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32、子猫として
しおりを挟む控え室に戻り、休憩時間となる。
どこでも好きにうろつき回っていいわけでもないが、許可されている範囲を動くのは禁じられていなかった。
気分転換に控え室の近くを歩いていたエデルは、人影を見つけて立ち止まる。
少年と青年の中間といった年頃の、いやに顔の綺麗な人物だ。服装からしても人間の奴隷であるらしい。自分の控え室から離れすぎるとさすがに見咎められるのだから、他の奴隷がここにいるのは不思議である。
「君も出場を?」
声をかけられた少年は、目をぱちぱちさせながらエデルを見た。あまり警戒はしていなさそうだ。紅茶色のふわふわとした髪や、大きな目が愛くるしい。
「ええ。もう負けちゃいましたけど。閣下に出てみたいって頼んで許可をもらったんですが、やっぱり剣は得意じゃないな」
はにかむように笑う少年の素性にエデルは心当たりがあった。こうも自由に歩き回れるのは理由があるのだ。
「君の主人は、ハルファース閣下かな?」
「そうです。僕はカーター。あなたは?」
「エデルだ。主人は黒角の君」
このカーターという少年には独特の無垢さがある。奴隷となるべく育てられた人間なのだろう。要するに、ツァイテールの商品だった子だ。
こうして対面してみると、ハルファースが可愛がっているという噂は本当らしい。カーターは虐げられた者が見せる畏縮した様子がなく、のびのびとした雰囲気を持っていた。
体に傷もなさそうで、鞭で打たれたことなどもないのかもしれない。
「閣下は君に良くしてくださるのか?」
「ええ、とても。僕、あの方が大好きです」
少年はふんわりと笑う。
「ゾンネ様……ああ、あの、閣下です。閣下は近頃ご病気で苦しんでおられていましたが、今まで長く生きてこられたこともあって、精神の方も倦んでおられたようなんです。僕、閣下のところに送られたら、たぶんすぐに殺されるんだと思っていましたけど、とても可愛がってもらいましたよ。子猫みたいに。寝床に招かれて、一緒に眠るんです。癒されるって言ってくださって、僕、それがとても嬉しいんです」
生まれてきてよかったと思えるくらい、とカーターは微笑を浮かべていた。
カーターはかなり幸運な境遇にいる。ザシャに調べてもらったところ、ツァイテールが売った先の奴隷達はやはりそれなりに奴隷として苦労しているのだ。
ハルファースはのぼりつめて、ぎらついた野心がなくなったのだろうか。伏せっていたこともあって、奴隷を可愛がるという趣味を覚えたのかもしれない。
「奴隷という身分から解放されたいとは思わないのか?」
「思いません。僕、閣下に捨てられるのが一番怖いです。だからうんと可愛い子猫みたいになれるように頑張っています」
先ほど対戦した男に去り際、もし勝っていたら褒賞として何を望むのかと聞いてみた。すると彼は金だと言い、それで自分を買って奴隷という身分から解放されたいのだそうだ。
奴隷の望みといえば大体がそうなのだが、カーターは違うらしい。
彼が助けを求めているならどうにか救ってやろうと思っていたエデルだったが、事前に聞いていた通り幸せに暮らしているそうなので、余計なお節介かもしれない。
「エデルさんはどうなんですか? 黒角の君は恐ろしい方だと聞いてますが、やっぱり怖い人ですか?」
エデルさん、という呼ばれ方が新鮮だった。同族とこれほど長く話し込む機会は長いことなかったと今気づく。
「怖くないよ。素晴らしい御方だ。私はあの方のことを愛している」
「僕とおんなじだ」
ふふふ、とカーターは笑い声をもらした。
この子は、不思議なほど庇護欲をくすぐる子だった。まさに子猫に近い。媚びているわけでもないのに、目を引いてこちらを笑顔にさせる魅力がある。身につけたものというより、天性のものなのだろう。天性の、一種の魔性だ。
無邪気に甘えてすり寄ってきたら、膝に乗せたくなるだろう。撫でて甘やかしたくなる。そうされるべき生き物だと相手に思わせるのだ。
少し黙って建物の外へと視線を投げていたカーターだったが、ややあって呟いた。
「僕、性奴隷になりたいんです」
エデルの立場を知っていての発言かとも思ったが、そうではないらしい。そもそもこの子は、あまりたくさんの情報を与えられずに生きてきたのだろう。奴隷とは大体、そういうものだ。
エデルもいつもどこかに閉じ込められ、奉仕の他はただ生きるだけ。黒角の君のこともよく知らなかったのだ。
「それはまた、どうして」
「僕についてるの、ただの奴隷の紋なんです。淫紋って、特別な効果がたくさん付与できるやつがあるそうじゃないですか。老化とか怪我とか心配せずに……綺麗な体をずっと維持できるって聞きました。だから。僕は、長い間ゾンネ様の子猫として可愛がってもらいたいから」
淫紋は強力な魔力を必要とする特別な術によって刻まれる。よってかなり特殊な効果があり、他の種類の紋と違って、簡単に消したりもできないのだ。
正確に言うと、若返りは別の術で、エデルがつけられた淫紋は老化停止の効果がある。
「そんなに憧れるようなものでもないがな。私は結構苦労したよ」
「エデルさんには淫紋が? 歳もとらないんですか?」
「ああ」
「いいなぁ……」
物欲しそうに見られるのでエデルは苦笑した。
これは尊厳を奪うもので、欲求に振り回され、薬なしだと酷い目にあうのだとカーターに教えてやる。だがカーターの意見は変わらないようだ。
「僕は欲しい。そうしたら、ゾンネ様に抱いてもらえるかもしれない。僕が小さくてか弱そうだから、大きなゾンネ様が抱いたらきっと壊れてしまうだろうって、一度も抱いてくれないんですよ。淫紋がついたら性交に特化した肉体に変わるんだから、平気でしょう。ねえ?」
ハルファースがこの子を抱いたことがないという事実には驚かされた。確かに体格差はかなりのものだろうから、カーターは耐えきれない可能性もあるが。
詰め寄られたエデルは「うーん……」と唸った。
確かにいくら抱かれても重傷を負うようなことはない。そういう術だ。痛みがなくなるので、そういう意味での苦痛はなく行為に専念できる。
だがエデルは年上として、こんな子供に「そうとも」と肯定的な発言をすることはできなかった。
「性奴隷になんて憧れるべきじゃないぞ。尊厳がなくなる」
「そもそも奴隷に尊厳なんてありませんよ。別に欲しくないし。僕、あの方のそばにずっといて、ずっと癒して差し上げたいんです。それだけです」
その言葉を聞いて気がついたが、自分はあの忌まわしいと思っていた淫紋のおかげで、老いることもなくユリウスと人生を共にできるのだ。
肯定してはいけない術だが、自分にとっては――幸いなこともあった。
カーターはハルファースの部下が迎えに来ているそうで、このまま館に帰るという。
別れる前に、エデルは念のためカーターに言っておいた。
「もし君がつらい目に遭うようなことになれば、私に連絡してきてくれ。力になる」
ハルファース卿がどのような人物なのかエデルは詳しく知らない。今は良くても、気が変わってそのうち虐待されるかもしれない。
「ありがとうございます」
そんなことはされないとか、そうされてもいいとか、何も言わずにカーターは礼だけ言って微笑むと去って行った。言動は幼いが、実は聡い子なのかもしれない。愛らしい瞳はどこか理知的であった。
自分はもう決めている、とその目が訴えていた。
エデルには少し、カーターの心の内がわかるのだ。奴隷という立場に甘んじて、主人を支えたいという気持ちが。
どうかあの少年が長いこと幸せに暮らせるようにと、背中を見つめながら祈った。
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