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5・新しい仕事

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デスク前の応接用ソファーに座り、専務が長い足を組んでいる。
初めてきちんと目線が合う位置になり、顔が見えた。多分、鷹や鷲などの猛禽類だろう。
焦げ茶の羽毛に、鋭い目は金色、真っ黒な瞳孔が目立つ。嘴は先端が黒く、目と同じような配色だ。
よく見ると、スタイリッシュだけどふくふくとしていて、スーツの中に羽毛が詰まっているんだなと想像できる。
ああ、もふもふしたい。
いや、専務だから。そういうの無いから。
専務が話し出す。
「僕が現在担当をしているのは、衣服部門と美容部門です。今度、美容部門で新レーベルができるのはご存知ですよね。」
「はい。」
勿論、知らない訳ないよな?と言っているように聞こえる。
「それで、僕はこれからそのレーベルに掛り切りになるだろうから、取引先への連絡取次や資料作成、アポイント、手土産の準備なんかをしてもらうことになるので、よろしくお願いします。とりあえず、これやっとおいてもらうリストです。」
渡された用紙には、ギッシリと仕事内容が記載されていた。
うわぁ…急にこんなことできるだろうか。不安だ。
専務が部屋に常備してあるコーヒーメーカーから注いだカップを渡してきた。
お礼を言って受け取る。
「一つ一つは難しいものじゃないから、数をこなせば自ずと経験値も上がりますよ。大丈夫。」
湯気の立つコーヒーを口に含み、励まされているのだと気づいた。
なんだ、優しいところもあるんじゃないか、と思った直後。
「きちんと仕事をしてくれれば、報酬も差し上げます。貧困してらっしゃる渡辺さんにとって、悪い話じゃないでしょう。」
またその話を出す。
なんなんだ、こいつは。そりゃ、母親の体が弱いし、弟の学費もある。借家だけど、大家は波琉のお父さんだから破格の安さにしてもらってるし、贅沢をしなければ生きていける。お金は多くあることに越したことはないと思っているし、実際お金は裏切らない。
だけど、それは自分で思っていることであって、よく知りもしない他人に口を出されるのは気分が悪い。
経営陣だし社長の息子だし、お金持ちなんでしょうけど。だからってそんな風に言って良い訳がない。
同じ社長の息子なのに、大河とは大違いだ。
腹立つ。
でも、私は大人なので、きちんとした社会人なので、態度には出しません。仕事はきちんとします。
「分かりました。では早速、仕事をしますので、私はデスクに戻らせていただきます。」
コーヒーとリストを持って席を立つ。
毅然とした態度で、機嫌を外に出さぬよう、クールに去るのだ。
「そう、よろしく。僕はこれからセミナーに参加してくるから、帰社予定は夕方です。」
「分かりました。いってらっしゃいませ。」
パタンとドアを閉めて、自分のデスクに戻った。
隣では支度をしているのか、ガタガタと物音がしてから、ドアの閉まる音がした。
さて、私は初めての仕事を始めよう。

リストはとても優秀だった。
上から期限と優先順位で並んでおり、何をしなければならないのか一目で分かる。
また、細かい連絡先や諸注意、必要な情報が、支給されたパソコンのデスクトップに既に配置されていて、そこを確認するだけで良い。
こんなに前準備をされていると思わなかったから、驚いた。
この資料を作成するのに、私だったら1日がかりだ。いや、もっと時間がかかるかもしれない。
それを、専務の通常業務をこなしながら作成したのだったら、もっと時間がかかるはずだ。
私は、素直に感謝した。
あの猛禽、仕事できるんだな。そりゃ専務をしてるだけあるよな。
私は、リストの一番上から処理をし始めた。
誰もいない部屋、私だけしかいない部屋。集中する時は静かな方がいいから、好都合だ。
先方にご挨拶の電話をしたり、アポイントを取ったり、資料を作ったりしていると、あっという間に昼休憩になった。
弁当持参しているから、デスクで食べようと思うんだけれど…
いつもは猪上先輩や同じフロアの女性社員達と食べていたから、一人だと味気ないな。
でもわざわざあのフロアに戻ると、質問攻めに合うのは目に見えている。応えるのが面倒くさい。
そう考えて、結局デスクで昼食を済ませた。
勝手に専務室のコーヒーメーカーからコーヒーを頂戴し、ミルク多めに入れてぼんやりと食休み。

この部屋は、なんの部屋なんだろう。前回はローテーブルとローソファだけが置いてあった。
今は私のデスクとパソコンが増えている。
出入りは専務室のドアのみなので、お手洗いに行くにも、一旦専務室を通らないといけず、大変不便だ。
部屋には開かない大きい窓があり、ブラインドを上げれば街を一望できる。
あれかな、書庫用に作ったのかな。
広くはないし、出入りも不便だからそんなくらいしか用途が思い浮かばない。
なんてことを考えていたら、休憩時間が終わった。
午後の仕事に取り掛かる。

午後4時頃、専務室のドアが開く音がした。
専務が帰って来たようだ。
繋がるドアをノックして、許可をもらうと入室する。
「おかえりなさいませ。」
何に驚いたのか、首の羽毛がふわっと逆立った。
「あぁ、ただいま戻りました。」
専務はバッグをデスクに仕舞い、コーヒーを入れてソファに座った。
「渡辺さん、進捗はどんな感じ?」
報告しようと思っていたので、持ってきたリストを渡す。
完了したものにはチェックを入れておいた。
「…思ったより進んでますね。一つ急ぎを頼みたいんだけど、いいですか。」
物には寄るけど。
「なんでしょう。」
コーヒーをどんな風に飲むのだろうと伺っていたら、太めのストローを刺して吸い込んでいた。
そうだよね、そのカップに嘴は
突っ込めないもんね。
「明日、急にご挨拶に行くことになったから、手土産を用意して下さい。そうですね、菓子類がいいです。」
「金額や量はどの程度ですか。」
「一人当たり1000円しない程度で、30人分でお願いします。」
「かしこまりました。」
しかし、私は今持ち合わせが三万もない。買ってこれないぞ…でもこれを言い出すと、またバカにされるんじゃないだろうか。
何と言い出そうか考えあぐねいていると、目の前にスッと何かを差し出された。
「これ、会社の僕専用クレジットカードです。経費で落とせますから、これで支払いしてきてください。」
めちゃくちゃホッとした。
カードを受け取ると、上の方で嘴がカタカタ鳴った。
やっぱりバカにされてる気がする。
「あの、その嘴をカタカタさせるのって癖ですか。」
「え?あぁ、すみません。不快でしたか。」
不快だけど、そうとは言えない。
「いえ、昨日から頻繁にされていたから、気になっただけです。」
「そうですね、機嫌が良いとよくなります。」
やっぱり、私のことバカにして笑ってるのでは?!そういう時にしか鳴らないじゃん。
「はあ、そうでしたか。」
「聞きたいことは、それだけですか。」
本物の鳥のように首を傾げる。その動きが可愛くて、思わず可愛いねー!と撫でくりまわしたくなるけど、これは人だ。見た目が鳥の人だし、いけすかない上司で男性だ。
落ち着いていこう、私。
「はい。」
「では、明日は渡辺さんにも同行してもらいますので、そのつもりでお願いします。」
「えっ…はい。」
マジか…どこに行くんだろう。
服装どうしよう。
いや、まずは手土産の準備だ。
私は慌ててデスクに戻って、手土産のおすすめ検索をした。

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