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雪見の朝

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「澪、花豆煮を持ってきましたよ。食べれますか?」

 澪子ははっと目を開けて身を起こした。朝の白い光を背に、百夜が澪子を見下ろして微笑んでいた。

「やだ、私がお持ちしようと思ったのに…」

 澪子は慌てて単衣をかきあわせ手早く帯をし、折敷を受け取った。

「いいのですよ。昨日は…無理をさせましたから」

 百夜が隣に腰かけたので、澪子は白い椀を百夜にひとつ手渡した。

「どうぞ百夜様」

「ありがとうございます、澪子…ふふ、おいしいです」

 百夜は、澪子が何かをすれば、どんな些細な事でもこうして礼を言う。こんな彼が夫で自分は本当に幸せな妻だと思いながら、澪子は椀に口をつけた。とろりとした温かい汁は、ほのぼのと甘く、落とし込んだ橘が最後にじわりとしみ込むように香る。
 そののんびりとした甘さを味わいながら、澪子は昨晩、百夜が言った事をおぼろげながら思い出していた。

(明日の話をできる事が嬉しい…と言っていたような)

 という事は、明日の話をできなくなる日がいつか来るのだろうか。澪子はそれが気にかかった。夫婦が、明日の話ができなくなる状況と言えば…

(…離縁とか?…百夜様はいつか、そうするつもりなの…?)

 そう思うと、澪子の身体はさっと水を浴びせかけられたかのように冷たくなった。

「澪、どうしました?」

 澪子は椀を置き、百夜の方へ向き直った。

「百夜様…私といつか、別れようなんて…思っていませんよね」

 澪子の唐突な言葉に、百夜は虚を突かれたような顔をした。

「そんなこと、思っているわけがありませんよ。…どうしてまた」

「昨日…明日の事を考えられるのが幸せだ、とおっしゃっていたので」

 百夜は合点がいったようにうなずいた。

「ああ、そうなのですね。あれは言葉通りの意味で言ったのですよ。澪。誤解させてしまいすみません」

 百夜がなんでもないようにそう言ったので、澪子は肩を落として謝った。

「いいえ、私のほうこそ考えすぎました…ごめんなさい」

 しゅんとした顔になってしまった澪子に、百夜は言った。

「今日は天気がいいですし…澪、雪を見に出かけましょうか」

「え、雪を?」

「ええ、山の頂に積もった雪です。歩いていくのは寒いでしょうから…私があなたを抱えて、飛んでいきましょう」

「それは悪いですよ…って、ん?いま飛んでいくっておっしゃいました?」

 思わず聞き返した澪子に、百夜は当たり前のようにうなずいた。

「ええ。言いましたよ」

「飛ぶって…飛ぶって?」

 首をひねる澪子に、百夜は簡潔に説明した。

「空を飛んでいきます。もっともこの山は封じられていますので、そう高くは飛べないのですが」

「そ、そんな事もできるんですか…?」

 澪子はにわかには信じがたかった。翼もないのに、鳥のように飛べるのだろうか。

「ええ。妖は空を翔ける事ができる者が多いのです。雲海の上を翔けて、皆故郷と人の世を行き来するのです。」

 澪子は目を丸くした。

「雲の上…!すごい!人間でその景色を見た事がある人はいませんね…あっ、そうか。だから、百夜様の故郷も高い場所にあるのですね」

 雲の上の景色に思いをはせている澪を見て、百夜はふふと笑った。

「ああ見えて、雲はとても冷たいのです。中を突き抜けると、人間は凍えてしまうでしょう。雪の方がまだ温かいくらいです」

 未知の世界の話に、澪子は興味津々に聞き入っていたが、花豆煮を食べ終えた百夜は立ち上がった。

「さて、澪の雪支度をしましょうか」


 数刻後、百夜はありったけの着物を持ってきて澪子に着つけた。藤色に、すみれ色に、茄子紺…それぞれ少しずつ色味のちがう紫の衣の吟味をしながら、絹の単衣を何枚も重ねて着せてゆく。

「澪にはどのような色も似合いますが…秋の竜胆、あの色が私は忘れられなくて」

「百夜様が私に下さったんですよね」

 きのこ鍋を作った時だ。澪子は思い出して微笑んだ。百夜もつられて微笑んだが、すぐに真剣な顔に戻って吟味しはじめた。

「ええ…やはり、最初に濃い紫を来て、だんだんと薄い衣を重ねていきましょう」

 何枚も単衣を重ねたので、澪子はすでにあたたかかった。しかし百夜はその上に淡い藤色で染められた小袖を重ね、最後にこの間の真珠色の桂(うちぎ)を着せかけた。そられをからげて裾をひきずらないようにし、胸より少し上に深紫の帯掛けをしっかり結ぶ。高すぎず低すぎず、その位置は裾を壺(つぼ)めた桂をすっきりと見せ、また真白の衣の中に一本に横切る紫は目をひいた。

「澪、きつくありませんか?」

その手つきは鮮やかで、何度もやり慣れているようであった。色選びも着付け方も澪などよりよほど洒落ていて上手い。その事に、澪子は少し穏やかでない自分に気が付いた。彼は以前から、こうして誰か女の人に着付けてきたのだろうか…。

「大丈夫です…百夜様は本当に、着付も見立てもお上手ですね」

「ふふ、最初はへたくそでした。着る物に興味もなくて…ですが澪、あなたが来てから着物のことを考えるのがすっかり楽しくなってしまって」

「そ、そうなのですか?」

 それにしては最初から上手だった…と澪子は思ったが、百夜は唐櫃をさぐりながら続けた。

「私は調薬しか能のない男です。ですがここでずっと一人でいると、それも空しいばかりで。すべての景色が味気なく醜く感じられました。澪…あなたが来るまでは。」

 百夜は澪の前で桐の箱を開け、中から高下駄を取り出した。それは見たこともない、銀色の粉がまぶされたようなまぶしい白下駄だった。鼻緒は亀甲模様が浮き上がる白布で、中心に金の鈴が結わえられている。

「す、すごいぽっくり…」

 まるで花嫁が履くような底の厚い高下駄だ。足裏側にはなめし皮が張ってありすべりづらい、一見して高価な品とわかるものだった。

「こ、こんなもの、もっと特別な日に履くものではないでしょうか…」

 怖気づいてそういう澪子だったが、百夜はそれを取り出して、澪子の足元に置いた。

「澪と一緒の日は、いつでも特別ですよ。私はあなたを飾って眺めるのが好きなのです。さあ…」

 促されて、澪子はおそるおそる下駄に足をつっこんだ。しゃらんと金の鈴が鳴る。下駄はあつらえたようにぴったりだった。少しぐらつく澪子を見て、百夜は嬉しそうに微笑んだ。

「うん、とても似合っています。取り寄せた甲斐があるというものです。さ、いきましょう」
 
さらに澪子の首周りに白い毛皮を巻き、百夜は澪子を両手に抱えて外へ出た。

 庭へ出ると、少しだが風が吹いていた。百夜はどういう風に飛ぶのだろう?彼の肩にしがみつきながら、澪子はドキドキしてその瞬間を待っていた。
 百夜はじっと空中を見つめている。まるで誰かがいないか探しているかのようだった。すると、風がいくらか強まり百夜の髪と澪子の着物をはたはたと揺らした。

百夜が軽く身構えたかと思うと、次の瞬間2人は空中に浮いていた。

「わ…すごい、すごい、どうやって」

 あっというまに屋根が小さくなり、木々よりもはるか上から澪子は下を見下ろしていた。人には許されないその景色に、澪子は驚きながらも思わず彼にぎゅっとしがみついていた。

「風を読むのです。彼らと上手く付き合っていれば、こうして乗せて連れて行ってくれます」

 ひゅうひゅうと天の風に乗り、2人は山の側面を眼下にしながら上へと上昇していった。冬の山は全体的に鈍色(にびいろ)にくすんでいたが、頂きに近づくにつれ山壁にはうっすらと雪が積もって白くなっていった。

「このあたりでいいでしょう」

 何も遮るもののない頂上の雪原に、百夜は降り立った。太陽の光を天から浴び、つらなる山の尾根はくっきりと陰影がつき、白と薄藍の二色に別れている。その真白の方を、百夜はさく、さくと歩き始めた。雪の上に彼の下駄の跡がつく。

「澪も少し、歩いてみますか」

「はい!」

 百夜はそっと澪子を下ろした。真新しい高下駄が、柔らかな雪を踏む感触がした。目を足元から上げると、そこは白と青しかない、神々しい世界だった。

「すごい…良い景色です!」

 澪子は少し後ろを歩く百夜を振り返って言った。百夜はこのうえなく幸せそうに目を細めた。

「…雪の中のあなたも良いです。いにしえの女神が山の上に降り立った時も、きっとこんなふうだったのでしょうね」

「そんな、また…」

 大げさですよ、と澪子は言いたくなった。が、雪の中を薄着で歩く彼もまた、その景色に負けず劣らず美しかった。白銀の髪が天の風になびき、ゆるやかに舞う。紫色の瞳はまぶしい雪の照り返しを受けて、砕けた金剛石のごとく輝いていた。

(百夜様こそ、古の神様のよう…)

 こんな人が、私の夫なのだ。私は女神ではないけど、この人の妻なのだ…そう思うと、改めてくすぐったいような自慢したいような嬉しく誇らしい気持ちが湧いてくるのであった。自然と足取りが軽くなる。下駄が高いせいで歩みは遅くなるが、雪の冷たさも感じないで済むのはよかった。
 そんな澪子を見て、百夜は目を細めて距離をつめた。

「澪…足元に気をつけてくださいね…おっと」

 雪の下に隠れていた岩に足をとられた澪の身体を、百夜はすかざず抱えて支えた。

「…清浄な女神を、鬼の手が受け止めてしまいました」

 真面目な顔でそんな冗談を言う彼がおかしくて、澪子は照れ笑いした。

「もう…百夜様ったら。あまり恥ずかしいことばかり、言わないでください」

「恥ずかしいですか?」

「だって…私はただの、人間でしかありませんから」

「そうですね。ほかの妖からしたら、あなたはただの人間でしょう。でも私は、あなたの価値を身に染みて知っている」

「そんな価値、私にあるのでしょうか?」

「以前の私は、本当に無知でした。何かを美しいと思う事も、愛おしいと思う心も知りませんでした。ずっと灰色の日々を過ごしてきたのです。けれど澪…いまはあなたが居るから毎日が極彩色に賑やかだ。あなたが私に、生きる喜びを教えてくれたのですよ」

 百夜は幾重にも重ねられた袖から覗く澪の手を取った。

「あなたを着飾らせて、美しい景色の中に置くことは私の目の喜び。私にとって至上の楽しみなのですよ。一瞬のこの時を、あなたの姿を、ずっと覚えていたいと思うのです」

 その真剣な言葉に、さすがの澪子ももう恥ずかしいとは思わなかった。自分はそんな大それたものではないという気持ちはあったが、素直に彼の手を握り返した。

「ありがとうございます。百夜様と結婚できて、私は幸せです」

 百夜は目をほそめて笑った。輝くその目に、透明に光る膜が張って潤んでいた。

「百夜様…」

 澪子は心配から名前を呼んだが、彼は再び澪子を抱えなおした。

「さぁ、そろそろ戻りましょうか。すっかり澪の手が冷たくなっています」
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