上 下
2 / 40

亀の歩みで、螺旋階段

しおりを挟む
 あわてて机に手をつく前に、小鳥遊の手がさやかの腕をつかんで支えていた。
 がっしりした手。細身だが、その腕には十分な筋力があるようで、軽々とさやかを支えていた。
「これ、俺が出しとくよ。ちょうだい」
 鮮やかに、書類をさやかの手から奪っていく。
「まって、でも、まだ専務」
「もう帰ってると思うよ。今日これから、親会社とのレセプションあるから」
  呆然とするさやかに、にっと小鳥遊は笑いかけた。
「俺も参加予定だから、ついで」
 ああーー、とさやかは心の中でため息をついた。
(親会社、ね。この人にとっては実家みたいなもんか)
 そう、小鳥遊は、ただの営業ではない。それは仮の姿。
 経営者一族、小鳥遊家から、修行のため出向してきている、歳若き御曹司ーーなのだ。
 だから、さやかたち末端の社員が足を踏み入れることもできない、華々しいレセプションの場にも顔パス、というわけだ。
 これで稟議書は間に合う。けれどなんだか、さやかはどっと脱力した。
「そうですか……それなら、ありがとうございます」
「へぇ、亀山さん、お礼とか言えるんだ?」
 片眉を上げて、小鳥遊はさやかを見下ろした。
「私をなんだとおもっているんですか」
 すると、小鳥遊はふふんといたずらっぽい笑みを浮かべた。
「んー、なつかない亀? そうそう、これって貸しーーだよね?」
 うっと詰まるさやかを置いて、小鳥遊は書類をひょいと見せつけたあと、出て行った。
 夕方だというのに、ちっともくたびれていないスーツのうしろ姿が、憎たらしい。
「亀はそもそも、なつかないでしょ」
 小声で毒づきながら、バッグをかかえなおす。なんだかさっきより、ずしっとくる。
「あ……いつのまに」
 さきほど突き返した紅茶ラテのペットボトルが、鞄に押し込まれていた。

 
「はぁぁーー」
 誰憚ることなくため息をつきながら、さやかは階段を一段一段ふみしめ、会社の通用口へ向かっていた。
 どうせみんなエレベーターを使っているので、誰もこの長い階段を使わない。構わない。
「もう……何が亀だよ、貸しだよ」
 吐き捨てたその言葉のトーンが、自分でもびっくりするほど刺々しい。
「亀? 貸し? なんのこと」
「ひゃっ」
 とつぜん後ろから声をかけられて、さやかはぎょっとした。振り向くと、そこには同期の橋本が立っていた。
「もう、びっくりさせないでよ」
「わるいわるい。亀ちゃん、もう帰るの?」
「そう。橋本君は……その様子だとまだ?」
 橋本は手ぶらの上、シャツを袖捲りしノーネクタイという姿だった。だらしがない格好と言えるが、彼はシステム室勤務ーー社内から出ない仕事なので、営業のように外面を飾る必要はない。
「そ。総務の課長がデータ飛ばしちゃったみたいで。長丁場になりそうだから、3階の休憩室からコーヒーとってこようと思ってさ」
 彼は微笑んだ。同期一ふくよかな彼が笑うと、まるでエビスさまのような縁起の良い表情になる。見た目そのままに朗らかで穏やかな人柄の橋本は、皆に好かれている。他部署からもよく飲み会に誘われるタイプだ。
 さやかも当然、彼のことが好きだった。化粧っ気がなく、やぼったく、社内で一番『論外』な女子社員であるさやかのことも、橋本は見た目ではなく中身で判断してくれるからだ。
「それはご愁傷様……あ、そうだ。これ飲む?」
 さやかはさっき小鳥遊から押し付けられたペットボトルを差し出した。
「えっ、いいの」
「うん、もらったけど飲まないからさ」
 すると彼は、ははぁという顔つきになった。
「なるほど、営業部の王子様に、退社間際に滑り込みで領収書を持ち込まれ、しぶしぶ預かったと」
「なんでわかった、名探偵か?」
「さっき小鳥遊さんとすれ違ったからさ。格好からして、外回り帰りっぽかったし」
 屈託なくいう彼に、さやかは聞いてみた。
「ねぇ、ああいう人って、男性からみてどうなの?」
「どうってーー亀ちゃん、そんな悪意のある質問」
 笑いを堪えながら見てくる橋本に、さやかは唇をとがらせた。
 ーーどうも橋本には、ここだけの話で愚痴ってしまいたくなる。
「だってチャラすぎるよ。見境ないし、距離感近くて」
「んーそう? まぁ営業の人なんて、みんな愛想いいでしょ、それが仕事なんだから」
「そうなんだけど……」
「……なんかあったん?」
 そう言われて、さやかは唇を噛んだ。
(べつに何かされた、とかじゃない……ただ会うたびに揶揄われてる気がするってだけ……)
 しかし、それを口にださないだけの分別は、さすがに持ち合わせている。
 イケメン御曹司が、自他ともに地味女と認める亀山などに、そうそうかまうわけがない。勘違いじゃないのーー。
(って、思われるに決まってる)
「ううん、なんもないけどさ。じゃ……頑張ってね」
「おう、お疲れさま」
 橋本は3階へと消えて行った。さやかはふたたびふうと息をついて、階段を降り始めた。あとちょっとで地上だ。
 (はぁ……なんでこんな、ムキになってるんだろう)
 小鳥遊に対して、いちいち苛立たないで、もう少し大人な対応をしたほうがいい。
 実際、他の先輩社員の軽口やお叱りには、さやかはまともに対応しているのだ。
 わかってはいるーーいるのだが。
 小鳥遊にあの目で、からかわれるように見下されると、ついカッとなって拒絶してしまうのだ。笑って流して受け入れる、大人の対応ができない。
(…まぁそのうちあのひと、ここの営業なんてやめて、本社の社長にでもなるんでしょ)
 そうなれば、もうからかわれないですむ。顔も見ずに済む。
「それまでの辛抱……あいたっ」
 さっき少しひねってしまったのか、ちょっと足が痛い。
「エレベーター……いや、歩こう」
 とある事情があって、さやかは狭い場所が苦手だった。
 ゆえに、エレベーターは乗る気になれない。だけどさすがに、捻った状態でこの長い階段をおりきるのは骨が折れた。
 今頃エレベーターでゆうゆうと地上におり、タクシーでレセプション会場に向かっているであろう小鳥遊を想像して、さらに気持ちがもやつく。
(はぁ。どうせ私は、ノロマな亀ですよ…)
 御曹司には、毎日あくせく働いて、気疲れしている庶民の生活なんて、知るよしもないだろう。
(でも、亀だって頑張ってんだから)
 今年で27歳、新卒のころから数えて、勤続7年。そろそろ部長から、帳簿の出納も任せられるようになってきた。親元から自立し、さやかは地味ながらも堅実に、自分の仕事を積み上げてきたのだ。
 頑固な部長から、コツコツ勝ち取った信頼。同僚たちとの、一線を引いた穏やかな人間関係。すべてさやかが、今までの仕事で時間をかけて育んできたものだ。
(それをひっかきまわされたらーー誰だって、いい気はしないでしょ)
 さやかは言い訳するようにそう思った。
(そうだよ、仕事なの。遊びに来てるんじゃないんだから……)
 だから自分も、あまりムキにならないように。さやかは自分にそう念じ、階段を一段一段、降りて行った。


「あれー、小鳥遊さん? 帰ったんじゃ」
 ペットボトルを小脇にシステム室に戻った橋本は、入り口で佇む小鳥遊を見て目を丸くした。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

冷徹御曹司と極上の一夜に溺れたら愛を孕みました

せいとも
恋愛
旧題:運命の一夜と愛の結晶〜裏切られた絶望がもたらす奇跡〜 神楽坂グループ傘下『田崎ホールディングス』の創業50周年パーティーが開催された。 舞台で挨拶するのは、専務の田崎悠太だ。 専務の秘書で彼女の月島さくらは、会場で挨拶を聞いていた。 そこで、今の瞬間まで彼氏だと思っていた悠太の口から、別の女性との婚約が発表された。 さくらは、訳が分からずショックを受け会場を後にする。 その様子を見ていたのが、神楽坂グループの御曹司で、社長の怜だった。 海外出張から一時帰国して、パーティーに出席していたのだ。 会場から出たさくらを追いかけ、忘れさせてやると一夜の関係をもつ。 一生をさくらと共にしようと考えていた怜と、怜とは一夜の関係だと割り切り前に進むさくらとの、長い長いすれ違いが始まる。 再会の日は……。

ハイスぺ副社長になった初恋相手と再会したら、一途な愛を心と身体に刻み込まれました

中山紡希
恋愛
貿易会社の事務員として働く28歳の秋月結乃。 ある日、親友の奈々に高校のクラス会に行こうと誘われる。会社の上司からモラハラを受けている結乃は、その気晴らしに初めてクラス会に参加。賑やかな場所の苦手な結乃はその雰囲気に戸惑うが そこに十年間片想いを続けている初恋相手の早瀬陽介が現れる。 陽介は国内屈指の大企業である早瀬商事の副社長になっていた。 高校時代、サッカー部の部員とマネージャーという関係だった二人は両片思いだったものの 様々な事情で気持ちが通じ合うことはなかった。 十年ぶりに陽介と言葉を交わし、今も変わらぬ陽介への恋心に気付いた結乃は……? ※甘いイチャイチャ溺愛系のR18シーンが複数個所にありますので、苦手な方はご注意ください。 ※こちらはすでに全て書き終えていて、誤字脱字の修正をしながら毎日公開していきます。 少しでも楽しんで頂けたら嬉しいです。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

【完結】誰にも相手にされない壁の華、イケメン騎士にお持ち帰りされる。

三園 七詩
恋愛
独身の貴族が集められる、今で言う婚活パーティーそこに地味で地位も下のソフィアも参加することに…しかし誰にも話しかけらない壁の華とかしたソフィア。 それなのに気がつけば裸でベッドに寝ていた…隣にはイケメン騎士でパーティーの花形の男性が隣にいる。 頭を抱えるソフィアはその前の出来事を思い出した。 短編恋愛になってます。

契約書は婚姻届

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「契約続行はお嬢さんと私の結婚が、条件です」 突然、降って湧いた結婚の話。 しかも、父親の工場と引き替えに。 「この条件がのめない場合は当初の予定通り、契約は打ち切りということで」 突きつけられる契約書という名の婚姻届。 父親の工場を救えるのは自分ひとり。 「わかりました。 あなたと結婚します」 はじまった契約結婚生活があまー……いはずがない!? 若園朋香、26歳 ごくごく普通の、町工場の社長の娘 × 押部尚一郎、36歳 日本屈指の医療グループ、オシベの御曹司 さらに 自分もグループ会社のひとつの社長 さらに ドイツ人ハーフの金髪碧眼銀縁眼鏡 そして 極度の溺愛体質?? ****** 表紙は瀬木尚史@相沢蒼依さん(Twitter@tonaoto4)から。

【完結】鳥籠の妻と変態鬼畜紳士な夫

Ringo
恋愛
夫が好きで好きで好きすぎる妻。 生まれた時から傍にいた夫が妻の生きる世界の全てで、夫なしの人生など考えただけで絶望レベル。 行動の全てを報告させ把握していないと不安になり、少しでも女の気配を感じれば嫉妬に狂う。 そしてそんな妻を愛してやまない夫。 束縛されること、嫉妬されることにこれ以上にない愛情を感じる変態。 自身も嫉妬深く、妻を家に閉じ込め家族以外との接触や交流を遮断。 時に激しい妄想に駆られて俺様キャラが降臨し、妻を言葉と行為で追い込む鬼畜でもある。 そんなメンヘラ妻と変態鬼畜紳士夫が織り成す日常をご覧あれ。 ୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧ ※現代もの ※R18内容濃いめ(作者調べ) ※ガッツリ行為エピソード多め ※上記が苦手な方はご遠慮ください 完結まで執筆済み

【完結】傷物令嬢は近衛騎士団長に同情されて……溺愛されすぎです。

早稲 アカ
恋愛
王太子殿下との婚約から洩れてしまった伯爵令嬢のセーリーヌ。 宮廷の大広間で突然現れた賊に襲われた彼女は、殿下をかばって大けがを負ってしまう。 彼女に同情した近衛騎士団長のアドニス侯爵は熱心にお見舞いをしてくれるのだが、その熱意がセーリーヌの折れそうな心まで癒していく。 加えて、セーリーヌを振ったはずの王太子殿下が、親密な二人に絡んできて、ややこしい展開になり……。 果たして、セーリーヌとアドニス侯爵の関係はどうなるのでしょう?

【完結】やさしい嘘のその先に

鷹槻れん
恋愛
妊娠初期でつわり真っ只中の永田美千花(ながたみちか・24歳)は、街で偶然夫の律顕(りつあき・28歳)が、会社の元先輩で律顕の同期の女性・西園稀更(にしぞのきさら・28歳)と仲睦まじくデートしている姿を見かけてしまい。 妊娠してから律顕に冷たくあたっていた自覚があった美千花は、自分に優しく接してくれる律顕に真相を問う事ができなくて、一人悶々と悩みを抱えてしまう。 ※30,000字程度で完結します。 (執筆期間:2022/05/03〜05/24) ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼ 2022/05/30、エタニティブックスにて一位、本当に有難うございます! ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼ --------------------- ○表紙絵は市瀬雪さまに依頼しました。  (作品シェア以外での無断転載など固くお断りします) ○雪さま (Twitter)https://twitter.com/yukiyukisnow7?s=21 (pixiv)https://www.pixiv.net/users/2362274 ---------------------

処理中です...