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25・意識と決意

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朝起きたら、波琉が部屋にいなかった。
そして、一階で賑やかな声がする。
波琉が早起きなんて珍しい。普段は起こしても起きなくて、目覚まし時計を壊すような寝汚い暴れん坊なのに。
洗面所で顔を洗って、着替えてリビングへ行けば、キッチンでは母と波琉が朝食を準備し、食卓には嵐と大河がニュースを見ながら話をしていた。
えっ、朝から大河がいるんだけど。
でも、この光景懐かしい。子どもの頃に戻ったみたいだ。
「おはよー。」
「おはよう、楽。波ちゃんが今モデルさんで流行りの朝ごはん作ってくれてるのよー。」
「まあ、流行りのシリアルに流行りの野菜ジュースみたいなのをかけただけ、だけどね。」
母のエプロンをつけた波琉がウィンクをする。
「ほら、座って!もう出来るから。今日は珍しくたーくんもいるし、朝から元気いっぱいにね!」
母が笑顔で楽しそうにしている。
嵐の隣に座ると、斜め前から視線を感じる。
「おはよう、楽。」
「お…はよう。」
波琉にフォローされたけど、気まずいものは気まずい。
意識するとは言ったけど、一体どうしろって…どうすればいいのよ。
テレビでニュースを見ながら、タブレットで色んな情報を確認していた大河は、画面を閉じてバッグにしまった。
「はい、ご飯よー!」
ご飯とお味噌汁、卵やウィンナー、サラダ、ヨーグルト、波琉のシリアル。今日は豪華。いつもはお皿もおかずも最小限、おにぎりとかで済ませるのに。
「いただきます。」
食べ始めれば、単純な私は気まずさなどどこかへ行ってしまい、だし巻き卵にうっとりするだけの有機物になった。
斜め向かいから笑い声が聞こえる。
「楽って、本当変わんないな。凛さんのだし巻き卵食べる時の顔が、子どもの時と一緒。」
「そうなのよねー!楽って、全部顔に出るから分かりやすくて助かるのよー!」
ご機嫌な母と大河が私を見て笑う。
「いいでしょ、美味しいんだから。」
「姉さんの美徳だよ。」
「嵐ー!!」
「私の作ったシリアルも食べなさいよ!」
「甘いから最後ね。」
「ちえっ!」
賑やかで、楽しい。
ずっとこうだったらいいのに。
でも、無理なんだよね。大河は私のことが……好きなんだ。

出勤の支度をして玄関で靴を履いていると、後ろから大河がやってきた。
少しだけ、ほんの少しだけ、体が強張る。
どうしたらいい。
「楽、送ってく。」
「は?」
「車出すから。」
「大河の仕事は?」
「あるよ。」
置いていたバッグを自分の荷物と一緒に持ち、隣で革靴を履いて玄関を出て行く。
「あっ、ちょっと!」
ドアを後ろ手で閉めて、人質にされたバッグの後を追う。
大河がさっさと車に乗ってしまうから、仕方なく助手席に乗り込む。
バッグはどうやら後部座席に置いたらしい。
車が発進して景色が流れて行く。
「大河、仕事は平気なの?」
「大丈夫、しばらくは外回りが多いから会社に出勤しない。」
「そう。」
話が続かない。普段、どんな話をしていただろうか。
無音が続く。
ぼんやりと窓の外を眺めていると、低くて小さな声が、ぼそりと言葉を発した。
「えっ?」
よく聞こえなくて大河を見れば、赤信号で止まって、こっちを見つめる双眸があった。
「もっと早くこうしてれば良かった。」
ギアに置かれていた手が、私の膝の上にある手を握る。
波琉より少し硬くて、でもふかふかで、重い手。
「俺のことで頭がいっぱいで、動揺してる楽が見られる。」
「なっ!何言ってんの!」
「ははっ、分かりやす。」
膝の上にあった手が、頬を包む。暖かくて懐かしい気がした。
「あっ!ほら!青だよ!信号!」
「はいはい。」
顔から手が離れてハンドルに戻る。少しだけ名残惜しいような…いやそんなことない。何言ってんの。
いくらモフモフが好きだからって、いい事と悪い事がある。
いや、大河が悪い事ってことじゃなくて!
ああもう!!
「はははっ!あー、やっぱ楽は良いな。10年以上も我慢してたのがバカみたいだ。こんなに好きなのに、何やってたんだろう。」
「なっ!えっ、ちょっ!」
いろんな感情が噴出して頭がパンクしそう。
大河は鋭い牙を剥き出しにして笑っている。
ダメだ、またフリーズしそう。
ずっとからかわれながら、車を走らせて会社に着いた。
助手席から降りて、バッグを後部座席から取る。
大河が窓から顔を出して、手を振った。
「明日も送るから。」
「えっ、いいよ。」
「やだ、送る。」
「はあ?」
「いってらっしゃい。」
「…いってきます。」
車が去ったのを見送って、出勤する。
そうだ、大河も言い出したら聞かないんだった。その辺りはさすが双子、波琉とそっくりなのだ。
恥ずかしくて、むずむずして、ちょっとだけドキドキした。
小さくため息を吐いて、エレベーターに乗ろうとした時、後ろから声を掛けられた。
「るーんちゃーん!おはよー!」
「猪上先輩、おはようございます。」
ちょっと嫌な予感がしたのは、間違ってなかった。
「ねえ、さっきの虎の男の人、誰?彼氏?」
「いや、幼馴染です。」
言うが早いか色めき立つ先輩の顔。
「やん、幼馴染と朝帰り?送ってもらっちゃう関係?」
エレベーターの中には他の部署の人もいるので、説明するのも憚られる。先輩に聞こえるだけの音量で答える。
「家族みたいなものです。たまたま出勤途中で降ろしてくれただけなので、何もありません。」
途端、不満そうな表情になる。
でも本当なのだ、私たちの間にはまだ何もない。
いや、まだって何だ。
「でもお、るんちゃんに気がありそうに見えたけどなあ。」
さすがゴシップ好きの観察力。間違っていない。
「先輩、降りる階ですよ。」
「んもう!るんちゃんのいけず!」
私以外の人が全員降り、一人で高層階へと向かう。
もう見慣れたフロアへ降り、カードキーを翳して専務室へ入る。中のドアを開ければ、自席のある大きくはない部屋、中央にあるソファが目に入る。
大河に少しドキドキさせられてしまったけど、今は落ち着いていた。
だって、私は付き合ってもいないのに、この部屋で愛撫されいかされて、ホテルでセックスまでして、昨夜は車の中で触られて絶頂してしまっているのだ。
それで大河に好きだと言われてドキドキしてるなんて、まるでビッチじゃないか。
そもそも、専務のことだって好きなのかも分からないのに。専務というよりは、あの羽毛が好きなのだけれど。
それに、専務には婚約者がいる。私には隠しているけれど、社長公認の婚約者だ。きっとそのうち発表されて入籍するのだろう。
秘書とこんな性的な関係になっているなんて、絶対に許されない。
婚約者から嫌がらせをされたらどうしよう、会社を辞めさせられるかもしれない。それは困る。私が稼がなければならないのに。
いくらあの羽毛が魅力的で、心地良くて、とても幸せな気持ちになれるからって、セフレや愛人になるのなんて、ごめんだ。
私は二度と、専務とそういうことはしない。
力強く頷くと、自席に着いて仕事を始めた。

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