亜由美の北上

きうり

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第四章

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 しかし後で考えると、放課後の帰り道でしか言葉を交わさないという点に、私と春子さんとの間の距離感が表れていた気もする。
 もちろん、どんな親しい間柄でも適切な距離感はあるものだ。私と春子さんの間では、それくらいの距離が適切だったということなのかも知れない。しかし、少なくとも私個人の問題として、あの「ヤリマン」の噂の存在が原因となって、私が彼女に対して距離感を感じているのだとしたら――やはり私は、私を責めずにはおれない。どんな噂があったって、あるいはなくたって、友達は友達じゃないか。しかも私が望んで友達になったのだ。
 ある日、春子さんが、同級生の女の子から強く責められているのを目撃した。放課後、帰る直前にトイレに寄ろうとした時のことだ。渡り廊下を通り抜けようとしたら、外で、女の子たちが言い争っているのを見つけた。その中心に春子さんがいるのに気付いて、私ははっとした。彼女は壁際で三人の女の子に囲まれて、罵倒されていたのだ。
「いいか、二度とアユムに話しかけんじゃねえぞ。お前みたいなのが近づいたら臭いがうつるんだよ。この――」
 という、品のない大声が聞こえた。一番背の高い女子が、春子さんに詰め寄っている。今、私は具体的には書かなかったが、――の部分ではかなり下品で侮辱的な罵倒語が使われていた。ヤリマンという言葉よりも、女性にとってははるかに侮蔑的な言葉だ。
 彼女のひとことだけで、なんとなく何があったのか想像はついた。そしておそらく、噂による誤解と偏見のせいで、春子さんは責められているのだろう。「なんとなく」「おそらく」ばかりだが、おそらく春子さんは、自分の預かり知らぬところで罵倒されているのだ。
 春子さんはといえば、特に何か言い返すでもなく、まっすぐ睨むでもなく、ただカバンを抱きかかえてうつむいていた。
(助けに行かなくちゃ)
 私は考えた。だが動けなかった。子供のケンカとは違い、目の前では大人が大人を怒鳴りつけているのだ。もちろん私たちはまだ子供だが、小学生と比べれば遥かに巨大な大人である。そんな存在が本気で感情をぶつけている光景には、近づきがたい迫力がある。飛び込んでいくのは相当な勇気が必要だった。
(ああ)
 ここで飛び込むこともできなくて、それで友達を名乗ろうとしている自分が恥ずかしい。私は、自分から春子さんと友達になりたくて声をかけたというのに。彼女は、おそらくそんな私のことを信頼してくれて、さまざまなことを話してくれたというのに。
「なんとか言えよ、この!」
 私が逡巡していると、先ほどから春子さんを罵倒していた女の子が腕を振り上げた。殴ろうとしている。いけない、と私はとっさに叫ぼうとした。
 だが次の瞬間、その女の子は「ってえ!」と叫び、振り上げた腕を押さえた。どうやら「痛え」と叫んだらしい。何が起きたのか分からない様子で、彼女は自分の腕を押さえたまま周囲を見回した。まるで、いきなり腕を蜂にでも刺されて、飛び去っていったその蜂を探しているかのようだった。
 春子さんも、何が起きたのか分からないようだった。自分を殴ろうとしていた相手が、逆に痛いと叫んで自分の腕を押さえているのだ。わけが分からないに違いない。きょとんとしている。
「お前、何しやがった」
 また、背の高い女の子が腕を振り上げる。するとそこで、彼女はまたギャッと叫んで腕を押さえた。
「あ」
 ふと見上げると、校舎の屋上にライフル銃を構えた男子生徒の姿が見えた。銃と言ってももちろん本物ではない。あれはエアガンだろう。どうやら彼は、巧妙に身を隠して、春子さんを殴ろうとしている子を狙撃しているらしかった。
 私の場所からは、その「狙撃手」の頭とライフルの銃口がかすかに見える程度だった。何も知らない人なら、それを見ても気にも留めないか、そもそも目に入らなかったかも知れない。だがそのわずかな手がかりだけで、私の脳は即座に彼の全体像をイメージしていた。
「中岡……」
 イメージとして浮かび上がってきた狙撃手の顔は、のっぺらぼうではない。それはあの腐れ縁の男子生徒だった。彼はガンマニアで、私も興味本位で彼からそのジャンルの雑誌を借りてパラパラ眺めたことがある。だから、かすかに見える頭や銃口をヒントにして、その全体像をイメージすることができたのだ。彼はBB弾による精密射撃で、春子さんを守っていたのだった。
「くっそ、意味わかんねえ」
 腕を撃たれた女の子は、かなり痛いのか顔をしかめて腕を押さえている。おそらく、彼女の足元にはBB弾が転がっていることだろう。だが何が起きたのか分からないまま、彼女とその取り巻きらしい二人の女の子はその場から逃げ出した。一人になった春子さんは相変わらずぽかんとしており、しばらく周囲を見回していた。
 私は、急いでその場から立ち去った。
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