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 帰宅してから、雨が降り始めた。湿った雨音が鼓膜に響く。そう言えば、中学一年生の文化祭の日も、こんな雨が降っていた。朝からじめじめしていて、ちょうど私たちの発表が終わった頃に雨が降りだした。
「真奈のせいで台無し。せっかくお兄ちゃんが見に来てくれたのに!」
 泣きながら叫ぶように言った優ちゃんは、友だちに囲まれて慰められたり背中をさすられたりしていたけれど、自分たちの観覧席に戻る頃には涙を拭いた。
「あたし、お兄ちゃんのとこ、行かなきゃ」
 優ちゃんは、ズラリと椅子の並んだ観覧席の間を縫って駆けていった。足を止めたのは、同じ形のパイプ椅子の群れの中で異様な存在感を放つ大きな車椅子のところだった。リクライニング機能が付いているのか、やや傾いた背もたれに体を預けているのは、若い男の人だ。けれど、体はほとんど動かないらしく、介助の人が付き添っていて、首には管が繋がっていた。その男の人へ、しきりに話しかける優ちゃんの横顔が目に沁みた。こわばった頬を無理矢理押し上げているのが分かるような笑顔で、目は悲しげに濡れていた。

 優ちゃんのお兄さんが怪我をしたのは、私たちが小学六年生の時だった。サッカーの試合、相手チームの鋭いシュートを止めようと横へ跳んだお兄さんは、ゴールポストに首を打ちつけてしまったという。それが原因で、首から下が麻痺した。
 お兄ちゃん、今日、サッカーの試合なんだぁ。
 その日の朝の優ちゃんは、とっても幸せそうだった。
 これに勝ったら、県で四位は確定なんだよ。それに、お兄ちゃんのチームはこれまでの試合、まだ一点も取られてないの。お兄ちゃんがぜーんぶ止めてるからね。すごいでしょ。

 緊急の連絡が入り学校を早退してから、優ちゃんの欠席は続いた。でも、一週間ほどして戻ってきた優ちゃんは、いつも通りだった。いつも通り、お兄さんの自慢ばかりしていた。
 そう言えば、その頃のことだった。私の描いたシュートくんの絵を見て、優ちゃんが「お兄ちゃんに似てる!」と言ったのは。あっという間に漫画を最新刊まで読んだ優ちゃんは、毎日毎日、私にせがむようになった。ねぇ真奈、シュートの絵、描いてよ。

 雨がしとしと窓を濡らしている。
 鞄から自画像イラストを取り出し、机に置いた。自信のなさそうな、迷っていそうな表情。けれど、胸の前でギュッと握った拳は、気持ちを奮い立たせるためのものだ。私も同じように、握り込んだ拳を胸に当てた。ドクドクドクドクと心臓が強く速く打っているのが分かった。
 机備え付けの書棚から、一番新しいクロッキー帳を取り出す。まっさらなページを開くと、私は絵を描き始めた。シュートくんの絵だ。けれど、今までのような模写じゃない。私のイメージするシュートくんでもない。辛い時も、なんとか気丈であろうとする、そんなシュートくんの姿だ。きっと、優ちゃんは、そういうシュートくんを見ていたと思うから。
 これを、いつか優ちゃんに渡しに行こう。
優ちゃんから、お兄さんの話をたくさん聞こう。優ちゃんがいいよって言ってくれたら、お兄さんにも会ってみたい。きっと、本当にシュートくんみたいな素敵な人なんだと思う。
 「私のシュートくん」は、そういうことをする人だから。
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