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第一部 再会
56、胡蝶蘭
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この日リーリヤはジェードと別行動を取り、廊下をうろついていた。約束の場所で合流する予定だが、まだ時間があるので歩いている。
何の目的もなかったのだが、目線は無意識のうちに床をさまよい紙片が落ちていないかさがしていた。
保管室でイオンと例の紙を発見してから数日。それからリーリヤは同じものを拾っておらず、そのことにいささか安堵していた。
ジェードには話していなかった。造花の話をするのがなんとなく気が引けたのだ。日が経つにつれ、リーリヤも少し落ち着きを取り戻していた。
よく考えてみれば、侵入者が本物のふりをして宮殿に住み着くなんて無理なことだ。作り物が紛れこめば、周りの誰かが気がつくに決まっている。香水に関しては、リーリヤには想像がつかない何らかの理由から誰かが欲したのだろう。
そう自分に言い聞かせていると、気持ちが楽になってくる。あの紙切れだけを根拠に、他人を疑ってかかる段階ではまだないはずだ。
廊下の隅を忙しく眺めていたリーリヤだったが、顔を上げた。この問題については置いておこうと決めたのに、ついあの紙をさがしてしまう。
目線を上げたことで、前方にいる誰かの姿が目に入った。
宮殿には数多の花の貴人がいるが、長く同じ場所で生活しているので、さすがに全員見分けがつくようになっていた。後ろ姿でもすぐわかる。
そこに突っ立っているのは、胡蝶蘭公ファラエナだった。彼は一人きりで、侍従も周囲に見当たらない。手に持った何かに見入るように、頭をやや下に向けていた。
胡蝶蘭のファラエナがああして隙だらけで立っているのは珍しく、声をかけようか迷った。
そこで、何かの気配のようなものを感じて上階を見上げる。吹き抜けなので最上階の天井まで見通せて、その天井は光を通す素材でできているから、柔らかい光が降ってきていた。
と、数階上の床ががばりと崩れた。
リーリヤの真上ではない。下にいるのはファラエナだ。
「ファラエナ!」
声を張り上げながらリーリヤはファラエナの背中に飛びつく。名前を呼びながら走ったので、普通は即座に振り向きそうなものだが、彼は反応しなかった。
突き飛ばそうとしたが力が足りず、その場で重なるようにして倒れた。
しまった、と顔を青くしたが、斜め上方から風圧を感じ、その風圧は落下してきた床を遠くまで飛ばした。
見ると、上階に剣を手にしたジェードが立っている。ジェードが剣を振って、そこから生み出される魔力の混ざった風圧で吹き飛ばしたらしかった。
「ありがとうございます、ジェード様!」
リーリヤが手をあげると、ジェードは頷いて応じた。
「頼りになる方だ……」
感動しながら呟いていると、下から「どいていただけませんか」と不機嫌な声がした。
ファラエナに乗っかるような格好だったリーリヤは、詫びながらどける。
渋面しているファラエナは体を起こすと、乱れた髪を片手で整え、飛んでいった瓦礫を一瞥した。何が起きたかは理解したらしい。
「お怪我は?」
「ご心配には及びません。体は平気です。あなたのような方に助けられたという事実が、私の自尊心を傷つけましたがね」
「そうですか。それは申し訳ありません」
目をぱちぱちとまたたかせながら言うと、ファラエナは不愉快そうに鼻にしわを寄せていた。
「余計なお世話だ。何故助けたのです?」
「何故って、理由は特にないですよ。危ないからよけないと、と思って飛んでいっただけです。いやぁ、しかしあなたは足腰がしっかりしていらっしゃるから、私などでは突き飛ばせませんでしたね」
よろけて二人でそこに崩れただけだったので、余計なのは間違いない。被害者が一人から二人に増えるだけだったのだ。あはは、とリーリヤは笑うが、ファラエナの険しい目つきは変わらない。
「私に恩を売る気ですか?」
「まさか……。だって胡蝶蘭公は、私のことを嫌っておいでじゃないですか。恩なんて感じないでしょう」
「わかっているなら助けるな!!」
大声を浴びせられ、リーリヤはちょっと首をすくめた。
こちらとしても、申し訳ないとは思っている。嫌いな相手と関わり合いになりたくないという気持ちはわかる。けれど他にどうしようもなかったのだ。
「放っておけばよかったではないですか。最悪、散るだけだ。ああ、言っておきますけど、万一私が散った場合は、あなたに世話をされたくありませんから、蕾になった私に手出しはしないでもらいましょう」
「それはお約束できかねますね。そうなったら、私はあなたが蕾であるのをいいことに、文句を言われないからときっちり世話をするでしょう。先に謝罪しておきます。すみません」
ファラエナの怒りが徐々に高じていくのを肌で感じているのだが、嘘もつけないのでリーリヤは正直に言った。ファラエナはわなわな震え始めている。
「散らなければよいだけでしょう、胡蝶蘭公。大丈夫ですよ、あなたはそう簡単に散る方ではありませんから。私の世話になる心配などありません」
胡蝶蘭のファラエナは抜け目ない人物である。宮殿内での剣の強さは、月下美人や赤薔薇には劣るが、それでも上位であった。
微笑みかけられたファラエナは、ふんっと鼻息を漏らすと目線を外した。照れではなくて、こんな阿呆と話していると気が抜ける、と呆れたのだろう。
「あなたの殿下にもお礼は言いませんよ」
「胡蝶蘭公は、人の子がお嫌いですか」
「好きな方が少数派なのではないですか?」
それはそうかもしれない。何かと揉めてきた歴史があるから、印象は悪いだろう。桜のサクヤやリーリヤは人と交流があったので、人の子といってもいろいろいると知っている。が、多くの花の子は付き合いがあまりないから判断する材料が少ないのだ。菫のイオンなどは人の子を嫌悪はしていないが、好いているというほどでもない。
「人の子は忌まわしい生き物だ。あんな者達がいるから……」
最後まで言い切らず、ファラエナは歯噛みをした。
その言葉と表情に込められた怨嗟は、驚くほどにくっきりしていた。むき出しの憎しみ。それはよく知らないとか、気に入らないという程度の存在に向けるようなものではなかった。
まるで仇敵について語る時のような具合であったから、リーリヤには意外で仕方なかった。ファラエナが人の子との間に問題を抱えていたという話は今まで聞いた覚えがない。リーリヤが知らないところで、揉め事でもあったのだろうか。
真っ直ぐな視線を向けられて居心地が悪くなったのか、ファラエナは思い切り顔を背けた。
リーリヤは、何となく違和感を覚えた。記憶の中の、大昔の胡蝶蘭公ファラエナは、こんな男ではなかったはずだ。
「あなたはお変わりになられましたね、胡蝶蘭公」
「はあ?」
ファラエナがリーリヤを睨むから、また二人の視線はぶつかった。
「何を言い出すのですか、白百合公」
「いえね、昔のあなたは、もっと無口だったなと思いまして」
誰ともつるみたがらない性格は同じだが、以前のファラエナは輪をかけて無愛想で、皮肉な笑みすら浮かべなかった。
同胞にも冷たい、蔑むような目を向けて、誰も近づけようとしなかったのだ。そこから比べると幾分社交的になっている。
「……誰だって、性格は多少変わるでしょう」
何がきっかけで、彼の態度は軟化していったのだろうか。知っているような知らないような。
リーリヤは身を乗り出して、ファラエナの顔を凝視した。そこから自分の知らない、あるいは忘れている何かを読みとろうとするように。
ファラエナはそんなリーリヤの行動に気圧されて身を引いている。
胡蝶蘭公ファラエナもまた、美しい男だった。短い髪は気品のある白で、柔らかい髪質だが整髪料でしっかりとまとめている。胡蝶蘭という花は愛らしさもあるが、彼の顔立ちはきりりとしていて鋭い。優雅なまろみというよりは、強い気高さを感じる容貌である。
(おや……?)
何かの香りがリーリヤの鼻をかすめた。
これは――。
(白粉だ)
間違いない。よくよく見ると、ファラエナは顔に白粉を塗っているのである。
化粧品の類をつける貴人もいないではなかった。たとえば赤薔薇公ローザなどは爪を染めるのを気に入っているし、紅をつけたり瞼に色をのせたりする者もいる。
しかし、白粉を塗る者は少ない。貴人は誰もがきめこまかい肌を持っているので、肌を良く見せるものは不要なのだ。まれにつけることもあるが、それは決まって――顔色の悪い時である。
見栄っ張りというか、他人に弱いところを見せたくない貴人が多く、体調を崩すとそれを悟られないように白粉で誤魔化すのだ。
「ファラエナ。あの、もし何か悩んでおられるのでしたら、私が聞きますが……」
「記憶力が乏しいようですね、白百合公リーリヤ。私はね、あなたみたいなふざけたお人好しが、反吐が出るほど嫌いなんですよ。どうして私が、大嫌いなあなたに悩み事を相談するのです?」
「親しい方に話しにくいのなら、いっそ私みたいな相手の方が話しやすいかと思いまして」
「そんなわけがないでしょう! どうしてそうなるんだ、馬鹿だな!!」
二人して床に座り込んだまま話し込んでいるみっともなさに、ファラエナはやっと気がついたらしかった。憤然として立ち上がり、軽蔑の眼差しをリーリヤに向ける。
「いいですか、白百合公。あなたはそうやってへらへらして愛想を振りまいていれば相手を懐柔できると思いこんでいるようですが、私は違う。私は本当に、あなたが嫌いだ! あなたを見ていると苛々する! 弱者が出しゃばるんじゃない! 人助けなんかして得意になって、何様のつもりなんですか!」
しかし、いえ私は、と弁解しようと試みたのだが、ファラエナがあんまり早口なので口を挟む隙がなかった。
呆然と突っ立っていたことや白粉のこと、突然激高し始めたことに困惑し、罵声の内容よりもファラエナの健康状態の方が気になって仕方なかった。
だがこれ以上尋ねれば火に油をそそぐことになるだろう。
「私はあなたに感謝なぞしない! 大体、上から崩れてきたものは、私ではなくてあなたを狙ったものではないんですか? 要するに私が巻き添えを食うところだったかもしれないということです。あなたは代理候補なんですからね!」
「ああー、それは確かにそうですね。忘れてました」
言われてみればその可能性もある。次から次へと大きな悩ましい問題が出てくるので、最初の方の問題がかすんできているのだ。もはや自分が王の代理候補に選ばれた件は些細な出来事として過去に押しやられつつある。
間の抜けた返事に瞬時にして怒りが萎えたらしいファラエナは、大きなため息をついて背を向けた。歩き出す彼を引きとめずに、リーリヤは座ったままファラエナを見つめていた。
「リーリヤ、何事もなかったか」
上の階から下りてきたジェードが近づいてきて、手を差し伸べる。リーリヤは礼を言いながら、その手をとって立ち上がった。
「また、修繕しなければならない箇所ができてしまいましたね……」
そう言いながら、リーリヤの視線はまだ去りゆくファラエナの背中に吸い寄せられていた。
ファラエナが気を取られて立ち尽くしていたもの。彼のこぶしに握られているのは、くしゃくしゃになった紙片であった。
大きさといい、質といい、おそらくその紙片は、リーリヤがあの日拾った紙片と同じものだっただろう。
――この宮殿には、造花がいる。
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