彼女が死んだ夏

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彼女が死んだ夏

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「彼女を、あなたが殺したって、本当ですか?」 加賀真輔は端月の耳元へ口を寄せ小さな声で言った。
 彼のいきなり直球な確認に、端月仁義はビールジョッキを取り落としそうになった。
 まだ時間が早いせいか他に客はいない。カウンター席だけの、十三、四人も入ればいっぱいになる小さな居酒屋だった。
 カウンターの中では、年齢は端月とさして違わない五十歳前後くらいだろうか、着物の上に白い割烹着を付けたいでたちの、あか抜けた感じの女将さんと、もう一人は二十歳前後、白いデニムのシャツに薄いピンクの地に黒でパンダの絵が描かれたエプロンを付け、下はジーンズ。短くカットした栗毛がボーイッシュな感じを与える娘が下ごしらえだろう、てきぱきと動いていた。
「ずいぶんと刺激的な質問ですね」端月仁義は苦笑いを口端に浮かべて加賀真輔の顔を見やった。
「だって僕、實平局長から酒の席だったとはいえ、端月さんが若い頃、彼女を殺したと聞かされましたので」加賀はカウンターの中の二人を気にしつつ言った。内容が内容なだけに、自然、声は重く低くひそめられる。

☆ ☆ ☆
 端月仁義は昨年の夏まで東京の大手建設会社に勤めていたのだが、管理職対象の早期退職勧告、いわば体の良いリストラの対象者となった。だが捨てる神あれば拾う神ありで、取引先の役員に田舎の中小企業だが部長職で来ないかと誘われた。その会社は端月の出身地である徳島県にあり、業界ではそこそこ名の知れた会社だった。
 端月が妻に恐る恐る相談すると、妻は大乗り気で一も二もなく賛成だった。東京生まれで東京育ちの妻は前々から田舎暮らしに憧れていて、私の夢だった家庭菜園ができるね。あなたの実家の近くに畑付きの古い一戸建てを買いましょうよ、と嬉々として言った。
 端月夫妻には子供がいなかったので渡りに船とばかりにその話を受けた。いわば端月はUターン、東京生まれの彼の妻はIターンというわけだった。
 知人の紹介で畑付きの一戸建て購入の話が持ち上がり、都会に住んでいる持ち主との交渉はとんとん拍子で進み、個人同士の契約締結という事で不動産屋を通さず話は纏まった。   いざやと司法書士事務所を訪ねたのだが、そこに難問が待ち構えていた。
 司法書士の話では農地を農地として買うには三千㎡の面積が必要なのだという。農地法という法律があり、それ以下の面積では買うことができない。「市役所に農業委員会という部署がありますので、そこで詳しい話を聞くことをお勧めします」と、司法書士は気の毒そうな顔で言った。
 そして、妻と二人で農業委員会を訪ねたとき最初に応対したのが、今、端月の隣に座っている加賀真輔だったのだが、途中で一番奥の席に座った局長がやって来て、「端月君と違う? 私、高校の時、同級だった實平です」と笑ったのだ。
 端月はその言葉を受けて「……はあ?」と、曖昧な返事を返し相手の顔を見た。大急ぎで記憶のポケットの中に手を突っ込み、目当てのものを取り出そうとするのだが、指先には何も引っかかってこないのだ。この「實平」という比較的珍しい名には何かしら記憶があるようには思ったのだが、しかしどうしても實平局長の顔は高校時代とは繋がらなかった。
「久しぶりだから覚えてないかなあ、三十年以上前ですから無理もないか。端月君は大学入学以来ずっと東京だったしねえ」と、實平局長は残念そうに言い「汽車通学でも一緒でした、覚えていません? 私は端月君よりひと駅手前でしたけれど」と、實平局長は丸い顔に唇の端を吊り上げるような笑みを浮かべた。徳島県には電車が走っていないので、電車通学とは言わない。端月は實平にそう言われても思い出せなかった。その当時親しければ、この時点で記憶の糸口なり見つかる筈なのだが。
「そうそう、あのこと覚えていませんかねえ。三年生の夏休みに受験勉強の息抜きに一泊二日で剣山登山しましたよね」局長は言葉を切り、端月の顔を窺う。
 高校三年の夏休み。八人で剣山に行ったことは覚えていた。――と、いうか實平局長の言葉で遠い記憶が端月の脳裏に甦った。ただ、今一度、實平の顔を見返しても彼は当時と繋がらなかった。
 黙って端月の返答を待っていた實平局長はややあって、しびれを切らしたように口を開く。「これ言っていいのかなあ。この名を出せば絶対思い出すと思うのですが」と、言いながら端月の隣に座った妻の顔に視線を移す。
 言っていいのかなあと言っておいて、端月の妻に視線を置いたまま、頬には薄い笑みを浮かべ、なんの躊躇するでもなく女性の名前を大きな声で言う。「中倉涼子、覚えてない?」
「中倉涼子」――その名はすぐに端月の脳裏に浮かんだ。当時の中倉涼子の顔も甦る。甘さと苦さが混ざり合った遠い記憶が端月の胸に去来する。端月はそれらの思いを振り払い言葉を発する。
「ああ、確か……中倉さんと中学校の時から同級だった實平さん……?」
「中倉涼子」という名と實平が言った汽車通学の乗降駅。それらからの連想だった。だから、そうは言ったものの、未だに實平に対する記憶は端月の頭の中では薄霧がかかったように曖昧模糊としている。しかし、ここで昔話に花を咲かせるつもりもないし、高校時代の實平とのエピソードなど、まったく思い出せないのだから、二人で高校時代を懐かしむつもりもない。端月はそう考えて思い出した振りをした。今晩にでも当時の卒業アルバムを繰ってみるつもりだった。そうすればあやふやな實平に関する記憶もなんとか蘇えるかもしれないと思った。
 實平局長は端月の言葉にやっと納得し「彼は私の高校の同級生でね、この場は私が――。君さっきのあれやっといて」と、加賀真輔に言い、端月夫妻の前に立った。
 實平局長は端月が持参した購入予定地の住所、面積等を書いたメモを手に取る。奥の机に座った女性職員にメモの住所を読み上げ「図面出して」と指示する。図面を一目見て「端月君――やはり三条では無理だなあ」と、言う。實平が言った三条とは農地法第三条のことで、農地を農地のままで権利の移転をすることをいう。
「農地を農地として買えないということですよね。何か方法はないんですか?」端月の妻が聞く。
「奥さんですか?」端月と彼の妻の顔を半々に見て實平が言う。言わずもがなだろうと端月は思ったが黙って頷いた。實平局長は「綺麗な奥さんですね、端月君」と続ける。端月は、それはこの際関係ないだろう。世辞は要らんと思ったのだが、曖昧な笑いを實平に投げた。
「五条申請で地目変更、つまり宅地に変更して、現在の持ち主さんから端月君に権利移転するしかないでしょうね」と、實平は説明をした。農地法第五条の場合は権利の移動と農地を農地以外の、例えば宅地などに転用することをいう。
「その場合、県知事の許可が必要で、期間も一年以上かかると書士さんから聞いたのですが。それに許可が下りるかどうかも分からないって――」端月が不安な顔をする。
「大丈夫です」實平局長は先程、女性職員がプリントアウトした図面をちらっと見て「この地区なら農業委員会の許可で済みます。約一か月で許可が下ります」と、言った。
 それが昨年の暮れのことだった。ところが、その時の實平局長が言った言葉が全くのでたらめであることがわかったのだ。
 年が明け、端月が何回目かに農業委員会を訪れた時、加賀真輔は端月に耳打ちをしたのだった。「端月さん實平局長と高校の同級生だったのでしょう。高校時代に局長と何かありました?」加賀はいぶかし気な表情をした。
「高校時代はこれといった関わりは全くといっていいほど無かったのですが……。現に去年ここで会った時にもなかなか思い出せなかったくらいですから」端月は何のことか解らず加賀の顔を見た。
「ここだけの話ですけどね。僕、局長が端月さんの土地購入に関して故意に邪魔をしているとしか思えないのですよ。一カ月で許可が下りると言ったんでしょう。でもこの地区は農業振興地域の内の農用地区域といいましてね、先ず除外申請というものをしなくちゃあならない。これに一年以上かかります。あの時、局長は公図を見ましたよね。図面を見て間違えるはずはないんですが……」声を落として言った。
 加賀は實平局長が端月に間違ったことを教えたと知った時点で、局長を正したのだが、實平は「そんなこと言った覚えはない」の一点張りでその追及をのらりくらりと逃げてしまった。しかし加賀は實平局長が端月の土地購入に関して故意に邪魔をしているのではないかという疑念を拭い去ることはできなかった。でも、いったい何のためにと加賀は思った。
 そんなことがあって、加賀が「あること」を上司である農業委員会事務局長の實平から聞かされたのは今から一週間ほど前のことだった。彼としてはその「あること」が非常に気になっていて、今日、農業委員会を訪れた端月を「僕の隠れ家みたいな小さな店です。市役所の人間も来ませんし、お客さんは常連ばかりですし」と、半ば強引に誘ったのだった。
 そしてその「あること」とは、二人がこの店に入って加賀が開口一番で言った「端月さん、昔、彼女を殺したんですか?」という穏便ならざる質問だったのだ。
 加賀は一週間前を思い出して言う。「農業委員さんを慰労するという趣旨の飲み会がありましてね。終わってから職員だけで二次会をやったんです。職員といっても局長、僕、女性職員、それと外回りの嘱託」
 四人は實平局長行きつけの小さなスナックに入った。實平局長はかなり酔いが回っていた。途中で女性職員と嘱託の人が帰った。加賀真輔は實平局長に僕達もそろそろ帰りましょうと促した。實平局長は酔眼を加賀に向け、もう少し俺の話を聞いてくれと言った。「高校時代の俺の悲しい失恋話を聞いてくれてもいいだろう」實平局長は続けて「去年の暮れに奥さんと一緒に端月という男が来ただろう。彼は俺の高校の同級生なんだよ」と、言った。
 加賀真輔は農業委員会では一番の若手なので、来客の対応は彼の仕事の範疇だった。昨年の暮れに端月夫妻が初めて来た時に最初に相手をしたのが自分だったので、もちろん彼らのことは覚えていた。
「で、その局長の悲しい恋話(こいばな)って、端月さんに関係があるのですか」加賀は酔っ払いの法螺話だろうくらいの軽い気持ちで實平局長に話を促した。
「おおありなんだよ。あいつが――端月が俺の恋人を奪い、そして殺した!」
 ええっ! 殺した! 呂律は回っていなかったが、いくら酔っぱらいの話としても尋常ではない。殺した! 「どういうことなんです」加賀は驚いて尋ねた。
 しかし實平は、恋人を奪われただの、寝取られただのと呂律の回りかねる口で繰り返し、最後にあいつが殺した、恋人は端月に殺されたと付け加えるばかりだった。

 加賀真輔は生ビールを一口飲み、一週間前の實平局長との話を続ける。「あなたが彼女を殺したと、實平局長から聞いたその翌日、素面の局長に昨夜の件を聞きました。僕としては殺した云々という部分が非常に気になっていたものですから」
 しかし、實平は覚えていない。そんなことを言った覚えはない――の一点張りで、ごまかすようにその話から逃げたのだった。その後、加賀が折に触れこの話題を向けると、はなから相手にはせず、渋い顔を加賀に向け、最後には怒りだす始末だった。だから、加賀はこうなったら端月に聞くしかないと思ったのだ。ほおっておくこともできたのだが、加賀は真面目な性格であり『殺した』という日常ならぬ言葉が非常に気にかかっていたのだ。殺したという實平の言葉が心に引っ掛かり、局長から聞きだせないのならば、二人の高校時代のことを、どうしても端月の口から聞きたかった。そうすれば局長の端月に対する怪訝な行為も解明できるのではないかと思ったのだった。
「局長の覚えていないという言葉はどうしても信じられません。僕は何か訳ありなんじゃあないかと思いました。僕ね、かなり心配性なんです……」わずかな笑みを浮かべ、少しの間をおいてそう言い、加賀は端月の顔を見た。目が端月に言葉を促していた。
 二人連れの客が二組、相次いで入って来た。加賀は軽く手を上げ「どうも」と挨拶する。また一人、また二人と入店し瞬く間に満席になる。満席にも関わらず入ってきた人などは、店の隅に置いてある補助用の小さな丸椅子を引っ張り出し、やあやあと言いながら間に割り込んでいる。それぞれのグループで声高に話の花が咲いていた。
 端月が口を開く。「實平さんとコンタクトがあったのは高校時代以外にはないのですが、彼の恋人を私が奪ったなどという、そんなことはあり得ません。ましてや殺したなどという物騒なことは……」端月は暫し考える風をして言葉を繋ぐ。「その時、實平さんはその恋人の名前を言っていませんでした?」端月は頭の片隅に浮かんだある考えを確かめるべく加賀に聞く。加賀は少し考える素振りを見せながら、その時の記憶を闇の中から引っ張り出そうとでもするように目を閉じ首を捻る。
「たしか……」目を開き天井を睨む。「たしか、ナカクラ……、ナカクラリョウコと言っていたような……」酔っていたので記憶が定かではないのですがと、付け加えた。
「ナカクラリョウコ」先程の端月の心の隅に引っかかっていた何かが形を整え「中倉涼子」という具体的なものへと変化する。
 しかし實平局長の話と、端月と涼子の話はリンクするはずはないのだ。實平の話が正しいのだとしたら、彼の恋人だった中倉涼子を端月が奪った。そういうことになる。しかも彼女を端月が殺した。確かに涼子は今この世には存在しない。大学二年の夏に交通事故で亡くなったのだから。
 端月は涼子の顔を四十年近くの時間を隔てて脳裏に蘇らせる。それだけをとっても美人だといえる彼女の透き通るような白い肌、肩まで伸ばした艶やかな黒髪、黒目勝ちの大きな瞳、先端がごく控えめに上を向いた鼻、ピンク色の形の良い唇。そして彼女の声が、彼女の匂いが、彼女の体温が、――彼女の全てが遠い時を隔てて端月の心に甦る。

☆ ☆ ☆ 
 端月仁義と中倉涼子が初めて二人きりで話したのは高校二年の五月の中頃だった。仁義は部活を終え、駅へ急いでいた。途中で中倉涼子と遭遇した。涼子はいつも何人かの女子生徒と一緒なのだが、今日はひとりだった。何やら浮かぬ顔で、トボトボと形容するのがぴったりする歩き方だった。仁義は追い抜きざまに声をかけた。「中倉さん、急がないと汽車、間に合わないよ」涼子は心ここにあらずというような声で言った。「ああ端月君……。一便遅らせようよ。私コーヒー飲みたいんよ、奢るけん」
 仁義は彼女の歩調に歩みを合わせた。一緒に歩くのが嬉しかったのかも知れない。彼女は学校では評判の美人だった。男子生徒の間では彼女は人気ナンバーワン。仁義だって入学当初から汽車通学で顔を会せる彼女をいいなあと思っていた。ただ、こちらから声をかけても多分相手にはしてくれないだろうなあとも思っていた。自分に自信がなかったわけではない。一年生の時に同じクラスの女の子と、もうひとり、同じ部活の子に付き合ってくれと言われたことがある。しかしそれはお断りした。思えば、心のどこかに中倉涼子という存在が潜み隠れていたのかも知れない。  だから二年になって涼子が同じクラスになった時、少しうろたえたような感覚があったのを覚えている。
「端月君と二人だけで話すのって初めてやね」涼子は駅前の喫茶店に入り、コーヒーを注文し、沈んだ声で言った。 教室では仲の良いクラスメイトと休み時間等にはよく話をしていた。仁義も涼子もその仲間達のひとりだった。
「そういえばそうやね。だけど中倉さんどうしたの、なんか元気ないじゃない。いつもと違う」いつもの中倉涼子とは確かに違っていた。
 涼子は仁義の顔を伏し目がちに見て溜息をつく。やがて顔を上げ、アーモンド形と形容してもちっとも間違っていない黒目勝ちの瞳を仁義に向ける。
「端月君って好きな人おるん?」仁義の質問とは全然関係ないことを聞く。
「それは……」仁義は口ごもる。何故かどぎまぎとした。「端月君、私のことが好きなん?」何故かそう聞かれたような気がした。
 彼女とクラスが一緒になって、中倉涼子が近くになり、その時、彼女の存在が仁義の心を大きく占領しつつあったのではないのだろうか。今ならその時の自分の心は分析できる。
 仁義の返事にならない言葉を聞き、涼子はまた目を伏せる。しばらく二人の間の時が止まる。
「私、告白(こく)られた」涼子はぽつりと言った。「断った」時間を置いてまたぽつりと言う。ふたりの間に沈黙の時間が流れる。涼子は思いつめたような顔で仁義を見て、思い切ったようにぽつりと言う。「私ね、好きな人がいるの……」また時間が止まる。ややあって口を開く。「好きになりかけている、そう言った方が合っているかも……」仁義の目を見つめる。すぐに、さりげなく目をテーブルの隅に落とす。「少し前からその人に告白したいと思っている。でも……怖いのよね、断られた時のことを考えると。とても怖いの。その人のこと全て知っているわけじゃあないし、でも……」彼女は言葉をきる。
 喫茶店には有線放送でイーグルスのホテルカリフォルニアが小さな音で流れていた。
「傷つきたくない自分がいる。でも私、相手は平気で傷つけている。今日、告白された人って、中学の時にも言われたのよね、付き合ってくださいって。その時もソッコー断った。……私って言葉がきついのかなあ、こんな自分が嫌になる」小さな声で言う。「でも好きでもない人にあやふやな答えは出来へんし、八方美人にはなれない」コーヒーカップを口まで持っていき、思い直したようにソーサーに戻す。
 思い切ったように言う。「端月君、時々二人で話してもろてもかまへん?」
 有線の曲はアバのダンシング・クイーンに変わっていた。

 仁義と涼子はほとんど毎日、話をした。仲間と一緒の時もあったが、二人きりの方が多かった。教室で、図書室で、屋上で、グランドの片隅で。駅から学校までの行帰り、汽車の中、駅前の喫茶店で。勉強のこと、部活のこと、友達のこと、先生のこと、家庭のこと、将来のこと。趣味のこと、好きな本、好きな映画、好きな音楽、好きな芸能
人――話の種が尽きることはなかった。彼女との距離が急速に近づくのを仁義は感じた。

 梅雨もまだ明けきらぬ七月の初めだった。仁義と涼子はいつもの駅前の喫茶店にいた。二人でかき氷を注文した。仁義は涼子がかき氷をスプーンで口に運ぶのを見ていた。
「リョウちゃん好きな人がおるって言うとったじゃん、告白したいって。あれどうなった?」
 聞くには仁義もかなりの勇気が必要だった。あれ以来、彼女との距離が急速に縮まり、リョウちゃん、ジン君と呼び合っている。仲の良い男女の友達という間柄ではない――少なくとも仁義は彼女を特別な女性として意識していた。涼子の言動の端々にも仁義を男――彼氏として意識しているのではないかという――思い上がりかも知れないが――そんな思いはあった。
「ジン君、あの時の私の質問に答えてないよね」涼子は悪戯っぽく笑って仁義を見る。
「端月君って、好きな人おるん?」以前、彼女がそう言ったのを仁義は思い出していた。
 あの時も涼子のことが心の片隅にはあった。しかし、それを心の一番奥に無理やり押し込めていたのかも知れない。多分あの時から、いや、もっと前から仁義は涼子を好きだったのかも知れない。探すことが出来ないように、心に濃い霧を無理やり発生させ、それを押し隠していたのではないだろうか。だから、あの時の涼子の質問には口ごもってしまったのかも知れない。今だったら「好きな人がいる。告白したいと思っている」と言えるだろう。――多分。そして、告白して断られてもそれはしょうがないと思う。――多分。心に傷は受けるかも知れない。振られた悲しさで涙を落とすかもしれない。でも、それはそれで良いのではないか。――多分。このままずっと、よくいう「友達以上、恋人未満」の関係を続けることこそが自分を裏切ることになるのではないかと仁義は思う。
 最近、仁義の心の真ん中に中倉涼子がいつもいる。もう考えまいとする。しかしそれはいつまでも消えてはくれないし、いつまでも心に負荷をかけ続けているのだ。そして心のもう一方には早くこのもやもやから解放されたい、早く楽になりたい。そんな部分がある。楽になるためには、思い切って自分の心の内を彼女にぶつけるのが一番良い方法ではないかと仁義は思う。そんな決心を心には秘めているのだが、やはり実際に行動に移すとなると心が揺れる。いつか涼子が言っていたように、仁義だって出来ることなら傷つきたくはない。まだ高校生なのだ。心を固い鎧で装備することが出来るのはまだまだ先のことだろう。心は柔らかい。だから涼子に対する冒頭の質問が口から出た。涼子があの時言った「好きな人がいる。告白したい」という言葉は、彼にとっては大きな懸念材料であり障壁なのだ。でもその前に彼女の問いに答えるべきだろうと仁義は思った。涼子の「好きな人おるん?」という質問に。
「前に聞かれた時、自分自身あやふやだった。今だったら言える。あの時も好きだったのだと思う。答えは――俺、好きな人がおる」彼は思い切って言った。それはリョウちゃんだよと続けたかったのだが、続く言葉は喉の奥で空しく消え去る。
「私も言うね」涼子が口を開く。「告白はまだ。でも最近、言えそうな気がしてきた」崩れかけたかき氷をスプーンで更に崩しながら言葉をつなげる。「明日、告白する」思い切った様に言って言葉をきる。考える風をする。「学校で放課後」短いセンテンスが続く。「場所は……」小さな時間が過ぎる。「晴れていたら屋上」仁義に目を向けて続ける。「ジン君も告白しなよ」と、言う。
「じゃー俺も……。明日……」仁義の言葉は煮え切らない。かき氷のように語尾が融ける。
 この店のBGMはいつも洋楽なのだが、今日はなぜかピンクレディーの曲がかかっていた。

 放課後、部活が始まる前に仁義は涼子に屋上へと誘われた。屋上のフェンスの前に二人で立つ。遥か彼方の山々が曇り空の下ぼんやりとモノクロームの色彩で見える。九州地方の梅雨明けは昨日だった。この地方のそれももうすぐだろう。
「今日、屋上で告白するって言ってたじゃん?」仁義は期待感と不安感がないまぜになった言葉を涼子に投げる。
「ジン君もするでしょ告白。予行練習しようよ」悪戯っぽく言う。「その前にここでお互いの好きな人の名前あかせへん? 目をつむって、イチニノサンで」涼子は彼の反応を楽しむように微笑む。
 仁義の心臓は百メートルをマッハ3で走ったようにドコドコと踊る。意を決して目を閉じる。
二人で声を合わせ「イチニノサン!」
「リョウちゃん!」仁義の声だけが屋上に響く。
 彼は「ずるい!」言って目を開ける。
「約束と違……」彼女に向けた非難の言葉はフェイドアウトする。仁義の目に飛び込んだ映像。中倉涼子は右手の人差し指を彼の鼻先に突き付けていた。顔には微笑みがあった。
 これは仁義が後で聞いた話だが、涼子も入学当初から汽車通学で顔を会す彼のことが気になっていたのだという。何かの機会に話しかけようと思っていたのだが、彼にも涼子にも、いつも連れ立った友達がいる。それに――と、涼子は言った。「ジン君なんだか冷たい雰囲気というか、クールな感じだった」付き合ってくださいと勇気を振り絞って言っても、ごめんなさいと即座に断られそうな。
 二年になってクラスが同じになり話をするようになった。
「冷たいと感じていた部分はジン君の落ち着き――大人――上手く言えないけど」よく考え、言葉を咀嚼して外に出す。無責任な台詞は吐かない。そうかといって冗談などこれっぽっちも言わないというタイプでもない。「段々分かってきた。そして好きになった」
 涼子も悩んだのだ。心から端月仁義を消し去ろうとしたこともあった。しかし、そうすればそうしたで反比例して心の中の彼が大きくなっていった。やはり私は端月君が好きなのだと涼子は思った。そして初めて二人で駅前の喫茶店に入った。あの時は悩んでいた。落ち込んでいた。その時の心境が逆に触媒となって、端月仁義に対する心を加速させたのかも――と思う。あの時、抽象画のような「好き」が具象画のそれになったのだと涼子は思う。
「人と人の距離って大事よね。だって同じクラスにならなければ好きになっていたかどうか……」涼子は言った。

 二人は二階の仁義の部屋に居た。彼の両親は勤めに出ていて、弟の忠孝はまだ学校から帰宅していなかった。
 ベッドの端に掛け、涼子はため息をつく。
「私なんかほったらかし。将来、嫁に行く女の子には興味を持っていないのよ」諦めたように言う。「そのくせ厳しいんだよね、大学は県内にしろって。県外での一人暮らしなんてもってのほか。ジン君、絶対東京でしょう」
 涼子の父は開業医だった。中学三年の弟がいた。父母は男の子に期待をかけているのだ。弟に医者として後を継がせる。弟には小学生の時から、当時としては、そして田舎では珍しい家庭教師をつけていた。
 三年の夏休み前。そろそろ各自の志望校の絞り込みが始まっていた。仁義は二年の時から狙いを定めた東京の大学を第一志望としていた。その他の選択肢は考えていなかった。何となく工学部を志望していた一年生の頃、ある建築家が書いた書物に出会った。その建築家は建造物と人、自然との調和をテーマに据えていた。著者の作品にも心惹かれた。この建築家がいる大学で学びたいと思った。
 涼子は県内国立大学が第一志望だった。涼子は両親に懇願した。東京の大学へ行かせてくれと。父親は聞く耳を持たなかった。母親がとりなしてはくれたのだが、夫に逆らってまで娘の意見を押し通す力を母は持っていなかった。
「ジン君と一緒に東京へ行きたい。私、ジン君と離れるのが怖い」目を伏せ、産まれたばかりの小動物が身震いするようにかぶりを振る。
「大丈夫。俺は東京へ行っても変わらないし、いつもリョウちゃんのことを思っている」仁義は助けを求める子羊を慈しむように言う。
「そうじゃないの。ジン君のことは信じている。そうじゃないの。私自身が怖い……」好きだから余計。語尾が震えた。
「俺は休みには帰って来るし、電話もする。手紙も書く。何も心配することはない」勇気づけるように言う。
「ジン君はやっぱり男の子やね」涼子は寂し気な笑みを見せる。「男はいつも空を見ているのよ。私は女だから地面ばかりを、足もとばかりを見ている」
「どうゆうこと?」
「男の目は未来をいつも見つめている。女は今だけを見ようとしている」自嘲気味に笑う。
 先程セットしたラジカセからビートルズの曲が小さな音で流れている。二人は黙りこくって聞いていた。二人を残したまま曲は先へ先へと進んでいく。
「ジン君。……しようか」涼子は唐突に言った。声が喉元に引っ掛かり、少しかすれ、目は揺れているようだった。
 涼子と仁義は二年生の秋に初めてキスをした。学園祭の準備で遅くなり、仁義は涼子の降りる駅で途中下車し家まで送った。医院の門前で肩を抱いた。唇を重ねた。涼子は驚いたような丸い目で仁義を見て、やがてにこりと笑った。「また明日」と、言った。それ以来、キス以上には進まなかった。きっかけがなかったのかも知れないが。
 終わったあと涼子は「ありがとう」と、恥ずかしそうな小さな声で言った。目が濡れていた。
☆ ☆ ☆
 客はいつの間にか端月達二人とカウンター席の真ん中に陣取った三人連れだけになっていた。三人連れは先程からプロ野球談議に花を咲かせていた。
 加賀はジョッキの底に少しだけ残ったビールを飲み干し、端月さんも――と言い、二人分のお代りをオーダーした。
「實平局長と、その中倉さんですか。それと端月さん。接点は何もありませんね」端月の話を聞き終え、加賀は言葉を探すような口ぶりで言う。
「その年の夏休みに受験勉強の骨休めという事で、八人で剣山に登山をしました。その中に私、中倉さん、そして實平さんがいました。彼とはクラスも部活も違いますし、親友というわけでもなかったですから、接点としてはそれぐらいしか考えられません。それと――」端月は中倉涼子と實平が中学校の同級生だったことを付け加えた。
「話の中で、中倉涼子さんがある男の子の告白を断った件。確か中学生の時にも告白されたと言っていませんでした?」加賀は斜め上に首を傾げ、遠い目をして考える。「その男の子が實平局長だったとは考えられませんか?」合点したように頷く。
「分からない。私も聞かなかったし、彼女も言いませんでした」
「そのあと付き合い始めたのですよね」加賀は言葉をきる。暫しの沈黙のあと、言葉をつなぐ。「振られた男を實平局長だと仮定しましょう。振られた直後に中倉さんはあなたと付き合い始めた。實平さんにとっては大きなショックだった。振られたとはいえ中学の時から思いを寄せていた女性ですから、そう簡単には諦めることはできない。ところが自分が振られた途端にあなたが登場したわけです。逆恨みの要素がないわけじゃあない」ビールを一口飲む。端月もつられてジョッキを持ち上げる。加賀が続ける。「だから實平さんの頭の中では、あなたが中倉さんを奪い取った。寝取った。許さない。そんな妄想に発展した。私が聞いたのは、かなり酔っ払っていた時ですから、そんな大袈裟な言葉が出たとしてもおかしくはないでしょう」一応の説得力はあるだろうと端月は思った。
 加賀は推理を続ける。「昨年、あなたが奥さんと一緒に農業委員会に来た。あなたと会って高校時代の失恋を思い出した。そこで、これ幸いと立場を利用してあなたに悪さをすることを思いついた」それがあの一連の対応ではなかったのだろうかと加賀は言った。
 しかし加賀の説が正しいとしても、四十年近く前の高校時代の話だ。それを今頃になって意趣返しもないのではないか。そんなことをして何の得になるというのだ。あとで舌を出して「端月め! ざまあみろ」とでも言って溜飲を下げたのだろうか。
「實平局長ね。去年の忘年会だったか、こんなこと言っていたんですよ。局長、端月さんの奥さんには農業委員会で何回も会っているでしょ」
 端月と妻は一緒に農業委員会を数回訪ねている。それ以外にも、端月が仕事でどうしても都合がつかない場合、妻に頼み、彼女は単独で農業委員会を訪れている。
 實平局長は加賀をつかまえ「端月の野郎、若い時から美人にもてやがって」そう言ったのだという。
「實平さん結婚はしているのでしょ」端月は聞く。
「していたそうです。何でも嫁さんと姑さんの折り合いが悪かったそうで、離婚したって聞いています」両親は亡くなり、今は独り暮らしをしている。
 そんな現状だから、端月と妻が仲良く農業委員会を訪れたので、悪戯心が起こりうっぷんを晴らした。そんなところではないかと、加賀は言う。「幼稚といえば幼稚なのですが」
「しかし酔った上の言葉とはいえ、私が中倉涼子を殺した。いくら何でもそれは暴言でしょう」涼子は交通事故で亡くなったのだ。それも端月と別れた数か月あとで。
「その殺したという話なんですけど僕ね、端月さんが車を運転していて事故を起こし、同乗していた中倉さんを死なせた――そんな風に考えたのです。しかし……」端月はその時も今も運転免許は所持していない。
 カウンター席中央の三人連れが出ていき、入れ替わりにサラリーマン風の男が入店した。この人も加賀の顔見知りであり、暫し二人のとりとめのない会話が続いた。
☆ ☆ ☆
 端月は涼子との思い出を頭に巡らせていた。
 端月仁義は第一志望の大学に受かり、中倉涼子も地元国立大学に受かった。
 しかし二人にとって遠距離恋愛はやはりきついものがあった。電話ひとつとってみてもそうだ。今なら携帯電話でダイレクトに話が出来る。スカイプなどの機能を使えば、互いに顔を見ながら会話が出来る。当時は下宿の廊下の片隅に置かれた公衆電話で、空しくコインの落ちる音を聞きながら、お金の残り額を気にしつつ、近況を手短に連絡し合う。そうするしかなかった。仁義は涼子のいる時間帯を狙って電話をするのだが、いつも彼女が電話に出てくれるとは限らないのだ。二人が付き合っていることを涼子は両親にそれとなく話していたのだが、涼子の家に電話をする彼としては、両親が――特に父親が出てくれませんようにと願いながらダイヤルを回したものだ。手紙は頻繁に二人の間を往復した。いろんな事柄をお互いが記した。しかし、これも二人が顔を会わせて話し合うことに比べると、喉の奥に刺さった魚の骨がいつまでも抜けないような、鉄の鎧の上から痒いところを掻くような、そんなもどかしさがあることは否めなかった。仁義は休みには帰省し涼子と出来るだけ会うようにした。やはりフェイスtoフェイスなのだ。電話や手紙とは違う。言葉を発しなくともお互いのことは顔を見つめるだけで理解できた。ただ丸々いっぱい休みを故郷で過ごせるかというとそれは出来なかった。学校のこともあったし、バイトのこともあった。
 二人の遠距離恋愛は大学二年の春まで続いた。そして仁義は涼子に振られた。
 涼子から手紙が届いた。別れようと書かれていた。信じられなかった。ずっと愛していたし、これからも思いは変わらないと思っていた。涼子も自分と同じ気持ちだろうと思っていた。
 電話をした。「ごめんなさい」涼子は湿った声で謝った。仁義は、俺が嫌いになったのか。新しい恋人が出来たのか。一体どうしたのだ。矢継ぎ早に質問した。
 涼子は「私が一方的に悪い。私のわがまま。ジン君は全く悪くない」そう言った。
「会って話がしたい」仁義は言った。
 花は既に散り、葉桜の季節だった。仁義と涼子は山麓にある山林公園にいた。当時としてはよく整備された舗道の両脇に桜木が植えられ、花見の名所として知られていた。桜の終わった今の季節、人影はなかった。
 木製のベンチに座った。涼子は淡々と心境を語った。
「ジン君を嫌いになったわけではないし、新しい恋人ができたわけでもない。でも私だめなの。ジン君が傍にいてくれなけりゃあ。多分、私はいつも傍にいてくれる、いつも私の傍らに立っていてくれる、そんなジン君を好きになったのだと思う。一年間別れて思ったの。この距離は二人にとっては――特に私にとっては、とてもとても耐えられない距離だって。ジン君が休みに帰省してくれた時、涙が溢れるほどうれしかった。でも東京へ帰ってしまわれると、涙が枯れるほど悲しかった。ジン君に地元へ帰ってとは言えない。私が東京へ行くとも言えない。私これから何年間かこの状況に耐えられる自信がないの」だから別れてと涼子は言った。
 仁義はどうか思い直してくれ、自分の君を想う気持ちは今もこれからも変わらない。たとえ遠い遠い火星に住んでいたとしても、自分の気持ちは惑星が太陽の周りを廻るのと同じように絶対に変わらない――そう言った。
「私も好き。だってジン君は私のはじめての男(ひと)だもの。私だってこれからもずっと好きだと思う。でも好きだからこそ別れて欲しい。これ以上付き合うと私、ジン君にどんな無茶な要求を突きつけるとも限らない。だから……」
 釈然とはしなかった。でも涼子の言っていることも分かる気がした。仁義だって会う時は嬉しい、反対に別れるときはその何倍も悲しい。できればこのまま東京になんか帰りたくない。そう思う。
 話し合いは平行線のままだった。ただ涼子は頑なだった。もう手紙は書かない。電話はしないでと言った。
 最後に言った。「ジン君ありがとう。楽しかったよ……。私いつまでも忘れない……」あとは言葉が続かなかった。綺麗な瞳から涙がこぼれた。葉桜が風にサラと揺れた。
 涼子の訃報は弟の忠孝からもたらされた。七月の初めだった。忠孝も彼女が交通事故で亡くなったことは数日知らなかった。彼はその頃、高校に通っていたのだが、その同級生から聞いた。その級友は中倉医院の隣の家の子だった。近所でも涼子の美しさは評判だった。特に若い男の関心は高かった。「隣のお医者の綺麗な娘さんが交通事故で亡くなった。自殺だったとの噂もある」
 忠孝はその名前を聞いて驚いた。兄貴の彼女! 忠孝と涼子は何回か会ったことがある。仁義と涼子が別れたことを知らない忠孝は慌てて知らせたのだった。
 仁義は夏休みに入って帰省した。中倉医院を訪ね線香をあげさせてもらった。仏壇の遺影が寂しそうに笑っていた。悔しかった。堪えようとしたが涙が流れた。涼子から別れを告げられ、わずか数か月。人ってこんなに突然に、こんなに簡単に死ぬのだと思った。
 仁義は自殺だったとの噂を忠孝に確かめた。警察は交通事故として処理しているが、その事故を起こした運転者は彼女が信号を無視し、横断歩道に突然、飛び出して来たのだという。夜の人通りの少ない場所で目撃者はなかった。
「彼女は男に振られて自殺した。あんな綺麗な娘だから、振られたのが余程ショックだったのだろう」そんな根も葉もない噂が一時流れた。「俺、兄貴が涼子ちゃん振ったのかと思った」涼子に振られたことを知らない忠孝は、兄を気遣って沈んだ声で言った。
☆ ☆ ☆
「私はリョウちゃん――中倉涼子が自殺だったとはその当時も今も思っていません。多分、彼女を轢いたドライバーは自分を正当化するために彼女が信号無視で横断歩道に入って来たと言ったのだろうと思います。目撃者もいなかったというし。……彼女は自殺をするような人ではなかったと信じています」端月仁義は自分の言葉を確認するかの如くひとり頷いた。 加賀もそれに呼応し黙って頷く。やや考える風に二、三度うなずいて口を開く。
「端月さんのお話伺っていて、僕もその中倉涼子さんは自殺をするような人じゃないと思いますよ」いったん言葉をきり、喉を湿らすように残ったビールを飲み言葉をつなぐ。
「彼女は強い人だと思います。自分から別れを切り出したんですからね。これはかなり勇気のいることだと思います。お互いにまだ好きだったのでしょう。嫌いになって別れてしまう場合は、相手に対する嫌悪も憎悪もある訳ですから、その行動をすんなりと自身の心が受け入れることが容易ですからね。好きなのに別れるのはつらいことです。でも彼女は自ら行動した。そこに至るまでに重い心の葛藤があっただろうとは思いますが。……中倉涼子さんは強い女性(ひと)です。絶対に自殺じゃありません」最後の言葉は端月を励ますように強く発声する。
「そうですよね。……でもねえ……。私もね、彼女が別れてすぐに亡くなったのでそりゃあショックでした。彼女が切り出した別れを必死で拒否すればよかった。東京に来いと言えばよかった。私が地元に戻ると言えばよかった。でもそれは到底出来ないこと――私にも彼女にも。……彼女が今も生きている、最悪でも何年か時間が経った後で亡くなったのであれば、これほど心には重荷として残らなかっただろう。今でも心の隅がきりりと痛い時があります」
「お気持ち分かります。でも、お話聞けて良かったです」加賀が頷き「僕、實平局長が言った、端月さんが恋人を殺したという話が無茶苦茶気になっていたのですよ。その点は安心しました。それにしても實平局長も人騒がせなことを……。でも局長、なんであんなことを言ったんだろう」端月の話に対する同情と、實平に対する疑問がないまぜになって加賀の顔に広がる。暫し考える風をする。ややあって口を開く。
「自殺。事故。……もうひとつ可能性が残されていますよねえ」言って端月の目を覗き込む。
「いや……。しかし、それは……」端月はジョッキに残ったぬるくなったビールを飲み干す。
「事故は夜中に起こったんですよねえ。なぜ中倉さんはそんな時間に出かけたのだろう。当時は二十四時間営業のコンビニなんて無かったんでしょう。端月さん、彼女がどんな用で出かけたのか中倉さんの家族から聞いていません?」
 端月は目を閉じ、その当時の事を闇の中から引っ張り出そうとする。時間が過ぎる。頭の中で遠い記憶のかけらが不確かな形で蘇ろうとする。端月は口を開く。
「彼女が亡くなった年の暮れに、帰省していた私は彼女の墓参りをしました。その時、墓地まで案内してくれたのが彼女の弟でした」
「その時に何か聞いたのですね」
「なぜ彼女は夜中に出かけたのだろうと、たぶん私が弟さんに聞いたのだろうと思うのですが、夜中に電話がかかってきて、すぐに帰るからと言って出ていったそうです」
「電話の相手は男でしたか女でしたか」
「いや、そこまでは……。当時の私の頭の中では、交通事故だったのだと納得していましたから……。まさかその呼び出した相手が……。」端月は加賀の顔を見る。
 加賀は暫し考える風をして、慌てたように「いやいや。ちょっと考え過ぎてしまいました」と言い、顔の前で大げさに手を振った。頬には窮屈な笑いが浮かんでいた。
「すみません、今の話は忘れてください。……でも、これで中倉さんが自殺じゃなく事故だったって、はっきりしたじゃあないですか」
「どういうことです?」
「中倉さんが何の用事もなく夜中に家を出たなら、自殺の可能性もあるのですが、彼女は誰かに呼び出され、家族にはすぐに帰ると言って出ていったわけですからね」
「なるほど」端月が頷き、続ける。「ちょっと今思ったのですが、實平さん県内の大学でしたか? 私同級生なのですが彼の情報は何もなくて」
「確か県内の私大を出て、市役所――いや、当時は町役場です。――に入ったと聞いています」加賀は記憶をサーチしながら言う。
「ということは……涼子が事故で亡くなった時、地元にいたわけだから、あの自殺かも―という噂を知っていた可能性がありますね」
「ひょっとして、あなたに対する腹いせで實平さんが流したとか」
「いやあ、それはないでしょうが……。こんな風に考えられませんかねえ。實平さんは当時私と涼子が付き合っていたことは知っていたわけですから、男に振られて自殺したという噂を本当だと思った。つまり私が涼子を振って、それが原因で彼女が自殺した。つまり間接的に私が涼子を殺した―」
「うーん。そのように思った可能性はありますよね……」
客は二人だけになっていた。二人の間に沈黙の時間が流れる。外の舗道を往く酔客の声高な話声が引き戸を通して聞こえた。
 ややあって端月は腕時計に目を落とし立ち上がる。「最終の時間なので、私そろそろお暇します。加賀君は?」
「すみません。長時間引き止めちゃって。端月さんと話せたお蔭で、もやもやしていた気持ちがすっきりしました。僕、歩いて帰れる距離なので、すっきりした気分でもう一杯だけ飲んで帰ります。でも、あなたにつらい思い出を語らせちゃいましたかねえ?」
「いえいえ、久し振りに涼子のことを思い出しました。まあ、妻には悪いのですが」端月の頬に苦笑があった。
「例の家屋と農地の件、僕がおよばずながら……」加賀は立ち上がり端月に頭を下げる。
「よろしくお願いします」端月も頭を下げ、それではと言って店を出た。
 端月を見送った加賀は椅子に戻り「ママ、焼酎の湯割り頂戴」明るい声で注文する。
 加賀の前にグラスを差し出しながら女将が言う。
「加賀ちゃん。なんか深刻そうな話だったね」
「なんだ、聞いていたの。でも他のお客さんの相手しながらよくわかるよね」
「長年こういう商売やっているとね、聞くとはなしに聞いているわけ。楽しい話、悲しい話、深刻な話。大体わかる」女将さんが微笑む。「殺したとか、殺されたとか――そういう非日常な話は特にね」
「もうーやめてよ。事故という事で落ち着いたのに」
「加賀ちゃん、さっき言っていたでしょう。事故、自殺、そしてもう一つ可能性がって。それあるかもね」
「やめてよ。せっかくすっきりしたのに」加賀は湯割りのグラスを持ち上げる。「でも、ちょっとだけ興味がある。僕ミステリー好きだし。いやいや、聞いたらまた寝覚めが悪くなる」
「はっきりしなよ! 加賀チャ―ン!」厨房から大きな声があがった。栗毛の娘が笑いながら、カウンターに顔を見せた。
「ああ、びっくりした。ヒロちゃんまだいたんだ。もう、とっくに帰ったと思ってた」
「いえいえ、私、真面目なJDですから、ママから与えられたミッションは確実にやり遂げてから帰るので」ヒロちゃんが笑う。「加賀ちゃん、どうすんのよ。ママの推理、聞きたいの、聞きたくないの。私も加賀ちゃん達の話聞いていて興味を持ったんだよね」
「ヒロちゃんも聞いていたんだ」
「当たり前でしょ。長年こういう商売やっているとね、聞くとはなしに聞いてんだよね。特に日常ならざる会話は」
「長年って、お前、ここでのバイト歴、二か月だろうが」
「うえーん、ママ助けて。こいつ私のことお前って言った。地方公務員にパワハラされたー」
女将さんは笑いながら、二人の顔を交互に見て「あのね。これはあくまでも可能性という話だから」と前置きをして続けた。
「確か、涼子さんのほうから別れましょうって言ったんだよね。端月さんとは高校二年から付き合い始め、大学二年の初夏に別れた。約三年間。大学一年から二年までは確かに遠距離恋愛ではあったけど、お互いに愛し合っていた。でも、急に涼子から別れ話を切り出した。なぜだろう?」
「それは……。二人の恋愛に関する考え方に温度差があって、涼子さんは一人でいることに耐えられなかった。こんな苦しい思いをするなら、いっそ別れた方が、と思ったんじゃあないかなあ」加賀は先程聞いた端月の話を思い出しながら、考え考え言葉にする。
「多分、それが本当の理由だとは思う。いや、それが正解だとは思うのだけれど、こうも考えられるのよね。急に別れを切りださなければならない、何らかのことが涼子の身に起こった。しかも、そのことは端月さんにはとても告げられない何かだった」
「わかった! 實平に無理やりやられちゃったりとか」ヒロちゃんが突然声をあげる。
「おい、ヒロちゃんやめてくれよ!」
「加賀ちゃん、これはあくまでも可能性の話じゃん。涼子さんが交通事故にあった夜、誰かから呼び出しの電話があって、深夜にもかかわらず家を出たんでしょ。余程のかかわりがある人物か、断り切れない人だったか」ヒロちゃんが女将さんに変わって推理する。
「涼子が實平にレイプされていたとしたら、深夜の呼び出しも断れないかも――」
「涼子さんは信号無視で、横断歩道に飛び出してきたって言ってたよね」女将さんがヒロちゃんの言葉をひろって繋ぐ。「もし、實平と涼子が揉めていたとしたら、二人が争いになったとしたら、故意か突発的かはわからないけど、涼子が車に轢かれる原因の可能性はあるのじゃない」
「實平が突き飛ばしたとか」ヒロちゃんが補足する。「若い女の子だよ。横断歩道渡るのに左右気をつければ、まず事故にあう事なんかないじゃん。すべての謎は解けた。實平! 犯人はお前だ!」右手の人差し指を加賀の鼻先に突きつける。
「もうー。ほんとやめて!」加賀が頭を抱える。そして、考え考え言葉を発する。
「でもさー、實平局長なんであんなことを僕に言ったんだろう。……端月が涼子を殺した……かなり酔っていたんだけど、局長そう言ったんだよ」
「うーん、それねえ。こういう風に考えられないかなあ――数十年ぶりに端月さんに会って、昔を思い出した。局長の心の奥には誰かに喋りたい欲求があった。『端月が涼子を殺した』と形を変えた言葉になって、局長は思わず喋ってしまった」女将さんが言う。「まあ、これはあくまでも可能性の話ですからね」
「可能性ねえ……。そうだよね。うん。そうだそうだ、あくまでも可能性の話。てか、ヒロちゃんに犯人にされて、局長可哀そう。しかし、二人とも仕事しながら、よくそんな細かな部分まで聴いているよね。地獄耳かよ。厩戸皇子みたい」
「ウマヤドの王子って、どこの国の王子様?」ヒロちゃんが訊く。
「知らんのかい」
「だって私、地理は苦手だし、歴史は日本史しかとってないもん」
「お前ねえ、可愛いけど、馬鹿だから彼氏できないよ」
「うわー、木っ端役人が今度はセクハラ! ママなんとか言ってよ」ヒロちゃんが頬を膨らます。
 女将さんは笑いながら「そろそろ看板にしましょうか」と、言った。
「私お腹空いちゃった。三人でラーメン食べに行こうよ。加賀ちゃんの奢りで」ヒロちゃんが笑う。
「僕が奢るの?」
「あったり前でしょ。パワハラ、セクハラのオンパレードなんだから、いうこときかないと市役所に密告(チク)ってやる」
 三人は声を揃えて笑った。
 
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