オー、ブラザーズ!

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第37話 ジョンの勇気

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 静かだ。
 ダンがランディを殺したため、少年たちの戦車の役目は終わっていた。本来ならばバードさんの手助けに行くべきなのだろうけれど、デレクもジョンもいないのでは、どうしようもない。ディッキーはと言うと……この状態のダンを放って戦車の指揮を執るなど、彼にできるわけがなかった。
 ダンの様子は明らかにおかしい。
 健康的な褐色のはずの肌は、どんどんどんどん土気色に変わっていく。唇からも赤みが消え、肌との境は縦に幾本か入ったすじからしか分からない。一方で、彼の横たわる白いシーツは真っ赤に染まっていく。本当に、眩しいくらいの赤色に。まるでダンの生命が漏れ出しているかのようだった。
「ダン……」
 喉がぎゅっと絞られて、ひどく情けない声になってしまった。
「大丈夫?」
 大丈夫なわけがない。けれど、それくらいしか言葉がなかった。ダンの閉じていた目が薄く開かれる。
「さむい……」
 寒い? 一瞬、聞き間違ったのかと思った。だがすぐに、目の前の血の気の失せた顔と寒いという言葉がカチリと繋がり、はっとした。
 寒いんだ。
 大量の血を失っているダンは、体温が極端に下がっているのだ。でも、この寝室には体に掛ける物も、羽織る物も、なさそうだった。
「分かった。何か持ってくる」
 ディッキーが椅子から立ち上がりかけると、
 腕を掴まれた。指一本一本の形が分かるくらいに冷たい。小さな驚きに振り返る。
「いい……ここに、いてくれよ」
 目に涙がこみ上げた。
「でも、寒いんだろ?」
 鼻の奥がつんとして、声がひっくり返ってしまった。
「いい」
 口ではそう言っていても、ダンの手は石みたいに、氷みたいに冷たい。
 どうしよう……。
 今すぐにダンの体を温めてやりたい。けれど、ずっと側にもいてやりたい。胸の中で二つの感情がせめぎ合って、どちらを捨ててもダンが辛い思いをするのだと思うと堪らなくて……。
 ディッキーは着ていたシャツを脱いでダンの体に掛けてやった。それで寒さが和らぐとは思わなかったが、そうせずにはいられなかった。それからそっと彼の体を起こすと、両腕を回して抱きしめた。やはりダンの体は冷えきっていて、全身の力がすっかり抜けてしまったみたいに、ぐったりしていた。
 早くしてよ、ジョン。
 泣きそうになりながら心で叫んだ。
 このままじゃ、ダンが死んじゃうよ。何してんだよ?
 
     ***** 
 
 濃紺の夜闇を、巨大な漆黒の塊が迫ってくる。暗い砂埃の陰を左右に巻き上げ、腹の座った様子で、着実に近づいてくる。時折、ピカリと閃光が放たれ、陰影の落ちた厳つい車体が顕になった。
 ジョンはバード戦車長の砂色の戦車の陰に身を潜め、飛び出す隙を窺っていた。けれど、何度試みても、ビンセントの戦車は彼の動きを見計らったかのように砲弾や弾丸を放ってくる。胸で心臓がこれでもかと言うほど暴れ、それだけで息が上がった。ぐっと生唾を呑み込み、目をつむり、呼吸を整える。落ち着くんだ、と自分に言い聞かせる。
 ぼくを狙ってる訳じゃない。砲弾を放った直後を狙って、ハッチまで走るんだ。
 頭で言葉にしているうちに、黒い戦車の砲が火を吹いた。バーンッという音と地響きにどきりとなって、思わず目を開ける。
 今だ――。
 そう思ったけれど、体は硬直して動かなかった。逃してしまった一瞬のチャンスの後、ダダダダダ、と機銃から銃弾が撃ち込まれる。
 しまった……。
 後悔しても、もう遅い。
 時間がないのに。
 切迫した気持ちに顔がひきつった。頭の中では、自分を責める言葉がぐるぐるぐるぐる回る。
 
 ダンの怪我はぼくの責任なんだ。あの時、最初の襲撃の時、ダン一人に戦わせてしまったのは、ぼくだ。デレクには否定されたけれど、それは紛れもない事実だ。そしてあれがなければ、今回の怪我だって、きっとしていない。
 それに――ディッキーのことだって。ぼくはディッキーが、いや彼だけじゃない。その前の子や、さらに前の同じ人買いの車で連れてこられたあの子が、ランディたちに暴行される様子を見ていた。一年間、ずっと。なのに、何もしなかった。ただ見て、デレクも同じようなひどい目にあっていないだろうかとか、あの子たちがかわいそうだとか思って、一人で勝手に傷ついたつもりになっていた。本当に傷ついていたのは、ぼくなんかじゃなかったのに。
 そうして、ふとサミーの言葉が脳裏を過ぎる。
 ――ぼくは他人の犠牲の上に悠々と座ってた。

 目に涙がじり寄ってくる。
 ぼくも同じだ。裕福ではなかったけれど優しい父と母に恵まれて、自分のわがままで掃除兵として戦車で働くようになっても、周りには親切な人ばかりで……。デレクも、トミーも、ディッキーも、ダンも、ビリーも、それにサミーだって、みんなそれぞれに辛い経験をしてきていて、そういうものを乗り越えて、乗り越えようとして、がんばっているのに、ぼくは――。
 そう思った時、急に体中の勇気が心の中心に集まってきた。
 ぼくだって頑張って、この窮地を乗り越えなくちゃ。そうすれば、ダンを助けられるはずなんだ。
 彼は銃弾の飛び交う中へ目をやる。撃ち合う二台の間を、雨のように弾が打ち付ける。怖気がせり上がって来そうになって、ジョンは何度か深呼吸した。目をつむり、自身の心を見つめ、勇気の存在を確かめる。
 ダンを助けるんだ。
 決意を胸に、ジョンは飛び出した。
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