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第八章
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で、それから十年以上が経って。
私も春子も、気が付けば結婚して子供をもうけ、そんな中でもときどき連絡し合っていた。連絡と言っても、思い出したようにメールで他愛のない短文をやり取りする程度だ。最初に送るのはもっぱら私の方で、春子はそれに対して律義に返事をしてくれる。そして大抵、あちらからの返事が来なくなってやり取りが途切れる。その繰り返しだ。
私は地元に戻って就職した。農業ののの字も知らないで農協に勤めたら、お局に揉まれる中で先輩の男性社員から求婚されて、なんとなくゴールイン。子供が生まれたのは翌年だ。
春子もその頃には帰国して日本で就職していた。私のように、農協などという、狭い地域社会をステージとする組織にいると想像もつかないが、その後仕事の関係で知り合った県外の人についていく形でお嫁に行った。そして、私と同じリズム感で翌年には子供ができた。
私も彼女も挙式はせず、よって直接のお祝いはしていない。ただ、結婚と出産にあわせて、お互いに記念品を贈り合った。私は、トトロのオルゴール付きのかわいいタオルセット。春子からは、少し小さめで赤ちゃんでも使える、小さめの高級なタオルセット。後で「そういえばどっちもタオルだね」とメールで笑い合ったものだ。
「そういえば、また今年も春子さんにさくらんぼを贈るの?」
ある日、夕食の支度をしていたら、夫から聞かれた。彼は、三歳になる娘の茉莉が最近はまり始めたカルタ取りに付き合っているところだった。
「うん。贈るー」
茹でた野菜を鍋からザルに移しながら、私は答えた。蒸気がキッチンに満ちて、娘が「パパ見て見て、モクモクだ!」と指差しながら歓声をあげる。
「そうか。じゃあ手配しとくから、早めにまた送り先のメモ書きをくれる? 今年は異常気象でさくらんぼが少なくなるかも知れないから、とにかく早い方がいい」
「分かった」
私は手元に集中しながら返事をした。夫は農協で、ふるさと納税の返礼品の準備や発送を行う仕事をしている。一方の私は農協に入って以来、金融や共済関係など全く違う仕事に携わり続けているので、農産物を人に贈る際は夫に頼むようにしている。
「それにしても、君とその春子さんっていう人は、毎年こまめにプレゼント交換みたいに贈り物をし合うね。大学時代の友達だっけ?」
「ううん、高校から。大学時代はたまに会ってた程度かな。就職して、私が結婚する前はときどき遊びに行ってたけど」
「そうだっけな。車で片道四時間かけてね……」夫は苦笑いする。「俺もドライブは好きだけど、そこまで長距離を走るのはちょっと気合いが必要だな」
「春子がこっちの方向に来てくれて、ちょうどいい地点で落ち合ったりできるといいんだけどね。働いてて、結婚してて、子供がいるとなかなかそうはいかないよ。こっちも茉莉が生まれてからは、さすがに行ってないし」
「茉莉を連れて片道四時間の長距離を走るのは、まだちょっと難しいもんな」
そう言いながら夫は、茉莉を抱え上げて左右に振り子のようにぶらぶら揺らす遊びを始めた。娘はこれが好きで、夫の腕が上がらなくなるまで何度もやらせるのだ。
一体どういう巡り合わせなのか、今、春子は秋田市に住んでいる。一度は地元に戻った彼女だが、先述した通り県外の人と結婚した。その旦那様というのが偶然にも秋田出身だったのだ。奇しくも、私が大学を卒業してから、数年越しの入れ違いという形で彼女は秋田市入りしたのだった。
いくら近くに住んでいても、就職したり、お互いに異性と交際したりするようになると、さすがに頻繁に会うこともなくなる。お互いに大学を卒業してから、独身のうちに地元で会って食事をしたりお茶をしたりしたのは二、三回に過ぎない。また子供が生まれればなおさらで、最近はもうラインでメッセージを送ったり、元気の証として子供と一緒に写っている写真を送り合うのがせいぜいだ。あとはさくらんぼ。どのみち、母親となってからも彼女は元気そうではある。
「毎日、帰りの電車でおしゃべりしてた仲だっけか。正直、傍から見てるとそれだけの関係? って思うよ。十年以上経ってからもこんな風に交流してる友達なんて、俺にはいないしなあ」
「珍しい方かもね。本当はたぶん私、そんなに友達甲斐のあるタイプじゃないし。大学時代に遊んでた娘たちも、今は神奈川だの千葉だの茨城だのに散り散りだから、やっぱりラインで連絡取る程度だよ」
「あとは、そこのガソリンスタンドに勤めてる人だっけ?」
「中岡? いや! あれは友達じゃない」私は全力で否定した。「中岡は完全な腐れ縁。それこそ高校卒業後は会ってもいなかったのに、今頃になって近所のスタンドで出くわすなんて思いも寄らなかった」
どうして思わず全力で首を横に振ったのかは、自分でもよく分からなかった。あるいは卒業式の日に池田餅屋へ「食事」に誘ってくれたことを、今もわりとしっかり覚えているのと無関係ではないかも知れない。ちなみに池田餅屋は私自身もかなり気に入っていて、今もときどき食べに行く。
だがふと、連想することがあった。中岡との高校時代の記憶がそういう形で今も残っているのなら、春子はどうなんだろう。やっぱり私は春子との関係についても、あの頃の記憶に引きずられているようなものなのだろうか。
「……春子のことは、自分でもよく分かんないけど、いろいろ引っかかりっぱなしなんだろうね」
「引っかかりっぱなし?」
スマホをいじっていた夫は、顔を上げてこちらを見た。今、娘は自ら子供用の椅子によじ登ってテーブルにつき、粘土遊びを始めていた。夕食ができたら念入りに拭かなければなるまい。
そこで私は、手を動かして料理を続けながら、ぽつぽつと説明した。春子が、男遊びが激しい女だと誤解されていたことや、それが原因で敵視する同級生もいたこと。で、私が彼女のことを助けられず、なんと中岡の狙撃によって事なきを得たこと――。
「なんだ、その中岡って人はスナイパーなのか。俺、ママたちの友情の話よりも、狙撃のエピソードに痺れちゃったよ」
話を聞き終えると、夫は笑っていた。
「ああいう時の感情って、説明しようとすると難しいな。私は春子を大好きだったけど、一方で、心の底では異質な印象を抱いていたのかも。この人は私とは違う人だ、って。だからヤリマンっていう噂を立てられていたのも私には関係ないし、彼女が責められるのは彼女の責任だなんて思ってたような気もする」
「考えすぎじゃないかなあ。そういうのは、裏の裏まで読み取ろうとするときりがないよ。話を聞くと、亜由美がそこで割り込んでいったら果たして解決してたのかどうかもよく分からないし」
「そうかな」
「そうだよ。その、いじめっ子っぽい女の子が退散したのだって、誰かが割り込んできたから……というよりも、得体の知れない暴力が降りかかってきたからでしょ。それは中岡のとっさの行動だったんだろうけど、もしかすると本当に、それくらいやらないといじめっ子たちは退散しなかったのかも知れない。亜由美が割り込んでいっても焼け石に水か、もしかすると事態はもっと悪化してたのかも。喧嘩の仲裁なんて、よっぽどの権力を持った人でないとそう簡単にできるもんじゃないって」
「まあね」
「それに、そうやって権力を振るって喧嘩を止める側だって、逆に微妙な気分になることがあるよ。これは僕の体験だけど……」
夫は、肩車をせがんでくる茉莉をひょいと抱き上げると、彼女の両足を自分の肩へ、お尻を頭の上に載せるという一段高い肩車をした。茉莉はこれが好きなのだ。もちろんバランスは良くないので、夫は茉莉の脇の下に手を入れてしっかり支えている。そして歩き回りながら話を続けた。
「高校の頃に、町内会の祭りに参加したことがあってさ。子供たちが山車を引いてたんだよ。で、僕の実家の近所に知的障害のある子がいたんだけど、その子も祭りに参加してた。でさ、知的障害の子って外見が独特なことがあるだろう? それを、初めて会った小さい子供たちがからかい始めたんだ」
「ああ……」
「で、僕はそこですごく怒った。お前ら、言っていいことと悪いことがあるぞ、って叱ったわけだね。そしたら、からかってた子供たちはシュンとして大人しくなったけど、まあ非常に微妙な空気になって。そのうち彼らは、誰ともなく『行こう』なんて声をかけあってどこかにいなくなった。で、お祭りはちょっと盛り下がっちゃった」
「へええ」
私は感心して声を上げた。話の内容に感心したわけではなく、夫の知らない一面を見た気がしたのだ。今は保育園の行事や町内会のイベントに参加するのは消極的な方だし、また彼は人が大勢いる場所で子供を叱るタイプでもない。よほどその子供たちの所業が目に余ったか。いずれにせよ、そのエピソードは今の夫からは想像しにくいものだった。
「でもまあ、パパはその、障害がある子を助けた形になったわけだ」
「うーん、傍から見ればそうかも知れない。そのせいか知らないけど、その子にはしばらくの間なつかれた」
「へえ」
「ただ、もし人助けをしてそれがいい結果になったとしても、たぶんそれって偶然なんだよね。漫画だったら、主人公が切り込むことで予定調和的に問題がスパッと解決するだろうけど、現実はそうなるとは限らないじゃないか。余計なお世話ってこともあるし、出しゃばりと思われるかも知れないし、トンチンカンな助け方になるかも知れない。やり過ぎればかえって悪い結果になることもある。過剰防衛とか」
夫は法学部出身なので、そんな言葉がわりと自然に出てくる。
「まあでも、春子さんとの関係が亜由美にとって良いものであればいいんじゃない? その関係を継続してる理由が、罪悪感であれ何であれ。春子さんが嫌な人だったら、プレゼントもラインでのおしゃべりもしないでしょ」
「しないだろうね」
どうやら、平凡な結論に落ち着きそうだ。とはいえ、私は別になんらかの結論を求めていたわけではない。よく言われることだが、男は結論を求めたがるし、女はそうでもないことが多い。そういうことだ。
顔を合わせる機会がほとんどないというのに、十年以上も関係が続く友人がいること自体が貴重なことなのだろう。そういえば夫もまた、大学時代の友人で一人だけ頻繁に連絡を取り合っている人がいる。その人と夫は、半年に一度くらいの割合で、段ボール箱に漫画をぎっしり詰めたものを送り合って貸し借りをしているのだ。夫曰くその人は「オタク友だち」だそうで、二人は半年の間に購入し読み終えた漫画を送り合って読み合っているのだった。そうした良い間柄を、彼は私と春子の関係にも投影しているのかも知れない。
しかし極論を言えば、相似形の人間関係など存在しないのだと思う。存在するように見えたとしても、それは夫が言うように傍から見た場合の話だ。夫の人間関係は夫のものだし、私と春子の人間関係はあくまでも私たち二人のものなのである。もしも夫がこれ以上自分の体験談や友人関係を喩えに持ち出してきたら、私は「今は私の話をしてるの」と思わず反論してしまうことだろう。
だからこそ、私と春子の関係は何物にも代え難いとも言えるし、一方で誰かに分かってもらえることもないのだと思う。私たちがそれぞれ抱えていた――あるいは今も手放し切れていない――葛藤や、言えずにいるようなことが胸の中で隠されている限り、誰かに分かってもらえるなんてあり得ないのだ。そして困ったことに、そういう隠されているものがあるからこそ、私と春子はつながっているのである。
で、それから十年以上が経って。
私も春子も、気が付けば結婚して子供をもうけ、そんな中でもときどき連絡し合っていた。連絡と言っても、思い出したようにメールで他愛のない短文をやり取りする程度だ。最初に送るのはもっぱら私の方で、春子はそれに対して律義に返事をしてくれる。そして大抵、あちらからの返事が来なくなってやり取りが途切れる。その繰り返しだ。
私は地元に戻って就職した。農業ののの字も知らないで農協に勤めたら、お局に揉まれる中で先輩の男性社員から求婚されて、なんとなくゴールイン。子供が生まれたのは翌年だ。
春子もその頃には帰国して日本で就職していた。私のように、農協などという、狭い地域社会をステージとする組織にいると想像もつかないが、その後仕事の関係で知り合った県外の人についていく形でお嫁に行った。そして、私と同じリズム感で翌年には子供ができた。
私も彼女も挙式はせず、よって直接のお祝いはしていない。ただ、結婚と出産にあわせて、お互いに記念品を贈り合った。私は、トトロのオルゴール付きのかわいいタオルセット。春子からは、少し小さめで赤ちゃんでも使える、小さめの高級なタオルセット。後で「そういえばどっちもタオルだね」とメールで笑い合ったものだ。
「そういえば、また今年も春子さんにさくらんぼを贈るの?」
ある日、夕食の支度をしていたら、夫から聞かれた。彼は、三歳になる娘の茉莉が最近はまり始めたカルタ取りに付き合っているところだった。
「うん。贈るー」
茹でた野菜を鍋からザルに移しながら、私は答えた。蒸気がキッチンに満ちて、娘が「パパ見て見て、モクモクだ!」と指差しながら歓声をあげる。
「そうか。じゃあ手配しとくから、早めにまた送り先のメモ書きをくれる? 今年は異常気象でさくらんぼが少なくなるかも知れないから、とにかく早い方がいい」
「分かった」
私は手元に集中しながら返事をした。夫は農協で、ふるさと納税の返礼品の準備や発送を行う仕事をしている。一方の私は農協に入って以来、金融や共済関係など全く違う仕事に携わり続けているので、農産物を人に贈る際は夫に頼むようにしている。
「それにしても、君とその春子さんっていう人は、毎年こまめにプレゼント交換みたいに贈り物をし合うね。大学時代の友達だっけ?」
「ううん、高校から。大学時代はたまに会ってた程度かな。就職して、私が結婚する前はときどき遊びに行ってたけど」
「そうだっけな。車で片道四時間かけてね……」夫は苦笑いする。「俺もドライブは好きだけど、そこまで長距離を走るのはちょっと気合いが必要だな」
「春子がこっちの方向に来てくれて、ちょうどいい地点で落ち合ったりできるといいんだけどね。働いてて、結婚してて、子供がいるとなかなかそうはいかないよ。こっちも茉莉が生まれてからは、さすがに行ってないし」
「茉莉を連れて片道四時間の長距離を走るのは、まだちょっと難しいもんな」
そう言いながら夫は、茉莉を抱え上げて左右に振り子のようにぶらぶら揺らす遊びを始めた。娘はこれが好きで、夫の腕が上がらなくなるまで何度もやらせるのだ。
一体どういう巡り合わせなのか、今、春子は秋田市に住んでいる。一度は地元に戻った彼女だが、先述した通り県外の人と結婚した。その旦那様というのが偶然にも秋田出身だったのだ。奇しくも、私が大学を卒業してから、数年越しの入れ違いという形で彼女は秋田市入りしたのだった。
いくら近くに住んでいても、就職したり、お互いに異性と交際したりするようになると、さすがに頻繁に会うこともなくなる。お互いに大学を卒業してから、独身のうちに地元で会って食事をしたりお茶をしたりしたのは二、三回に過ぎない。また子供が生まれればなおさらで、最近はもうラインでメッセージを送ったり、元気の証として子供と一緒に写っている写真を送り合うのがせいぜいだ。あとはさくらんぼ。どのみち、母親となってからも彼女は元気そうではある。
「毎日、帰りの電車でおしゃべりしてた仲だっけか。正直、傍から見てるとそれだけの関係? って思うよ。十年以上経ってからもこんな風に交流してる友達なんて、俺にはいないしなあ」
「珍しい方かもね。本当はたぶん私、そんなに友達甲斐のあるタイプじゃないし。大学時代に遊んでた娘たちも、今は神奈川だの千葉だの茨城だのに散り散りだから、やっぱりラインで連絡取る程度だよ」
「あとは、そこのガソリンスタンドに勤めてる人だっけ?」
「中岡? いや! あれは友達じゃない」私は全力で否定した。「中岡は完全な腐れ縁。それこそ高校卒業後は会ってもいなかったのに、今頃になって近所のスタンドで出くわすなんて思いも寄らなかった」
どうして思わず全力で首を横に振ったのかは、自分でもよく分からなかった。あるいは卒業式の日に池田餅屋へ「食事」に誘ってくれたことを、今もわりとしっかり覚えているのと無関係ではないかも知れない。ちなみに池田餅屋は私自身もかなり気に入っていて、今もときどき食べに行く。
だがふと、連想することがあった。中岡との高校時代の記憶がそういう形で今も残っているのなら、春子はどうなんだろう。やっぱり私は春子との関係についても、あの頃の記憶に引きずられているようなものなのだろうか。
「……春子のことは、自分でもよく分かんないけど、いろいろ引っかかりっぱなしなんだろうね」
「引っかかりっぱなし?」
スマホをいじっていた夫は、顔を上げてこちらを見た。今、娘は自ら子供用の椅子によじ登ってテーブルにつき、粘土遊びを始めていた。夕食ができたら念入りに拭かなければなるまい。
そこで私は、手を動かして料理を続けながら、ぽつぽつと説明した。春子が、男遊びが激しい女だと誤解されていたことや、それが原因で敵視する同級生もいたこと。で、私が彼女のことを助けられず、なんと中岡の狙撃によって事なきを得たこと――。
「なんだ、その中岡って人はスナイパーなのか。俺、ママたちの友情の話よりも、狙撃のエピソードに痺れちゃったよ」
話を聞き終えると、夫は笑っていた。
「ああいう時の感情って、説明しようとすると難しいな。私は春子を大好きだったけど、一方で、心の底では異質な印象を抱いていたのかも。この人は私とは違う人だ、って。だからヤリマンっていう噂を立てられていたのも私には関係ないし、彼女が責められるのは彼女の責任だなんて思ってたような気もする」
「考えすぎじゃないかなあ。そういうのは、裏の裏まで読み取ろうとするときりがないよ。話を聞くと、亜由美がそこで割り込んでいったら果たして解決してたのかどうかもよく分からないし」
「そうかな」
「そうだよ。その、いじめっ子っぽい女の子が退散したのだって、誰かが割り込んできたから……というよりも、得体の知れない暴力が降りかかってきたからでしょ。それは中岡のとっさの行動だったんだろうけど、もしかすると本当に、それくらいやらないといじめっ子たちは退散しなかったのかも知れない。亜由美が割り込んでいっても焼け石に水か、もしかすると事態はもっと悪化してたのかも。喧嘩の仲裁なんて、よっぽどの権力を持った人でないとそう簡単にできるもんじゃないって」
「まあね」
「それに、そうやって権力を振るって喧嘩を止める側だって、逆に微妙な気分になることがあるよ。これは僕の体験だけど……」
夫は、肩車をせがんでくる茉莉をひょいと抱き上げると、彼女の両足を自分の肩へ、お尻を頭の上に載せるという一段高い肩車をした。茉莉はこれが好きなのだ。もちろんバランスは良くないので、夫は茉莉の脇の下に手を入れてしっかり支えている。そして歩き回りながら話を続けた。
「高校の頃に、町内会の祭りに参加したことがあってさ。子供たちが山車を引いてたんだよ。で、僕の実家の近所に知的障害のある子がいたんだけど、その子も祭りに参加してた。でさ、知的障害の子って外見が独特なことがあるだろう? それを、初めて会った小さい子供たちがからかい始めたんだ」
「ああ……」
「で、僕はそこですごく怒った。お前ら、言っていいことと悪いことがあるぞ、って叱ったわけだね。そしたら、からかってた子供たちはシュンとして大人しくなったけど、まあ非常に微妙な空気になって。そのうち彼らは、誰ともなく『行こう』なんて声をかけあってどこかにいなくなった。で、お祭りはちょっと盛り下がっちゃった」
「へええ」
私は感心して声を上げた。話の内容に感心したわけではなく、夫の知らない一面を見た気がしたのだ。今は保育園の行事や町内会のイベントに参加するのは消極的な方だし、また彼は人が大勢いる場所で子供を叱るタイプでもない。よほどその子供たちの所業が目に余ったか。いずれにせよ、そのエピソードは今の夫からは想像しにくいものだった。
「でもまあ、パパはその、障害がある子を助けた形になったわけだ」
「うーん、傍から見ればそうかも知れない。そのせいか知らないけど、その子にはしばらくの間なつかれた」
「へえ」
「ただ、もし人助けをしてそれがいい結果になったとしても、たぶんそれって偶然なんだよね。漫画だったら、主人公が切り込むことで予定調和的に問題がスパッと解決するだろうけど、現実はそうなるとは限らないじゃないか。余計なお世話ってこともあるし、出しゃばりと思われるかも知れないし、トンチンカンな助け方になるかも知れない。やり過ぎればかえって悪い結果になることもある。過剰防衛とか」
夫は法学部出身なので、そんな言葉がわりと自然に出てくる。
「まあでも、春子さんとの関係が亜由美にとって良いものであればいいんじゃない? その関係を継続してる理由が、罪悪感であれ何であれ。春子さんが嫌な人だったら、プレゼントもラインでのおしゃべりもしないでしょ」
「しないだろうね」
どうやら、平凡な結論に落ち着きそうだ。とはいえ、私は別になんらかの結論を求めていたわけではない。よく言われることだが、男は結論を求めたがるし、女はそうでもないことが多い。そういうことだ。
顔を合わせる機会がほとんどないというのに、十年以上も関係が続く友人がいること自体が貴重なことなのだろう。そういえば夫もまた、大学時代の友人で一人だけ頻繁に連絡を取り合っている人がいる。その人と夫は、半年に一度くらいの割合で、段ボール箱に漫画をぎっしり詰めたものを送り合って貸し借りをしているのだ。夫曰くその人は「オタク友だち」だそうで、二人は半年の間に購入し読み終えた漫画を送り合って読み合っているのだった。そうした良い間柄を、彼は私と春子の関係にも投影しているのかも知れない。
しかし極論を言えば、相似形の人間関係など存在しないのだと思う。存在するように見えたとしても、それは夫が言うように傍から見た場合の話だ。夫の人間関係は夫のものだし、私と春子の人間関係はあくまでも私たち二人のものなのである。もしも夫がこれ以上自分の体験談や友人関係を喩えに持ち出してきたら、私は「今は私の話をしてるの」と思わず反論してしまうことだろう。
だからこそ、私と春子の関係は何物にも代え難いとも言えるし、一方で誰かに分かってもらえることもないのだと思う。私たちがそれぞれ抱えていた――あるいは今も手放し切れていない――葛藤や、言えずにいるようなことが胸の中で隠されている限り、誰かに分かってもらえるなんてあり得ないのだ。そして困ったことに、そういう隠されているものがあるからこそ、私と春子はつながっているのである。
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