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番外編

「犬と体温」

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 ウォルフは館のとある一室に足を踏み入れた。異様なまでに酒臭い。
 長椅子の上にだらしなく横たわっているのはザシャだった。ここは彼の部屋というわけではないが、何か荷物をたくさん広げなければならない仕事をする時はザシャが使っている場所だ。

 珍しく顔を赤くしたザシャは、ぐったりと目をつぶっているが眠っている雰囲気ではなかった。

「そんなに飲んでいいのかよ」

 この感じではおそらく足元もおぼつかないだろう。何かあった場合、動けるとは思えない。

「……ユリウス様に許可は得て飲んでる。一眠りすれば元通りになるから平気だ」

 ザシャが飲んでいるのは地底世界で作られた酒で、地上のものと比べものにならないくらいに強い。いくらかここでも仕入れているが、それをザシャは浴びるほど飲んだらしかった。
 魔人は基本的に酒には強く、体質もあるが歳を重ねるごとに酒精には耐性がつく。酔うならしこたま飲まなければならないのだ。

「何かあったらお前に任せるよ。大体、普段からそのつもりで躾てるんだから。僕が死んだらお前がユリウス様を支えろ。あの方を理解できる魔人なんてほとんどいやしないんだからさ……」

 ザシャは気怠そうにため息をついている。
 この男の今はなき実家は名家である。矜持も何もかも捨て去り、誇りであるはずの赤角も白く染めて黒角卿の部下を務めてはいるが、本来であれば黒角卿と肩を並べる地位にまでのぼりつめられたかもしれないのだ。

 ウォルフから見て、ザシャは強い。かなり強い。タイマンで勝負をすれば絶対に勝てない。
 埋められない経験や歳の差もあるだろうが、ウォルフがどれだけ鍛えたところで、ザシャより強くなるのはかなり難しいことだった。生まれつきの能力の差というやつである。
 ザシャは眉間にしわを寄せ、目をつぶったまま言った。

「お前さ……読み書きもちゃんとやれよ。いつになったらまともに字が書けるようになるんだよ」
「書けなくても困んねーもん」
「ユリウス様の下で働くには教養が必要なんだよ。あの方に恥をかかせるんじゃない」

 ザシャはウォルフと話をすれば小言ばかりである。もしくは躾という名の暴力。指導する立場であるので当然ではあるのだが。
 名家の子息ということもあって、ザシャは魔人にしては振る舞いがかなり上品な部類に入る。だからこうして、髪も服も乱れた状態で酔いつぶれている様子を見るのは珍しかった。
 ウォルフはそんなザシャをしばらく眺めてから言った。

「お前って、誰かと寝たりしないの?」
「……はあ?」

 いきなり何を言い出すのかといった表情でザシャは片目を開ける。

「そんな気配が全然ないからさ」
「生憎と僕はお前と違って若くないし、枯れてるからな。ヤらなくても平気だ」

 そうは言うが、ザシャの歳はまだ魔人の青年期にあたる。個人差は当然あるが、精力旺盛なはずである。
 魔人は性欲が強い。ウォルフだって暇を見つけては外で処理をしに行っている。だがザシャがそれらしい動きを見せたことは一度もなかった。

「普段どうしてるわけ?」
「うるさいな……。自分で抜いてるんだよ。悪いか」
「最後に誰かとヤったのっていつなんだ」

 両目を開けてザシャがこちらを睨んでくる。目が据わっていた。殴られるかと思ったが、体を起こそうとはしなかった。

「閉じこめられて兄貴達に強姦されてた時。あれ以来誰ともしてない」

 ザシャは家族と連絡を断って人間の男と逃げ、その家族らはザシャを連れ戻すと監禁して「教育」を施していたそうだ。

「馬鹿な奴らだよ。何で僕が仕返ししないと思ったんだろうな」

 ザシャは笑っている。そういったお仕置きもザシャを一族虐殺に駆り立てた要因の一つだったのだろう。家族は三男坊の力を甘く見ていて、破滅を呼んだのだ。
 ただ、この男の兄達は単純にお仕置きのためだけにザシャを組み敷いたわけではないのではないかとウォルフは思った。

 ザシャはとにかく顔が良いのである。しかも見た目だけでいうなら可愛らしく、倦怠感の漂う感じがそそるのだ。

「どんだけご無沙汰なんだよ。不健康だな」
「魔人とヤるなんてぞっとするんだよ。あの冷たい体が嫌で嫌で仕方なくて、萎えるんだ。いいだろ別に。僕が生涯自慰し続けようがお前には何の関係もない」

 腹を立てているというより、心底面倒くさそうな口調である。
 ザシャは顔をしかめたまま目をつぶって、これでこの話はおしまいだという意思表示をした。
 ウォルフは部屋を出て行かず、長い間ザシャを見下ろし続けた。そんなウォルフの存在に、ザシャは無視を貫いている。

 どれくらいそうしていただろうか。ウォルフはザシャに近づいていった。
 長椅子に膝を乗せ、ザシャに覆いかぶさろうとする。さすがにザシャも気づいて目を開けた。

「……おい。何のつもりだ」

 ウォルフは無表情にザシャの顔を見ている。ザシャの目つきが鋭くなった。

「お前、」

 身じろぎしようとするザシャの手首をウォルフがとらえる。ザシャは目を見開き――硬直した。

「え……?」

 ぽかんと口を開け、つかまれている手首を凝視している。

「何で……」

 驚くのも無理はないだろう。きっと手首には温もりを感じているはずだから。
 ウォルフはもう片方の手のひらをザシャの眼前につきつけた。そこにある焼き印には見覚えがあるはずだ。

 人間の国へ潜入していたザシャであれば知っている。これは一時的に体の熱を上げる効果があり、人間と近い体温を保てるのだ。魔人は回復力が高いのでこの程度の焼き印はすぐに消えてしまうのだが、数日から数週間はもつ。
 驚きで固まっているザシャに、ウォルフは笑いかけた。

「これで目隠しすれば、昔一緒にいた人間とヤってる気分になるんじゃねえの?」
「な……」

 ウォルフはザシャの服をはぎとり始め、呆然としていたザシャはにわかに慌て始めた。

「ちょっと待……、お前、何考えてるんだ、やめろ!」

 やや抵抗されるが力が弱い。ザシャはつかまれた手がどういうわけかふりほどけずにいるらしい。
 ウォルフはポケットから取り出した布で、手早くザシャに目隠しをした。焼き印の準備のこともあり、ある程度計画的にやっている。

 骨が折れるほど顔面を殴られるか、全身ボコボコにされて部屋を叩き出されそうになるかくらいの事態にはなると覚悟の上だったが、ザシャは想像以上に狼狽していてほとんど硬直したままも同然だった。
 これなら縛り上げなくてもよさそうだな、とウォルフはザシャの敏感なところをまさぐりながら肌に口づける。

「やっ……!」

 暴れそうになるので強く抱きしめると悲鳴をあげた。

「あつ……熱い! いやだ……!」

 平素のザシャからは考えられないほど弱々しい声を聞き、ウォルフの嗜虐心に火がついた。
 肌が触れ合う面積が広ければ広いほど、ザシャは身をよじる。熱い、熱いと泣き声のような声を出す。
 シャツはボタンがとれて前がはだけ、脚衣の方を脱がすのもさほど苦労しなかった。

 ――すごく、細い。腕も、腰も、脚も。

 どこか発達しきれていない印象を受ける体だった。白い肢体が生々しく目に映る。
 愛撫するだけで終わるつもりは毛頭なかったので、ウォルフは用意していた油脂を指ですくうと遠慮なくザシャの秘部につっこんでそこをほぐし始めた。しばらくやっていないというならゆるくはないだろう。雰囲気も何もあったものではない。

「んぅ……ッ、やめ……ウォルフ!!」

 ザシャがウォルフの腕に爪を立てる。食い込んで血が滲んだが気にならなかった。ウォルフは一言も声を発しなかった。
 こいつは何も見えていない。自分が喋らなければ、誰とヤッているかという実感もなくなるだろう。

 猛り立った己のものを、これまた無遠慮にザシャの中へと押し込んでいく。ザシャの体が弓なりに反った。

「ひっぁ、ああぁあぁ……ッ!!」

 想像通りキツかった。拒んでいるかのような締まりだったが、ウォルフは強引に腰を動かし始める。
 涙声混じりの嬌声、華奢な体。この男を犯した兄の気持ちがウォルフには少々わかる気がした。

 もしザシャが強者でなかったら、散々なぶり者にされていたに違いない。そういった魅力がある。

「熱い……! 火傷、する……!」

 そううめくザシャの体は冷たい。魔人の体温だ。自分がそうであるのに、魔人の冷たさが嫌だとこの男は言う。
 いやいやとかぶりを振り続けていたザシャだったが、そのうち律動に合わせて短い声をもらすだけになった。抵抗もなくなり、力なくウォルフに犯されている。

 首筋に吸いつくとザシャが体を震わせる。ザシャの腕がウォルフの背中に回された。

「ディ、ルク……」

 酒臭い吐息混じりに、ザシャは誰かの名を呼んだ。

「ディル、ク……ディルク……っ」

 絶望と悲しみと、焦がれるような感情が入り交じった声音だった。魔人であれば滅多に出さないような、複雑でどこか湿っぽい響き。
 自分に犯されながら別の者を呼ぶのにウォルフは猛烈に興奮を覚え、そのまま中で精を吐き出した。

「あっん……ぁあ……」

 長い吐精に応えるように、ザシャはウォルフの体にしっかりと絡まっていた。偽りの温もりに、すがっているかのようだ。

(やっぱりそうだと思ったけど、こいつ女より全然いいな)

 ウォルフの周りでは、ユリウスとエデルを除けばザシャが一番顔が良い。どことなく陰があるのが妖艶だった。特殊な陰気さが物珍しく感じさせるのである。
 一度は犯してみたかったという念願叶った気持ち良さに、ウォルフも強い快感を覚えて脱力した。

 入れっぱなしで引き抜かず、しばらく余韻に浸っていたウォルフだったが、体の下で憤怒の声がした。

「こ……のっ……」

 ザシャに突き飛ばされ、ウォルフは長椅子から転げ落ちた。
 ザシャは目隠しをむしり取って床に叩きつける。

「盛りのついたクソ犬めが!! 何をしてくれてんだよ! 中に出すんじゃない!!」

 上体を起こして力むと、蕾からとろとろと精液が溢れてくる。それを感じたらしいザシャは苛立たしげに舌打ちをした。

「出し過ぎなんだよ! 僕に種付けをするな! よそでやれ!」
「孕まないからいいじゃん別に」
「よくない!!」

 ザシャがそばにあったクッションをウォルフの顔面に投げつける。

「ああ、もう……」

 髪をかきあげてしばしうなだれていたザシャだったが、「酔いがさめた」とぼやきながら後孔に指を入れて、中にたまったものをかき出し始めた。
 ウォルフは床に落とされたままの格好でそんなザシャの様子を見ている。見られている方はほとんど頓着していないようだったが、怠そうなその行為が扇情的でまた緩く勃起してしまう。

 ザシャはそれを見逃さずに、非難をこめてウォルフのものを睨みつけた。

「馬鹿犬。勃たせるなよ。もう挿れさせないからな」
「そう言われてもなぁ……」
「お前の大事なものが二度と天を向けなくなったら嫌だろ?」

 脅しである。ウォルフは口を尖らせてそっぽを向いた。不意打ちのショックから立ち直ったようであるし、さすがにこれ以上何かすると逆鱗に触れそうである。

「……満足したか? 僕を犯して」
「ああ。満足した」

 ザシャが大げさに嘆息する。淡々と事後処理を済ませると、服を身につけ、ぐったりしたまま部屋を出て行った。
 ウォルフはといえば、身だしなみを整えるのも面倒でそのまま床に座り続けている。

 ――多分、あいつには魔人として決定的に何かが欠けているんだろうな。生まれつき。

 抱いてみて、余計にそう感じた。
 強いのに野心がない。欲望に忠実になれない。悔恨が重荷となっている。
 魔人というのは大抵、楽観的で良くも悪くも前向きなのである。ザシャにはその明るさが欠けている。慎重というのとはまた違い、あの男はウォルフには理解し難い虚無を抱えていた。

(要するに、根暗なんだな)

 語彙の乏しいウォルフは、そう結論づけた。

 * * *

「ウォルフ。ちょっと来なさい」

 ザシャを抱いた次の日、廊下を歩いていたウォルフはエデルに呼び止められた。エデルは手招きをして空き部屋へと入って行くので、ウォルフはそれに続いた。
 困り顔のエデルは今日も美しい。脆く儚げな細工物のようである。とびきり綺麗だとは思うが、ウォルフは彼を一度もどうこうしたいと考えたことがなかった。

 エデルはユリウスのものなのである。
 エデルを少しでもそういう対象に見た瞬間にそれは主への裏切りになるだろうし、ユリウスはそういう下心を見抜き、ウォルフを消し炭にするだろう。

 エデルは廊下に目を走らせて誰もいないのを確認すると、ウォルフの方へ向き直ってため息をついた。

「君……ザシャを襲ったそうだな」
「襲ったっていうか、まあ……そうっすね。ヤりました」

 正直に認めると、エデルはまた深く息を吐いた。

「ザシャのことが好きなのか?」
「好き? いえ、別に」

 嫌いではないし先輩として認めてはいるが、ザシャとそれ以上の何らかの関係を発展させたいと思っているかと問われれば答えは否である。
 夫婦や愛人のようにべたべたしたいという願望は一切ない。ザシャはただの仲間、同僚である。

 だろうな、という顔でエデルは首を傾げた。

「では何故抱いたんだ?」
「強いからですかね。自分より強い奴を組み伏せたいって願望が強いんですよ、魔人は」

 特にウォルフのような戦闘狂は、強い者に挑みたいという衝動が強く、強者を見下ろした時の興奮は異常なものだった。
 エデルは悩むように首を傾げて黙っていたが、やがて口を開く。

「なあ、ウォルフ。彼は繊細なんだ。わかるだろう?」

 繊細というのはつまり、面倒くさいという意味だろう。

「わかります」
「少し配慮してやった方がいい」
「いや、それもわかるんですけどね。あいつ、ずっと誰ともしてないっていうから。健康に悪いでしょ?」
「だが……」
「自分からは絶対に抱かれませんよ。けど俺が強姦したなら、言い訳はできるんじゃないっすか?」

 エデルは少しきょとんとして、まばたきを繰り返した。

「……君は君なりに、配慮をしてるというわけかな」
「? どうですかね。一度あいつに中出しして喘がせたいっていうのはずっと思ってましたから。俺の欲が一番の理由ですし」

 すると再びエデルは長考し始め、眉間に深いしわが刻まれる。何だか悩ませてしまっているようだから申し訳なくなってきた。

「気まずくなったりはしないのか?」
「しないっすね。俺達ってほら、気が向けば親子とか兄弟とでもヤるんで。普通ですよ」

 事実を口にしたまでだったのだが、エデルはやや引いていた。
 そういえば、ザシャから口酸っぱく注意を受けていたのだ。魔人と人間の常識は異なる。ただでさえエデル様は貴族で育ちが良いのだから、あんまり突飛な話をして驚かせるなよ、と。

 そうは言われてもウォルフは人間との交流がほとんどなく、線引きが難しかった。よく考えれば、近親相姦は人間にとって禁忌だとか聞いたことがあるようなないような。

「あー、えーと、俺は……、親とはしたことないです。親の顔知らないってのもありますけど」

 とよくわからない言い訳をした。エデルは苦笑いを浮かべる。

「いや、すまない。ここでは私の常識が非常識なんだったな。そもそも私も他人の行為をどうこう言えるような立場ではない。君達のどちらかが傷つかないのなら、余計な口出しだった。悪かったよ」

 この人は本当に優しいな、と思う。
 エデルは誰であっても気になると見過ごせなくて、抱きしめようとしてしまう。だから傷だらけになりがちなのだ。
 当たり前だが魔人にはこういう性質の者はまずいない。ウォルフの目には、エデルという男がとても眩しく美しく見えるのだった。

 ウォルフは自分がとても馬鹿だというのを知っているし、大して大事にされるべき存在でもないのを承知している。けれど、そんなウォルフにもエデルはとても優しくしてくれるのだ。
 ユリウスやエデルのためなら死んでもいい、といつも思っている。そういう人がそばにいるのはとても幸福だ。

「俺もあいつのこと、ちゃんと見てるように気をつけますよ。ザシャは強いけど、変なとこで脆いからそこにつけこまれていつか痛い目見そうだし。そうなったら、俺が盾になってもあいつを生かしますから。死ぬなら、まだ使えない俺の方が先でしょ?」

 強い駒と弱い駒なら、強い駒を残しておくにこしたことはない。自分に何かあったらユリウス様を頼むだなんて縁起でもないことをザシャは頻繁に口にするが、いざという時生き残るべきなのはザシャであるに決まっている。
 するとエデルは、はっと目を見開いた。それからほんの少しだけ悲しみを滲ませた笑みを見せると、ウォルフの腕に触れる。

「違うよ。君達は二人とも生きていてくれないと困る。何かあったら私が君達を守りに行くよ。絶対に死なせない。君も大事なんだ、ウォルフ」

 それではあべこべである。ウォルフはユリウスの駒であり、エデルを守る道具なのだから。この辺も種族間の考え方のズレなのか、エデル特有の感覚なのか、その辺はウォルフには判断しかねた。
 けれどとにかく大事だと言われて悪い気はしない。ウォルフはまたエデルのことが好きになった。そしてやはり心配になった。使い捨ての魔人のために命を張るという発言をする彼の優しさは度が過ぎている。

 エデルはウォルフの頭を撫でると部屋を出て行った。
 ウォルフの頭を撫でるのはエデルしかいない。撫でられる気持ち良さというのを初めて知ったのだ。思わず勃起しそうになるがしてはいけない。「お前エデル様がいくら綺麗だからって一度でもいやらしい目で見たらとりあえず目を潰すからな」とユリウスに笑顔で脅されている。

 あんな清らかで神々しいエデルをいやらしい目では見ていない。だが若いので意思とは無関係に些細なことで生理現象は起きそうになってしまう。体が反応してしまえば終わりだ。目は大事にしたい。
 ウォルフは撫でられた頭を押さえ、心を落ち着かせてから部屋を出た。

 今日はザシャと仕事で外に出る予定だ。

「ウォルフ、そろそろ行くぞ」

 廊下に出るとちょうどザシャが通りかかり、二人で並んで歩き始めた。
 特にザシャは普段と様子が変わらない。調子が良さそうでも悪そうでもないし、抱く前と抱いた後で変化がない。

「お前さぁ、僕を抱くなんて百年早いんだよ。この下手くそ」
「俺下手かなー。自信あるけどな」
「僕の兄貴の方がまだ上手かったよ……」

 ウォルフは昨日のことを思い出してみた。ザシャもそれなりに気持ち良さそうによがっていたようだったのだが。
 といっても、半分くらいは悲しそうだった。普段彼の中に沈んでいる、ウォルフには理解できない悲しみがあの時溢れてそれにザシャは浸っていた。

「そいつは上手かったのか?」
「そいつ?」
「お前が飼ってた人間。ヤってたんだろ」

 生き餌だったが気に入って飼っていた、というような説明は本人から聞いている。噂では恋人同士だったそうだがザシャは頑なに認めなかった。
 ザシャの顔から表情が抜けて、うんと遠くを見るような目つきになる。
 本人は知らないのだろうが、この時のザシャは驚くほど無防備になってしまう。

 復讐心に燃えていた頃の赤角のザシャは、それは恐ろしかったという。飢え狂う悪鬼のごとし、止められる者はほとんどいなかったそうだ。発狂しかけていたのだろう。狂いかけた魔人というのは秘められた力を発揮して、凄まじく強くなる場合がある。
 しかし復讐を終えた後のこの男はある意味空っぽになった。覚醒した力は保持し続けていたが、彼を動かしているのはユリウスに対する忠誠心だけである。

 ユリウスに関することでは相変わらず有能ではあるが、自分の過去に没入しかけると隙だらけで使い物にならない。
 だからもしこういう時にザシャが襲われたら、やはり自分が代わりに刺されてやらないといけないな、とウォルフは思うのだ。

「……下手だったよ。お前と同じくらい下手だった」

 ザシャは空っぽの顔で苦笑した。

「そいつ、俺に似てた?」
「全く似てない。顔も体型も全然違う。貴族だからお前の何百倍も上品だった。読み書きもできた。お前はもう少し読み書きの勉強をしろ」

 ザシャはあまりその生き餌で恋人もどきの人間のことを話したがらない。しかし話す時一瞬嬉しそうにすることもあり、おそらくは会いたがっている。それでいて、もし会えるとなったら逃げ出してしまいそうだ。

 忘れたいのと忘れたくないので、心が引きちぎれそうになっているように見える。
 そんな複雑な感情が、ウォルフには全くわからない。苦しそうだなとは思う。

「僕に何かあったら、文字もろくに読めないお前がどうやってユリウス様を助けるんだよ……」
「お前そういうことばっか言うけど、近々死ぬの?」
「死ぬ暇なんてあるわけないだろ! 忙しいんだよ! 人手が足りないしウォルフはいつまで経っても馬鹿だし……」

 ザシャはウォルフの手をつかんで持ち上げた。焼き印の押された手のひらを見て呆れている。

「まだ体温が高いな。気持ち悪くないか?」
「気持ち悪い」
「馬鹿犬め」
「あと一週間はもちそうだから、また合体するか」
「今度やったらぶち殺すぞ」

 怒気のこもった声を聞くに、脅しではなさそうである。手を離すとザシャは歩調を早めてずんずん歩いて行ってしまった。
 陰気なあの男の気持ちは、きっと一生理解できないだろう。
 ウォルフは別に、ザシャを恋しいと思ったことはない。幸せにしてやるために手を尽くそうとも思わない。

 けれど、ウォルフはザシャのためになら死んでもいいとは思っている。
 一夜でいいからザシャの悪夢が減ればいいと願っている。
 強くなれよとザシャは言う。いつか僕をも追い越せと。強さこそが魔人の正義だ。
 強い奴を倒すのが楽しくて、ウォルフはずっと強くなるのを夢見ていた。しかし今は、強くなりたい理由が他にもある。

 ユリウスの力になり、エデルの盾になりたい。そして――できるなら、ザシャも死なせないようにしてやりたい。
 今のところは戯れ言だ。けれど夢を見るのは悪いことじゃない。
 ウォルフはザシャに追いついて言った。

「俺さ、「殺したい」より「守りたい」が自分の中で大きくなる日が来るだなんて、思いもしなかった」

 するとザシャが目を丸くして、ウォルフを眺めると微笑んだ。
 これが心からの笑みなのかどうかはかわからなかった。ひょっとしたら、ザシャは笑ったことなんてないのかもしれない。それくらい陰気で、ただ状況に応じて笑った形を作っているだけなのかもしれない。

 それでも笑顔は愛らしかった。どこかの人間が惚れ込むのも無理はないほどに。

「だからお前はユリウス様の部下に相応しいんだよ。長生きしろよ」
「お前もな」

 ザシャは笑みをそのままに、返事はせずに歩いて行った。
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