光速文芸部

きうり

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第九章 港則文芸部

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   九
 放課後にいつも通りに部室へ向かった。
 その足取りは、自分でも可笑しいほど静かだった。抜き足差し足である。私は何をやっているのだろうと考えながら、息を殺して階段を上る。
 部室のドアにそっと手をかけ、素早く開いた。
 彼は先に来ていた。本棚の前に立って一冊の冊子を手にしており、私を見ると少し驚いていた。
「あら。参考文献かしら」
「そうだよ。ずっと前に書いたものだ」
 彼はあっさり認めた。しかしそれを見せはせず、自然な動作で本棚へ戻す。
「見せたくないの」
「忘れてもらえると助かる。昔の稚拙な作品だ。内緒でここに置かせてもらっていた」
 なにを言っているのだろう。内緒にしたいのなら、自宅か自分の鞄に隠しておけばいいのに。
「僕はここでしか執筆をしていないからね。それに持ち歩くと傷む」
 私の心を読んだように、彼は補足した。
 秘密を暴こうというほどの気持ちはなかった。だがこうもあっさり認められて、どこか肩透かしを食らった気分だった。
「そうだ、君の草稿を読んだよ。帰宅してから繰り返し読んだ」
 彼は机の上を指差した。そこにある感熱紙の束は、いま私が書いている推理小説の草稿だった。ある程度の段階まで書き上がったので、いったん印刷して彼に渡したのである。感熱紙は値が張るため、できるだけ少ない枚数にびっしり文字を収めた不格好な代物だ。よく繰り返し読む気になったなと感心する。
「そう。で、どう」
 緊張した。自作を他人に読んでもらったのは初めてだ。いつも以上に無表情であろうと努め、椅子に腰を下ろした。
「うん。個性が感じられない」
 いきなり否定である。
「小説家を志す者の作品としては、肝心なところで個性が欠けているように思うよ」
 彼は私の向かいに座り、感熱紙の束に目を落とす。
「謎と解決というストーリー展開と、探偵と助手という要素は、ありがちではあるけれどまあ推理小説としては必要なんだろう。だけど主人公も探偵役も、どこかで見たようなキャラクターの焼き直しという印象が拭えない。それに衒学的な文体も、背伸びして真似ているだけで今一歩理想に届いていないように見える」
 それを聞いている時の私は、一体どんな顔をしていただろう。数秒前まで努めて冷静であろうとしていたことなど完全に忘れ、あっという間に動揺の波に呑まれていた。
「推理小説というジャンルの場合は、パターンを踏襲した上でそれをさらに展開させるのが王道なのだろう。そう考えれば設定や文体の問題は些細なことだ。だが、肝心の謎と解決についてもこの作品は問題がある。おそらくこれはコーネル・ウールリッチの短編を意識しているんだろうけれど」
 ウールリッチの名前が飛び出したので驚いた。彼がそこまで精通しているとは思わなかった。
 私の書いた小説は、戦前の日本が舞台である。大正末期から昭和初期の話だ。
 さる鉄道のトンネルで、鉄道車両から乗客が墜死するという事故が多発する。人々は、幽霊に引かれて鉄道から落とされてしまうのだとか、呪いだとか祟りだとか、口々に噂し合う。さらにその噂に便乗した超能力者やインチキ霊媒などが登場し、物語は混迷する。そこへ探偵たちが乗り込んできて謎を解くというストーリーだ。
「時代考証はよくできている。素晴らしい。人々がいとも簡単に呪いや祟りといった迷信を鵜呑みにしてしまう過程の描写も見事だ。――だけどトリックが駄目だ」
 真相はこうだ。当時はもちろん蒸気機関車だったわけだが、トンネルに入っていくと、その煤煙が狭い空間に充満することになる。それによってデッキにいた人々はことごとく窒息し、失神して落下してしまうのである。
 メカニズム自体は簡単だ。だがこの真相は、まさにこの時代だからこそありうるのである。鉄道の建設が本格的に始まったのは明治初期のことだが、それ以降、汽車はどんどん巨大化していった。よって相対的にトンネルは狭くなり、煤煙が溜まりやすくなるのである。実際、この時期には大勢の乗務員が窒息して大惨事に至ったケースもあり、そうした出来事を経て鉄道の煙対策は進められていったのだ。私が描いたのは、この時代限定のトリックである。
「具体的に、どこが駄目なのかしら」
 動揺を抑えて尋ねた。
「煤煙による窒息事故が社会問題になったことは、僕も知っている。これは歴史的事実で、その意味でも時代考証はしっかりしているよ。だがそれゆえにオリジナリティがない。歴史的事実をただなぞっただけの真相ではつまらない」
 即答してから、最後にひとこと付け足した。
「このトリックは現実を越えていない」
 ぐさりと刺さる。
「言われてみると、そうかも知れないわね」
 めまいがしそうだ。あくまでも冷静に、私は受け答えをする。
 彼はさらに感想を述べた。途中からは感想というよりも論評に近かったと思う。彼の読みはとても深く、厳しかった。繰り返し読んだという言葉は真実らしかった。
 さらに驚くべきことには、彼は代案まで出してくれた。そこまで提案されては作者の立場がなくなってしまう――そう言いたくなるような見事な案だった。
 そのうちに日が暮れて、私たちは帰ることにした。気がついてみると、部活の時間のほとんどが作品批評に費やされていたのだった。
「今日は僕ばかりしゃべってしまった」
 部室の扉を閉めながら、彼は言った。
「明日は反対に、僕の感想に対する君の考えとか、作者としての心情を聞かせてもらいたい」
「情状酌量の余地があるか判定するわけね。まるで裁判だわ」
 夕暮れの空を、ムクドリの大群が通り過ぎていく。
「それは誤解だ」
「分かってるわよ」
 冗談くらい見抜きなさいよ。それくらい分からないの。つい言いそうになって押しとどめた。
「率直な感想、受け取っておくわ。ところで私のはともかく、貴方の作品はいつになるの?」
「今はまだ」
 またそれか。むっとした。
 見る限りでは、彼の仕事は速い。もう相当量を書いているはずである、そろそろ概要くらいは教えてくれてもいいのではないか。
 一人の帰り道、また私はいらいらしていた。
「もっとちゃんと読みなさいよ」
 またあの独り言が湧く。貴方なんて自作を見せもしないくせに――! 今日の私は、本当はそんなことを言いかけていたのだ。
 我ながらひどい言いがかりだ。私だって、書き上がるまでは一度も見せていない。
 分かっている。彼の批評は私の作品を貶めるため、ましてや私をいたずらに攻撃するためになされたのでは決してない。君の個性を読ませてくれ。君のオリジナルを見たい。今日、手厳しい批評の合間合間に、彼は何度もそんな言葉を挟み込んでいた。
 それでも言葉はとどまることを知らない。気がつけば、内なる言葉はいつの間にか恨み事めいていた。
 貴方ならもっと読んでくれると思ったのに――。
 それが作品のことなのか私自身のことなのか、もはや自分でも分からない。ただ言葉だけが暴走していた。
 これが欲望なのだと、私は気付いた。
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