる。エクディン準男爵領の場合、家令と家政婦長、そして小姓の合計三人だけだった。まずあり得ないだろうと言ってもいいいびつな構成なのは父の意地だ。

「ノルト男爵様ですね?」
「そうだ。ではよろしく頼む」
「はっ」
「親父さん、もう一泊するからまた部屋を頼む」
「ありがとうございます」

 彼の案内で馬車に乗り込むと、しばらくして馬車が動き出した。

 領主邸は宿から馬車で五分程度、この町の中心よりもやや奥のようだ。白い壁のこざっぱりとした屋敷が見えてきた。屋敷を見れば住人の性格が分かるというものだ。派手好きな主人の家が地味であるはずがないし、地味な主人の家が派手であるはずもない。

 屋敷の庭に到着すると、そこからは年配の執事に応接室まで案内された。そこにいたのはやや長めの黒い髪をした落ち着いた男性で、魔法使いに多い外見だ。年は三〇前後だろうか。

「初めまして、マーロー男爵。この度ノルト男爵となりましたエルマー・アーレントです」
「ノルト男爵、こちらこそ初めまして。領主のデニス・ゲントナーです。お互いに名前で呼び合いましょうか」

 デニス殿は聞いていた通り物腰の柔らかな話し方をする人で、俺のような軍人とは全く違う。今でも若いと思うが、もっと若かった頃はさぞ熱を上げた女性が多かっただろう。

「いや、驚きました。先週王太子殿下から手紙が届きまして、それで大まかには理解たつもりでしたが……その本人がここにいて、これは本当の話なのだなとようやく実感が湧いた感じですね」
「分かります。普通はそうでしょう」
「しかしエクディン準男爵もノルト男爵も、私もそうですが、嫌われていますね」
「デニス殿もですか?」
「正確には私ではなく私の父です。でもまあ、大公が失脚したと聞いて父の無念も少しは晴れたでしょう」

 デニス殿はそう言うと目を細めた。この人も俺と同じか。優秀な魔法使いなら中央で仕事があるはずだ。そうでないのはうちと同じなんだろう。詳しく聞けるはずもないが、お父上の代に上と合わなかったのはよく分かる。

「細かなところはデニス殿と相談するようにと丸投げされました。とりあえず領地の境界をどうするかだけでも決めなければと思いまして」
「境界ですか?」
「はい。マーロー男爵領の北を全部としか言われていませんので」
「……なるほど。エルマー殿は北の山は見ましたか?」
「ええ、なかなか立派な山ですね」
「上の方は木がありません。うちは林業が盛んで、木こりたちが山によく入りますが、木のあるところまでしか入りません。それにあまり上まで伐採に行く者も多くはありません。領地は稜線のこちらと向こうでどうでしょう。稜線付近、文字通り一番上の木が生えていないあたりは、どちらのものでもないか、あるいは双方で共有するか、その程度でいいのではないでしょうか」
「私もそれで問題ありません」

 あまり上まで行かないということは、行くこともあるわけだ。それなら山の向こうの土地ことを知っているかもしれないと考えた。

「ところでデニス殿、山の向こうはどうなっているかはご存じですか?」

 行くことは決まっているが、事前に情報があるのとないのとでは全く違う。

「直接見たのはもうかなり前ですが、おそらく大きな変化はないでしょうね。さすがに山の上から見ただけですが……」

 デニス殿は昔のことを思い出すかのように、自分の手元を見ながら話し始めた。

「領地としては広いですね。おそらくどこの貴族領よりも広いのではないでしょうか。森も川もありました。ただ川はかなり蛇行していた記憶がありますので、安全な農地にできるかどうかは分かりません。もしできるとすれば広大な穀倉地帯になるでしょう。」
「でも手前にあの山があるということですね?」
「そうですね。往来が非常に難しい。そこさえ何とかできればいいのですが。でも山が低ければ魔獣がこちらに来ますので。高い山があって助かったのかもしれません」
「そうか、魔獣もいましたね」

 たしかに魔獣が下りてくるなら木こりたちにはとっては仕事どころではないだろう。魔獣も獣の一種だ。さすがにあの山を越えるのはそう簡単ではないのだろう。

「魔獣はそこの山にもいるのですか?」
「少なくともこちら側にはいないと思いますよ。このエクセンの子供たちの間では、数日かけて山の上まで行き、遠くにいる竜を見るのが度胸試しになっています。子供が山で魔獣を見たという話は聞きません」
「それはなかなかの度胸試しですね。デニス殿は実際に竜を見たことは?」
「私も飛んでいるところを見たことがあります。あのときは背筋が凍るような思いがしました。かなり遠くにいるはずなのにあの大きさ。馬を何十頭連ねればあんな大きさになるのか分かりません」

 多少の魔獣は何とかできても、さすがに竜はな……。人が立ち向かってどうにかなる相手ではないだろうな。

「とりあえず、明日は山の向こうまで行ってみます。何をするにしても自分の目で見てからですね」
「では木こりたちにはエルマー殿が山に入ることは伝えておきます」
「ええ、お願いします。怪しまれるのも嫌ですので。大丈夫そうならしばらく調査のために向こうにいますので、すぐには戻らないかもしれません。調査が終われば、また報告に伺います」
「私は領地から出ることはほとんどありませんので、いつでも訪ねてきてください」
「では遠慮なく」

 デニス殿には手土産として、途中で買った花や菓子を渡した。奥方は花が好きなので喜んでくれるだろうということだった。

 今日のところは追加の食料や食器や鍋など、それに山の中を歩くための道具などを購入し、町の中を散策してから宿に戻った。

「親父さん、少し頼みがあるんだが」
「何でしょうか? 私にできることでしたら何なりと」
「明日からしばらく山に向かうから、馬を預かってもらえないか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「それともう一つ。余裕があるならこの鍋にスープを作ってもらいたい」
「作るのはできますが、二つも持って行けますか?」
「それは[収納]で異空間に入れるから大丈夫だ」
「分かりました。明日の朝には作っておきます。熱いままでいいですか?」
「ああ、そのままで大丈夫。よろしく頼む」

 今日の宿代と馬の世話代、それと鍋二つ分のスープ代としてはかなり多めの金額を払うと、一度部屋に戻った。
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