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26、父の愛人

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 * * *

 暗い森の木立は黒々として、沈黙を守っていた。木の葉一枚落ちる音すら聞こえない。闇は森の奥に行くにしたがって濃くなり、景色は塗りつぶされている。
 無闇につつけばその凝集した黒色は、一度に飛び立って襲いかかってきそうであった。
 だが、こうした森の存在は、リトスロード領内では珍しいものではない。


 今夜は野営をして駆除を続ける。
 森から出る魔物がこの近くを通る商人の馬車を遅うので、数を減らしておかなければならないのだ。
 夜明け近くにわらわらと出るのでその時間を狙う。三人は森の入り口で用意を整えた。

 火をおこし、食事を終えるとエヴァンは焚き火の前で剣の手入れを始める。そこにはめられた二級石が光を受けて煌めいていた。エヴァンの瞳の色と同じ、緑色だ。

 魔石は宝石のように美しく、魔力の弱い屑石は市井で安価な貴石として流通している。
 上質な魔石は、微細な光の粒が中でゆったりと動いていた。
 フィアリスはそんなエヴァンの魔石を、見るともなく見ていた。

「フィアリス、私の気持ちを、少しでいいので真剣に考えてみてくれませんか」

 乾いた布で刃を拭いながらエヴァンが言った。
 めげないというか、しつこいというか。
 フィアリスは黙って、どう返すべきか考えた。

 これだけはっきり意思表示をしているのに、諦めてくれないのだ。改めてこれは己の罪だと感じる。そういう気にさせてしまったのは自分なのだ。
 言わないで済むなら越したことはなかった、あの事実を打ち明ける時が来たのかもしれない。軽蔑されるのが嫌で、黙っていたことだ。

 エヴァンの将来を想うなら、早いところ諦めさせてやらなければならない。

「エヴァン、聞いてほしいんだけど、私は君と結ばれるわけにはいかない理由があるんだ」
「何ですか」

 やはり抵抗があって、下唇を噛みながらまた逡巡した。
 壊したくない。この期に及んでまだ、自分は彼の中に綺麗な己の像を保ちたいと浅ましくも願ってしまう。
 けれど、自分の望みよりも優先すべきなのは彼の未来なのだ。

 意を決して口を開く。

「私は、君の父上の愛人なんだよ」

 エヴァンは手を止めて、ちらりとフィアリスに視線を寄越した。

 ――仕方ない。これでいいんだ。

 この汚らわしい事実を抱えながらエヴァンと向き合うことに、ずっと罪悪感があった。普段は胸の底にしまって、なかったことにしてエヴァンと関わった日々。
 この告白は少なからず、エヴァンを傷つけるだろう。どんな痛罵を浴びせられるかと覚悟して、フィアリスは目を閉じた。

「知ってますけど」
「はい?」
「あなたが父上と寝ていることくらいとっくに知ってますよ。同じ家に暮らしているんだから察します、それくらい。まさか知らないと思ってたんですか?」
「………思ってた……」
「そこまで鈍くないんですよ、あなたじゃあるまいし」

 軽くなじられたが、感情を揺らした様子はない。
 逆に動揺したのはフィアリスの方だった。目をきょろきょろと忙しなく動かす。

(知っていた……。いつからだろう。気づかれるようなことはしてないはずだけど……あんなに注意していたのに)

 まあ、館に住む使用人の大半、というか全員は気がついているのだろうが。

 ――知っていた。

 フィアリスの一世一代の告白を軽く上回る衝撃の告白は、フィアリスを混乱の渦に突き落とした。
 関係を知っていて、それでも好きだというエヴァンの本心がますますわからなくなってくる。
 フィアリスは苦労してどうにか心を鎮めた。動揺して言葉を失っている場合ではない。ここらでこの件には決着をつけなくてはならないのだ。

「……だったら、話は簡単だ。君は私のことなんて愛していないんだよ。私が父上のものだから、欲しくなっただけなんだ。息子というものは、父親に競争心を抱くものだ。つまり……」
「そうじゃない。どうしてあなたはそうやって、私の心を決めつけるんですか?」

 強い口調で遮られて、フィアリスは言葉を切った。エヴァンは剣を置いて、こちらに体を向けている。その瞳には炎の色が反射して、魔石の中で煌めく光に似たものがちらついていた。

 エヴァンの瞳はとても綺麗だ、とフィアリスは頭の片隅で思う。
 向き合うと、いつもこの双眸に視線が吸い寄せられる。曇りない緑の輝き。フィアリスの大好きなものの一つだ。

「あなたが父の愛人だろうがなかろうが、誰に抱かれていようが、そんなことは関係ない。関係ないから別に気にしないんです。私はあなたのことが好きなんだ。その気持ちを、受け止めてほしいだけなんです。浮ついたものなんかじゃ、決してないんですよ」
「私は、ジュード様と関係を持っているから……」
「私に諦めろと言うんですか? もちろん、あなたが父の愛人を好んでやっていて、満足しているなら諦めますよ。でもフィアリス、あなたは父を愛しているんですか? あなたは幸せなんですか?」

 ――どうして、息が詰まるんだろう。

 胸の奥の、深い部分が揺り動かされる。それはフィアリスという人間を、まるごとひっくり返してしまうような危うい揺れだった。
 しっかりと自分を保たなければ、何か決壊してしまうような。

 ――大丈夫。私は何度も、壊れそうになる自分を、崩れそうになる自分を自ら抱えて、こらえてきたから。

「愛していなくたっていいんだよ。愛人関係って、そういうものじゃないか」
「父を愛していないと認めましたね?」
「君は子供だからわからないんだ、まだ誰も抱いたことがないから……」
「また、そうやって子供扱いする!」

 声に苛立ちが滲んでいる。

「狡いですよ。歳は努力したって余分にとることができないんだ。成人するまで待ったのに、まだそんなことを言う。どうしたらあなたは私を大人だと認めてくれるんですか。どうなったら、愛をまともに語る資格があるっていうんですか? いくつになったらとりあってくれるんですか!」
「だから、そうじゃなくて、私は……」
「おい、お二人さんよ」

 向き合っていたフィアリスとエヴァンは、はたと会話を止めて、焚き火の向こうを見る。明かりに照らされて、もう一人の顔が暗がりに浮かび上がっていた。

「お前らさっきから、俺のこと見えてます? 俺って死んでる? 幽霊か何かなわけ? おーい、聞こえるか?」

 胡乱な目つきのレーヴェが、ひらひらとこちらに手を振っている。
 そういえば彼がいたのだった。その割に二人して随分赤裸々な話をしてしまっていた。

「す、すまないレーヴェ……ちょっと話に熱が入ってしまって……」
「別にいいけどさ。いつものことだから……」

 ため息をついてレーヴェは肩を回す。

「でもフィアリスの言うことも一理あるな。お前も大人になったなら、もっと積極的に誰かを抱いてみろ。そしたらわかることもあるかもしれない」

 エヴァンは眉をしかめてそっぽを向いた。

「愛している人以外を抱きたいと思わない。愛していない人間を抱いて得られるものなんて、欲しくはない」
「坊ちゃまはウブでいらっしゃるな」
「あんたみたいな性欲で動いてる人間に説教される筋合いはない」
「酷いこと言うじゃん……人聞き悪いなぁ」

 機嫌を損ねているエヴァンに噛みつかれ、レーヴェはかぶりを振る。やがてレーヴェは立ち上がった。薪を集めてくるのだそうだ。

「夜の間は火を絶やさないようにした方がいいからな。二人で積もる話もあるだろうし」

 と森の闇へと消えていくレーヴェの背中を見て、フィアリスは申し訳なく思った。

(私としては、レーヴェにここにいてほしいんだけど……)

 二人きりになると気まずいことこの上ない。
 父親と愛人関係であることを暴露したのにもう知っていると言われるし、愛についてこんなに真剣に詰め寄られ、困じ果てる。

「でも、まあ、その、レーヴェの言うことも一理あるんじゃないだろうか。君は健康な青年だから、女性を知った方がいい。そうしたら、男の私になんて興味がなくなるだろう」

 リトスロード家の館には、女性がいない。だから一番女性に見た目が近い自分に対して、妙な気持ちを起こしてしまったのだろう。

「女なんて抱きたくない。男を愛するのがいけないことですか? 男が男を抱いてはいけないという決まりはない」
「大抵、男は女を抱くんだよ。動物や虫だって雄と雌が交尾するでしょ。普通」

 男に抱かれている自分が言っても説得力は皆無なので、小声になる。

「人間の性交は必ずしも生殖が目的ではありません」
「そうだけどさ、そういう場合だってやっぱり男は女を抱くものだよ、多くの場合」
「好きでもない女を、欲のままに抱く男がいるのは知っています。でも私は嫌です。愛していたら、性別なんて関係ないじゃないですか。男が男を抱いたっていい」

 ああ、とフィアリスは頭を抱えたくなった。
 どうしたらこの教え子の頑固な考えを変えることができるのだろう。そして、どうしてそんなにもこの子は私のことが好きなのだろう。
 あまりにも真っ直ぐに気持ちを伝えてくるから、それを避けようとするのも苦しくて仕方がない。

「レーヴェだって、しょっちゅうノアを押し倒してますよ。私は見たんです」

 エヴァンのその言葉を聞いて、フィアリスは硬直した。
 聞き違いだろうか?
 私は何か今、とても大変なことを聞いてしまったような気がするけど。聞き違いだろうな? 聞き違いであってくれ。

「もう一回言ってみてくれる?」
「レーヴェとノアだって寝てるじゃないですか。扉が開いてるから見えたんです」
「………………」

 その時、薪を抱えてレーヴェが戻ってきた。
 話は聞こえていたらしく、レーヴェの顔からは表情が消えている。

「レ……レ……レーヴェ……」

 わなわなと唇を震えさせるフィアリスと、レーヴェは目を合わせようとしなかった。
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