オー、ブラザーズ!

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第29話 ビリーの約束

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 面倒くさい、というのがビリーの本音だ。
 彼は二段ベッドの上段に体を仰向け、すぐ近くの天井へ視線を泳がせていた。いつもなら、眠れない時には下にいるはずのダンに話しかけるのだけど、この日はそんな気にはならなかった。ただ、ただ、じっと上を見つめ続ける。
 普段よりずっと、闇よりももっと暗い天井。あまりに暗すぎて、彼の目は、そこにあるはずの天井が消えて深く深く暗闇が続いているかのような錯覚さえ起こしていた。まるで漆黒の宇宙に放り込まれたみたいだ。
 他人の気持ちは、本当に面倒だ。いつまでもぐずぐずと泣いているディッキーも、とっとと仲直りすればいいのにそうしないダンも、理不尽に他人を責めたり、かと思えば突然謝りだすデレクも、そういうことにいちいち大真面目に付き合うジョンやサミーも。なぜ彼らはもっと素直に、自分の思った通りに、やりたいように、行動しないのだろうか? なぜあれこれ難しく考えて、勝手に傷ついたり傷つけたりするのだろうか? 今度こそ勝てるように、みんなで頑張ろう。そう思えばいいだけの話なのに。
 ビリーは故郷にいる頃から、楽観的で底抜けに明るいと言われ続けてきた。おそらくそういう性分だから、今でも仲間たちの深刻な悩みを上手く理解できないのだろう。でも、辛いことがあったからって、気持ちまで辛気臭くなって、どうしようと言うのだろう? ビリーだって、ついこの間までは戦車で大人たちにこき使われて、それなりに嫌なこともあったけれど、楽しい方に、楽しい方に考えて乗り切ってきたのだから。
 
     *****

 ビリーが掃除兵として働き始めたのは、半年ほど前のことだ。
 人買いが村にやって来てすぐ、ビリーの家では彼を売るしかないのではないかという話になった。
「そんなこと、できるわけないだろ」
 父は声を荒らげると、ベッドへ横たえた上体を持ち上げようとした。まだ三十手前の若い、けれど事故によって体の自由がきかなくなってしまった父。うっ、と呻き、顔を歪ませた彼に母が駆け寄った。だが父はその手を払いのけ、自分で体を起こして言った。
「オレに手ぇ貸す優しさがあんなら、ビリーのこと考えろよ」
 母はそっと体を引くと、深く息をついた。
「私が好きでこんなこと言ってると思う?」
 母の声は、細く小さく静かだったけれど、周囲で張り詰める怒りの気配をくるっと変えてしまうくらいの鋭さを持っていた。じっと見つめられて、気圧されたのか、父は目をそらした。
「オレたち大人が何とかしなくちゃならないんだよ、本当なら」
「でも、どうにもならないじゃない」
「だからって、全部の責任をビリーに背負わせんのか?」
 二人のやり取りを見つめながら、当の本人であるビリーは、なんだか芝居みたいに大げさな話をしているなあ、などと呑気なことを考えていた。家を離れるのも、知らない大人の戦車に乗るのも、嫌でないはずがなかったが、他に方法がないなら仕方ない。何より、こういう深刻な雰囲気は嫌いだ。ぐっと重くなった空気が、四方から押し寄せて来るような圧迫感。それを思い切り跳ね飛ばそうと、彼は明るい声をだした。
「オレ、別に平気だよ」
 言い争っていた父と母が、揃ってビリーを見た。二人とも、ぎょっと目を見開いている。たぶんビリーがいることを忘れていたのだろう。
「だって、何年かしたら戻ってこれんだろ? 行きたいわけじゃないけど、そこまで嫌ってわけでもないし、仕方ないなら――」
「子どものくせに、仕方ないなんて言うな」
 今度はビリーへ鋭く光る目を向けて、父が言った。
「いいか、子どもっていうのはな、自分は何でもできる、何にでもなれる、できないことなんて、仕方ないことなんて、ないって思ってるもんだ。家族のために犠牲になることを仕方ないなんて、言うな」
 思いがけず叱られて、ビリーは面食らってしまった。何と言ったらいいか、分からない。母の口からは、先程よりもさらに深いため息がこぼれた。
「ビリーに八つ当たりして、どうすんのよ」
 母はその真剣な眼差しで父の視線を捕まえると、続ける。
「あなたは自分がビリーや他の子どもたちに『何でもできる』って思えるような環境を作れなかったから、それが悔しいんでしょう。でも、あなたが怪我してから、この家には『仕方ない』って言葉は付き物になっちゃったのよ。認めなさい」
 父は不貞腐れたように再び顔をそむけた。母は呆れ顔で軽く息を落とすと、ビリーの方へ目を向ける。
「ごめんね、ビリー」
 ビリーはまた虚を突かれ、戸惑ってしまった。母の「ごめんね」が何に対してなのか――今の言い争いのことなのか、それとも彼を売ると言ったことに対してなのか、分からない。でも、父のことも母のことも、安心させたかった。誰も悪くないのに、謝る必要なんてない。好き好んで働きに出るわけではなくても、本当に、そこまで辛いと思っているわけでもないのだ。そういうこと全部、二人に分かってほしかった。彼は顔がくしゃくしゃになっていることが自分で分かるくらい大きな笑顔を作った。
「平気だよ。オレ、でっかくなって戻ってくるから。父さんと母さんが、みんなが、誰だか分かんなくてびっくりするくらいでっかくなって帰ってくるから」
 ビリーの言葉に目を丸くした父と母は、すぐにそれぞれ目元を緩め、どことなく悲しげな気配の漂う笑みを浮かべた。今でも目をつむると、ふっとあの時の二人の顔が過ぎることがある。その度にビリーは、絶対に約束を果たすんだと、胸に火が灯るのを感じた。
 
 結局売られることになったビリーは、人買いの車で売り場まで連れていかれた。そしてそこで、随分と変わった戦車に乗ることになる。車体がほとんど丸ごとキャタピラで覆われていて、その上にちょこんと戦車長用の視察口が乗っているのだ。車体の左右に張り出した出っ張り部分が砲塔なのだが、他の戦車のように回転しないので、狙いをつけるのにいちいち戦車そのものの向きを変えなくてはならない。ものすごく不便だ。一体、なぜこんな妙ちくりんな形にしたのかと聞きたくなったほどだ。
 この不可解なほど戦闘に向いていない形状のせいで、ビリーの乗った戦車はひどく弱かった。十回戦って一回勝てれば良い方。そして負ける度に、戦車の大人たちの機嫌は悪くなっていった。

「おい、ビリー!」
 簡易ベッドの上でうとうとしていたビリーの元へ、突然に凄味のかかった怒鳴り声が飛んできて、心臓が大きく跳ね上がった。もう一ヶ月近く負けが続いたある夜、近くで小ぶりの戦車がうろついているのを誰かが見つけたらしく、みんなチャンスとばかりに目の色を変えて飛び起きていた。不意打ちを仕掛けようというのだ。まるで飢えたハイエナだ。
「右の戦車砲の調子が良くねえから、掃除しろ。それまで左の砲で応戦するけど、そんなには持たねえから急げよ」
 うん、と答える間もなく、ビリーは寝床から引っ張り出された。
 
 ビリーが右側の砲塔へ入った時、既に男たちは自分の持ち場につき、ギラギラと光る眼差しで作業に当たっていた。ちょうど眠れそうになってたとこなのに、と文句の一つでもつけてやろうと持っていたのだけど、ピリッと張り詰めた雰囲気に触れて、ビリーの不満は霧散してしまった。
「早く入れ」
 砲手は機銃に目を向けたまま、平坦な声で命令した。塩水を塗り込む時間はなさそうだ。
「うん」
 ビリーは答えると、大きく息を吸い、戦車砲の蓋を開いて中へ滑り込んだ。
 這いつくばって砲身内部を進む。もう何度もこなしてきた仕事、中を這いずる身のこなしはお手の物だ。
 けれど、この狭い狭い空間で充満する劣悪さは、慣れるものではなかった。ざらざらした砂や煤が皮膚に貼りつく感じも、視界が霞んで曇って煩わしい感じも、そしてうっかり息を吸うといっぺんに口内へ有毒ガスがあふれるような感じも、慣れるわけがない。
 この日は特にひどかった。
 半分くらいまで進んだところで、ビリーは、こほん、と一つ咳をした。しまった、と思った時には既に息を吸っていて、彼の口にはめいっぱいの砂と煤が流れ込んできていた。再び咳き込む。咳き込むと、また息を吸ってしまう。そして、また咳が出る。悪循環だ。空気が急激に薄くなり、呼吸の苦しさばかりが際立ってくる。辛うじて、目の縁に涙が滲んできていることが分かった。口内の細かな砂や煤は僅かな呼吸で喉の奥へと侵入し、あっという間に気管を蝕んでいく。もう前へ進むどころではなくなってしまった。どのくらいかそうして咳き込んでいると、
「ビリー! 何やってる。早くしろ!」
 後ろから怒声が迫り、キィンと耳鳴りみたいな金属の震える音がした。続けて、ガンガンガンと鋭い音を立てて砲が揺れる。誰かが戦車砲を激しく叩いているのだ。
「グズグズしてると、このまま弾と一緒にブッ放すぞ!」
 がなりたてる声には、その激しさ以上のはち切れんばかりの怒気が込められていた。ビリーの直感が彼に告げる。こいつらは本気で撃つつもりなのだと。全身の内臓がきつく絞られる。呼吸の苦しさに加えて、胸まで痛くなってくる。行かなきゃ。自然に縮こまる体へ鞭を打つように、無理くり腕を伸ばした。進んで、進んで、進んで、進んだ。もう何も考えられなくなった頭の中で、ちらちらと木漏れ日が作る陰影みたいに父と母のあの顔が、売られる前に二人がくれた、優しくて温かくて、でも物悲しいあの眼差しが、揺れていた。それに背を押され、ビリーはどんどん、どんどん、どんどん進んだ。やっと砲身の先まで来ると、
 ぎゅっと目をつむり、思い切り砲身を蹴って戦車砲から飛び降りた。自分の体が寒気を縦に裂いていく。数秒後には、
 どすん。
 顔に、胸に、鈍く生ぬるい感触がした。砂の上に落ちたのだ。
 ビリーは目を開け、体を起こし、清々しい新鮮な空気をいっぱいに吸い込んだ。体から毒の熱さが一気に引いていく感覚。それを全部吐き出してしまおうと、彼は何度も何度も咳をした。しばらくそうしていると、バーンという轟音と共にビリーの戦車の右の砲が火を吹いた。ピカっと妙ちくりんな車体が闇に浮き上がる。砲の先へ目を向けると、相手戦車のエンジンに着弾したらしく、ごうっとオレンジ色の炎が上がった。
「大丈夫か!?」
 二台の戦車を眺めているうちに、戦車の兵士が一人、駆け寄ってきていた。笑っている。
「お前、めちゃくちゃするな。まあ、おかげで助かったよ。久々の勝利だし、明日はお前にも美味いもんいっぱい食わせてやるってよ」
 先程までとは打って変わって、男は柔和な笑みを広げて、ビリーへ手を差し伸べた。ひどくほっとした。
 すると、真っ白だった頭に感情が追いついてきて、急に胸がいっぱいになって、まぶたがぶわりと熱さでふくらんで、ビリーは男の手を取る前に声を上げて泣き出してしまった。
 
     *****

 あの時は、なぜ自分がこんなに泣いているのか、よく分からなかった。けれど、今、冷えた頭で振り返ってみると何となくだが分かる。きっと、あの約束のためだったのだ。自分が死ぬかもしれないと思った瞬間、約束を果たすのだ、という気持ちが雷みたいに閃いて、頭より、心より、深いところに跡を残していったのだ。絶対に、絶対に、大きく、立派になって帰るのだ、という決意の跡を。
 だから、彼は嫌でも、辛くても、それで落ち込んで何もできなくなるよりは、バカみたいでも楽しい方に考えて、ちゃんと前に進みたかった。そうしなければ、父と母に見せてやりたい大人に、いつまでたってもなれない気がした。グズグズしていないで早く大人になりたかった。周りの仲間が辛気臭く落ち込んでいる間に、大切な時間を逃してしまう気がして、ならなかった。
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