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50、婚約破棄
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ユリーナ・トリスの亡骸は、フィアリスが魔物からはがし、綺麗な骨の状態で運び出された。ノアが手配をして、彼女の体は故郷の教会の墓地へ無事埋葬された。その他、地下に用意されていた遺体も、ノアが身元を調べて同様に弔われている。
オーダントン伯爵の所業は知れ渡ることとなって、崩れかけた城や彼の住まいは国から派遣された学者や魔術師に徹底的に調べられた。
だが研究の経過などの資料は大方処分されていた。彼の研究が今後悪用されないようにと、誰かが独断でそうしたのかもしれない。エヴァンは問わなかったが、おそらくノアがやったのだろう。
魔物の恐ろしさは、いくら説いたところで日々向き合っている者にしかわからないのだ。
エヴァンとフィアリスは、誕生日を迎えて侯爵家本邸にいられなくなったティリシアを、別邸に移して数日間保護をした。彼女は綺麗さっぱり聖女の力を失い、ただの少女となってしまった。だがそれについて惜しがってはおらず、ティリシアはほっとした様子だった。
ささやかながら彼女の誕生日を皆で祝い、危険はもうなさそうだということで自宅へ送ることとなった。
馬車に乗って、男爵邸へと向かう。
そういえば、まだ自分達は婚約しているんだったな、とエヴァンは馬車の中で密かに思った。しかしそれも今日までだ。エヴァンとティリシアの婚約は、この日破棄される。
今後については改めて父親と話し合う予定だとティリシアは告げた。隣国へ移り住むつもりだが、いろいろと準備もある。侯爵家の援助は断固として断り続けた。
屋敷の前に到着すると、侍女服を着た少女が扉を開けてまろび出てきた。
「お嬢様!」
叫んで駆け寄って来たのは、暇を出したはずの男爵家の使用人だった。
「まあ、マール、どうしたっていうの。あなたはうちを辞めたじゃないの」
マールという少女はティリシアとさほど歳が変わらないように見えた。目に涙をためながら声をあげる。
「やっぱりお嬢様を独りぼっちになんてさせられません!」
「うちにはあなたに払えるお金がないのよ」
「お給金なんていりません! 食べるものに困ったら、そこら辺の草でも食べますよ。もう決めたんです。地の果てまででもついていきますから!」
ティリシアは弱り切ったようにかぶりを振っている。侍女は並々ならぬ決意でいるらしく、足を踏ん張って立っていた。
絶対に戻って来ないようにとティリシアに言い含められていたが、言いつけを破ることに決めたという。もうティリシアが何を言おうが頑として聞き入れようとしなかった。
自分以上に意固地になっているマールに、さすがのティリシアも折れざるを得なかった。
「それで、お嬢様。先ほどからお客様がお待ちになっておりますよ」
「お客様?」
ティリシアは訝しげに屋敷の方を見た。扉が開いて、一人の若い男性がこちらへと歩いてくる。
その姿を見た瞬間、ティリシアが口を開けたまま硬直した。
長身で大柄なその青年は、短く整えた銀色の髪をしており、風貌から帝国の人間であることがうかがえた。太い眉に体つきは鍛え抜かれて逞しく、立ち姿には気品がある。家柄の良さはひと目でわかった。
「アレクシス……どうして……」
ティリシアは驚愕の表情のまま、かすれた声でつぶやいた。
「我々がご連絡差し上げたんですよ。本日ティリシア様が屋敷にお帰りなる、と」
フィアリスが説明する。
「どうしてですか……、何故アレクシスを知っているのです?」
「うちの家令は調べれば大体のことがわかるので。それに、『ご友人』からお手紙が何度もうちに届いたでしょう? ああ、うちの者も中身は見てませんのでご心配なく」
ティリシアの元へは二人の人物から手紙が届いていた。一通は父親で、もう一通はアレクシスという名前の人物だ。ティリシアは友人が伯爵のところに乗り込みそうな勢いだと初め説明していて、何通も手紙が届いていたところからアレクシスというのが彼女の友人だと思われた。
ノアが調べたところによると、アレクシスは隣国である帝国の人間だが、親の都合で幼い頃に、ティリシアの男爵家に五年ほど預けられていたのだった。要するに二人は幼なじみであるらしかった。
アレクシスは帝国の上流貴族の息子であり、現在は騎士団に所属しているという。
「アレクシス……どうしてこんなところにいるの? あなた、お勤めはどうしたのよ」
「休みを貰ってきた」
いかにも無骨そうなアレクシスは、真顔でティリシアに言う。
「もっと早くに来たかった。だが君が、俺が来るなら行方をくらませると宣言するから躊躇していたんだ。ティリシア、聞いてくれ」
「嫌よ、聞きたくない」
「俺と結婚してくれ」
まばたきもせず、アレクシスは真っ直ぐにティリシアを見つめていた。ティリシアは胸の前で震える手を握り、うつむく。そしてかすかにかぶりを振った。
「無理だわ……」
「俺は君のことが好きだ。君だってそうだろう」
「あなたと結婚なんてできないわ!」
ティリシアは悲痛な声をあげた。侍女のマールが心配そうに寄り添っている。
「言ったじゃないの、私よりもっといい人と結婚してって。私はあなたとは釣り合わないのよ、アレクシス!」
「そんなことはない。俺には君しかいない。何度も何度も、そう言っている」
「あなたのお荷物になりたくない……。私なんて忘れて、幸せになってほしいの」
アレクシスは凪いだ瞳で幼なじみを見つめ続け、その視線とぶつかるとたまらないようにティリシアが顔をそむける。
「うちはお金がないの」
「そんなことは関係ない」
「父が病気なのよ」
「俺が面倒を見る」
「私……みたいな、何の取り柄もない貧乏貴族の娘を嫁にもらいたいだなんて、あなたどうかしているわ……」
「君はいつも明るくて、真っ直ぐで、気丈で、思いやりがある素晴らしい女性だ。君の良さを俺以上に理解する男がいるはずなんてない。ティリシア。もう一人で苦しむな。俺を頼ってくれ。君でないと駄目なんだ」
ティリシアは両手で顔を覆い、肩を震わせながら静かに泣いていた。今までこらえていたものが決壊して、涙となってとめどなく溢れているようだ。
彼女はまだ、十八年しか生きていない。
地位と財産を失う寸前で、自分を誇れるほどの才能も持たず、命を狙われながら孤独に耐えていた。そして、最も大切な人の一人であるアレクシスに、何としてでも迷惑をかけないよう苦心していたのだ。
伯爵からの求婚を聞いたアレクシスは何度も連絡をとろうと試みて、ティリシアは手紙で冷たく突っぱね続けた。
けれどアレクシスも、愛しいティリシアを諦めるわけにはいかなかったのだ。
「あなたを……私のせいで……不幸にしたくない……!」
嗚咽を漏らすティリシアに、フィアリスが近づいていって肩に手を添えた。涙に濡れた顔をティリシアが上げると、フィアリスは微笑んで頷いた。
「お気持ちはわかりますよ、ティリシア様。私があなたの心境が理解できるってこと、わかりますよね? でもね、ティリシア様。あなたの言葉を聞いて私も決心したんです。アレクシス様の幸せは、あなたなんですよ。あの方を信じて、自分の心の声を聞いて下さい。アレクシス様を愛していらっしゃるんでしょう?」
しばらく涙を流したままティリシアはフィアリスを見ていたが、やがて前に向き直り、よろめく一歩を踏み出した。
「ア……アレク、シス……」
「ティリシア、来い」
一歩、二歩とティリシアは彼の方へと歩いていく。時間をかけてようやく、アレクシスの元へとたどり着いた。
そして、しゃくりあげながら彼の胸へと飛び込んだ。
アレクシスは何も言わずに、幼なじみを長いこと抱きしめ続けた。皆がそれを見守っていて、ティリシアが落ち着くのをアレクシスは辛抱強く待っていた。
あの男にならティリシアを任せることができそうだ、とエヴァンも納得する。謹厳実直で出世を期待され、冗談が通じないと揶揄されるものの大変評判が良い人物だとノアから身辺調査の結果を聞いていた。
ようやく泣きやんできたティリシアを見下ろしたアレクシスは、エヴァンに目を移した。
「ティリシアと婚約をした、リトスロード家のご令息、エヴァン・リトスロードとはあなたですね」
「そうだ」
「何も言わずに、一発殴らせていただこう」
エヴァンは虚を突かれてきょとんとしたが、わずかに首を傾げてこう答えた。
「……いいだろう」
するとティリシアがぎょっとしてアレクシスから身を離し、悲鳴じみた声をあげた。
「何を言い出すのよ! やめてちょうだい! エヴァン様を殴ったりしたら、私あなたと一生口をきかないから! エヴァン様達は私を助けて下さったのよ。私は迷惑しかかけてなくて、受けた恩が返しきれないんですからね!」
憤慨しているティリシアはその興奮した勢いで、事情をよく理解していないアレクシスを非難し続けそうだった。エヴァンはいたたまれなくなって口をはさむ。
「いや、しかし、彼の気持ちもわからないではない。なんだかんだ言って、あなたと婚約したのだから、殴りたくもなるだろう」
どういう事情であろうが、愛しい人を一時でも奪われたと感じたなら、相手を一発殴りたくなるのは自然なことである気がする。
だがティリシアは聞いていなかった。
「アレクシス、エヴァン様と私は本当に何もないのよ。それに、エヴァン様は心に決めた方がいて、お邪魔をしたのは私の方だったんだから。あそこにおられるフィアリス様が、エヴァン様が一生添い遂げると誓った相手なのよ。私とエヴァン様がどうにかなるわけないでしょう! エヴァン様と! フィアリス様が! あんなにも愛し合っているというのに!」
執拗に指をさされたフィアリスが今度はうつむく番だった。屋外で大声で言われている。誰が聞いているかわからない。フィアリスは気まずそうに顔を伏せ、どうにか逃げ出さずに耐えていた。
ティリシアは凄い剣幕でアレクシスに事情を説明し、どうにか納得させたのだった。
真面目なアレクシスは無礼を詫びたが、エヴァンは構わない、と返す。
このままティリシアは、マールを連れ、アレクシスと共に彼女の父の元へ向かうという。
「……それではティリシア。お別れだな。婚約破棄を告げてくれ」
エヴァンが言うと、ティリシアはいささか青くなる。
「そんな、私からはとても……」
「いいんだ。あなたから言ってほしいんだよ。それで、私の願いを一つ聞いてくれないか」
「何でしょうか。私にできることなら何でもしますわ」
エヴァンは淡く微笑んだ。
「私の友人になってほしい」
そう言うと、ティリシアが驚いてゆっくり目を見開く。
「私は友人が少なくて、師のフィアリスもしょっちゅうそれを憂いているんだよ。私は大して面白味もない人間だけれど、嫌でなければ、友になってくれないだろうか。勇敢なあなたを尊敬している。私の恋を応援してくれてありがとう」
また、ティリシアの目が潤む。雫が次々に頬を流れていった。
「私などで、良ければ……。光栄ですわ、エヴァン様。本当に、ありがとうございました。感謝してもしきれません。あなたに会えてよかった」
「私もだよ」
笑ってエヴァンは手を差し出す。友愛を込めた握手を交わすために。
ティリシアは泣きながら、その手を握り返した。
「言ってくれ、ティリシア」
しゃくりあげそうになるのを必死でこらえ、ティリシアは唇を噛んでいた。押し出すように、彼女は言う。
「エヴァン・リトスロード様。私は……あなたとの婚約を、破棄させていただきます」
エヴァンが頷く。
「幸せになってくれ、ティリシア」
「あなたも」
こうして、侯爵令息エヴァン・リトスロードは、男爵令嬢ティリシア・フェンロードリとの婚約を破棄するに至ったのだった。
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