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メイド長と御曹司 編

御曹司はもう二度と手放さない

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11月22日の午後10時を表示するスマホ画面。
あまりにも見慣れ過ぎてしまった光景、そしてもう二度と叶わないと思っていた姿が眼前に映る。

驚きと嬉しさが込み上げる反面、後ろめたさが重くのしかかってくる。
まるで呪いのように、彼女に告げられた最後の言葉が足枷のように。

「夢はもう終わりだと、申し上げたつもりでしたが……」

彼女は静かに言葉を発する。
陰りを含んだ表情で、ひとつの冷淡さが垣間見える。

「…………」

俺は返事をできない。
未だ戻らない泣きだくれ顔を見られ、掻きむしったようにぐちゃぐちゃな髪型を見られ、着崩れしたシャツ一枚の情けない姿を見られ、こうして立っているのがやっとで。
彼女に会えた喜びよりも溢れてくるのは懺悔に似た感情。
止め処なく浮かんでくる言葉はどれも再会にはそぐわないものばかりだ。

「……ごめん。俺のせいだ」

それでも伝えてしまう。
許してもらおうだなんて思っていない。
ただ、謝りたかった。

「ごめん、本当にごめん……俺が不注意だったから、自分のことしか考えてなかったから……、お前と約束してたのに俺は裏切るようなことばかり考えてて……」

自分が望むことばかり考えて、何とかなると楽観していて、その結果がこれだ。
俺達を取り巻く現状は想像以上に過酷で、周囲に迎合しなければ生きづらい世の中で、弱みひとつ見せるだけで全てが終わってしまう。
バレた時のリスクは俺だけが被るのではない。父さんや母さんにも、下手すれば自分が疎ましく思う獅童家全体にも影響が出てしまう。
彼女はそれを理解していて、それでも俺の我儘を叶えてくれた。

なのにどうして、隣にいた俺はそんな大事なことから目を逸らしていたのだろうか。

「ごめん……」

彼女を裏切り、傷つけて、最後はひとりにしてしまった。
掴めたはずの腕を取りこぼして、自らの大切な人を失って、その先に示す覚悟を持ち合わせていない。
先の未来を夢見る資格なんて、俺には初めからなかったんだ。

「…………」

彼女は何も答えない。
口元を固く結んで悔しそうに、でも悲しそうな瞳を覗かせる。
今にも彼女を泣かせてしまうかもしれない、そう気づくと俺は自分が最低だと思えてきて、目を合わせられなくなる。
自信など持てない。罪悪感が溢れて、今にも崩れそうで。
今まで考えたこともなかった。自分自身を嫌いになるなんて、一度も。

だからだろう。今更突き付けられる。
俺に彼女を幸せにすることはできないのだと――――――



「…………どうして謝るんですか。司様はひとつも悪くない、私の不注意でバレてしまったのに」

小さき声が鼓膜を揺さぶる。
顔を上げると、彼女は身体を震わせていた。

「謝ったって何も報われない。罪を押し付け合って罪悪感が芽生えて、余計に辛くなるだけじゃないですか……、なのにどうして、どうして謝ってしまうのですか……」

すすり泣く彼女。
押し殺していた感情が瓦解するように、だんだんと剥がれていく。

「御曹司の立場を有する司様にあれほど講釈を垂れて、司様を守るためだなんてそんな言い訳を見つけては繰り返して……結局私は貴方の隣にいるのが怖くなって逃げだした、最低な人間なんです……! 貴方のせいじゃない、悪いのは私なんですよ……!」

小さく泣きたてると、彼女は自身の顔を隠すように目を伏せる。
前髪の向こうでは滴り続ける雫が地面に一粒、また一粒と想いを吐き出すように零れていった。

「ごめん、泣かせてしまって」
「だから、なんで謝るんですか! 貴方が謝るから私は、自分が許せなくなる……。貴方が愛してくれた久遠澄花がこんな弱い人間だなんて……知られたくなかったのに」
「……ごめん」

彼女の明かした弱さを知り、俺には謝ることしかできなかった。
他にも相応しい言葉はたくさんあるはずなのに、出て来たのは彼女を追い詰めてしまう言葉ばかりで。
結局、俺も同類。自分の罪を押し付けて、自分だけが納得しようとしている。
こんなことしても誰も救われないのに。



「…………貴方の隣にいる資格なんて私にはなかったんです。メイド風情が胡蝶の夢を謳っても浅ましい、私の夢は潰えるべきだったんですよ」

無言が流れる静かな室内で、彼女はそう呟く。
目元が赤く腫れているものの、陰りを伴った冷徹な表情を映し、自らを無理に律する姿。
この姿を俺は知っている。
今まで嫌というほど見てきた、偽りの彼女。

「もう一度やり直そうだなんて馬鹿げたこと、貴方は言いませんよね? 分かり切った結果を繰り返すような愚行は獅童家の人間に相応しくありませんから」

諭す口調で投げかけてくると、僅かに目元に残った涙を指ですくい上げ、それを振り払う。
心残りをかき消すように、次第に冷たい視線を向け始める。
まるで初対面の人間に向けるような態度。締め付けられるような痛みが胸の奥に浅ましくも広がっていく。

「…………ああ」

心が痛い。
本当はそんな返事をしたくないのに、違うと否定したいのに。
でもそれは俺の我儘だ。
この先に待っている想像もつかないような障害は、きっと今以上に彼女を傷つけるものになる。
彼女が好きで好きでたまらないのに、でもそれが彼女から笑顔を奪ってしまう結果になるなら、俺が選ぶべき未来はもうこれしかない。
傷つけたくないから、笑顔を奪いたくないから、俺は静かに嘘をついた。

「良かったです。これが一番正しい選択ですから……これが、本来の在るべき関係なんですよ」

小さい声で、自らにも言い聞かせるように語る彼女。
静寂が始まるとともに、部屋に取り付けられた時計の針が不協和音に軋んでいく。
無理矢理に調律し始める針は、幾度となく繰り返してきた俺達を異端に感じているようで、これ以上快く迎えてはくれないみたい気がした。
でも、心配しなくても俺達が繰り返すことはもうない。
一度だけ奇跡的に交わってしまった道中を経て、再び戻るだけなのだから。
本来はあり得なかった夢、神様がいたずらに与えてくれた時間、そう納得すれば全てが収束する。
俺は獅童家の御曹司で、彼女は獅童家に仕える使用人、それが世間の常識だ。
普通の関係を望んでも叶わない、それが仕方のないことだと納得する。
子供だからと言い訳できない年齢になってしまったのだから。

「では、これで本当の別れですね……、この一週間、いやあのタイムリープを含めれば二か月弱ではありますが、私には過ぎた時間でした。未来の奥方に失礼のないように、未練は今日でしっかりと絶ち切ってくださいね……?」

そう言い残して最後、彼女は一礼をして去って行く。
シューズの踵を鳴らし、黒いスカートを漂わせ、去り際に長くきめ細かい髪をなびかせて、そして最後に扉に手を掛けて。
そんな気の遠くなるような時間の流れを目で追うことしかできない。
その場に立ち尽くし、彼女が消えていくその瞬間まで、ただ茫然と立ち尽くす。
伝えたい言葉も全て吞み込んで、彼女との最後の約束を守り、意志を持たぬ屍のように、ただその背中を見守る。
それでも俺は無力だと嘆く必要はない。
異常から平常に戻るだけ、皆が望む当たり前の日常に戻っていくだけだから。
皆が羨望する獅童司という人物に戻るだけだから。

だから、これで良かったんだ――――――








「…………何を、しているんですか」

彼女の驚いた声。
右腕を不意に掴まれ、見開いた瞳がこちらを向く。

対する俺も驚いてしまう。
勝手に身体が動いて、気づけば彼女の手を掴んでいた。

「先程言っていたじゃないですか……約束を反故にした、と。一度目は形式上で仕方ないにしても、今回は明確に私を裏切る行為ですよ……」

頭では分かっている。
互いに互いを裏切ってしまった一度目と違い、この手を握る俺の行動が彼女との約束を一方的に裏切る行為に等しいということを。
でも動いてしまった。掴んでしまった。
頭では諦めていたつもりだったのに、迷わずに腕が伸びてしまった。

「黙っていないで何とか言ってくださいよ! これ以上、何を望むというのですか……!」

彼女は怒鳴る。
呼吸を震わせながら、それでもはっきりと俺に敵意を向けてくる。

「もう終わったんですよ! あの頃の楽しい日々も、二人だけの特別な日常も、呆れるほど笑い合える時間も、全部全部、もう戻らないんですよ……! なのにどうして、どうして受け入れてくれないんですか……」

抑えていた涙が再び流れ出し、彼女は乱れていく。
もう限界だったのだろうか、その場に座り込み、声を枯らし続ける。

「また同じ未来を辿る運命なら……私には、もう……」

傷つくことを恐れ、罪悪感の押し付けを恐れ、自分自身を嫌いになってしまうことを恐れ。
そして、大事な人を失ってしまうことを恐れてしまう。
それなら初めから選ばなければいい。何も持っていなければ何も失うことはないから。
何もなければ、自己を評価する必要がなくなるから。

「だからもう、手を離してください……。これ以上、私を縛らないでくださいよ……」

彼女を救うには手を離すしかない。
彼女の手を解放し、俺と関わることで生じる困難から解き放つ。
手を離せば、彼女を笑顔にできるかもしれない。

「…………ごめん、できない」

でも、できなかった。
本能的に掴んでしまった瞬間には感じなかった胸の痛みが激しさを増す。
それを認めると、俺の口は否定の言葉を発していた。

もう自分を偽る必要はない。
彼女の涙を見て、この手を離してはいけないと自覚した。
この手も、姿も、存在も、全てを無駄にしたくない。
今度こそ、絶対に離したくないと思ってしまった。

ああ、ようやく分かった。
どうして俺が彼女を好いているのか。
俺が好きだと思う瞬間、彼女はいつも笑っていた。
揶揄っている時も、朝の目覚めを告げる時も、告白を受け入れてくれた時も、そして庭園のベンチに腰かけて二人でこっそり雑談に興じていた十年前も、いつも彼女は笑っていた。

――――――俺は彼女の笑顔に惹かれて、という女性を好きになったんだ。

ずっと迷ってて、優柔不断なことばかり考えて、そのせいで澄花を泣かせてしまった。
そんな俺が果たして彼女を笑顔にできるのだろうか。
澄花と一緒にいるために、俺が捧げる覚悟はその程度なのか。
覚悟が足りないなら、他の誰でもない、俺自身がもっと捧げれば良い。
とうの昔にそう誓ったはずなのに、俺はなんて馬鹿なのだろう。

「これじゃあ、父さんに軽蔑されるわけだ……」

守りたいものがあるから信条を貫く、俺にはそれが何たるを理解していなかった。
けど、今は違う。
俺にも守りたいものがある。
守りたいもののために、自らを捧げる。

澄花が笑顔でいてくれるよう、俺がすべきことはこの手を離すことではない。
俺が選ぶもう一つの選択肢、それは――――――

「澄花、ひとつだけ約束してほしいことがあるんだ。聞いてくれる、かな……?」
「私との約束を破っておいて何を今更……、言ったでしょう? もう手を離してほしいと」
「ああ、分かってる。でもこれだけは聞いてほしい。澄花、最後に一言だけ言わせてほしいんだ」

澄花の左手から仄かに温もりを感じる。
そして何も言わない澄花に向けて、俺は言葉を送る。
決して最後にしない、そう心に誓って。

「俺の隣にいれば、澄花はこの先ずっと傷ついてしまうと思う。今回みたいなことも、それ以上の身の危険を感じるような障害も否定できない。俺が御曹司という立場のせいで澄花に迷惑をかけているんだって、今回の件で思い知った」

世間の非難を浴びるのは俺だけではない、むしろ澄花が一番の標的だ。
その自覚がなかったせいで、俺は澄花を悲しませた。

「俺が能天気だったから、目先のことしか考えられなかったから、澄花に迷惑をかけてしまった……この二日間で嫌というほど後悔したよ」

現状を理解し、俯瞰的に把握して初めて、自らの信条を掲げることができる。
ただ父さんの考え方を否定するだけでは、ただの甘ったれた子供だ。

「だからもう二度と後悔しないように、獅童司は久遠澄花に誓います」

貴方が好きだから、俺はもう子供ではいられない。
いつかではない。今、この瞬間に誓う――――――



「一生、貴方のことを守り通します。貴方に笑顔を与えられるように、そしてもう二度と、貴方から笑顔が奪われないように、俺の人生すべてを捧げます」

真っ直ぐな瞳で、彼女の目を見て、俺は新たな告白をする。
絶対にこの手を離さないと、俺は強く握りしめて。

「―――好きです。俺と付き合ってください」

澄花へ捧げる言葉。
それは最初から考えていた言葉ではなく、この瞬間に頭に浮かんだ単語を口に出しただけ。
でも、浮かんできたその単語はどれも彼女との思い出の記憶。
数えきれないほど笑みを浮かべる久遠澄花が断片的に浮かんでは消え、心の奥で溶けていった。
好きという言葉が身体を巡る。
心地良い感情。けどしっかりと身に沁みる。
決して夢で終わらせない。永遠に現実としてみせる覚悟を胸に秘めて、俺は告白した。

「…………馬鹿じゃないですか? なんでこの期に及んで告白なんか……それに付き合えだなんて、とても正気とは思えませんよ」

悪態をついて否定する澄花。
俯き、そして乾いた笑い声を出す。

「おかしいですよ……、だって変です。私が憎たらしく思っていたのに、この気持ちを知ってしまったせいで苦しんでたのに、これは断罪だと思っていたのに……」

次第に肩を震わせ、堪えきれずに嗚咽を漏らす。

「主人に仕えるメイドが……っ、他人の幸福を願うべき私が……っ、うぅ…っ、幸せになっていいはずがないのに……っ」

大粒の涙が止め処なく溢れて、でも澄花は自分を抑えられなくて。

「なんでっ、なんで私が我慢しないといけないの……っ! 私だって人並みに恋愛したいのに……っ! どうして私だけがっ、どうしてなのよ……っ!?」

本音を晒し、これ以上ない弱さを見せ、残るものは何もない。
赤子のように声を上げ、ひたすらに涙を枯らしていく。

「澄花……」

これ以上は何も言えなかった。
だからその代わり、右肩へ自らの手を回して包み込む。

「うぅっ……、嫌だ、嫌だよ……っ、もう離れたくない……っ」

この屋敷を出て数日間、澄花をひとりにしてしまった。
彼女にとってこの場所が唯一人生の拠り所だったのに、どうして外の世界で生きていけるのか。
知り合いのいない場所でひとり生きていけるほど、人の心は強くできていないのに。

「大丈夫だよ、絶対に離さないから」

ぎゅっと強く抱え込む。
身を寄せて、澄花を抱きしめる。
泣きじゃくる彼女を身に委ねさせ、安心させようとした。

そのお陰もあってか、最初は泣いていた澄花も次第に落ち着きを取り戻し、無言で身を寄せてきた。
調律を終えた時計の針が規則正しく音を奏で始める。
途方もない時間を過ごしたこの瞬間が終わりを迎えようとしているのかもしれない。
でもそんなものに気は向かない。
ただ胸の中で安らぐ女性を愛しいと感じていた。

「私、まだ怖い。また同じことが起きたらって思うと不安で……」

静かに囁く澄花。
握っていた左手から微かに震えが伝わってくる。
再び強く握り返すが、澄花は満足しなかったようで。

「司、教えてよ。私を安心させてよ……もう、分かるでしょ?」

潤んだ瞳をちらつかせ、澄花は示してほしそうにしていた。

「…………ああ、分かってるよ」

その言葉を最後に、俺は口を閉じる。
安心感と幸福感を与え、自らの想いを証明できる方法。
これまでの人生で一番嬉しかった愛情表現を既に味わっている。
それを今度は俺が、俺から澄花に伝えれば良い。

ゆっくりと進む時の流れに身を任せ、俺達を縛る過去をすべて捨て、前を向いて日々を送る。
その隣にいる彼女の手を決して離さない。
欲しいものは全て手に入れる、それが俺の信条であるから。
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