世界で一番やさしいリッキー

ぞぞ

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手の温度

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 ピアスが行ってしまうと、真美ちゃんと清水さんが駆け寄ってきた。
「リッキー、大丈夫?」
 真美ちゃんがリッキーの側に膝をついて尋ねる。答えは、ない。リッキーの呼吸は、いまだに肩が上下するほど荒くて、さっきのホッとした気持ちが、また波打ち始めた。
 けれど、しばらくするとリッキーのまぶたがわずかに動き、薄く目が開いた。
 うん。
 のどで何かが引っかかったみたいな、かすれた声だったけれど、それでもリッキーがちゃんと言葉を口にできたことで、締め付けられていた心がゆるんだ。
 リッキーは苦しそうに、でもゆっくり大きく呼吸しようとしているとみたいだった。体を起こそうとグッと力を入れたのを見て、私は彼の背中へ手を当てて手伝った。
 真美ちゃんは、起き上がったリッキーを見つめて、言った。
「病院、行った方がいいんじゃない? お家の人に電話しようよ」
 リッキーは、そっと首を振った。
「ダメだよ。ちゃんとみてもらわなくちゃ。ケガだってしてるし、それに、さっきの、普通じゃないじゃん」
 リッキーはゴクリと息を飲んでから、目をふせて、またかすれた声を出した。
「へいき……たまに、あるから」
 リッキーは、また目をつむった。息を吸う度に、苦しげにまぶたに力が入っている。
 どうすればいいか分からなくて、私と真美ちゃん、清水さんは顔を見交わした。その時、また、リッキーが口を開いた。
「清水さん、と、吉村さん、先、帰って」
 力ない声に驚いて顔を向けると、リッキーはうなだれたまま、けれど目は細く開けていた。影になって表情までは見えない。
 私たちは、また見合った。真美ちゃんは困りきった様子で眉を下げ、清水さんは青ざめた顔をひきつらせて、今にも泣き出しそうだった。
「オレ、平気だから。ごめん」
 リッキーは深く下を向き、もう一度、ごめん、と言った。
 真美ちゃんが大きく息をついて、清水さんに耳打ちした。
「行こう」
 清水さんの顔が、大きく歪んだ。うん、と清水さんが立ち上がり、真美ちゃんも腰を上げた。真美ちゃんは清水さんの手を取り、私の方を向く。そして、何かあったら連絡してね、と言うと、また前を向き、清水さんに寄り添うようにして帰っていった。
 
 しんと静まった空気が重い。リッキーと二人きりになった私は、何も言わずに彼を見つめていた。心には、虫の群れがうごめくような、ザワザワした感触がある。沈黙を埋めるように、風が音を立てて吹いた。頬と胸が冷たくなった。
「リュウキに、言われた」
 リッキーが話し始め、ドキッと心臓が大きく跳ねた。彼は下を向いたまま、続ける。
「お前に、何にも話すなって。でも、オレ、お前以外に、こういうこと、話せる奴、いないから……」
 静かな、けれど慎重な口調だった。まだ呼吸が落ち着ききっていないのか、言葉は途切れ途切れで、私の不安をかき立てた。
「和真は、あいつは、お父さんが死んでも、それでウジウジしたり、しない、奴なんだ。不幸ヅラしたり、しないで、ちゃんとお父さんの、命日とか、誕生日とかに、家族みんなでちゃんと、悲しんだり祝ったり、できるんだ。……でも、オ、オレは……」
 そこでリッキーの呼吸がさらに荒くなり、また息を激しく吸い始めた。私は慌ててランドセルの横にかけていた巾着袋外し、リッキーの口へ当てた。さっき、ピアスがやっていたように。すぐにリッキーの呼吸は戻り、私は巾着袋を置いた。
「リッキー、無理に話さなくていいよ」
 リッキーは大きく顔を歪めて、首を左右に振った。
「オレ、オレは、周りの人、誰も、死んでないのに、心ん中では、ずっと、ずっと、ウジウジしてて……だから、和真には、一番、そういうの、話せない」
 リッキーはグッとつばを飲み込んで、深く息をついた。リッキーの話し方が、一つ一つの動作が、辛そうで苦しそうで、もうやめてと言いたかったけれど、彼の気持ちを思うと、それも声にならなかった。目のふちに涙がしみてきた。リッキーは眉間を歪めた。
「こういう、発作みたいなの、出るように、なったの、向こうに、いる頃、で」
 リッキーの声は、浮いたり沈んだりしている。少しでも息が落ち着くようにと、私は彼の背へ手を当ててさすった。
「母さんの、結婚、相手が、オレのこと嫌ってて、それで、オレに『ばあちゃんのとこ帰れ』って言ってきたり、オレがちょっとでも、なんか失敗、すると、ぶん殴ってきて、オレ、怖くて、こいつに逆らっちゃダメだって、ずっと、縮こまってた」
 リッキーは言葉を切ると、ゆっくり、何度も吸って吐いてをくりかえした。呼吸のリズムが整ってきたのか、しばらくすると目をつむり、また話し出す。
「母さんは、オレのこと、ずっと、かばってくれてた。オレが殴られた時は、あいつのこと止めて、『この家出てけ』って放り出されそうになった時は、そんなことさせないって言ってくれた。オレは、オレは、とにかくあいつを怒らせないようにしなくちゃって、思って、ずっといい子にしてて……そしたら、どうなったか分かるか?」
 私は首を振った。分かるとか、分からないとかじゃなく、首を振るしかなかった。何かたいへんな不幸が語られそうな気配がして、それだけで心がズクズクと痛んだ。リッキーは目を開き、地面を見つめて、また、ポツポツと言葉を落とし始めた。
「あいつは、オレ、殴るのやめて、母さんを、殴り始めた。オレを……殴る、理由、なくなったから。でも、母さんのことは……オレを追い出せって言っても、言うこと、聞かないし、オレが殴られた時、警察呼んだこともあったから、あいつには殴る理由が、いっぱいあった。だから、母さんを、殴ってた」
 リッキーの声に、涙がにじみ始めた。彼はまた目をつぶり、深呼吸した。それから、目を開いて、続ける。
「あいつは、誰かを殴らないと、いられない時がある奴だった。普段は普通で、オレのこともかわいがってくれたんだけど、急にスイッチ入って、怒鳴り散らしたり、殴りつけてきたり、そういう奴だった」
 リッキーは、額に手を当てて、悲しそうに目を細めた。
「オレが、警察を呼べば、良かった。母さんはそうしてくれたんだから、オレも、そうすれば良かった。でも、でも……」
 声の中の涙の気配が濃くなった。目の縁が濡れて光っている。
「怖くて、できなかった。警察、呼んだりしたら、また、殴られると、思った。だから、呼ばなかった。そしたら」
 声が小刻みに震えて、リッキーはギュッと目をつむった。握った拳もわなついていた。
 母さんは、あいつを刺した。
 リッキーの低めた静かな声が、けれど、耳の底に強く強く響いた。そうして、ハッと気がついた。最近男子たちがリッキーを「犯罪者」と呼んでいる理由に。どうやって知ったのかは分からないけど、でもきっと、女子たちがリッキーと清水さんの後をつけて盗み聞きしたみたいに、興味本位で誰かが突き止めて噂を流したんだ。心が深くえぐられるようだった。目に溜まった涙が、さらに熱くなってくる。リッキーは体もガタガタ震わせていて、立てた両膝に顔を埋めた。
 オレが、警察呼べば、良かった……違う、違う、そうじゃなくて、オレが、オレが、刺せば、良かったんだ。だって、だって、オレはずっと、そうしたいって思ってたん、だから。あんな奴、死ねばいいって、ほんとは、ずっと、思ってた。でも、やらなかった。怖くて縮こまってたから。怒らせないように、言うこときく振りしてたから。あいつは、死ななかったけど、でも、オレは、今だって、死んじまえば良かったって、思ってんだから。オレが、やんなきゃいけなかった。
「違うよ、リッキー」
 私は声を上げた。リッキーの言葉が、声が、姿が、胸に来て、彼の心の痛みを聞くのが辛くて。何より、彼に自分をの心をナイフでズタズタに突き刺すようなことを言ってほしくなかった。違うと、私の体中の細胞が叫んでいた。
「それは違う。絶対に、違う」
 そうとしか言えなかった。他には何も言葉が見つからなかった。でも、絶対に違う。違う。違う。それだけは分かった。違う。
 リッキーは膝から顔を上げた。一気に表情が歪んでクシャクシャになった。彼は小さい子が駄々をこねるようにブンブン首を振った。そうして喋りだした彼の声は震えていて、浮いたり沈んだりひっくり返ったり詰まったりした。
「違わない……違わない。オレは、縮こまってちゃ、いけなかったんだ。いい子ぶって、大人しく、してちゃ、ダメなんだ。思ったことは、すぐ、やらなきゃ、ダメなんだ。怖がってちゃ、ダメなんだ。どう思われるかとか、気にしてちゃ、ダメなんだ。我慢してちゃ、ダメなんだ――」
「違うよ」
 私は声に力を込めた。何が違うのか、説明はできないけれど、でもリッキーの思ってることは、違う。
「違わない」
「違うよ」
 私はそう言ってリッキーの手に手を重ねた。昔、リッキーが「あそぼう」と言って、私の手を取ってくれたみたいに。あの手の温度のおかげで、私の心は陽だまりみたいに、毛布で包まれたみたいに、温まった。リッキーにもあの安心を、あげたかった。私の手にも、優しさはつまっているだろうから。
 
     ***** 
 
「かな」 
 リッキーが口を開いた。地べたに座って黙ったまま、ずっと私たちは手を重ねていた。空は真っ赤な太陽が、沈んでいくところで、町全体がオレンジ色に染まっていた。
「オレ、ほんとは母さんとことに行かなきゃいけなかったんだ。今日、面会の日だったから。でも、メガネ壊れたし、こんな顔だし、行きたくない」
「お母さん、会いたがってるんじゃない?」
 私が言うと、リッキーは目をふせた。
「でも、会っても『ごめんね』しか言わないし。ずっと、そうなんだ。本当に、それしか言わない。面会の時って、刑務所の人が一人立ち会うんだけどさ、その人に母さんが『ごめんね』って言うの聞かれたくないんだ」
 リッキーの声は落ち着いていたけれど、でも、普段と違う平坦な口調には、悲しい雰囲気があった。
「ついてってあげようか?」
 私が言うと、リッキーは首を振る。
「いいよ。親族以外は面会できないから、お前、外で待たなきゃなんないし。今日は行かない」
 お母さんがかわいそうだと思ったけれど、でも、リッキーの「行きたくない」は尊重してあげたかった。学校でも家でも、無理をし続けているんだから、これ以上の無理はさせたくなかった。
「じゃあ、今回はやめとく。でも、今度行く時は、ついてくよ。いいでしょ?」
 リッキーはうつむいたまま、少し口角を上げた。
「うん」
 風がビュウッと音を立てた。寒い。肩に力が入ったけれど、手は温かかった。リッキーの手の温度がしっかり私の手に伝わっていたから。リッキーの手にも、私の手の温度が届いているだろうか。そうだったら、いいな。
 私はそっと力を込めて、リッキーの手を握った。
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