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愛ターン 友ターン 2

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徳島―秋
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 入社して一か月が過ぎた。会社にはすぐに溶け込むことが出来た。
 製造部門も間接部門も県内採用者がほとんどで、都会のようなシビアな、悪く言えばギスギスした人間関係はなく、田舎的な穏やかさがあった。その分、人間個々の関係も当然濃くなるのは仕方がないところだろうが。
 東京から、しかも一部上場企業の元部長が入社したということで、最初は大きな好奇心と、若干の警戒心をみせていた上司の田畑設計部長とその部下達も、私が徳島県出身、それも当地、P市出身だと知ると、好奇心は親密感に、警戒心は安心感に変わったようだ。
 更に、自分たちが会社の行帰りに時々利用している近くのコンビニが私の実家であると知るに至っては、もはや何十年来の旧知の友のような扱いになった。
 田畑部長に「お近づきの印に」と、強引に飲み屋に誘われた。
「早急に端月さんの歓迎会をやらんといかん。明日、課長に段取りさせますけん」彼は帰り際に私の肩を抱き嬉しそうに言った。

 私が農地付きの家を探しているという情報は、入社一か月を過ぎる頃には部内はもちろんその他の部署の一部の人間などには周知のこととなった。
 初めて参加した部長会議の終わった後に「家を探しとんやって。知り合いの不動産屋、紹介しょうか」と、西島社長にまで声をかけられる始末である。ここらへんが田舎独特の温かさ、人間関係の濃さなのであろうが。
 西島社長とは初見ではなかった。前の会社の時、西島さんが社長就任の挨拶にみえた。かなり昔のことだ。池波さんが同道してきたので、窓口だった私も上司と同席し名刺を交換したのを覚えている。西島社長は多分忘れているとは思うが。
「畑付きの家が欲しいらしいなあ。奥さんが百姓したいとか言いよんだろ。まあここらへん田舎やけん、探せばなんぼでもあると思うわ。不動産屋に聞いといたげる」西島社長は制服の下の茶色のネクタイを両手で緩めながら言った。
「そうそう端月はん。おまはんと初めて会(お)うたんて、わしが社長になった時だったかいなあ」覚えていた。
「あの時、我が社(うちんく)の池波、自分が提案した営業方式を初めておまはんが認めて採用してくれたって、すごう喜んどったなあ」ネクタイを結び直しながら、昔を手繰り寄せるように目を細めて、私の顔を見た。
「ほな、仕事の方も頑張ってよ。給料安いけんど」私の肩を叩き、ワッハハハと豪快に笑った。

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 妻の和美が来県した。
 気にかかっていた自宅マンションも不動産会社の話ではそうは待たずに、しかも思っていたよりは良い値で買い手がつくだろうとのことだった。
 私が以前いた会社が手掛けた物件で、売れ残っていた部屋を社員価格で購入したのだが、交通アクセスの良いのが幸いしたみたいだ。
 和美は量販店で安いママチャリを購入して、早速周辺の探訪にのりだしていた。コンビニ店主の弟夫婦や私の母親の所にも再三出かけている。
 弟夫婦とはコンビニという商売柄、何時でも会って話すというわけにはいかないのだが、そんな時にはコンビニ店の裏にある実家へ行き私の母と話して帰る。
 母からは昔話とかこの周辺のご近所のこととかを聞いているそうだ。
「この辺で家とか土地とかを買うとなると、ご近所情報も大事だからね。都会と違って田舎はご近所付き合いが大切だというし」母や弟の話は大いに参考になるのだという。
「ほれとな、お義母さん昔の阿波弁使いよんでえ。それが私の徳島弁の勉強になるんよ」覚えたての徳島弁で言う。
 浪速金融伝ミナミの帝王の竹内力の関西弁のセリフ『わし、ミナミで金貸しやっとる萬田銀次郎いいます』のように、イントネーションは標準語のマンマなのだが。
 それに今じゃ、母ぐらいの齢の人間でないと「あるでないで」とか「あばばい」とか「おばやん」とか「あずる」とか「いけるで」などはあまり使わない。それらの言葉はたとえ徳島県人でも若い人には通じない場合もある。だから果たして母が和美の徳島弁の勉強の師匠になるとは思えないのだが。
 和美は一等最初に覚えた「せこい」を最近連発する。
 標準語にも、昔、何とかゆうタレントが流行らせた「セコイ」という言葉があるので覚えやすかったのだろうが。
 しかし徳島弁の「せこい」は標準語の「セコイ」とは全然意味が違うのだ。徳島弁の「せこい」には苦しいとか、疲れたとか、しんどいという意味がある。
 私も上京したての頃「せこいんと違うん?」と級友に言って「俺そんなにセコイ人間に見えるのかよ」と、睨まれたことがある。
 和美の「せこい」はイントネーションが関東のものなので、使っていて自分でも分からなくなるのか、そこ使うところと違うだろうと、つっこみたくなるような場面でもしばしば登場する。
 まあ何はともあれ、妻の「田舎で土地付き家屋を買い、お百姓をする計画」は順調に動き出していた。

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 その物件の話は弟の忠孝からもたらされた。十月の末のことである。
 それまでにも西島社長が口をきいてくれた不動産会社のセールスマンから五回程電話があり、その中でもこれぞと思う物件はセールスマンの運転する車で現地を見に行ったこともあった。
 家屋と畑が隣接し広さも手頃であり、そういった部分の条件はクリアしたのだが、なにぶん会社や実家からは遠かった。P市の隣町ではあったのだが、JRの最寄り駅からもかなり離れていた。車があれば十分とかからぬ通勤圏内ではあろう。この土地の人に言わせれば、いわば御近所なのだろうが、車を持たぬ我が家にとってその点は承服しかねる部分であった。以前、池波部長が言っていたように、田舎暮らしではやはり車は必需品なのかもしれない。
 その他にも田畑設計部長とか、部下、他の部署の人など何人かが「こんな物件がありますよ」と、親切に教えてくれたのだが、何れも帯に短したすきに長しで、こちらのニーズに合致するものはなかなか見つからなかった。
 ただ、この地では空き家とか売りたい耕作地がかなりの数あるらしいことは分かった。じっくり時間をかけて探せば、いずれ私達の条件にぴったりの物件が見つかるだろうことは容易に想像できた。

 徳島県P市は合併特例法による「平成の大合併」で一市、三町、一村が合併した人口五万弱の街である。
 人口の割には領域面積がかなり広い。市内を横断するJRの駅も十二駅を数えた。街といえるのは中央部を占める旧市のみで、商業施設、公官庁等はここに集中していた。領域の北側には一級河川が流れ、南は四国山脈が迫った東西に長い市である。
 私が勤める八幡金属工業は市の西南部に位置し、JRの線路と平行するように走る国道から少し入った所にあった。私の実家であるコンビニもこの国道沿いにある。工場の周りを田畑が取り囲み、民家がぽつりポツリと点在していた。
 更に南へ進むと四国山脈の山並みが青々と迫り、県道が山中へ分け入っている。一山超えると四つの山村が点在する。ここもP市の一部なのだが、時代の流れというべきか、その人口減は惨憺たるもので、私が高校生の頃と比べると五分の一以下になっているそうだ。
 ある時、その山村から通勤している年配の従業員が私のことを聞きつけ「次長。我が家(うちんく)の隣の家買いまへんか。隣いうても二キロ以上離れとるけんど」と、声をかけてくれた。
 この人は製造部の課長で、名を美郷さんと言った。会議で顔を会せたことがある。
 物件はかなり前から空き家になっていて売りに出ているのだが、買い手が付かない。値段はただ同然だという。
 家は古いが入母屋造りの立派なものでかなり大きい。畑も段々畑だが合わせれば一反(約千㎡=三百坪)はあるし、裏山もついている。「柿とか栗の木もあるし、春には筍や山菜が採れるけん、良(ええ)でよ」熱心に勧めてくれた。
 非常にありがたい話だったのだが、いかんせん山である。車の所有者には何でもない距離であろうが、私達にとっては地球から月へ行くほど遠いのだ。 
 私は山の課長に頭を下げた。
「有難うございます。せっかくの良いお話ですが、私、運転免許持ってないんですよ。通勤が……」私がそう口ごもると「あ痛ぁー!」と、三郷課長は髪の毛が後退した自分の額を掌でペチッと叩き「そういやあ、端月さんって東京から転勤してきたんでしたねえ。東京に住んどったら、ほらまあ車やいらんけんど、田舎ではなかったらほんま不便ですわ」気の毒そうに苦笑いし「他の良い(ええ)所(とこ)探しときますわ。なんぼでもありますけん」と、言った。

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 弟の忠孝が持ってきた話は取引銀行の行員からもたらされたものだった。
 父親の酒屋時代から取引がある第一地銀で、コンビニに変わってからも取引は続いている。
 月に二度程外回りでやってくる行員の話では、その家屋と畑の持ち主は大阪在住なのだが、歳もとり、距離も離れているので、メンテナンスに帰って来るのが億劫になった。買い手があればすぐにでも売りたい。親戚とか知り合いとか、方々に声をかけているのだという。
「この近くにある。仁義(ひとよし)兄貴も多分、若い頃に見たことある筈や。俺も道から見ただけやけんど、家は古そうだが入母屋風の平屋建てで、南側に小さな庭園が付いているみたいやわ。その庭の南側が畑で、この前、車で通った時に見たけんど、ちゃんと白菜とか大根とかほうれん草を作付しとったわ。大阪から百姓しに戻(も)んてきよんやろか。ほらまあ歳とったら大変やろうなあ」弟の忠孝が言う。
 私と忠孝。妻の和美と忠孝の奥さんの玲香さん。妻と携帯で連絡を取り、仕事が引けてから実家にお邪魔している。母親は老人会の旅行とかで今夜は外泊だという。
「お義母さんの話だと、今の持ち主のお父さんという人が県内の大きな会社の社長さんだったとかで、リタイアしてからひとりで住んで野菜なんかを作っていたそうよ」玲香さんが言う。
 玲香さんは徳島生まれなのだが、ほぼ正確な標準語を喋る。大学は関東の外語大学で、卒業後は東京で語学力を生かし外資系の会社へ就職し、トム・クルーズのようなイケメンのアメリカ人と結婚するのが夢だったらしい。
「それをコイツに騙されて」と、いつものパターンなのだが忠孝の頭を小突いてこう言うのだ。「ああ! 私の青春を、私の夢を返して!」「そんな阿保な!」忠孝が負けずにツッコミを入れる。「わしら相思相愛だったやろう」したり顔で言う。すかさず玲香さんが続ける。「そうそう、ソウソウ!相思相愛。涙(なだ)そうそう!」「何のこっちゃ。お前とはやっとれんわ!」と、なるのだが。
 この弟夫婦にも、現在や未来や子供たちに対する悩みや心配事もあるのだろうが、いつもこの調子である。
 子供は娘が二人。母親の都会へ出たいという遺伝子が忠孝の遺伝子に勝ったのか、ひとりは大阪へ嫁ぎ、下の娘は大阪の大学に通っている。
「ほんで、その家ってここからは近いんえ」妻の和美が徳島弁で聞く。イントネーションは標準語のマンマなのだが。
「近いわよ。義姉さんの足でも十分かからないくらいかな」玲香さんは全員の湯呑に急須からお茶を注ぎながら、今日はお天気もいいし、帰りに回り道して見てみたらと言う。
「ほうやなあ。あんた、帰りに見てみるで」妻は私の顔を見る。やっぱり彼女の徳島弁は変だが。
「駅にも近いし兄貴の会社にも我が家にも近い。便利は良(ええ)んと違(ちゃあ)うん。もし気にいったら銀行に連絡するけんど、まあ家の中も見せてもらわんことには。外から見る限りでは古いけど立派な家みたいやわ」弟が口をはさむ。
 銀行員の話では持ち主は四ケ月に一回くらいの割合で帰って来ているそうで、次回の予定は十一月の頭くらいに帰省するらしい。もし良かったら銀行に話を通し、その時に見せて貰ったらどうだろうかと言う。

 帰りにコンビニの賞味期限が過ぎた弁当を貰った。料理上手の和美は余り好まないのだが、今日は料理をする時間がないのでしょうがない。和美はこれまでにも何回か貰って帰ったことがある。
 自転車での市内探訪が終わった頃から、本当にたまになのだが、従業員やバイトのシフトに穴があいた時に限って、玲香さんに乞われコンビニを手伝っているのだ。
「お義姉さん商売向いているのじゃない。美人だし明るいしさあ。チョット天然なところがお年寄りに受けが良いのよ。若いバイトの娘なんかつっけんどんだからね。それにあの変な徳島弁」玲香さんはフフフと笑った。

 昔は若者の溜まり場みたいな観があったコンビニだが、最近は昔と違って年寄りの客が増えているのだという。近くに商店はない。スーパーに買い物に行くには、市の中心部まで出なければならない。コンビニならおおよその物は揃っている。近所に在るコンビニは年配者にとってはすこぶる利便性が良いのだ。それに伴って少しではあるが、ジャガイモや玉葱などの日持ちのする野菜。油揚げ、こんにゃく、卵のような商品も増えている。開店当時では考えられない商品のラインアップだという。

 私は徒歩で、和美は自転車を押して教えられた道に回った。かなり暗くなってはいたが、幸いなことに満月に近い太り過ぎたラグビーボールのような月が頼りなげに浮かんでいた。
 薄闇を通して目的の家屋は眺めることが出来た。
 狭い道路から奥まった宅地部分は三方を槇囲いで囲まれていた。薄闇でハッキリとは確認が出来ないものの、入母屋風の平屋造りであるようだった。
 宅地部内の南側が弟の言っていた日本庭園なのだろうが、槇垣に囲まれていて中までは見えない。名前は分からないが、一本だけ背の高い樹木が背伸びをするように薄闇の中に立っている。
 細い道路から、宅地の入り口の門扉に続く飛び石を敷いた長さ六メートル、幅三メートルほどの小路があり、門扉の上には門かぶりの松というのだろうか、斜めに傾いだ松の木が見えていた。
 土地は北を上にして見れば左右が逆のL字型で、逆L字の上部分が宅地、下部分が農地。
 その農地の西側部分と、門扉へと続く宅地への進入アプローチが、南北に走る狭い道路に接している。道路に接した農地の一部にコンクリートを打った部分があり、農地を切り取っていた。駐車場だろう。普通車なら四台くらい駐車可能だろうか。
 畑は宅地部分の倍位はあるだろうか、かなり広い。月明かりに透かし見ると、弟が言っていたように大根、白菜、ほうれん草、葱等の冬野菜が作付けられているようだった。
 明日の朝、通勤途中、回り道をして明るい時に見ることにした。和美はママチャリで昼に見に来ると言う。

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 家の持ち主の蒲池健二さんと奥様の浪子さんと対面したのは、十一月に入った土曜日のことだった。
 御主人の蒲池さんは細身で、半白の髪の毛は齢からいえば豊富だった。どちらかといえばシャープと表現できる皺の少ない引き締まった顔をしていたが、眼鏡の奥の大きな目は柔和な光をたたえ、喋り口もゆっくりと丁寧に話す人で、何処かのんびりといった印象のある七十がらみの老人だった。 
 上下揃いの紺のジャージ姿で「こんな格好で失礼します」と、最初に頭を下げた。
 奥さんの浪子さんは御主人よりは幾分年下であろう。ご主人とは対照的に、コートでも羽織ればそのまま外出できそうな黒を基調にしたニットの上下で決めている。ワンポイントで胸元に着けた銀色のブローチが都会的なセンスを垣間見せていた。
 シックな装いとは対照的に喋りだしたら止まらないという感じで、機関銃のようにポンポンと早口で言葉が飛び出す。ご主人が一言しゃべる間に奥さんが三言四言喋る感じである。
 聞くところでは大阪生まれの大阪育ちだという。私のイメージにある大阪のおばちゃんという感じだった。もちろん悪い意味ではなく。

 十月末の実家からの帰り道、薄闇の中でこの屋敷を垣間見たあくる日、私は回り道をして出勤した。
 夜には判らなかったのだが、三方を回る槇囲いも丁寧に刈り込まれている。道から見える門扉の上に上品に被さる松も、枝垂れ梅だろうか背の高い木も、慎重に人の手が入っているようだった。
 家屋の屋根は和瓦で葺かれ、西向きの玄関部分には小さな古い木製の引き戸が嵌まっているようだ。全容は槇囲いで見えないものの、庭に面する南側一面の窓には一枚ガラスのアルミサッシが嵌まっていた。建物の築年数から考えるとこれは後年改装したものだろう。
 妻の和美も同じ日、自転車で見学に出かけた。素敵だという。
「私が理想としていた田舎の日本家屋。しかも屋敷に付属した日本庭園もあるし、地続きで畑もあるし、条件にぴったりやわ。駅にも近いし。あたりは静かやし。申し分ない。早く家の中を見たい」
 妻は三回程見に行った後、私の了解を取り、弟を経由して銀行に頼み、持ち主の蒲池さんとのアポを取ったのだった。

 簡単な挨拶を済ませ、浪子夫人の案内で一通り家の中と庭、隣接する畑を見て回った。奥さんの機関銃を連射するような解説付きで。
 今は客間と蒲池さんが称する床の間のある八畳間に通され、四人が和机を挟んで向かい合っている。
 一間(約百八十センチ)はあろうかと思われる広縁というのだろうか―外廊下が南側、東側をぐるりと取り囲み一枚ガラスのアルミサッシがはめ込まれ、座敷と廊下は障子で仕切られているのだが、今はその座敷と廊下を隔てる障子は全て開け放たれているので、良く手入れされた和風の庭園が見渡せる。はるか遠くに晩秋の四国山脈が遠望でき、周りに民家は見えないので、丁度良い借景となっている。
 廊下は東外廊下の北端で内廊下と継がり、内廊下を境に北側に風呂、トイレ、ダイニングキッチン。南側に六畳間の寝室、同じくらいの広さの和室のリビングがあり、その二間の間に玄関に出る中廊下が南北に設えられている。
「この座敷はいわば客間でして、普段は使っていないんですね」奥さんの浪子さんが持ってきた日本茶を飲んで、蒲池さんが口をきった。
「京間ですよね。マンションサイズと比べると可成り広いですね」私は今しがた奥さんが入って来た、中廊下とこの部屋を隔てる襖の上の凝った細工の欄間を見上げながら言った。
 建築のこととなれば元マンションの企画者である。京間に使われる畳の大きさは約三尺(九一センチ)×六尺(一八二センチ)。それに比べ江戸間サイズでは二尺九寸×五尺八寸と小さくなり、マンション等でよく使う公団サイズと呼ばれるモジュールは、一番小さく二尺八寸×五尺六寸になる。
「私の親父が母親、つまり私の祖母のために建てた隠居部屋みたいなものです。現に親父も晩年はここで暮していましたが」
「県内企業の社長さんをされていたとか」
「社長といってもオーナーではなく、雇われ社長でして」蒲池さんはかねて私も知っていた県内の製紙会社の名を告げた。
 その名も今はない。大手の製紙会社と何年か前に合併したのだ。
「うちの家族は満州からの引揚者でね。私はその時三歳になったばかりで、当時の記憶といってもほとんどなくて」私と和美の顔を半々に見まわした。
 先程まではよく喋っていた奥さんは、この話には口を挟むつもりはないようで、黙ってお茶をすすっている。
       6
 蒲池さんの祖父と祖母は満州で大きな料亭を経営していた。
 母親は料亭を手伝い、父親は商社の社員として軍に出入りしていたのだという。
 子供は蒲池さんの上に四歳違いの兄。二歳上の姉がいた。
 日本の敗戦が決定的となり、明日にも露助が攻めてくるとの情報は父親がもたらした。 
 当時、満州でも大方の若い男は軍に現地召集されて、女子供と年寄りしか残っていなかったのだというが、何故か蒲池さんの父親は地方人(民間人)のままであった。
「どうして、親父が予備役のまま召集されなかったのかは分かりません。親父も戦時中のことは、後になっても余り喋りたがらなかった。商社員として軍に出入りしていたことが関係するのかもしれません」蒲池さんは昔を思い出すように、考え考えゆっくりと喋る。
「ひとつだけ親父の言葉で記憶に残っていることがあるのですが……。あれは私が中学校に入った頃だったかなあ、何かの折にぽつんと言ったんですよ」
 その時、蒲池さんの父親はこんなことを言ったのだそうだ。
『俺は兵隊としては人を殺さなかった。しかし、商社の社員として軍へ軍事物資を納めていたのだから、間接的にはやはり人を殺したことになる。自分は戦場へは出ずに戦争に加担していたのだから、かえってたちが悪い』そう言ったのだという。
 軍に出入りしていた関係で、日本が戦争に負けること、ソ連が攻めて来るとの情報は速かったらしい。
「当時、私は三歳でその時のことは全く覚えてはいないのですが、後になって人から聞いたり、本を読んだりして知りました」蒲池さんは言う。
 ソ連が日本との条約を破り、満州に侵攻したのが昭和二十年八月九日。終戦の玉音放送が八月十五日だった。
 蒲池さんの父親がこの情報を入手したのは終戦前―おそらく九日から十四日の間ではなかったろうか。―というのも、蒲池さんたち家族が満州から脱出したのは終戦前だったか、終戦直後だったろうとのことである。軍が第一次の帰還列車を準備したのであった。
 祖父と祖母、父親と母親は、その情報を地域の邦人会を通じ知らせた。その時、祖父は邦人会の世話人をしていたのだった。
 しかし、祖父や父親の説得にもかかわらず、邦人会は紛糾した。「神国日本が負けるわけがない。この非国民が!」そう息巻く者まで現れた。結局、邦人会としての意見はまとまらず、第一次帰還に応じた民間人は少数であった。
 したがって、第一次の帰還列車に乗り込んだのは軍人軍属の家族が大半で、一般住民は数少なかった。
 蒲池さん一家はこの一次帰還列車に乗り込んだのであった。ただし、祖父だけを残し。
 祖父は「邦人会を説得しなければいけないし、少し残って残務整理をしてから後を追う。お前たちは先に逃げろ」と、言った。
 家族は、危ない、心配だ。一緒に逃げようと言った。
 祖父は「大丈夫だ。日本軍もまだ残っている。私は絶対に故国に帰る。心配するな」そう言った。
 家族は後ろ髪挽かれる思いで祖父を残した。
 父親と祖母は持てる限りの荷物を持ち、母親は姉の手を取り、蒲池さんは兄に背負われて命からがら脱出をした。
 徒歩と列車を乗り継ぎ、やっと船に乗ることが出来た。しかし、兄はその船の中で亡くなったのだという。
「兄が船の中で亡くなったのは、おぼろげながら記憶にあります。死体を海に流したのかなあ。そんな記憶が残っています。私が大きくなっても、父母も祖母も姉もその時のことは一切、喋ってはくれませんでしたが」沈んだ声で言う。
 身一つで帰還した家族五人は親戚を頼った。本家筋の家だった。
 土地を借り、バラックのような小屋を建て、五人は身を寄せ合った。借りた土地で農作物を育て、戦後の食糧難をかろうじて凌いだ。
 その後、知人の伝手で父は後年社長となる製紙会社に就職をした。当時その会社は県南部にあったので、最初は父親だけの、今でいう単身赴任だった。
 蒲池さんが小学校入学前に、父は会社近くの一戸建てを借り家族を呼び寄せた。ただ、祖母は頑なに動こうとはしなかった。
「お爺ちゃんが還って来るかも知れない。ここだと本家の近くなので帰ってきたらすぐに分かるし、一番に訪ねて来る筈だ。私はここで爺ちゃんを待つよ」
 バラックを取り壊し小さな家を建てた。しかし祖父は還ってこなかった。何処でどうなったのか未だに分からないそうだ。

        7
 後年、蒲池さんの父親は今のこの家に建て直した。お婆ちゃんの要望を出来る限り取り入れこのような建物になった。土地も買った。農地も買い足した。
 祖母は一人暮らしでも元気だった。亡くなる間際まで農業をしていたのだという。
「本当に元気で可愛らしいお婆ちゃんでした」待ち構えたように奥さんの浪子さんは話に入ってきた。
「私たちは結婚してずっと大阪暮らしなんですけど、盆とか正月には徳島へ帰ってきていました。主人と義父が色々あって、お義父さんの所へはあまり行きませんでしたが、お婆ちゃんの所へはしょっちゅう―。お婆ちゃん、戦前、料亭の女将をやっていたくらいの人ですから料理なんかはセンスが良くてね。自分で育てた野菜を使って料亭みたいなご馳走を出してくれたものです。スイカひとつ切り分けるにしてもね、そりゃあ綺麗な形に切ってね」浪子さんは昔を思い出して目を細める。
「素敵なお婆ちゃんだったんですね」和美が口を挟む。今日は和美独特の徳島弁は封印している。前もって私が釘を刺しておいたのだ。
「料理だけじゃあなくてね。着物を着ても洋服を着ても、そりゃあセンスが良かった。ホント、全般的に様子が良いとでも言いますか。品があってね」浪子さんが言う。
「あら、奥様だってお洋服のセンスとても素晴らしいですわ」和美が浪子さんの黒いニットを見て、たぶん御世辞ではなく褒める。
「私、趣味で洋裁と編み物をやっていまして、この服も手作りなのですよ」
「まあ!すごい。本当に素敵です」
女性たちのお喋りはそのままにして、私は蒲池さんに聞いた。
「築年数はどのくらいになりますか」
「そうですねえ。五十年以上にはなりますかね。耐震性能は保証できませんが、昔の建物なのでがっちりしています。それと親父が亡くなる前に全面的に改装しましてね。屋根瓦はその時葺き替えていますし、この一枚ガラスのアルミサッシも―」と、外に目をやる。「それまでは、昔風の木の雨戸と障子だったのですが。まあ内装の襖とか障子は当初の儘なのですがね。キッチンとかトイレ、風呂なんかの水回りもその時に」
「古いですがなかなか立派な建具ですね。でも玄関が少し狭いですね」
「昔風の家ですからねえ。祖母も父親もここでは独り暮らしだったので―私の母親は早くに亡くなりまして―その点は不便を感じなかったのでしょうね。改装したのも私たち夫婦がリタイアした後、田舎で暮らせるようにとのことだったのです。玄関が狭いと思ったらお前たちが好きなように改装してくれと生前言っていました」
「それで蒲池さん、ここに住む気は?」私は尋ねた。
「それがね……」蒲池さんは言いよどみ、暫し考える風をする。
「実は私と父は一時期、かなり折り合いの悪い時期があったのです。あれは父が社長になる前後からですかね。私が高校の時ぐらいから結婚してから十数年ぐらいまで。そんな状況だったので大阪で就職し、結婚し、大阪に家を建てた。父は自分が社長をする会社へ私を就職させたがっていたのですが。まあ、若かった私にも父に対する反撥があったのでしょうな」蒲池さんは若かりし頃を思い出すように、ひとり頷く。
「失礼ですが、お父さんとはどういった……」私は遠慮がちに聞く。
「母は私が中学生の頃から病気がちでね。入退院を繰り返していました。結局、私が高校に入学した年に亡くなったのですが。まあ、父も寂しかったのでしょうね……」言いよどむ。
 和美と話していた浪子さんがここぞとばかり口を挟む。「お義父さん、それはそれは艶福家だったらしいんですのよ」
 艶福家と上品な言い方はしたものの、少なからず軽蔑っぽい、嫌味っぽい、皮肉っぽい、そんなニュアンスがあった。
 蒲池さんは小さく頷きながら言う。「私の姉などはそれを酷く嫌がりましてね。そういった女(ひと)が何人いたのかは分かりません。これはその当時姉から聞いたのですが、その内のひとりに姉とやたら齢の違わない女性もいたらしい」蒲池さんは昔を思い出してか、小さくため息をつく。
「後年、親父とは和解しましたがね」
 和美と話に興じている浪子さんを見て言う。「親父の残した家だし、三歳から小学校入学前まで暮らした土地なので愛着はあります。ですから、今までも保全のため年数回帰って来ていたのです。家って風を通さないとすぐに痛みますから。それに庭の木の手入れもありますし」
「綺麗にメンテナンスされていますよね」私は口を挟む。
「妻がね、大阪生まれの大阪育ちでして。、完全な都会っ子なもので―田舎暮らしは嫌だと言うのです。大阪に家も持っていますし。スーパーで買物するにしても車が必要な距離でしょう。付近には商店もありませんしね。私は免許持っていますけど、妻は持っていませんので」
 ここを訪れた時、畑の一角に設えた駐車場に大阪ナンバーのハイブリッド車が止まっているのを見た。いつも車で帰省しているのだという。
「それと近所付き合いに自信がないと。都会っ子ですから田舎の濃い付き合いはどうも。私も大学進学以来ずっと大阪暮らしですから、妻の言うことも分かるんです」
 蒲池さんは話を切り、息を継ぐ。
「子育てなどには田舎の一戸建ては良いと思いますよ。自然も豊富ですし。幸いここは畑も付いていますので新鮮な野菜も食べられますしね。息子にも相談したのですが、息子夫婦も大阪でマンションを買っていますし、それに今の仕事を辞めてまで、徳島に引っ越すなんてどだい無理な話ですからね」
「田舎は働き場所がねえ……」
「息子は売れるものなら売ってしまったらと言うんですね。これから齢をとれば帰るのもだんだん大変になると。事実、最近では大阪から運転して帰るのも少し疲れます。齢なのでしょうね」若干顔をしかめ苦笑する。
「そういえば銀行の人から聞いたのですが、端月さんは東京から引っ越してこられたとか。奥さんは東京の方なのによく決心されましたなあ」
「運よくこの近くの会社に再就職できたわけですが、ひとつには妻の田舎暮らし願望があったのですよ。私よりは積極的でした」私は浪子さんと話している妻を見やった。
「うちの妻とは正反対ですな」蒲池さんも浪子さんを見て笑った。
 
 付属する農地の話題へと移った。
 面積は七畝半(約七百五十㎡)程だという。綺麗に作付けされているのは話を聞けば道理で、本家のお婆ちゃんに作って貰っているとのことだ。
「農地は家を建てた時、宅地と同時に親父が本家から買い受けたのです」
 かつてここら辺一帯は本家の田畑だったという。
「かなりの土地を所有していたらしいんですけど、農地改革で取られてしまって、屋敷周辺だけが残ったそうです」
 蒲池邸から北へ五十メートル行った所を東西に旧県道が走っている。蒲池邸へはその県道からの細い道路を南へ入るのだが、県道と進入路の角にある大きな入母屋造りの家が本家なのだそうだ。
 本家の婆さんはもう八十過ぎかなあ。あの大きな家に独りで住んでいましてね、と蒲池さんは言う。
 蒲池さんの宅地部分は西側と北側、東側を田んぼで囲まれている。夏場だけ稲を作っているそうだ。現に西側と北側の田は、稲株が刈り取った儘で残っているのが道から見えていた。毎年五月頃に田植えをするのだと言う。本家にはあと五反ほど畑があるのだが小作に貸しているのだそうだ。
「本家の婆ちゃんも、齢なので何時までも百姓は出来ない。考えてくれと言われているんですよ。この屋敷の南側の畑は、親父が死んでからずっと作ってもらっています」お蔭様で今は草林にならずにすんでいるという。
「妻が野菜を作りたいと言っています。少し広すぎるとは思うのですが、私も手伝えば何とかなる広さだとは思います」私は言った。
「トラクターまでは要らないとは思いますが、小さな耕耘機ぐらいは必要かも知れませんね」まあ私、百姓は一回もやったことがないので偉そうには言えませんけどと、蒲池さんは笑った。
 蒲池さん宅を辞した帰り道。和美は元気な声で言った。
「良(ええ)なあ。ええなあ。私気に入ったわ。あんた、どう思いよんえ? 考えてみてもええんと違(ちゃあ)うん。ほんま良い(ええ)家でよ」テンションが上がっていた。和美流徳島弁は復活していた。

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 銀行を通し、買う意思があることを蒲池さんに伝えて貰った。蒲池さんの電話番号は伺っていたのだが、まずは紹介者である銀行の顔をたてた。折り返し銀行から電話があった。「先方さんも前向きに考えたいとおっしゃっているので、今後は当事者同士でお話ください」
 翌日の昼間、和美が電話をした。
 先ずは私たちにしても売り手の蒲池さんにしても、売買金額が最も重要な事項だろう。総額六百万でどうだろうとの返答であった。
 和美はインターネットで路線価格、公示価格、調査価格などのホームページとかP市の不動産情報のページを検索し、価格情報を得て彼女なりに分析していた。
 この辺の畑地はかなり安いのだという。場所にもよるが一反あたり百万から二百万円くらい。宅地は路線価格から推測すると一㎡あたり一万円くらいとの和美の分析だ。ただし路線価格と実勢価格には差があり、高い場合もあり低い場合もありうる。その点をどう考慮するかなのだが、まずは大雑把に計算してみたという。
 蒲池さんから聞いていた面積から推測すると、宅地部分が四百五十㎡なので四百五十万円。農地が七百五十㎡あるので、一㎡を二千円として百五十万円。トータルで六百万。これが和美の分析だった。但し建物と庭園は評価に入れていない。
「建物の価値をどう評価するかが難しいんよね。築五十年以上になるしね。税制上からいえばほとんど無価値だろうし」和美が思案顔になる。
 東京近郊の地価等と比較すると考えられない安さである。ただ東京とP市の不動産価格を比較すること自体意味がないとは思うが。
 P市での実勢価格からいうと安いともいえないし、べらぼうに高いともいえない。ただ今迄の色々な人から紹介してもらったり話を聞いたりした中で、売り物件はかなりあるのだが、実際には売れないというのがこのP市での実情のようなのだ。
 国道沿いとか県道沿いには売り物件、貸物件と書いた立看板がやたら目に付く。購読している地元新聞の掲載広告、折り込み広告にも物件情報が山ほどある。毎週金、土曜日の掲載が多いのだが、同じ物件がいつも載っている。
 物の売り買いはシーズとニーズの合致が大前提だ。だからオークションなどで有名人が書いた手紙とか色紙に何十万とか何百万の値が付く。色紙とか手紙自体の値段なんてせいぜい数百円だろう。興味がない人にとっては「何でそんなものがウン百万円もするのよ」ということになる。
 売りたい人がいて、欲しい人がいる。そこで両者が納得した金額が適正な価格なのだろう。
 私達の場合はどうだろう。シーズとニーズは合致している。和美はいたく気にいっているようだし、蒲池さんも売りたがっている。しかし実際の売買に進展していくと、そこには売買価格というものが夾雑物として両者を隔てようとする。売り手は当然高く売りたい。買い手はその逆。
「建物の評価は別におくとして、私達がどうしても欲しいと思うかどうかだろう。和美の条件は完全にクリアしている。畑は地続きだから耕作はしやすいし。家自体も気にいっているのだろう?」私は和美に言う。「築五十年以上なので耐震性能はしょうがないが、しっかりとした昔の木造建築だとは思う。玄関が狭いけど二人で住む分には余り支障はないだろう。住んでみて必要なら改装してもいい。君が気にいっているのなら私は構わない。それが一番だと思う。故郷へ帰ったのだって、君の田舎暮らしをしたいという長年の夢を叶える為もある。そして、それが私の喜びでもあるわけだ。私は君が幸せならそれが一番だと思う」
「ありがとう、あなた。久し振りにあなたの優しさを実感したわ」標準語で言った。心持目が潤んでいるようだ。
「久し振りはないだろう。私はいつも和美には優しいよ」茶化した。

        9
 会社の休憩時間を利用し蒲池さんに連絡を入れた。売買契約を結びたいというこちらの申し出に対し「お値段のほうは?」と、少し遠慮がちに蒲池さんは聞いた。
「そちらの言い値の六百万で」
「そうですか。有難うございます」蒲池さんの電話を通した声が明るく響いた―。

 蒲池邸を訪問してから、二週間かけて和美と二人であれやこれやと検討を加えた。最終的には弟夫婦にも相談した。
 昨夜、和美と実家を訪ね、母も含めて弟夫婦と話し合った。三人とも概ね賛成の意向であった。 
 ここでも家の評価をどのようにするかが問題になった。
「蒲池さんとこのあの家やろう。古いけんど、そりゃあ立派な家でよ。お金かけとると思うわ。庭も綺麗やろう。お分限者の家みたいでえ。最初は小さな家やったらしいけんど、大きいんに建て変えて綺麗なお婆ちゃんが住んどったんよ」私に顔を向けて母が言う。「あれは仁義が生まれた頃かいなあ。その頃、若い娘さんが一緒に居った。お手伝いさんだろうけんど―。その子も暫くしておらんようになって、そのあとはずっと婆ちゃんひとり。その婆ちゃんが死んだあと、社長さんやんりょった蒲池さんが引っ越してきたんよ。ビールが好きでなあ。うちの爺ちゃんがよう配達に行きょった。社長さんにな、わしが作った野菜ですけんちゅうて、よう畑の作物貰うてきよったんでよ」                     
 母の昔話をひとしきり聞いた後、弟の忠孝が口を開いた。
「相手さんの言う値段が適正かどうかは判断するのは難しいんやけど。仁義兄貴はどう思おうとん」土地だけの価格としては通り相場ではないだろうか。それ程安くもないと、弟は付け足す。
「忠孝。お前の言うとおりだ。ただ、家の評価をどうするか和美とも話し合ったのだが―」
「あの家気にいっとおけん、蒲池さんの言い値でええと私思いよんよ。お百姓も出来るし私の理想の田舎の民家やもん」私の言葉を引き取って和美が嬉しそうに言う。
「そうだよね。お義姉さんが気に入っているのだったらそれが一番よね。家だけ買って、農地は別の所を買うか小作で借りるという方法もあるらしいけど、農地が地続きというのは魅力的よね」横合いから玲香さんが口を挟む。
「ただ古い家なので白蟻の検査と雨漏り、上下水道の水漏れ検査。ここらへんを条件に入れようと思っている」私が言う。
「雨漏りなんか住んでみなきゃわかんないものね」玲香さんが頷く。
「これで義姉さんも念願の野菜作りが出来るわけや。すぐに契約したら、ジャガイモとかキャベツとかレタスとかの春野菜作れるんと違うん。俺も百姓やったことないけんど、年明けくらいが春野菜の植え時期だろう」
「私も何を作ろうかって、今から楽しみなんよ」和美が微笑む。
「上手く話が纏まれば私も嬉しい」玲香さんが言う。「私、今だから言うけどね。仁義義兄さんが徳島へ帰ってくるって聞いた時、ちょっと複雑な心境だったのよ」
 いったい何の為に今更帰ると言い出したのか。実家は弟夫婦に任せた。私はずっと東京暮らしをする。そう公言していた人が何でまた―。色々、良からぬ想像が頭に浮かぶ。疑心暗鬼というやつである。
「そりゃあ、お義兄さんと忠孝は黙っていても分かり合える、何ていうの……、血を……ええっと」言いよどむ。
「血沸き肉躍る!」和美がここぞとばかり助け船を出す。
「そう、それ。血沸き肉躍る兄弟……ん? 違う! 違うでしょう義姉さん!」玲香さん英語を喋らせたらネイティブスピーカーなのだが、こと日本語のボキャブラリーには多少難がある。和美もどっこいどっこいなのだが。
「血肉を分けた―」弟が言う。
「そう、それ。血肉を分けた兄弟だから、何も言わなくても何も聞かなくても、相手の思っていることが分かる。でも私は所詮他人だから」ひょっとしたらこの実家に居座るつもりではなかろうか。永らく家を出ていたとしてもこの家の長男なのだ。それに未だ定年まで間があるというのに退職したというではないか。長年かけて築き上げた私の立位置がぐらつくのではないか。
「私だって嫁姑の問題を簡単にクリアしたわけじゃあないのだからね。ねえお婆ちゃん」玲香さんは笑顔を母に向ける。母はこれまた笑顔で「まあ昔の話じゃけん。頭ボケてしもうて忘っせとるけん。がいな嫁が来たなと最初は思うたけんどな。ほだけんど玲香さんええ嫁でよ」ふむふむと頷く。
 絶対に惚けてはいない。ここらが永年、恩讐を超えて築き上げてきた、嫁姑の阿吽の呼吸というやつか。この二人、当然、かつては言うに言われぬドロドロバトルもあったのだろうが、嫁姑問題など今は完全にクリアしているようだ。
「まあタイムフライズライクアンアローで昔の話だけど。最初から順風……」
「順風満帆!」和美が今度こそはと張り切って言う。合っていた。
「ザッツライト。そうゆうことなのよ。最初からそうゆうわけにはいかなかったの。今じゃあこうやってお義母さんと笑って話せる仲ではあるんだけどね。まあそれはそれとして、私と和美義姉さんは昔から気が合う間柄だから、無茶苦茶心配したってことでもないのだけど」
「帰る前にはっきりと理由を説明しておけば良かった。玲香さんには要らぬ心配をさせたわけだ」私は軽く頭を下げた。
「いやいや。お義兄さんだって長年勤めた会社をクビになったのでしょ」
 あっ、いや、決してクビではないのだけれど。でも、まあ同じようなものかなあ。
「でもお義姉さんから事情を聴いて私のもやもやは直ぐ解消した。お義姉さんが近くに居てくれれば私も楽しいしね」和美に微笑む。「でもお義兄さん、和美さんの為によく決心したわよね」私に顔を向ける。
「ずっと仕事一筋だったろう。子育てだって任せっぱなし。苦労かけた。しかし数十年家族を犠牲にして勤めてきたって、今度のように会社都合のリストラだよね。これからは私が和美の夢を叶えてやらなければ―そう思った。和美の夢を叶えるのが私の夢。そう思った」ちょっと言葉が湿ったかもしれない。
「もうすぐ二人の夢が叶うわけだ」弟が私と和美の顔を半々に見て言った。

        10
 ―受話器を通した蒲池さんの声が心持弾んで聞こえる。
 私が白蟻、雨漏り、上下水の水漏れ検査などと農作物の開始時期等のこちらの条件を提示し、蒲池さんが「わかりました」と確約した後、今後の段取りをどうするかの話になった。
「売買金額も確定いたしましたし、後は契約を結び権利の移転ということになろうかと思いますが、これは司法書士さんにお願いしたいと思います。いかがでしょう」
 私に異存のあろう筈もなく、勿論、了承した。
「私の父が土地を買った時にお世話になった司法書士さんがいます。電話帳で調べたのですが、代は変わっているかもしれませんが、今も事務所はあるみたいです。端月さんがお住いの町からJRで二駅の所です。二人で行くのが筋なのですが、前もってあなたの方で当たっていただければ有難い。地の利ということで―無理を言いますが。私の方からも電話は入れておきます」
「分かりました。善は急げです。明日にでも妻に行かせます。私も今の会社に移ってから間もないので有給休暇はまだありませんし、そうそう休むというわけにも参りませんので」 司法書士さんの電話番号と住所氏名を聞いて受話器を置いた。

 次の日の夜、和美の話に愕然とした。
 買えないのだという。
 和美は昼間、蒲池さんから紹介のあった上村司法書士事務所へ行ってきた。
 上村書士は和美の話を聞き、首を捻ったのだという。
「農地が付属しているのですね。宅地の売り買いに問題は全くないのですが、農地がねえ……」上村司法書士は思案顔で言う。
「どういうことですか」和美は訊いた。
「端月さん。他に農地をお持ちでしょうか?」
 農地を農地として買うには三反(三千㎡=三十アール)所有していなければ買うことが出来ないのだという。書士はすまなそうに言った。
「農地法という法律がありましてね。この場合だと付属する農地が七畝半(七百五十㎡)ありますので、あと二反二畝半(二千二百五十㎡)お持ちなら何の支障も有りません。購入面積を含めて三反(三千㎡)以上でないと農地は農地として買うことが出来ないのです。P市では三反ですが、他の自治体では五反、つまり五十アールが下限面積になっている所が多いです。北海道などはこの下限面積がもっと広くなります。まあ農業でもしていない限り、それと不動産屋さんでもない限り、一般の方は係わりのない法律だとは思いますが」
 
 農地は簡単には転用できない。権利の移転も容易ではない。
所有者なり購入者が勝手に農地を宅地などに転用してしまえば、国内の農地はなくなってしまう。
 農地法の趣旨は国民の食糧の安定供給が目的であり、その為に高いハードルを設け農地は保護されている。
「古い法律なのですが」と、上村司法書士は言った。
「私、野菜を作りたいんです。お百姓をしたいんです。この農地部分を農地として使うつもりなんやけど、それでも駄目なんですか」
「先程も申し上げたように下限面積というのがありまして。全ての農地は農業委員会という所が管理しています。売り買い、転用、全て農業委員会を通して許可を得るというシステムなのです」
「農業委員会―ですか」
「市役所に農業委員会事務局という部署があります。そこへ行って、職員に詳しい話をされることをお勧めします」上村書士は続けた。「それと農業委員会関連の書類提出とか代行手続きなんかは私の仕事の範疇から外れます。行政書士さんの職務となります」もちろん知り合いの行政書士をご紹介は出来ますが、先ずは事務局で話を聞いて来て下さい。それからです。と、上村司法書士は言ったのだった。

 和美は関連ホームページをプリントアウトしたA4用紙を広げる。書士事務所から帰った後、ググッたそうだ。
 妻の説明によると権利移転、農地転用に関しては農地法の三つの条文が絡んでくるのだという。
 第三条が所有権の移転、小作件の設定などで農業委員会の許可がいる。第四条と第五条が農地の転用。この場合は県知事の許可を要するという。四条は自分の農地を宅地などに転用する場合だが、例えば自分の持っている農地に息子の家を建てるなど。五条はこれに権利の移転が伴う。他人が買って家を建てる場合などだ。
 しかし、これも一筋縄ではいかず、他の条文とか法律とか条令が複雑に絡んでくる。
 農振区域など自治体が計画した区域にあれば売買、転用などに制限がかかる。また転用する場合は除外申請というものをするそうだが、知事の転用許可を得るためには一年、長ければ二年もかかる上に、必ずしも許可が下りるとは限らないのだという。
「それじゃあ農地付きの家は買えないということになる。三十アール以上の畑が付いていれば別だが」和美の解説を聞いて考え込んでしまった。
「三反もの土地は要らんわ。広すぎる。それこそトラクターとか大きな農機具が必要になってくるし」和美が思案顔で言った。「とりあえず明日、農業委員会に行こうと思う。話を聞いてくる」
「私も行こう」
「あなた、お休みとれるん?」
「午後なら多分とれると思う。朝、上司に聞いてみる」
「あなたと一緒なら私も心強いわ」和美は少し泣くような顔で笑った。

         11
 三時から早退することが出来た。和美と連絡を取った。和美の話では玲香さんが車で市役所まで送ってくれるという。国道を隔てて市役所の北側にある大きなスーパーに買い物に行く予定だそうだ。
 自宅のコンビニ商品で大方のものは間に合うのだが、こと生鮮食品、鮮魚とか精肉、それと野菜などは週何回かスーパーへ買い出しに行くのだ。
「コンビニの賞味期限切れのお弁当ばかりじゃ飽きちゃうし、味付けが家庭料理に比べるとやはり濃いでしょ。美味しいのは美味しいんだけれどね、毎日は食べられない。それに、ほんとは賞味期限切れの食品は全て廃棄処分しなきゃなんない規定があるのだけれどね。でもねえ、勿体ないじゃない」玲香さんはハンドルを握りながら助手席の和美に話しかける。
「この前、お義姉さんに教わったコンビニ弁当のアレンジ料理。あれ美味しかった。ちょっと手を加えれば家庭の味になる。お義姉さん料理の天才じゃない」
 玲香さんの賞賛に和美はぎこちなく微笑む。これから行く農業委員会のことで頭が一杯なのだろう。
「それにしても農地付きの家は買えないなんてややこしい話だよね。農地は農家でないと買えないということだよね。新しくお百姓をしたいという人なんかどうするんだろう」  
 和美からあらかたの経緯は聞いているらしく、ルームミラー越しに後部座席に座った私の顔を見る。
「司法書士さんの話だと、この地区では三十アールが農業をする場合の最低条件らしい」
「じゃあ義姉さんのように少し大規模な家庭菜園をやりたい人なんかは、土地を持つことも出来ないわけだよねえ。なんか矛盾している」
 玲香さんは憤懣というのでもないだろうが、腑に落ちないという口調だ。私自身も和美も同じ思いなのだ。玲香さんの言うように矛盾を感じるし、腑に落ちない。

 農地法という法律の高尚な趣旨は分かる。日本の食を守るという意義も大いに認める。
 しかし和美は農地を手に入れ、そこで百姓をしたいと言っているのだ。たとえ小規模でも、収穫物が家族、親戚、知り合い、ご近所だけにしか供給できないとしても。だけどそれはごく小さな貢献でしかないが、日本の食を守るという趣旨には合致しているのではないか。
 それとも、穿ち過ぎかもしれないがこうも考えられる。法律は私達を信用してはいないのだ。いくら和美が百姓をします、野菜を作りますと言っても、本当にそれを実行するかどうかを信じていないということなのだ。だから小さな農地に関しては最初から門前払いを喰らわせる。行政にとってもその方が監理しやすい。小さな農地が沢山増えても煩雑さが増すだけだと考えているのか。そこには純粋に百姓をしたいと願う者への労りなど微塵も感じられない。
 昔、ビール醸造に関して聞いたことがある。日本のビールメーカーは大手四社、沖縄を含めれば五社に限定されていた。醸造量に下限値があり、それ以下の醸造量では認可が下りないのだという。対象が少なければ税金も取りやすいし、事務も煩雑さを回避できるわけだ。もちろん現在ではかなり緩和され地ビールなどのメーカーが各地に誕生してはいるが。外国などでは個人が自由にビールを作ることが出来るそうだ。地ビールならぬ自ビールだ。
 農地に関してもこれと同じことがいえるのではないか。大規模農家だけに限定すれば税金もかけやすいし、事務面でも効率化が可能だ。だから三十アール以上というくくりを設ける。それ以下の農地は「駄目ですよ。あなたは農業する資格がありません」と、なる。
 しかし現状はどうだろう。田舎に帰ってよく分かったのだが、P市内でも少し郊外部に行けば耕作放棄地がやたら目につく。
 作物を全く作っていなくても、年何回か除草の為に耕している土地はまだいい。
 下草が生え放題で、大人の身長程になっている畑がいたるところにあるのだ。酷い土地になると雑草ばかりか、灌木が生え放題という畑すら見受けられるのだ。
 そんなことを考え、そんなことを三人で喋っているうちに、車は市庁舎の来客用駐車場に滑り込んだ。
「すみませんでした。助かりました」私は運転席の玲香さんに頭を下げた。JRを利用すれば僅か二駅だが、待ち時間等を考慮するとこんなに短時間で来ることは難しい。
「ユアウエルカム、ノウプロブレム」チッチッと舌を鳴らしながら、左手の人差し指を立て顔の前で振る。普通の、しかも、もう若くはない女性がこれをやれば何かのギャグかと思って吹き出すところなのだが、玲香さんがやると様になっている。
「一階のエントランスに案内嬢が居るはず。私の買い物が早く終われば、この駐車場で待っているから」言い残し車を発進させた。

        12
 農業委員会事務局は四階建ての庁舎本館ではなく、駐車場を挟んだ東側の二階建ての別館にあった。本庁舎とは二階部分からの渡り廊下で繋がっている。
 南側半分が議会棟となっており、北側は農業振興課、林業課、商工観光課、上下水道課などが同居している。農業委員会は一階だと案内嬢は教えてくれた。
 玄関を入った正面が農業振興課。左側が林業課。右が農業委員会。それぞれプラスチック製の看板が天井から吊り下げられている。農業振興課と農業委員会の執務室はパーテーションで仕切られている。
 委員会の執務室は奥に向かって、向かい合わせに事務机が四つ並べられ、全ての机上にはパソコン端末が見える。
 一番奥まった所に大きな机があり、その机では年配の男が後ろの窓を背景にカウンターに顔を向ける位置で座っている。机の上には事務局長と書かれたプレートが見える。
 カウンターに一番近い席に眼鏡をかけた丸顔の若い男が座って端末のキーボードを叩いていた。
 若い女性がひとり、奥のコピー機の横に立ち、何やら書類を作りながら年配の男の指示を仰いでいるようだ。
 カウンターの前にはパイプ椅子が五脚程置かれているが、先客はないようで、今はその椅子の全てが空いていた。
 来意を告げると、若い眼鏡の男はキャスター付きの事務椅子に乗ったまま、「ピューー」という感じでスピードに乗って、器用に椅子をカウンター前まで転がしてきた。スゴク速い。停止も見事だ。
 パイプ椅子を右手で示し、お掛け下さいと私達を促す。
 経緯を説明すると、私が持参した蒲池さんの土地の住所番地と面積を書いたメモを摘み上げ首を捻る。
「宅地部分が約四百五十㎡、農地が七百五十㎡。で、両方を一括で購入したいということですね」私の顔を見る。
「農地を農地としては買うことが出来ないと書士さんの事務所で言われました」私が言うと「そうなんですよね。農地法では下限面積というのがありまして、各自治体で違うのですが、この市では三反、三十アール、つまり三千㎡になっているのです」
「私野菜を作りたいんです。前々からの夢だったんよ」和美が横から口を挟む。「やっと昔からの夢が実現すると思うとったのに……」
「家庭菜園ですか。それにしちゃー広すぎる」若い男は和美に視線を移す。
「丁度いい広さなんよ。一部には果樹を植えます。残った土地を交代で半分ずつ使います」和美の声が思わず大きくなる。
 奥まった机の局長がこちらに目を向ける。
「無農薬、有機栽培がしたいんよ。ほなけん、一回使用した部分は一年間休耕する。土地本来の力で野菜を育てたいんよ」昔からの夢なので妻は妻なりに勉強・研究をしていたのだろう。声に力が入る。また局長がこちらを見た。首を傾げている。
「私買った農地で農業をしたいと思いよんやけど、それでも農地として買えんのえ?」和美の声が更に大きくなる。局長が顔をあげこちらを窺う。
「私たちは農地付きの家という事で、魅力を感じて購入を考えたのですが……」私は言う。
「ほんまに気に入っとうけん。なんか良い方法無いんえ?」和美が言葉をかぶせる。声が更に高くなる。局長がマジ見をしている。
「そういわれましても……」和美の迫力に、若い職員は困った顔をする。
 局長も和美の声にこちらを凝視している。
「当市では農地法にのっとりましてですね、下限面積が決まっていまして……」
「ほなけん、方法ないんえってきいてるんです!」和美の声はさらに高くなる。
 局長は暫し考える仕草をし、やがて意を決したという風情で椅子からおもむろに立ち上がる。私達の方に歩み寄る。
 全体的にずんぐりとした体形で、齢は私と変わらないだろう。カウンター越しに私の顔を見下ろしながら言う。
「端月さんと違う?」立ったままで上から私を見下ろす。言葉を続ける。
「ああ、やっぱり端月さんでしょう。私サネダイラです。高校で同級だったサネダイラリョウイチです」首からぶら下げたネームカードを指で摘み上げ、私の目の前に翳す。
 ネームカードには實平良一と書かれ「實平」の部分に「さねだいら」と小さな活字でルビが振られていた。「えっとぶりやけん覚えてないかなあ」實平局長は丸い顔に唇の端を吊り上げるような笑みを浮かべる。
 私は「……はあ?」と、曖昧な返事を返し相手の顔を見る。
 大急ぎで記憶のポケットの中に手を突っ込み、目当てのものを取り出そうとする。だが、指先には何も引っかからない。必死で思い出そうとする。
 この「實平」という比較的珍しい名には何かしら記憶があるようには思ったのだが。しかし、この實平良一局長の顔は高校時代と繋がらないのだ。
「三十年以上前ですから無理もないかなあ。端月さん大学時代からずっと東京だったしねえ」實平局長は残念そうに言い「汽車通学でも一緒でした。覚えていません? 私は端月さんよりひと駅手前でしたけれど」
 徳島県では電車通学とは言わない。電車は走っていない。鉄道はJRがあるのだが電化されていない。沖縄と並んで電車が走っていない県なのだ。もっとも今は沖縄にはモノレールがある。これを電車だとすると、徳島県は日本で唯一、電車のない県となるのだ。
 實平さんにそう言われても思い出せなかった。その当時親しければ、この時点で記憶の糸口なり見つかる筈なのだが。
「そうそう、あのこと覚えていませんかねえ。九人ぐらいだったかなあ。三年生の夏休みに高校最後の思い出にと一泊二日で剣山へ登ったでしょう」言葉を切り私の顔を窺う。
 高校三年の夏休み。仲間と剣山登山をしたことは覚えていた。―と、いうか實平局長の言葉で遠い記憶が頭に甦った。ただ、今一度、實平さんの顔を見返しても彼は当時と繋がらないのだ。
 黙って私の返答を待っていた實平局長は、ややあってしびれを切らしたように口を開く。
「これ言っていいのかなあ。この名を出せば絶対思い出すと思うのですが」と、言いながら和美の顔に視線を移す。
 言っていいのかなあと言っておいて、和美の顔に視線をおいたま、薄い笑いを口元に浮かべ、躊躇するでもなく女性の名前を大きな声で言う。「中倉涼子覚えてない?」
 その名は直ぐに私の脳裏に浮かんだ。当時の中倉涼子の顔も甦る。甘さと苦さが混ざり合った遠い記憶が私の胸に去来する。私はそれらの思いを振り払い言葉を発する。
「ああ、確か……」私は暫し時間をおき、首を捻りながら實平さんを見る。「中倉さんと中学校の時から同級だった實平さん……?」
 そうは言ったものの、未だに實平さんの記憶は頭の中に薄霧がかかったように曖昧模糊としている。しかし、ここで昔話に花を咲かせるつもりもないし、そんな余裕もない。局長が発した中倉涼子という名前と汽車通学の乗降駅から連想し思い出した振りをした。
 今晩にでも実家へ行って当時の卒業アルバムを繰ってみるつもりだ。そうすればあやふやな實平さんに関する記憶もなんとか蘇えるかもしれない。實平さんが言った剣山登山の懐かしい写真も探せばある筈だ。
 横の和美が両目に?マークを張り付けたような顔で私を見る。このクエッションマークが實平局長に向けたものか、彼の口から出た「中倉涼子」という女性の名前に対するものかは分からなかったが。
 實平局長は私の言葉にやっと納得したのか「彼は私の高校の同級生でね。この場は私が―。君さっきのあれやっといて」眼鏡の若い職員に言う。若い職員は事務椅子に乗ったまま、すごいスピードで、器用に自分の机へ移動する。
 少しは歩かなきゃあ運動不足になるのじゃないかと、他人ごとながら心配するほど彼のテレポーテーションは職人技の域に達している。

 實平局長に変わった。また一から説明しなければならない。若い職員と先程したのと同じやりとりを重ねた。
 實平局長は私が持参したメモを手に取る。「えっ、蒲池邸―」一瞬、眼球が左右に動いた―ような気がした。
「ん? ご存知ですか」私は聞いた。
「いえ、……あの……。知りません。持ち主の名前は蒲池さんですね」慌てたように言う。
 實平局長は先程コピー機の前で書類を作っていた女性職員にメモの住所を読み上げ「図面出して」と指示する。
 図面を一目見て「端月君―」と言う。さんが君になっていた。「やはり三条では無理だなあ」
「何か方法はないんえ?」和美が聞く。
「奥さんですか?」私と和美の顔を半々に見て言う。言わずもがなだろう。唇の端を吊り上げる妙な笑い。「綺麗な奥さんですね。端月君」それはこの際関係ないだろう。世辞は要らん。
「市内には同じ様な物件はいっぱいありますからね。他の物件を見つけ、農地は他の所を借りるという方法もあるのですが」實平局長はニヤニヤ笑いを浮かべた顔で、和美の顔を窺いながら、考え考え言う。
「私ここが気に入ったんよ。地続きの畑も附(つ)いとうし、私の理想の田舎の家やけん」和美は声を大きくして言う。
「そうですか―」實平局長は何故か残念そうな顔で首を捻る。ややあって言う。「この物件でなければというなら五条申請するしかないでしょうね。つまり地目変更及び権利移転です」
「その場合、県知事の許可が必要で、期間も一年以上かかると聞いたのですが。それに許可が下りるかどうかも分からないって―」和美が不安げな顔をする。
「大丈夫です」實平局長は先程、女性職員がプリントアウトした図面をチラッと見て「この地区なら農業委員会の許可で済みます。約一か月、長くて二か月です。受け付けは随時やっていますし、委員会も毎月月末に開催していますが、今月受付分は来月末の審査になります。申し込み時期によっては最長で二か月かかります」
「本当に大丈夫なのですか」私も心配顔で聞く。
「ええ勿論。事務局が―私が、書類を通せば先ず間違いはない」實平局長は「私が」という部分を強調して言った。「私が書類を通して農業委員さんが反対だったことは今までありませんから」ズボンのポケットに左手を突っ込み大きく頷く。
「農業委員さんって、どうゆう方なんえ。市の職員さん?」和美が尋ねる。
「いや。一般の方です。農業をやられている方、農地を所有されている方なのですが、各地区におられましてね。報酬は出ていますが半分はボランティアみたいなものです。まあ、バブルの頃なんかは利権がらみで美味しい話もあったそうですが……。今は土地が動きませんからねえ。ええーっと端月君の地区は……?」暫し首を捻り考え、最後に諦めて、さっきの女子職員に私の地区の農業委員さんの名前を聞き、私に告げる。
 さらに、これは高校の同級生のよしみでアドバイスをするのだがというようなニュアンスを言葉の隅に含ませて局長は言ったのだった。
 農業委員会への手続きは個人でも出来るのだという。
「行政書士さんに頼むのも一つの方法ですが、申請自体は簡単ですから。書士さんに頼めばかなりお金もかかりますしね。端月君ならできますよ」實平局長は気楽な感じで言った。
 ただし、五条申請の場合は農地を宅地とか雑種地に地目変更するわけだから、購入目的として倉庫、駐車場、家族の居宅などとしなければならない。その場合、建物の図面、資金証明などの添付書類が必要だと言う。
「余った土地で奥さんが家庭菜園をする。これ以外に方法はないかと思います。あと今の持ち主―蒲池さんですか―に四条申請をして貰う」
「三条申請は無理だと。農地を農地として買うことは出来ないと」
「そうなりますね」わざとらしく難しい表情を作って尊大に頷く。
「売主さんともよく相談してください。端月君」局長は最初から最後まで立ったままの応対だった。
 私達は今一度、五条申請をした場合の許可が下りる期間が一か月、長くても二か月であるということを確認して農業委員会を出た。
      
         13
 駐車場まで歩く。私は大きく伸びをし、首を回す。和美も疲労の滲んだ顔をして黙って歩く。
 風が強く吹いていた。西空は雲量を増し、雲の隙間からはほとんど沈んだ夕陽の名残りが漏れていた。天気予報通り明日は雨になるのだろうか。
 アパートで和美だけを降ろして貰い、私は玲香さんの車で実家へ行った。
 玲香さんには道すがらあらかたの経緯は話したのだが、弟と母にも話しておこうと思った。今後どうするか彼らの意見も聞きたい。
 それともうひとつの目的は、アルバムにより實平局長を確定すること。
 彼が言っていた高校最後の夏の登山。一緒に登った人数は實平さんが言ったように、中倉涼子を含めた女四人、私を含め男が五人だったことは覚えている。―というか、彼の言葉で記憶が甦った。受験勉強の息抜きに仲の良い仲間で剣山登山しようということになった。中倉涼子が企画して私に持ちかけた。
「高校生活最後の夏だからね。ジン君、男の子四、五人集めてよ。私は女子を集めるから」涼子は私を当時のニックネームで呼び、そう言った。
 剣山は徳島県西南部の四国山脈中にあり、標高千九百五十五メートルの徳島県最高峰で、西日本では一番高い愛媛県の石鎚山に続く高さなのだが、比較的登りやすい山として知られている。
 涼子からの提案を受け、確か私は気心の知れた男の子数人を誘ったのだった。だから記憶を手繰り寄せればその時のメンバーの名前と顔は今も甦るのだ。
 ただ、實平さんは私の親しい友人ではなかった。ということは涼子の方のメンバーで登山に参加したのだろう。
 實平さんの口から「剣山登山」「中倉涼子」という言葉が出た時『中倉さんと中学校の時から同級だった實平さん』と私が彼に言ったのは、それらの話と汽車通学の乗降駅などの彼が発した情報から推測したのだった。中倉涼子も汽車通学だった。そして乗降駅は實平さんが言った駅だった。
 中倉涼子と付き合うようになってから、十数分だったが列車の中で話したり、ある時はふざけ合ったり、時には喧嘩もしたり、そんな通学時間を二年生の夏から高校卒業まで過ごしたのだった。
 卒業アルバムと高校時代の写真はすぐに見つけることが出来た。私が高校卒業まで使っていた二階の部屋に、弟夫婦の二人の娘の残していった物と一緒に綺麗に整頓されていた。
 先ず卒業アルバムを開く。見開きに校舎のカラー写真を背景に達筆の筆文字で書かれた校歌が印刷されている。
 高校時代はほとんど歌ったことはなかったのだが、今でもメロディーは覚えていた。
 頭の中に校歌が流れる。メロディーと一緒になって四十年近く昔の数々の思い出も流れる。
 實平さんの顔を確認するという当初の目的も何処へやら、私は懐かしさに浸りながらゆっくりとアルバムを繰っていた。
 三年一組から、あいうえお順に胸から上のモノクロームの顔写真が並んでいる。
 当時親しかった顔がある。部活の仲間。遊び仲間。そして少しだけ憧れを抱いた女の子。告白(こく)られた女の子。記憶が次から次へと甦る。
 クラスは一学年十クラス。私は二年生の時から十組だった。
 この高校では二年生の時に受験を目的としたクラス編成を行った。成績優秀者で理科系が十組。文科系が九組という編成だった。勿論、本人の希望優先。このクラスに入りたくない者は入らなくても良かったのだが。
 私は工学部を目指していたので十組に入った。
 中倉涼子と同じクラスになった。当時は今と違って理科系を選ぶ女性は多くはなかった。
 彼女のことは入学当初から知っていた。話したことなどなかったが、通学途上でよく見かけたし、だいいち美人だった。
 その一点だけを採っても美人だといえる透き通るような色白の肌。肩口まで伸ばした艶やかな黒髪。華奢といっていい位ほっそりした小柄な体。かといって、おとなしいとか頼りないという言葉は当たらない。どちらかというと明るくて活発な印象が勝っていた。少し上がり気味の目尻が物事に対しはっきりと対処する。そんなキリッとした佇まいを垣間見せる娘だった。
 ただ、時おり見せる何処か遠くを見るような焦点の定まらぬ眼差しが、その美しさと相まって、私は彼女に対しミステリアスな印象すら抱いていた。
「兄貴、何やっとん?」弟が入って来た。今しがたコンビニの仕事を上がったのか制服のままだ。
私の横に座り込み、私が広げたアルバムを覗き込む。
「あっ、これ兄貴の高校の時の彼女。涼子ちゃん」彼女の顔写真を見て言う。
 弟も私が彼女と付き合っていた頃、数回顔を会せたことがある。彼が中学生の時だ。
「可愛かったよなあ。俺兄貴が羨ましかった。俺もこんな彼女欲しいなーって思った。それを三年足らずで振られてしもうて」少し複雑な表情で彼女の写真を懐かしげに見る。
 涼子が涙を流しながら私に別れを告げたあの時のシーンが甦る。
 涼子と付き合った三年弱。
 涼子の言葉が、彼女の美しい顔が、彼女の肌の温もりが、彼女の匂いが、全てのことが懐かしく、そして遠い痛みとともに心の片隅に甦る。

 弟が口を開く「それはそうと、なんか土地のことややこしい話になっとんやってなあ」玲香さんに聞いたらしい。「俺すぐに買えるもんと思うとった。ほだけんど農地はなかなか買えんのやってなあ。そんなん知らんかった。ほんま面倒くさいこっちゃ」
「いや、それで農業委員会へ行ってきたのだが、事務局長が言うには、農地を農地として買うのはどうも無理らしい」
「ほんで、古いアルバム引っ張り出して、何しよん。それと何か関係あるん」
 先程の農業委員会での出来事を話した。
 急いで本来の目的遂行のためアルバムのページを十組から逆に繰る。
 實平良一の写真は七組のページにあった。昼間の顔を思い出す。確かに面影は残っていた。ただ自分と實平のその当時のエピソードは思い浮かばない。
 三年間を通じクラスは一回も一緒にならなかった。部活も違う。何回か話した記憶は甦る。でもそんな込み入った話などすることもなかった。通りいっぺんの薄っぺらいどうでもいい会話だったのだろう。そんなことを思い出した。彼とは多分、中倉涼子を接点にしたものだったのだろう。

 母親と弟に今日の経緯を話し、考えておいてと言い残し、卒業アルバムと高校時代のスナップ写真を纏めたアルバムを持ち実家を辞した。
 北風は強くなり、かなり冷え込んできた。足を速めた。
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