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第二楽章 信用と信頼
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呼吸が乱れる。
溜まりに溜まった疲労が身体を蝕んでいく。
幾度も幾度も収まらない猛攻。
凌いでも次がすぐにやってくる。
こちら側に休息を与える事無く、畳みかけてくる。
視界から抜け出そうとする動き、静と動の使い分け、その一挙手一投足が油断も隙も与えてくれなかった。
「クリアだッッ!」
後ろからの指示に従い、俺はボールを外に掻き出す。
掻き出されたボールは、大きく円を描いた軌道に沿って前線に向かっていく。
しかし、競り合いを制され、再び守備の時間が始まる。
「マーク外すな! 油断したら持ってかれるぞ!」
俺は指示を出す。
疲労が重なる終盤、もう気力で走っている状態だ。
重くなった足を無理やりにでも動かして、相手選手が前を向かないようにマークをする。
しかし、中盤でボールの交換が行われ始めると、次第に意識が持っていかれる。
自陣の選手はもうボールを追いかける事が出来なくなっていた。
そして、その瞬間を待っていたかのように、ボールがこちらに蹴られた。
「______!」
マークを外した選手に一直線に放たれたパス。
自分がマークしていた選手を放棄し、俺はそのパスの先に走り出した。
強く地面を踏み締め、少しでも前に進む。
でも、パスを受けた相手選手は、余裕を持ってボールを前に蹴り出してしまった。
その光景を真後ろから茫然と眺める。
綺麗な放物線を描いたボールは、長く空中に留まって見えた。
果てしなく進んでいくかのような軌道。
手を伸ばしても届きそうにないボールは、ゆっくりと、ネットを揺らした。
歓声が聞こえる。
誰もが立ち上がり、勝者を祝福していた。
でも、それは俺達じゃない。
長く吹かれたホイッスルは俺達を祝福してくれなかった。
「……」
その場に座り込む。
目の前にあるボールは、ネットに包まれていた。
その姿は、まるで安寧を得て満足しているように見えた。
幾度となく見た光景。
忘れたくても忘れることが出来ない。
目に焼き付けるように、俺は何度もこの光景を視認した。
ーーー
「キャプテン、すみません……自分のせいで……」
ミーティングを終え、後輩の佐藤が顔を下げていた。
「気にするなよ、ずっと走ってたんだから、仕方ないって」
「でも、俺のミスで……」
「次、頑張ればいいだろ? 気にすんな」
佐藤は何度も謝罪した。
最後の場面でボールを相手選手に渡してしまった責任を感じているのだろう。
でも、彼は一年だ。
少し前まで中学生だった佐藤に、これ以上を求めてはいけない。
「自分もです、キャプテン。最後の場面、前に出過ぎました。判断ミスです」
佐藤がその場を離れると、今度は湯川が寄って来た。
「お前だって、前半からずっとゴールを守ってたじゃん。最後に一回ミスしたくらいだろ? 寧ろ感謝してるくらいだ」
「……はい」
不服そうに湯川は返事をする。
視線を下げると、右手に携えていたキーパーグローブは歪んでいた。
最後の最後で決められてしまったのが、相当堪えたらしい。
辺りを見返す。
ビニールシートを囲うように座っている後輩達は下を向いていた。
「ほら、他の高校の邪魔になるから、さっさと着替えて解散するぞ!」
主将としての掛け声。
それをまず最初に優先した。
その言葉に準ずるようにして、皆が動き出す。
その光景にひとまず安堵する。
俺も着替えを済ませて、顧問に報告をしに行く。
駐車場で荷物を積んでいる顧問を見つけ、俺は声をかけた。
「山口先生、全員の支度が終わったので、その報告に来ました」
「おう、そうか」
顧問の山口は、こちらを向くことなく荷台に詰めていた。
その光景を見つめていると、山口は動きを止めて、こちらを向いた。
「どうかしましたか?」
顔をまじまじと見られ、不安に思った俺は、山口にそう聞いた。
「……いや、何でもない。もう解散しても良いぞ。俺はまだ残るから」
「分かりました……」
はぐらかされた気がしたが、これ以上追及する空気ではなかった。
一礼してから皆が待っている場所に戻り、俺は現地解散の指示を出した。
とは言え、駅まで五分ほどの私立高校だったので、駅に着くまでは一緒に向かう。
少しどんよりとした雰囲気だったが、悠馬が積極的に話を振ってくれていたので場の空気は何とか保たれた。
駅に到着し、電車に乗って厚ヶ崎へ戻る。
もう時間も夕方に差し掛かっていたので、上りの車内は空席だらけだ。
独占するようにして座る。
すると、今日の出来事が一斉に押し寄せて来た。
そのまま身を委ねれば、楽になれるかもしれない。
……
でも、まだ駄目だ。
自らを律し、ひたすら耐える。
全員が寝てしまえば、もれなく全員寝過ごしてしまう。
だから、まだ耐えるべきだ。
俺は、そんな言い訳を垂れた。
猫のアクセサリーを右手で握りしめながら。
ーーー
ぼんやりとして時間が過ぎるのを待つ。
次第に車窓の景色は、馴染みの深いものに移り変わっていく。
皆を起こして電車から降りると、そのまま改札を出て解散となる。
自転車で帰宅する者、バスを利用する者、徒歩圏内の者、帰宅手段は千差万別のようであった。
皆が離れていくのを確認し、俺も帰ろうとしたが、後ろから声をかけられ、思わず振り向く。
「お前今日歩きか? だったら一緒に帰ろうぜ。俺も歩きだからさ」
「悠馬……」
皆が帰ったと思って油断していた。
悠馬は気前よく肩に手を回し、鼻歌を嗜んでいた。
「ほら、さっさと帰らないと、夜になっちまうよ」
「あ、ああ」
ロータリーも混んで来たので、ここにいては邪魔だ。
悠馬の言葉に従い、俺は歩き始める。
大通りは車の往来が激しさを増し、喧噪さが生まれる。
看板に光が灯り始め、町が違う一面を見せ始めていた。
全てが目的を持って動き出している、そんな印象だ。
その流れに逆らわないよう、俺達も二人で歩き続ける。
乳酸の溜まった足で一歩一歩前に進むのは重労働だった。
段々と人通りが減り、イオンが消えていく。
そして、左手にコンビニが見え始めた頃、悠馬は口を開いた。
「今日は負けたなー。結構惜しいところまでは行けてたんだけどな」
「ああ、それで最後まで守り切れたら何も言う事はなかったんだがな」
「仕方ないって、どうせ点が入らないんだから、限界はあるよ」
「限界、か」
「そうそう。今回みたいに偶然くじ運が良くてもこの結果なんだしさ。この地区ってさ、小鞠実業とか中野原高校っていう県大会常連校も揃ってるブロックなんだぜ? 最初から無理な話なんだよ」
「……」
限界、そう言い切ってしまえば楽だ。
これ以上は無理だと思考を停止させる行為に等しい言葉。
でも、その言葉は今の俺には響かない。
そんな言葉で納得できるほど、俺は大人じゃない。
俺は足を止める。
それに気づいた悠馬に向けて、俺は言葉を紡いだ。
「限界ってさ、逃げるには打ってつけの言葉だと思う」
「ん? じゃあお前は今日勝てると思ったのかよ?」
「分からない。でも、絶対に勝てる保証はどこにもないはずだ。信じればきっと勝てる…はず」
諦めなければ、結果は変わる。
最初から諦めるのは道理に合わない。
なら、足掻いてみても良いじゃないか。
「……そんな紛い物に浸れるほど社会は平等じゃないんだよ。強ければ強い、弱ければ弱い、あるのは事実だけなんだよ。お前だって気づいてるだろ? もう中学のようにはいかない。義務教育じゃないんだよ、勝負の世界は」
でも、俺の考えとは裏腹に、悠馬の返答は冷めたものだった。
「それは…そうだけど……」
「駄目なら駄目なりにベストを尽くす、俺はもっと利口に足掻いた方がマシだと思うよ」
現実的な考え方をする悠馬、それは俺が一番よく知っている。
無難な選択を好み、安定した正解を手に入れる、そんな性格だ。
だから、悠馬の言葉に嘘はない、それは分かる。
「お、青だ」
いつの間にか信号が青になっている。
それを確認すると、悠馬は俺を置いて先に進んだ。
そして、横断歩道を渡り終えると、俺の方に再び向き返す。
「何してんだよ。もう点滅してるぞ」
でも、俺はその場に留まったままだった。
「……悠馬はさ、現実的だよな」
「は?! 聞こえねーから大きな声で言ってくれよ!」
自動車が動き始めた。
エンジン音を轟かせた機械達が騒々しさを助長させる。
時折右折する車が俺達の視界を遮り、悠馬は気が散っている様子だった。
「俺もそうだったから分かる。最初から諦めていた方が楽だから、弱い癖にがむしゃらにやるってカッコ悪いから、そう思ってた」
悠馬に語りかけているのか、自分に言い聞かせているのか、俺には分からない。
「でも、違うだろ。俺達は誰かのためにやってるんじゃない。自分自身のためにやってるんだ」
自分の事を棚に上げるわけでもない。
「外面ばかり気にして、大事な事を見落として、そんな人生はもう嫌なんだよ」
俺だって変わろうと足掻いている最中なんだから。
だから、俺の今の思いを言葉にする。
言いたかった言葉。
伝えたかった言葉。
勢いに身を任せ、俺は感情を剝き出しにする。
点灯した信号に従い、俺は歩き始めた。
そして、その先で待っていた悠馬に一番伝えたい言葉を伝える。
「だからさ、夢を見ても良いんだよ。俺が、俺自身が、ハッピーエンドな結末を望んでもさ」
気づいてばかりの日々で、俺は参ってしまいそうになる。
こうだと思えば違って、そう思わなければ正しくて。
足掻くって言葉の意味を穿き違えていたのかもしれない。
でも、それもようやく終着点な気がする。
これ以上の言葉は、俺の中にはない。
今の自分には、この言葉が最大の原動力なんだ。
「……は? 夢? ハッピーエンド? 何言ってんだよ。そんなおとぎ話みたいなもんは時代遅れだろ」
「そうか? 俺は納得出来るけど」
「自分勝手な妄想を他人に押し付けんなよ。皆が同じ考えを持っているわけじゃない、俺みたいに自ら望んでいる人だっているんだ」
「本当にそうなのか? 夢なんて要らないって、本気でそう思ってるのかよ?」
「ああ、そうだよ。夢なんて足枷でしかない。期待するから、その分後悔するんだよ」
悠馬の目は本気だった。
いつものようなおちゃらけた雰囲気と違う。
繕われた仮面が破かれているように見えた。
「……もういいだろ」
そう言って、悠馬は道を歩き出した。
もう話し合える雰囲気はとうに過ぎていた。
そのまま長い間、互いに会話することなく、俺達は道中を共にした。
気まずいとは別の何か、すれ違う意思を抱え込みながら。
ーーー
自分たちの高校前に差し掛かると、俺達は互いに別々に分かれる。
悠馬の家は俺の家とは方向が異なる。
住宅街でも若干駅よりの方角にあるのが俺の自宅だ。
でも、悠馬の家はその反対、公民館方面に住居を構えている。
だから、その境目である学校が丁度良い分かれ場になっていた。
「じゃあ、また」
「あ、ああ……」
別れの言葉だけを言って、悠馬はその場を後にした。
その背中に手を挙げるが、すぐに戻す。
もう悠馬が振り返る事は無いのだと気づいてしまった。
「……帰ろう」
俺も向きを変えて、自宅への道を辿る。
もう夕方になっているからか、人通りが少ない。
土曜日の時間帯、この場所はいつも閑散としている。
だから、今日も例外なく人が少なかった。
……
隣には誰もいない。
他の歩行者もいない。
地平線まで続くかに見える一本道には、俺以外に誰もいなかった。
「一人、か」
誰もいないからか、俺は心の声を漏らしてしまった。
でも、周りを気にする必要がないから、変な目で見られる事もない。
だから大丈夫だ。
「誰もいないと、ちょっと寂しいよな……」
今日は色々な事があったけど、今初めて一人になった。
試合の時も、帰る時も、別れた後も、誰かと共にしていた。
目の前にいる人間を放置して、自分の世界に浸るなんて事は普通しないだろう。
「…………はあ」
その実感が沸いてくると、途端に思い返してしまう。
上手くボールを渡せなかった事、シュートを打たれてしまった事、動けなくなった後輩をフォロー出来なかった事。
他にもたくさんある。
最後のシーン、もっと周りを見ていれば、佐藤が相手選手に裏を取られる事もなかったかもしれない。
もう少し動き出しが早ければ、相手がシュートする前に止められたかもしれない。
もう少し早く指示を出していれば、湯川が前に出過ぎる事もなかったかもしれない。
「もっと上手く出来たよな……」
考えないようにしていた後悔が押し寄せてくる。
もしも自分がもっと上手かったら、皆を引っ張れるような偉大なキャプテンになれたのだろうか。
普段から厳しくしていたら、皆が最後まで体力が保てるのだろうか。
でも、それは強制出来ない。
元々あいつらはサッカーをやりたくて入部したわけではない。
教室で上手く馴染めなかったり、他の部活から訳アリで転部して来たり、何となく入部を決めたり、要は自ら進んで入部してくれたわけではなかった。
去年三年生が引退して、残った部員では試合もままならない時期があった。
そんな最中に主将を引き継いだ俺は、部の存続がかかった大任を負っていた重圧から、とにかく人数をかき集める事に尽力した。
その結果、新入生含めて何とか試合が成立する人数を維持することが出来た。
それだけでも十分なのに、これ以上無理強いをさせるのは、俺には出来ない。
ただでさえ、人数合わせのために、こちらからお願いした立場なんだ。
好きでもない事を強制される辛さは相当なものだろう。
彼らの信頼を無下にするやり方はしてはいけない。
だからこそ、俺がもっと頑張れば良いのに、それが出来なかった。
その事実が奥底にある感情と混ざり合う。
「……あ…れ…?」
目から何かが落ちた。
地面を見ると、一点が湿っている。
雨なんて降っていないのに。
「んだよ……何…で……」
次第に数が増え、大きくなっていく。
一度気づいてしまったら、もう止まらなかった。
「……うっぐ…う………っう」
誰かが見てるかもしれないのに、俺はもう堪えることが出来なかった。
悔しい、ただそれだけが渦巻いている。
「ぐっそぉ……うっ……」
勝ちたかった。
一度でも良い、そのチャンスが今日だったのかもしれないのに。
その機会を逃してしまった。
もう少しで届くかもしれなかったのに。
俺は寸前で掴むことが出来なかったんだ。
溜まりに溜まった疲労が身体を蝕んでいく。
幾度も幾度も収まらない猛攻。
凌いでも次がすぐにやってくる。
こちら側に休息を与える事無く、畳みかけてくる。
視界から抜け出そうとする動き、静と動の使い分け、その一挙手一投足が油断も隙も与えてくれなかった。
「クリアだッッ!」
後ろからの指示に従い、俺はボールを外に掻き出す。
掻き出されたボールは、大きく円を描いた軌道に沿って前線に向かっていく。
しかし、競り合いを制され、再び守備の時間が始まる。
「マーク外すな! 油断したら持ってかれるぞ!」
俺は指示を出す。
疲労が重なる終盤、もう気力で走っている状態だ。
重くなった足を無理やりにでも動かして、相手選手が前を向かないようにマークをする。
しかし、中盤でボールの交換が行われ始めると、次第に意識が持っていかれる。
自陣の選手はもうボールを追いかける事が出来なくなっていた。
そして、その瞬間を待っていたかのように、ボールがこちらに蹴られた。
「______!」
マークを外した選手に一直線に放たれたパス。
自分がマークしていた選手を放棄し、俺はそのパスの先に走り出した。
強く地面を踏み締め、少しでも前に進む。
でも、パスを受けた相手選手は、余裕を持ってボールを前に蹴り出してしまった。
その光景を真後ろから茫然と眺める。
綺麗な放物線を描いたボールは、長く空中に留まって見えた。
果てしなく進んでいくかのような軌道。
手を伸ばしても届きそうにないボールは、ゆっくりと、ネットを揺らした。
歓声が聞こえる。
誰もが立ち上がり、勝者を祝福していた。
でも、それは俺達じゃない。
長く吹かれたホイッスルは俺達を祝福してくれなかった。
「……」
その場に座り込む。
目の前にあるボールは、ネットに包まれていた。
その姿は、まるで安寧を得て満足しているように見えた。
幾度となく見た光景。
忘れたくても忘れることが出来ない。
目に焼き付けるように、俺は何度もこの光景を視認した。
ーーー
「キャプテン、すみません……自分のせいで……」
ミーティングを終え、後輩の佐藤が顔を下げていた。
「気にするなよ、ずっと走ってたんだから、仕方ないって」
「でも、俺のミスで……」
「次、頑張ればいいだろ? 気にすんな」
佐藤は何度も謝罪した。
最後の場面でボールを相手選手に渡してしまった責任を感じているのだろう。
でも、彼は一年だ。
少し前まで中学生だった佐藤に、これ以上を求めてはいけない。
「自分もです、キャプテン。最後の場面、前に出過ぎました。判断ミスです」
佐藤がその場を離れると、今度は湯川が寄って来た。
「お前だって、前半からずっとゴールを守ってたじゃん。最後に一回ミスしたくらいだろ? 寧ろ感謝してるくらいだ」
「……はい」
不服そうに湯川は返事をする。
視線を下げると、右手に携えていたキーパーグローブは歪んでいた。
最後の最後で決められてしまったのが、相当堪えたらしい。
辺りを見返す。
ビニールシートを囲うように座っている後輩達は下を向いていた。
「ほら、他の高校の邪魔になるから、さっさと着替えて解散するぞ!」
主将としての掛け声。
それをまず最初に優先した。
その言葉に準ずるようにして、皆が動き出す。
その光景にひとまず安堵する。
俺も着替えを済ませて、顧問に報告をしに行く。
駐車場で荷物を積んでいる顧問を見つけ、俺は声をかけた。
「山口先生、全員の支度が終わったので、その報告に来ました」
「おう、そうか」
顧問の山口は、こちらを向くことなく荷台に詰めていた。
その光景を見つめていると、山口は動きを止めて、こちらを向いた。
「どうかしましたか?」
顔をまじまじと見られ、不安に思った俺は、山口にそう聞いた。
「……いや、何でもない。もう解散しても良いぞ。俺はまだ残るから」
「分かりました……」
はぐらかされた気がしたが、これ以上追及する空気ではなかった。
一礼してから皆が待っている場所に戻り、俺は現地解散の指示を出した。
とは言え、駅まで五分ほどの私立高校だったので、駅に着くまでは一緒に向かう。
少しどんよりとした雰囲気だったが、悠馬が積極的に話を振ってくれていたので場の空気は何とか保たれた。
駅に到着し、電車に乗って厚ヶ崎へ戻る。
もう時間も夕方に差し掛かっていたので、上りの車内は空席だらけだ。
独占するようにして座る。
すると、今日の出来事が一斉に押し寄せて来た。
そのまま身を委ねれば、楽になれるかもしれない。
……
でも、まだ駄目だ。
自らを律し、ひたすら耐える。
全員が寝てしまえば、もれなく全員寝過ごしてしまう。
だから、まだ耐えるべきだ。
俺は、そんな言い訳を垂れた。
猫のアクセサリーを右手で握りしめながら。
ーーー
ぼんやりとして時間が過ぎるのを待つ。
次第に車窓の景色は、馴染みの深いものに移り変わっていく。
皆を起こして電車から降りると、そのまま改札を出て解散となる。
自転車で帰宅する者、バスを利用する者、徒歩圏内の者、帰宅手段は千差万別のようであった。
皆が離れていくのを確認し、俺も帰ろうとしたが、後ろから声をかけられ、思わず振り向く。
「お前今日歩きか? だったら一緒に帰ろうぜ。俺も歩きだからさ」
「悠馬……」
皆が帰ったと思って油断していた。
悠馬は気前よく肩に手を回し、鼻歌を嗜んでいた。
「ほら、さっさと帰らないと、夜になっちまうよ」
「あ、ああ」
ロータリーも混んで来たので、ここにいては邪魔だ。
悠馬の言葉に従い、俺は歩き始める。
大通りは車の往来が激しさを増し、喧噪さが生まれる。
看板に光が灯り始め、町が違う一面を見せ始めていた。
全てが目的を持って動き出している、そんな印象だ。
その流れに逆らわないよう、俺達も二人で歩き続ける。
乳酸の溜まった足で一歩一歩前に進むのは重労働だった。
段々と人通りが減り、イオンが消えていく。
そして、左手にコンビニが見え始めた頃、悠馬は口を開いた。
「今日は負けたなー。結構惜しいところまでは行けてたんだけどな」
「ああ、それで最後まで守り切れたら何も言う事はなかったんだがな」
「仕方ないって、どうせ点が入らないんだから、限界はあるよ」
「限界、か」
「そうそう。今回みたいに偶然くじ運が良くてもこの結果なんだしさ。この地区ってさ、小鞠実業とか中野原高校っていう県大会常連校も揃ってるブロックなんだぜ? 最初から無理な話なんだよ」
「……」
限界、そう言い切ってしまえば楽だ。
これ以上は無理だと思考を停止させる行為に等しい言葉。
でも、その言葉は今の俺には響かない。
そんな言葉で納得できるほど、俺は大人じゃない。
俺は足を止める。
それに気づいた悠馬に向けて、俺は言葉を紡いだ。
「限界ってさ、逃げるには打ってつけの言葉だと思う」
「ん? じゃあお前は今日勝てると思ったのかよ?」
「分からない。でも、絶対に勝てる保証はどこにもないはずだ。信じればきっと勝てる…はず」
諦めなければ、結果は変わる。
最初から諦めるのは道理に合わない。
なら、足掻いてみても良いじゃないか。
「……そんな紛い物に浸れるほど社会は平等じゃないんだよ。強ければ強い、弱ければ弱い、あるのは事実だけなんだよ。お前だって気づいてるだろ? もう中学のようにはいかない。義務教育じゃないんだよ、勝負の世界は」
でも、俺の考えとは裏腹に、悠馬の返答は冷めたものだった。
「それは…そうだけど……」
「駄目なら駄目なりにベストを尽くす、俺はもっと利口に足掻いた方がマシだと思うよ」
現実的な考え方をする悠馬、それは俺が一番よく知っている。
無難な選択を好み、安定した正解を手に入れる、そんな性格だ。
だから、悠馬の言葉に嘘はない、それは分かる。
「お、青だ」
いつの間にか信号が青になっている。
それを確認すると、悠馬は俺を置いて先に進んだ。
そして、横断歩道を渡り終えると、俺の方に再び向き返す。
「何してんだよ。もう点滅してるぞ」
でも、俺はその場に留まったままだった。
「……悠馬はさ、現実的だよな」
「は?! 聞こえねーから大きな声で言ってくれよ!」
自動車が動き始めた。
エンジン音を轟かせた機械達が騒々しさを助長させる。
時折右折する車が俺達の視界を遮り、悠馬は気が散っている様子だった。
「俺もそうだったから分かる。最初から諦めていた方が楽だから、弱い癖にがむしゃらにやるってカッコ悪いから、そう思ってた」
悠馬に語りかけているのか、自分に言い聞かせているのか、俺には分からない。
「でも、違うだろ。俺達は誰かのためにやってるんじゃない。自分自身のためにやってるんだ」
自分の事を棚に上げるわけでもない。
「外面ばかり気にして、大事な事を見落として、そんな人生はもう嫌なんだよ」
俺だって変わろうと足掻いている最中なんだから。
だから、俺の今の思いを言葉にする。
言いたかった言葉。
伝えたかった言葉。
勢いに身を任せ、俺は感情を剝き出しにする。
点灯した信号に従い、俺は歩き始めた。
そして、その先で待っていた悠馬に一番伝えたい言葉を伝える。
「だからさ、夢を見ても良いんだよ。俺が、俺自身が、ハッピーエンドな結末を望んでもさ」
気づいてばかりの日々で、俺は参ってしまいそうになる。
こうだと思えば違って、そう思わなければ正しくて。
足掻くって言葉の意味を穿き違えていたのかもしれない。
でも、それもようやく終着点な気がする。
これ以上の言葉は、俺の中にはない。
今の自分には、この言葉が最大の原動力なんだ。
「……は? 夢? ハッピーエンド? 何言ってんだよ。そんなおとぎ話みたいなもんは時代遅れだろ」
「そうか? 俺は納得出来るけど」
「自分勝手な妄想を他人に押し付けんなよ。皆が同じ考えを持っているわけじゃない、俺みたいに自ら望んでいる人だっているんだ」
「本当にそうなのか? 夢なんて要らないって、本気でそう思ってるのかよ?」
「ああ、そうだよ。夢なんて足枷でしかない。期待するから、その分後悔するんだよ」
悠馬の目は本気だった。
いつものようなおちゃらけた雰囲気と違う。
繕われた仮面が破かれているように見えた。
「……もういいだろ」
そう言って、悠馬は道を歩き出した。
もう話し合える雰囲気はとうに過ぎていた。
そのまま長い間、互いに会話することなく、俺達は道中を共にした。
気まずいとは別の何か、すれ違う意思を抱え込みながら。
ーーー
自分たちの高校前に差し掛かると、俺達は互いに別々に分かれる。
悠馬の家は俺の家とは方向が異なる。
住宅街でも若干駅よりの方角にあるのが俺の自宅だ。
でも、悠馬の家はその反対、公民館方面に住居を構えている。
だから、その境目である学校が丁度良い分かれ場になっていた。
「じゃあ、また」
「あ、ああ……」
別れの言葉だけを言って、悠馬はその場を後にした。
その背中に手を挙げるが、すぐに戻す。
もう悠馬が振り返る事は無いのだと気づいてしまった。
「……帰ろう」
俺も向きを変えて、自宅への道を辿る。
もう夕方になっているからか、人通りが少ない。
土曜日の時間帯、この場所はいつも閑散としている。
だから、今日も例外なく人が少なかった。
……
隣には誰もいない。
他の歩行者もいない。
地平線まで続くかに見える一本道には、俺以外に誰もいなかった。
「一人、か」
誰もいないからか、俺は心の声を漏らしてしまった。
でも、周りを気にする必要がないから、変な目で見られる事もない。
だから大丈夫だ。
「誰もいないと、ちょっと寂しいよな……」
今日は色々な事があったけど、今初めて一人になった。
試合の時も、帰る時も、別れた後も、誰かと共にしていた。
目の前にいる人間を放置して、自分の世界に浸るなんて事は普通しないだろう。
「…………はあ」
その実感が沸いてくると、途端に思い返してしまう。
上手くボールを渡せなかった事、シュートを打たれてしまった事、動けなくなった後輩をフォロー出来なかった事。
他にもたくさんある。
最後のシーン、もっと周りを見ていれば、佐藤が相手選手に裏を取られる事もなかったかもしれない。
もう少し動き出しが早ければ、相手がシュートする前に止められたかもしれない。
もう少し早く指示を出していれば、湯川が前に出過ぎる事もなかったかもしれない。
「もっと上手く出来たよな……」
考えないようにしていた後悔が押し寄せてくる。
もしも自分がもっと上手かったら、皆を引っ張れるような偉大なキャプテンになれたのだろうか。
普段から厳しくしていたら、皆が最後まで体力が保てるのだろうか。
でも、それは強制出来ない。
元々あいつらはサッカーをやりたくて入部したわけではない。
教室で上手く馴染めなかったり、他の部活から訳アリで転部して来たり、何となく入部を決めたり、要は自ら進んで入部してくれたわけではなかった。
去年三年生が引退して、残った部員では試合もままならない時期があった。
そんな最中に主将を引き継いだ俺は、部の存続がかかった大任を負っていた重圧から、とにかく人数をかき集める事に尽力した。
その結果、新入生含めて何とか試合が成立する人数を維持することが出来た。
それだけでも十分なのに、これ以上無理強いをさせるのは、俺には出来ない。
ただでさえ、人数合わせのために、こちらからお願いした立場なんだ。
好きでもない事を強制される辛さは相当なものだろう。
彼らの信頼を無下にするやり方はしてはいけない。
だからこそ、俺がもっと頑張れば良いのに、それが出来なかった。
その事実が奥底にある感情と混ざり合う。
「……あ…れ…?」
目から何かが落ちた。
地面を見ると、一点が湿っている。
雨なんて降っていないのに。
「んだよ……何…で……」
次第に数が増え、大きくなっていく。
一度気づいてしまったら、もう止まらなかった。
「……うっぐ…う………っう」
誰かが見てるかもしれないのに、俺はもう堪えることが出来なかった。
悔しい、ただそれだけが渦巻いている。
「ぐっそぉ……うっ……」
勝ちたかった。
一度でも良い、そのチャンスが今日だったのかもしれないのに。
その機会を逃してしまった。
もう少しで届くかもしれなかったのに。
俺は寸前で掴むことが出来なかったんだ。
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