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25、駆け落ち
しおりを挟む「ディルク、僕と逃げませんか? 僕ならあなたを逃がしてあげられます」
ある晩、ザシャはそう囁いた。この頃になるとディルクもザシャがただの人間ではないという事実に――まさか魔人とまでは思っていないだろうが、何かしら力がある者であることに気づいていた。が、つとめて優しく接していたので、精神が弱っているディルクはその点を怪しんで警戒はしていなかった。孤立無援だった騎士の男は、味方になってくれるならどんな存在でも良かったのだろう。
逃亡のすすめに、堅物なディルクは戸惑った様子で返事をしなかった。
「哀れなディルク! あなたが失うのは、職だけではないのですよ。仲間達は、魔物の討伐に、あなたを餌として使うつもりなのです」
ディルクは絶句して硬直していた。そんな彼に、柵の向こうから手をのばしてザシャは頬へと触れる。
「僕のディルク。あなたを死なせたくない。一緒に、逃げましょう」
エデルは木陰に腰を下ろして、隣に座るザシャの思い出話を聞いていた。何百年も昔のことでもないのだが、語っている時のザシャはとても遠くを見るような目つきをする。
ディルクはザシャと逃げたらしい。ザシャの暇潰しの「手懐け遊び」に付き合わされたのだ。
「いや、でも、あれには驚きましたよ。嘘から出た実ってあるんだなって……」
「嘘から出た実?」
ザシャはエデルの方を向いて苦い笑みを浮かべた。
「騎士団の連中、本当にディルクを魔物に食わせる気みたいだったんです。口封じですよ。まあ、僕も実家で飼ってる魔獣の生き餌としてディルクに目をつけたので、奴らを非難なんてできませんけどね」
より演出効果を高めるため、ザシャはあえて切羽詰まった逃走劇を計画したようだった。わざと見張りに見つかった。
――逃がすな、餌が逃げるぞ。あいつは食わせるんだ!
同僚がそう叫ぶのを聞いて、ディルクはどう思っただろう。ザシャもちょっと目を見張ったが、気にせずディルクと共に走った。
仮に百人の武装した人間に囲まれたとしても、赤角を持つ――人の世にとけ込むためにこの時は根本まで削っていたが――自分なら、負ける気はしなかった。
これも退屈なザシャの遊びの一つだった。
しかし真面目なディルクはザシャを守りながら逃げようとする。ザシャは吹き出しそうになるのを必死でこらえなければならなかった。
それからザシャは当然ながら逃げおおせ、全てを失ったディルクと共に町を転々とした。ディルクは人間不信に陥っており、気鬱が酷く、いつも落ち込んでいた。
ものを食べる気力もないような彼を励まし続けて食事をさせ、身の回りの世話もしてやった。
そうすると、面白いようにディルクは心を開いた。
「ザシャ、お前はなんて優しいんだろう。お前のような男に会えて、私は幸せ者だ」
感涙にむせびながらそう言うディルクの頭を、笑いをかみ殺しながらザシャは撫でてやった。
さて、これからどうしようかと考える。そのうち真実を打ち明けて、絶望のままに生き餌にするのも面白そうだし、完全に服従させて、すすんで餌になってもらうのも愉快だ。
ザシャは後者を選択した。徹底的に甘やかして、洗脳してやろう、と。
ザシャは考えついたこの残酷な遊びにのめりこみ、礼儀正しく優しい男を演じ、ディルクを騙し続けた。ディルクはザシャの言葉を何一つ疑わずに依存し続け、二人はしばらく共に暮らし続けた。
ひやりとしたこともある。
ある晩宿屋の一室で並んで眠っていたところ、頭を撫でられて目が覚めた。狭い部屋しか空いておらず、一つのベッドを共有するしかなかったのだ。ディルクの指が、ザシャの削った角の付け根辺りをまさぐっていた。
体温が低いことに関しては、一時的に熱を出す効果のある焼き印を押して対処していたから訝られないはずだったが、角はまずい。
「ここに……何かできているのか?」
「子供の頃に、怪我をした痕ですよ。なんでもありません」
笑うザシャに、ディルクは無表情で「そうか」とだけ言って背中を向けた。
この時ザシャは、角を触られたことに少しではあるが動揺しており、正体が露見しなかったのに安堵して、ディルクの行動について深く考えていなかった。
夜中に、相手の髪の中に手を入れてまさぐるという意味を。
振り返ってみれば、ずいぶん前から兆しはあった。
ディルクはよくザシャの体に触れてきた。肩に手をかけたり、寄り添ってきたり。
だがディルクは自分より背の小さいザシャを「弟のようにも思える」と言って笑っていたから、そういう親しさをこめての触れ合いだったと思っていたのだ。
間諜のような仕事をしていたザシャであったから、人間の心の機微には疎くなかった。しかしディルクの本心に気づくのが遅れたのは、そんなはずがないという思いこみと、自分の心境の変化に戸惑っていたせいであった。
ディルクは素性を隠して日雇いの仕事をしていた。正直、ザシャは金に困っていなかった。調査資金は潤沢に与えられていたし、そもそも人間の国で言うところの「いいとこのお坊ちゃん」なのだから、通貨は異なるが換金できるものはいくらでも持っている。
大金を積み上げたら怪しまれるだろうからと控えていたが、「働かなくても大丈夫ですよ」と何度も説明したのだ。しかし、ディルクは働いた。
そうして、得た金で何かとザシャに物を買ってくる。似合う服だとか美味い肉だとか、実に嬉しそうな顔をして持って帰ってくるのだ。
表面的にはいつもとびきり喜んで見せたザシャは、以前と違い、腹の中でディルクを小馬鹿にする気になれなくなっていた。
(お前はいつか魔獣に食われるんだ。僕の命令で)
そのつもりでザシャはディルクを「飼って」いたのだ。
初めはザシャがディルクの世話を焼いていたのに、いつしかディルクの方がザシャの面倒を見始めた。
嬉々としてザシャのために釣ってきた魚をさばく。ザシャのために調理をして、茶をわかして、快適に暮らせるように尽力する。ザシャが話せばいつも笑って頷いて、楽しそうにしていた。
つまり、ザシャの思い通りにことは進んでいたのだ。ディルクはザシャに完全に懐いていた。その気になれば、さらに支配下に置けただろう。
それなのに、楽しさは消えていた。
真実を知らない、この間抜けでおめでたい男に腹を立て始めていた。いっそのことすぐにでも魔獣の餌にしてしまおうかと思わないでもなかったが、実行には移せなかった。
(魔獣に食べさせたら、ディルクはいなくなる。そうしたら、僕は毎晩、クソほどくだらない話を、誰としたらいいんだ?)
天気のことだとか昨日の食事のことだとか、そんなどうでもいい話をしてから寝るのが日課になっていて、たまに仕事の都合で数日離ればなれになると調子が狂って寝つきが悪くなってしまうのである。
ザシャは元々陰気で、同族ともあまり話をしなかった。気づけば、このディルクという生き餌候補が今までで最も会話を交わした相手となっていた。
くだらない――くだらない――くだらない――。仕事はつまらないし、出世にも興味がない。退屈で仕方なくて、ようやく見つけた玩具のディルク。
ディルクもやはりくだらない男で、心の底から大事にしていたわけではない。大事になどするはずがなかった。相手は人間なのだから。
この男はやっぱり玩具でしかなくて――けれど、いつしか手放せなくなっていた。
くだらないディルクのくだらない話を聞かないと、よく眠れない。
ある晩、物思いに沈みながらザシャは月を見上げていた。そろそろ調査を終わりにして、地底に帰って来いとの連絡を受けたのだ。後数年で魔王が復活し、地上奪還の戦争が始まる。その準備をするために呼び戻される。
近頃のザシャは調査の仕事はてんで進めておらず、実家に顔を出す回数も減っていた。
何を考えるのも億劫で呆然としていたところ、後ろから抱きすくめられた。ディルクだった。
「お前が好きだ、ザシャ」
そう告げられた瞬間、焼かれた槍にでも胸が貫かれたような感覚がした。名状しがたい痛みだった。
呆れなのか腹立たしさなのか、困惑なのか恐怖なのか。あれほど自分の感情がわからなかった経験はない。
まさかディルクが自分に惚れていたなどとは思わなかった。
「ディルク」
振り返って呼んだ自分の声は動揺で上擦っていた。
「私のもとから去らないでくれ」
ディルクがザシャに唇を重ねる。簡単にはねのけられるはずなのに、ザシャの体は動かなかった。頭が真っ白で、どうしたらいいのかわからない。
口づけが終わった後、呆然とディルクを見上げていたザシャは、ほとんど無意識に口走っていた。
「僕は魔人なんです」
言った途端に正気に戻り、思わず唇を噛む。
だが、ディルクは優しげに微笑んだまま、少しも動じていなさそうだった。
「知っていた」
「……どうして」
「気づくきっかけはたくさんあったよ」
「知っていて、ですか? 僕が魔人だと知っていながら、あなたはそんな、馬鹿げたことを言ったのですか?」
「本気だ、ザシャ」
「狂ってる」
後ずさりしそうになるザシャの肩を、ディルクはしっかりつかんで離さなかった。
「お前が好きなんだ、ザシャ。お前が私を救ってくれた。優しくて、温かくて、誠実で。そんなお前が、好きでたまらない」
ディルクが触れている肩の部分が火傷でもしそうな熱を感じて、痛む。人間は体温が高すぎる。
ザシャは叫び出しそうになった。
あれは全部嘘だったんだ、お前は愚かだ、と。腹を空かせた野良犬を手懐けて、葬るまでの僕の遊びだ。
だが、開けた口から声が出てこない。
長いことディルクの瞳に視線が釘付けになっていて、ザシャはやっとこう言った。
「僕……、戻らなくちゃ、ならなくて。もたもたしていたら、迎えが来るかもしれないし。でも……」
唾をのみこんで続ける。
「戻りたく、ないんです」
ディルクはザシャを抱きしめて囁いた。
「では、二人で逃げよう」
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