15 / 29
雪見の朝
しおりを挟む
「澪、花豆煮を持ってきましたよ。食べれますか?」
澪子ははっと目を開けて身を起こした。朝の白い光を背に、百夜が澪子を見下ろして微笑んでいた。
「やだ、私がお持ちしようと思ったのに…」
澪子は慌てて単衣をかきあわせ手早く帯をし、折敷を受け取った。
「いいのですよ。昨日は…無理をさせましたから」
百夜が隣に腰かけたので、澪子は白い椀を百夜にひとつ手渡した。
「どうぞ百夜様」
「ありがとうございます、澪子…ふふ、おいしいです」
百夜は、澪子が何かをすれば、どんな些細な事でもこうして礼を言う。こんな彼が夫で自分は本当に幸せな妻だと思いながら、澪子は椀に口をつけた。とろりとした温かい汁は、ほのぼのと甘く、落とし込んだ橘が最後にじわりとしみ込むように香る。
そののんびりとした甘さを味わいながら、澪子は昨晩、百夜が言った事をおぼろげながら思い出していた。
(明日の話をできる事が嬉しい…と言っていたような)
という事は、明日の話をできなくなる日がいつか来るのだろうか。澪子はそれが気にかかった。夫婦が、明日の話ができなくなる状況と言えば…
(…離縁とか?…百夜様はいつか、そうするつもりなの…?)
そう思うと、澪子の身体はさっと水を浴びせかけられたかのように冷たくなった。
「澪、どうしました?」
澪子は椀を置き、百夜の方へ向き直った。
「百夜様…私といつか、別れようなんて…思っていませんよね」
澪子の唐突な言葉に、百夜は虚を突かれたような顔をした。
「そんなこと、思っているわけがありませんよ。…どうしてまた」
「昨日…明日の事を考えられるのが幸せだ、とおっしゃっていたので」
百夜は合点がいったようにうなずいた。
「ああ、そうなのですね。あれは言葉通りの意味で言ったのですよ。澪。誤解させてしまいすみません」
百夜がなんでもないようにそう言ったので、澪子は肩を落として謝った。
「いいえ、私のほうこそ考えすぎました…ごめんなさい」
しゅんとした顔になってしまった澪子に、百夜は言った。
「今日は天気がいいですし…澪、雪を見に出かけましょうか」
「え、雪を?」
「ええ、山の頂に積もった雪です。歩いていくのは寒いでしょうから…私があなたを抱えて、飛んでいきましょう」
「それは悪いですよ…って、ん?いま飛んでいくっておっしゃいました?」
思わず聞き返した澪子に、百夜は当たり前のようにうなずいた。
「ええ。言いましたよ」
「飛ぶって…飛ぶって?」
首をひねる澪子に、百夜は簡潔に説明した。
「空を飛んでいきます。もっともこの山は封じられていますので、そう高くは飛べないのですが」
「そ、そんな事もできるんですか…?」
澪子はにわかには信じがたかった。翼もないのに、鳥のように飛べるのだろうか。
「ええ。妖は空を翔ける事ができる者が多いのです。雲海の上を翔けて、皆故郷と人の世を行き来するのです。」
澪子は目を丸くした。
「雲の上…!すごい!人間でその景色を見た事がある人はいませんね…あっ、そうか。だから、百夜様の故郷も高い場所にあるのですね」
雲の上の景色に思いをはせている澪を見て、百夜はふふと笑った。
「ああ見えて、雲はとても冷たいのです。中を突き抜けると、人間は凍えてしまうでしょう。雪の方がまだ温かいくらいです」
未知の世界の話に、澪子は興味津々に聞き入っていたが、花豆煮を食べ終えた百夜は立ち上がった。
「さて、澪の雪支度をしましょうか」
数刻後、百夜はありったけの着物を持ってきて澪子に着つけた。藤色に、すみれ色に、茄子紺…それぞれ少しずつ色味のちがう紫の衣の吟味をしながら、絹の単衣を何枚も重ねて着せてゆく。
「澪にはどのような色も似合いますが…秋の竜胆、あの色が私は忘れられなくて」
「百夜様が私に下さったんですよね」
きのこ鍋を作った時だ。澪子は思い出して微笑んだ。百夜もつられて微笑んだが、すぐに真剣な顔に戻って吟味しはじめた。
「ええ…やはり、最初に濃い紫を来て、だんだんと薄い衣を重ねていきましょう」
何枚も単衣を重ねたので、澪子はすでにあたたかかった。しかし百夜はその上に淡い藤色で染められた小袖を重ね、最後にこの間の真珠色の桂(うちぎ)を着せかけた。そられをからげて裾をひきずらないようにし、胸より少し上に深紫の帯掛けをしっかり結ぶ。高すぎず低すぎず、その位置は裾を壺(つぼ)めた桂をすっきりと見せ、また真白の衣の中に一本に横切る紫は目をひいた。
「澪、きつくありませんか?」
その手つきは鮮やかで、何度もやり慣れているようであった。色選びも着付け方も澪などよりよほど洒落ていて上手い。その事に、澪子は少し穏やかでない自分に気が付いた。彼は以前から、こうして誰か女の人に着付けてきたのだろうか…。
「大丈夫です…百夜様は本当に、着付も見立てもお上手ですね」
「ふふ、最初はへたくそでした。着る物に興味もなくて…ですが澪、あなたが来てから着物のことを考えるのがすっかり楽しくなってしまって」
「そ、そうなのですか?」
それにしては最初から上手だった…と澪子は思ったが、百夜は唐櫃をさぐりながら続けた。
「私は調薬しか能のない男です。ですがここでずっと一人でいると、それも空しいばかりで。すべての景色が味気なく醜く感じられました。澪…あなたが来るまでは。」
百夜は澪の前で桐の箱を開け、中から高下駄を取り出した。それは見たこともない、銀色の粉がまぶされたようなまぶしい白下駄だった。鼻緒は亀甲模様が浮き上がる白布で、中心に金の鈴が結わえられている。
「す、すごいぽっくり…」
まるで花嫁が履くような底の厚い高下駄だ。足裏側にはなめし皮が張ってありすべりづらい、一見して高価な品とわかるものだった。
「こ、こんなもの、もっと特別な日に履くものではないでしょうか…」
怖気づいてそういう澪子だったが、百夜はそれを取り出して、澪子の足元に置いた。
「澪と一緒の日は、いつでも特別ですよ。私はあなたを飾って眺めるのが好きなのです。さあ…」
促されて、澪子はおそるおそる下駄に足をつっこんだ。しゃらんと金の鈴が鳴る。下駄はあつらえたようにぴったりだった。少しぐらつく澪子を見て、百夜は嬉しそうに微笑んだ。
「うん、とても似合っています。取り寄せた甲斐があるというものです。さ、いきましょう」
さらに澪子の首周りに白い毛皮を巻き、百夜は澪子を両手に抱えて外へ出た。
庭へ出ると、少しだが風が吹いていた。百夜はどういう風に飛ぶのだろう?彼の肩にしがみつきながら、澪子はドキドキしてその瞬間を待っていた。
百夜はじっと空中を見つめている。まるで誰かがいないか探しているかのようだった。すると、風がいくらか強まり百夜の髪と澪子の着物をはたはたと揺らした。
百夜が軽く身構えたかと思うと、次の瞬間2人は空中に浮いていた。
「わ…すごい、すごい、どうやって」
あっというまに屋根が小さくなり、木々よりもはるか上から澪子は下を見下ろしていた。人には許されないその景色に、澪子は驚きながらも思わず彼にぎゅっとしがみついていた。
「風を読むのです。彼らと上手く付き合っていれば、こうして乗せて連れて行ってくれます」
ひゅうひゅうと天の風に乗り、2人は山の側面を眼下にしながら上へと上昇していった。冬の山は全体的に鈍色(にびいろ)にくすんでいたが、頂きに近づくにつれ山壁にはうっすらと雪が積もって白くなっていった。
「このあたりでいいでしょう」
何も遮るもののない頂上の雪原に、百夜は降り立った。太陽の光を天から浴び、つらなる山の尾根はくっきりと陰影がつき、白と薄藍の二色に別れている。その真白の方を、百夜はさく、さくと歩き始めた。雪の上に彼の下駄の跡がつく。
「澪も少し、歩いてみますか」
「はい!」
百夜はそっと澪子を下ろした。真新しい高下駄が、柔らかな雪を踏む感触がした。目を足元から上げると、そこは白と青しかない、神々しい世界だった。
「すごい…良い景色です!」
澪子は少し後ろを歩く百夜を振り返って言った。百夜はこのうえなく幸せそうに目を細めた。
「…雪の中のあなたも良いです。いにしえの女神が山の上に降り立った時も、きっとこんなふうだったのでしょうね」
「そんな、また…」
大げさですよ、と澪子は言いたくなった。が、雪の中を薄着で歩く彼もまた、その景色に負けず劣らず美しかった。白銀の髪が天の風になびき、ゆるやかに舞う。紫色の瞳はまぶしい雪の照り返しを受けて、砕けた金剛石のごとく輝いていた。
(百夜様こそ、古の神様のよう…)
こんな人が、私の夫なのだ。私は女神ではないけど、この人の妻なのだ…そう思うと、改めてくすぐったいような自慢したいような嬉しく誇らしい気持ちが湧いてくるのであった。自然と足取りが軽くなる。下駄が高いせいで歩みは遅くなるが、雪の冷たさも感じないで済むのはよかった。
そんな澪子を見て、百夜は目を細めて距離をつめた。
「澪…足元に気をつけてくださいね…おっと」
雪の下に隠れていた岩に足をとられた澪の身体を、百夜はすかざず抱えて支えた。
「…清浄な女神を、鬼の手が受け止めてしまいました」
真面目な顔でそんな冗談を言う彼がおかしくて、澪子は照れ笑いした。
「もう…百夜様ったら。あまり恥ずかしいことばかり、言わないでください」
「恥ずかしいですか?」
「だって…私はただの、人間でしかありませんから」
「そうですね。ほかの妖からしたら、あなたはただの人間でしょう。でも私は、あなたの価値を身に染みて知っている」
「そんな価値、私にあるのでしょうか?」
「以前の私は、本当に無知でした。何かを美しいと思う事も、愛おしいと思う心も知りませんでした。ずっと灰色の日々を過ごしてきたのです。けれど澪…いまはあなたが居るから毎日が極彩色に賑やかだ。あなたが私に、生きる喜びを教えてくれたのですよ」
百夜は幾重にも重ねられた袖から覗く澪の手を取った。
「あなたを着飾らせて、美しい景色の中に置くことは私の目の喜び。私にとって至上の楽しみなのですよ。一瞬のこの時を、あなたの姿を、ずっと覚えていたいと思うのです」
その真剣な言葉に、さすがの澪子ももう恥ずかしいとは思わなかった。自分はそんな大それたものではないという気持ちはあったが、素直に彼の手を握り返した。
「ありがとうございます。百夜様と結婚できて、私は幸せです」
百夜は目をほそめて笑った。輝くその目に、透明に光る膜が張って潤んでいた。
「百夜様…」
澪子は心配から名前を呼んだが、彼は再び澪子を抱えなおした。
「さぁ、そろそろ戻りましょうか。すっかり澪の手が冷たくなっています」
澪子ははっと目を開けて身を起こした。朝の白い光を背に、百夜が澪子を見下ろして微笑んでいた。
「やだ、私がお持ちしようと思ったのに…」
澪子は慌てて単衣をかきあわせ手早く帯をし、折敷を受け取った。
「いいのですよ。昨日は…無理をさせましたから」
百夜が隣に腰かけたので、澪子は白い椀を百夜にひとつ手渡した。
「どうぞ百夜様」
「ありがとうございます、澪子…ふふ、おいしいです」
百夜は、澪子が何かをすれば、どんな些細な事でもこうして礼を言う。こんな彼が夫で自分は本当に幸せな妻だと思いながら、澪子は椀に口をつけた。とろりとした温かい汁は、ほのぼのと甘く、落とし込んだ橘が最後にじわりとしみ込むように香る。
そののんびりとした甘さを味わいながら、澪子は昨晩、百夜が言った事をおぼろげながら思い出していた。
(明日の話をできる事が嬉しい…と言っていたような)
という事は、明日の話をできなくなる日がいつか来るのだろうか。澪子はそれが気にかかった。夫婦が、明日の話ができなくなる状況と言えば…
(…離縁とか?…百夜様はいつか、そうするつもりなの…?)
そう思うと、澪子の身体はさっと水を浴びせかけられたかのように冷たくなった。
「澪、どうしました?」
澪子は椀を置き、百夜の方へ向き直った。
「百夜様…私といつか、別れようなんて…思っていませんよね」
澪子の唐突な言葉に、百夜は虚を突かれたような顔をした。
「そんなこと、思っているわけがありませんよ。…どうしてまた」
「昨日…明日の事を考えられるのが幸せだ、とおっしゃっていたので」
百夜は合点がいったようにうなずいた。
「ああ、そうなのですね。あれは言葉通りの意味で言ったのですよ。澪。誤解させてしまいすみません」
百夜がなんでもないようにそう言ったので、澪子は肩を落として謝った。
「いいえ、私のほうこそ考えすぎました…ごめんなさい」
しゅんとした顔になってしまった澪子に、百夜は言った。
「今日は天気がいいですし…澪、雪を見に出かけましょうか」
「え、雪を?」
「ええ、山の頂に積もった雪です。歩いていくのは寒いでしょうから…私があなたを抱えて、飛んでいきましょう」
「それは悪いですよ…って、ん?いま飛んでいくっておっしゃいました?」
思わず聞き返した澪子に、百夜は当たり前のようにうなずいた。
「ええ。言いましたよ」
「飛ぶって…飛ぶって?」
首をひねる澪子に、百夜は簡潔に説明した。
「空を飛んでいきます。もっともこの山は封じられていますので、そう高くは飛べないのですが」
「そ、そんな事もできるんですか…?」
澪子はにわかには信じがたかった。翼もないのに、鳥のように飛べるのだろうか。
「ええ。妖は空を翔ける事ができる者が多いのです。雲海の上を翔けて、皆故郷と人の世を行き来するのです。」
澪子は目を丸くした。
「雲の上…!すごい!人間でその景色を見た事がある人はいませんね…あっ、そうか。だから、百夜様の故郷も高い場所にあるのですね」
雲の上の景色に思いをはせている澪を見て、百夜はふふと笑った。
「ああ見えて、雲はとても冷たいのです。中を突き抜けると、人間は凍えてしまうでしょう。雪の方がまだ温かいくらいです」
未知の世界の話に、澪子は興味津々に聞き入っていたが、花豆煮を食べ終えた百夜は立ち上がった。
「さて、澪の雪支度をしましょうか」
数刻後、百夜はありったけの着物を持ってきて澪子に着つけた。藤色に、すみれ色に、茄子紺…それぞれ少しずつ色味のちがう紫の衣の吟味をしながら、絹の単衣を何枚も重ねて着せてゆく。
「澪にはどのような色も似合いますが…秋の竜胆、あの色が私は忘れられなくて」
「百夜様が私に下さったんですよね」
きのこ鍋を作った時だ。澪子は思い出して微笑んだ。百夜もつられて微笑んだが、すぐに真剣な顔に戻って吟味しはじめた。
「ええ…やはり、最初に濃い紫を来て、だんだんと薄い衣を重ねていきましょう」
何枚も単衣を重ねたので、澪子はすでにあたたかかった。しかし百夜はその上に淡い藤色で染められた小袖を重ね、最後にこの間の真珠色の桂(うちぎ)を着せかけた。そられをからげて裾をひきずらないようにし、胸より少し上に深紫の帯掛けをしっかり結ぶ。高すぎず低すぎず、その位置は裾を壺(つぼ)めた桂をすっきりと見せ、また真白の衣の中に一本に横切る紫は目をひいた。
「澪、きつくありませんか?」
その手つきは鮮やかで、何度もやり慣れているようであった。色選びも着付け方も澪などよりよほど洒落ていて上手い。その事に、澪子は少し穏やかでない自分に気が付いた。彼は以前から、こうして誰か女の人に着付けてきたのだろうか…。
「大丈夫です…百夜様は本当に、着付も見立てもお上手ですね」
「ふふ、最初はへたくそでした。着る物に興味もなくて…ですが澪、あなたが来てから着物のことを考えるのがすっかり楽しくなってしまって」
「そ、そうなのですか?」
それにしては最初から上手だった…と澪子は思ったが、百夜は唐櫃をさぐりながら続けた。
「私は調薬しか能のない男です。ですがここでずっと一人でいると、それも空しいばかりで。すべての景色が味気なく醜く感じられました。澪…あなたが来るまでは。」
百夜は澪の前で桐の箱を開け、中から高下駄を取り出した。それは見たこともない、銀色の粉がまぶされたようなまぶしい白下駄だった。鼻緒は亀甲模様が浮き上がる白布で、中心に金の鈴が結わえられている。
「す、すごいぽっくり…」
まるで花嫁が履くような底の厚い高下駄だ。足裏側にはなめし皮が張ってありすべりづらい、一見して高価な品とわかるものだった。
「こ、こんなもの、もっと特別な日に履くものではないでしょうか…」
怖気づいてそういう澪子だったが、百夜はそれを取り出して、澪子の足元に置いた。
「澪と一緒の日は、いつでも特別ですよ。私はあなたを飾って眺めるのが好きなのです。さあ…」
促されて、澪子はおそるおそる下駄に足をつっこんだ。しゃらんと金の鈴が鳴る。下駄はあつらえたようにぴったりだった。少しぐらつく澪子を見て、百夜は嬉しそうに微笑んだ。
「うん、とても似合っています。取り寄せた甲斐があるというものです。さ、いきましょう」
さらに澪子の首周りに白い毛皮を巻き、百夜は澪子を両手に抱えて外へ出た。
庭へ出ると、少しだが風が吹いていた。百夜はどういう風に飛ぶのだろう?彼の肩にしがみつきながら、澪子はドキドキしてその瞬間を待っていた。
百夜はじっと空中を見つめている。まるで誰かがいないか探しているかのようだった。すると、風がいくらか強まり百夜の髪と澪子の着物をはたはたと揺らした。
百夜が軽く身構えたかと思うと、次の瞬間2人は空中に浮いていた。
「わ…すごい、すごい、どうやって」
あっというまに屋根が小さくなり、木々よりもはるか上から澪子は下を見下ろしていた。人には許されないその景色に、澪子は驚きながらも思わず彼にぎゅっとしがみついていた。
「風を読むのです。彼らと上手く付き合っていれば、こうして乗せて連れて行ってくれます」
ひゅうひゅうと天の風に乗り、2人は山の側面を眼下にしながら上へと上昇していった。冬の山は全体的に鈍色(にびいろ)にくすんでいたが、頂きに近づくにつれ山壁にはうっすらと雪が積もって白くなっていった。
「このあたりでいいでしょう」
何も遮るもののない頂上の雪原に、百夜は降り立った。太陽の光を天から浴び、つらなる山の尾根はくっきりと陰影がつき、白と薄藍の二色に別れている。その真白の方を、百夜はさく、さくと歩き始めた。雪の上に彼の下駄の跡がつく。
「澪も少し、歩いてみますか」
「はい!」
百夜はそっと澪子を下ろした。真新しい高下駄が、柔らかな雪を踏む感触がした。目を足元から上げると、そこは白と青しかない、神々しい世界だった。
「すごい…良い景色です!」
澪子は少し後ろを歩く百夜を振り返って言った。百夜はこのうえなく幸せそうに目を細めた。
「…雪の中のあなたも良いです。いにしえの女神が山の上に降り立った時も、きっとこんなふうだったのでしょうね」
「そんな、また…」
大げさですよ、と澪子は言いたくなった。が、雪の中を薄着で歩く彼もまた、その景色に負けず劣らず美しかった。白銀の髪が天の風になびき、ゆるやかに舞う。紫色の瞳はまぶしい雪の照り返しを受けて、砕けた金剛石のごとく輝いていた。
(百夜様こそ、古の神様のよう…)
こんな人が、私の夫なのだ。私は女神ではないけど、この人の妻なのだ…そう思うと、改めてくすぐったいような自慢したいような嬉しく誇らしい気持ちが湧いてくるのであった。自然と足取りが軽くなる。下駄が高いせいで歩みは遅くなるが、雪の冷たさも感じないで済むのはよかった。
そんな澪子を見て、百夜は目を細めて距離をつめた。
「澪…足元に気をつけてくださいね…おっと」
雪の下に隠れていた岩に足をとられた澪の身体を、百夜はすかざず抱えて支えた。
「…清浄な女神を、鬼の手が受け止めてしまいました」
真面目な顔でそんな冗談を言う彼がおかしくて、澪子は照れ笑いした。
「もう…百夜様ったら。あまり恥ずかしいことばかり、言わないでください」
「恥ずかしいですか?」
「だって…私はただの、人間でしかありませんから」
「そうですね。ほかの妖からしたら、あなたはただの人間でしょう。でも私は、あなたの価値を身に染みて知っている」
「そんな価値、私にあるのでしょうか?」
「以前の私は、本当に無知でした。何かを美しいと思う事も、愛おしいと思う心も知りませんでした。ずっと灰色の日々を過ごしてきたのです。けれど澪…いまはあなたが居るから毎日が極彩色に賑やかだ。あなたが私に、生きる喜びを教えてくれたのですよ」
百夜は幾重にも重ねられた袖から覗く澪の手を取った。
「あなたを着飾らせて、美しい景色の中に置くことは私の目の喜び。私にとって至上の楽しみなのですよ。一瞬のこの時を、あなたの姿を、ずっと覚えていたいと思うのです」
その真剣な言葉に、さすがの澪子ももう恥ずかしいとは思わなかった。自分はそんな大それたものではないという気持ちはあったが、素直に彼の手を握り返した。
「ありがとうございます。百夜様と結婚できて、私は幸せです」
百夜は目をほそめて笑った。輝くその目に、透明に光る膜が張って潤んでいた。
「百夜様…」
澪子は心配から名前を呼んだが、彼は再び澪子を抱えなおした。
「さぁ、そろそろ戻りましょうか。すっかり澪の手が冷たくなっています」
10
お気に入りに追加
251
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
黒龍の神嫁は溺愛から逃げられない
めがねあざらし
キャラ文芸
「神嫁は……お前です」
村の神嫁選びで神託が告げたのは、美しい娘ではなく青年・長(なが)だった。
戸惑いながらも黒龍の神・橡(つるばみ)に嫁ぐことになった長は、神域で不思議な日々を過ごしていく。
穏やかな橡との生活に次第に心を許し始める長だったが、ある日を境に彼の姿が消えてしまう――。
夢の中で響く声と、失われた記憶が導く、神と人の恋の物語。
百合系サキュバス達に一目惚れされた
釧路太郎
キャラ文芸
名門零楼館高校はもともと女子高であったのだが、様々な要因で共学になって数年が経つ。
文武両道を掲げる零楼館高校はスポーツ分野だけではなく進学実績も全国レベルで見ても上位に食い込んでいるのであった。
そんな零楼館高校の歴史において今まで誰一人として選ばれたことのない“特別指名推薦”に選ばれたのが工藤珠希なのである。
工藤珠希は身長こそ平均を超えていたが、運動や学力はいたって平均クラスであり性格の良さはあるものの特筆すべき才能も無いように見られていた。
むしろ、彼女の幼馴染である工藤太郎は様々な部活の助っ人として活躍し、中学生でありながら様々な競技のプロ団体からスカウトが来るほどであった。更に、学力面においても優秀であり国内のみならず海外への進学も不可能ではないと言われるほどであった。
“特別指名推薦”の話が学校に来た時は誰もが相手を間違えているのではないかと疑ったほどであったが、零楼館高校関係者は工藤珠希で間違いないという。
工藤珠希と工藤太郎は血縁関係はなく、複雑な家庭環境であった工藤太郎が幼いころに両親を亡くしたこともあって彼は工藤家の養子として迎えられていた。
兄妹同然に育った二人ではあったが、お互いが相手の事を守ろうとする良き関係であり、恋人ではないがそれ以上に信頼しあっている。二人の関係性は苗字が同じという事もあって夫婦と揶揄されることも多々あったのだ。
工藤太郎は県外にあるスポーツ名門校からの推薦も来ていてほぼ内定していたのだが、工藤珠希が零楼館高校に入学することを決めたことを受けて彼も零楼館高校を受験することとなった。
スポーツ分野でも名をはせている零楼館高校に工藤太郎が入学すること自体は何の違和感もないのだが、本来入学する予定であった高校関係者は落胆の声をあげていたのだ。だが、彼の出自も相まって彼の意志を否定する者は誰もいなかったのである。
二人が入学する零楼館高校には外に出ていない秘密があるのだ。
零楼館高校に通う生徒のみならず、教員職員運営者の多くがサキュバスでありそのサキュバスも一般的に知られているサキュバスと違い女性を対象とした変異種なのである。
かつては“秘密の花園”と呼ばれた零楼館女子高等学校もそういった意味を持っていたのだった。
ちなみに、工藤珠希は工藤太郎の事を好きなのだが、それは誰にも言えない秘密なのである。
この作品は「小説家になろう」「カクヨム」「ノベルアッププラス」「ノベルバ」「ノベルピア」にも掲載しております。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
【完結】うっかり異世界召喚されましたが騎士様が過保護すぎます!
雨宮羽那
恋愛
いきなり神子様と呼ばれるようになってしまった女子高生×過保護気味な騎士のラブストーリー。
◇◇◇◇
私、立花葵(たちばなあおい)は普通の高校二年生。
元気よく始業式に向かっていたはずなのに、うっかり神様とぶつかってしまったらしく、異世界へ飛ばされてしまいました!
気がつくと神殿にいた私を『神子様』と呼んで出迎えてくれたのは、爽やかなイケメン騎士様!?
元の世界に戻れるまで騎士様が守ってくれることになったけど……。この騎士様、過保護すぎます!
だけどこの騎士様、何やら秘密があるようで――。
◇◇◇◇
※過去に同名タイトルで途中まで連載していましたが、連載再開にあたり設定に大幅変更があったため、加筆どころか書き直してます。
※アルファポリス先行公開。
※表紙はAIにより作成したものです。
イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。
すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。
そこで私は一人の男の人と出会う。
「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」
そんな言葉をかけてきた彼。
でも私には秘密があった。
「キミ・・・目が・・?」
「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」
ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。
「お願いだから俺を好きになって・・・。」
その言葉を聞いてお付き合いが始まる。
「やぁぁっ・・!」
「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」
激しくなっていく夜の生活。
私の身はもつの!?
※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる