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40、騙されている
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ユリウスはあくまで、エデルに仕事をさせたがらなかった。最初だけかと思っていたのだが、「いいえ、ずっとです」とユリウスは譲らない。
「事務仕事は手伝ってもらってますよ」
ユリウスは口を尖らせている。書類の整理や代筆などはやっているが、どれも机に向かってペンを走らせることばかりだ。
「でも、肉体労働もしたいんだが」
「肉体労働!」
ユリウスは悲鳴のような声を出し、悲しそうにエデルの手をとった。
「こんなやりとりを百回以上はしている気がするんだが、私はお前の館でいつまでもお客さん扱いされるつもりはないんだよ。やれることはやりたい。他にも仕事をくれないか」
ザシャやウォルフ、ライムと剣の稽古はしているが、エデルにとってこれは仕事ではない。館で暮らす者の一員として、エデルももっと働きたかった。
ユリウスは口を開いたり閉じたりしてごにょごにょ言っている。何でこうなるかというと、はっきり言いたいが言うとエデルが嫌がる内容だから言えないのだ。
だってあなたは貴族でしたし……。これも言わないでくれとエデルに頼まれている。
ご主人様にそんなことをさせるわけには……。というのも拒まれる。
「お前は私を深窓の令嬢だと思っているのではないだろうな。最近元気になったから、力が余ってるんだ。程良い労働は健康にもいいよ」
エデルは庭にある木苺を摘みに行きたいと言った。館でも時々菓子は作られる。木の実や果物は、ジャムを作ったり菓子やケーキに入れたりするのだ。
「では、ザシャをつけますので……」
とユリウスがザシャを呼ぼうとするので引きとめた。
「敷地から出るわけじゃないんだ。何もあるはずがないじゃないか。一人で大丈夫だから」
どこの命知らずが、黒角の君の敷地内に忍び込んでエデルに害を与えようとするのだろう。もし死にたがっている魔人がいたとしても、黒角の君の怒りを買うよりはもう少しましな方法を選択するはずだ。
「でも……蜂に刺されるかもしれませんよ」
ユリウスは深刻そうに呟いた。
エデルが戦に出て戦っていたという事実を忘れてでもいるのだろうか。蜂くらいどうってことはないのだが。
呼ばれていないがそういう気配を察知したらしいザシャがやって来て、二人のやりとりに耳を傾け、エデルからユリウスを離して説得を始めた。
聞こえはしないが、「外の空気を吸って作業をしながら、お一人で考えたいこともあるでしょう」というようなことを言っているのだろう。
結局ユリウスは折れて、「気をつけてくださいね」とエデルを庭へ送り出した。ユリウスも一緒に外へ出て、仕事へと出かけて行く。
気をつけるも何も、館から歩いて数分以内にある庭で木苺を摘むだけなのだ。
エデルがツァイテールに拉致されて戻った後。賢明にもウォルフはツァイテールがエデルの顔を殴ったことは主に伝えなかった。
蜂に刺される可能性ですらあれほど顔を曇らせていたのだ。エデルが殴られたなどと聞いたらユリウスはあまりのショックに、しばらくエデルを部屋から出さないかもしれない。
ツァイテールにさらわれるのは予定になく、エデルの判断だったのだがユリウスはかなり心を痛めたようだから、申し訳なく思っている。
エデルは菜園で一人、手にした籠に摘んだ木苺を入れ始めた。何かをするということは、心を落ち着かせてくれるのだ。黙って考え事をするなら、簡単な作業をしながらの方がいい。
エデルはユリウスに、ツァイテールを殺すのを待ってやってくれと頼んだ。ユリウスはその願いを聞いて、一晩待ったそうだが、ツァイテールは逃げなかったのだという。
「殺しはしませんでした」
ユリウスは無表情でそう報告した。
だが、それはツァイテールが情けをかけられたという意味ではないことをエデルも知っている。魔人の「殺しはしなかった」という言葉は、死よりもつらい責め苦を受けさせているという意味になる。
エデルはユリウスを責めるつもりは毛頭なかった。ツァイテールの罪も許されるものではないと思っている。
ただ、あの男としでかした罪を切り離して考えた時、彼の感じているであろう苦痛に、同情した。変な気を起こさずに、逃げてしまえばよかったものを。
ため息をついてかぶりを振ると、エデルはまた赤い実を摘んだ。
「……エデル様」
押し殺したような声で呼ばれて、エデルはまばたきを繰り返す。この敷地内でそんな風にひっそりと自分を呼ぶ者はいないはずだ。
声の主をさがして振り返ると、緑の陰から険しい顔が覗いていた。ここで働く従僕ではない、若い青年だ。
それも、角なし。
人間である。
思いも寄らない人物の登場にエデルは少々唖然としたが、すぐに周囲を見回した。幸いなことに他に人影はない。エデルが一人で作業したいと願ったために、過剰に人払いをさせているらしかった。
エデルが青年に足早に近づく。
「ゲルト、こんなところで何をしているんだ」
闘技場で闘った、あの人間だ。とにかく誰かに見られるわけにはいかないと、エデルはゲルトを近くの納屋に引っ張って行った。
ゲルトは口を真一文字に結んで憮然としており、焦っている様子はない。
「何を考えているんだ? ここが誰の館の敷地内かわかっているのか。正気じゃないぞ。君は、黒角の君の住処へ無断侵入したんだ」
普通なら、八つ裂きで済ませてもらえば万々歳といったところだろう。
「あなたと話がしたかったんです、エデル様」
「だからって……」
あまりに無鉄砲すぎてため息が出る。さすがは血気盛んな若者というか、後先を考えていないらしい。エデルは見た目こそ青年だが、中身はそれなりに歳を食っているので年下のこういう行動力には驚かされた。
ゲルトは奴隷だったはずだが、紋を外す方法を編み出して、主人の元から逃げ出したのだそうだ。このまま人間の住む村へと帰還する予定だという。
「あなたも一緒に行きましょう」
またこの勧誘か、とエデルは肩を落とした。館の使用人達の午後の動きを思い出そうとする。見つからないように彼を逃がすには、どのルートをたどればいいだろうか。
「一刻も早くここから出て行ってくれ。ゲルト、危険すぎる」
「あなたもです、エデル様」
「私は行かない。行けないよ」
「性奴隷の紋があるからですか? 抑制剤なら俺達がどうにかして調達するので、体の心配は要りませんよ。紋も必ず、消してみせます」
詰め寄られて、エデルは何度もかぶりを振った。
脅す方がいいだろうか。黒角の君の恐ろしさを、彼に伝えるべきだろうか。
しかし、エデルはユリウスのことで嘘をつきたくはなかった。それに「黒角の君が怖いから……」などと言ったところで、この無謀な青年が引き下がるとは思えない。話を長引かせてもまずいだろうから、はっきり言わなければ。
「私は自分の意思で、ここにいる。主人の元から去りたくないんだ」
それを聞いたゲルトの顔に、微かな怒りの表情が浮かぶ。エデルに向けられるのは、真っ直ぐで、いかにも青い憤りの感情だった。
「どういう意味かお聞かせいただいても?」
「彼が私にしてくれたあらゆることに感謝している。黒角の君は私の大切な人だ。離れるつもりはない」
「旧知の間柄であるというのは本当の話なんですね?」
どうやらそういう噂話をゲルトも耳にしているらしい。
「そうだ。彼はかつての私の従者で、今は主人だ。黒角の君は優しいよ。私はずっと一緒にいたいんだ」
ゲルトは距離を詰め、エデルの肩を強くつかんだ。
「しっかりしてください、エデル様! 相手は魔人ですよ!」
「半分な」
「半分だろうがなんだろうが、魔人は魔人です! 俺達の敵だ! そんな奴と一緒にいたいだなんて、どうかしてますよ!」
そうだ。魔人は人間の敵かもしれない。許せだとか、手を取り合えだなどとエデルも言うつもりはない。けれど。
「黒角の君は私の敵ではない」
魔人だとか人間だとか、そうやって識別したくなかった。ユリウスはユリウスだ。ライムもザシャもウォルフも、大きな枠で見れば別の種族で、彼らは魔人で、人間と魔人は敵対していた。
しかし、エデルにとって彼らは、自分を気にかけてくれるありがたい存在なのだ。主人の情人だからというのもあるだろうが、一個の人間として、尊重してくれる。
エデルにとって大切なのは種族ではなく個だった。鞭で打たれていた半魔人の少年は、ただ「半魔人である」という理由で蔑まれていて、それはあってはならないことだと感じていた。この考えは未だに変わらない。
「あなたは結局、あの男の性奴隷なんですよ?! その立場が変わることはないんだ!」
「それでも構わない」
「魔人が本当に誰かを大切にするなんて、本気で思ってるんですか? あなたは黒角に洗脳されているだけなんですよ!」
肩をつかんだゲルトは、エデルの体を揺さぶった。
「苦しんでいたあなたを買って、甘やかして、好意を持つように誘導したんです。あなたは騙されているんです。お願いですから目を覚まして! 俺達と共に立ち上がってください!」
武器も集めつつある、とゲルトは説明する。何でも、魔人の体を傷つけることができる剣をいくつも入手しているのだそうだ。
魔人は体が丈夫で、余程気合いを入れなければ剣で叩っ斬るなど不可能なのだ。しかし魔獣の鱗を利用した剣があり、それなら比較的容易に斬れるという。
どれほどその剣が集まっているのか知らないが、やはり蜂起するには準備不足は否めない。
「それでも勝算はないだろうな。ゲルト、責任者がいるならよく説き伏せた方がいいぞ」
「あなたがいれば計画はもっと早く進みます」
「私は行かない」
「エデル・フォルハイン辺境伯閣下。あなたは人間としての誇りを忘れたのですか?」
熱のこもったゲルトの言葉のどれもが、心をすり抜けていった。何一つ響かない。
ゲルトにはわからないのだろう。エデルという人間が未だに、ずたずたのままだということを。散らばらないように抱きしめてくれているのがユリウスなのだ。
ユリウスの抱擁がなければ、エデルは自分を見失って、今度こそ自我が崩壊してしまうだろう。
「わかってもらおうとは思わない。でも、私には黒角の君が必要なんだ。今の私にはこれだけが大切で本当のことだ。私のことは忘れてくれ」
微笑むエデルを見つめるゲルトの瞳は、悲しそうですらあった。
「こんなおじさんを頼るんじゃない。これからは君達の時代だろう? 自分達で頑張るんだな」
エデルが肩から置かれていた手をはがすと、ゲルトはその手をだらりと下げた。
「魔人の玩具としてあなたは一生を終えるつもりなんですか」
「そう思われたとしてもいい」
「あなたは……騙されているんだ」
エデルが頑なな上、あまりに晴れやかな微笑を見せたことにゲルトは打ちひしがれたらしい。理解できずに落ち込んでいるのだろう。
気の毒ではあるが、エデルにはこれ以上上手く説明するのは不可能だった。それより、この青年をさっさと逃がさなければならない。
「さあ、行きなさい。もうここへ来てはいけないよ。誰に刃向かっても、黒角の君にだけは変な気は起こすな」
納屋から出ると辺りを窺いながら、ゲルトの背中を押した。
ゲルトは嘆息して何度か振り返ったが、さすがに危険であるという認識はあるらしく、すぐに姿を消した。
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