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亡霊と夢に沈む白百合

掌編「寝顔」

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 リーリヤが目を覚ましてから、ノアは明らかにどっと気が抜けた様子だった。
 リーリヤの前では変わらず落ち着いた様子で振る舞っているが、彼の寝室を離れた途端に足下がふらつく。極限まで神経を張りつめさせていた反動がここにきて出ているようだ。

 レーヴェも詳しく聞いていないが、リーリヤがさらわれてから救出されるまでノアがどのような日々を過ごしていたかは容易に想像がつく。
 要するに少しも休まず、ほとんど眠りもしなかったのだろう。

 緊張している時は疲労も感じないだろうが、いざこうして一息つくと余計に疲れるはずだ。
 ノアはやりすぎない程度にリーリヤの世話を焼き、自室で仕事もこなしていた。

(あれじゃ今夜にも倒れるな)

 見かねたレーヴェは、ノアの部屋に入る。机に向かっていたノアが顔をあげてこちらを見た。

「何か?」
「お前ね、もう休めよ。何日寝てないんだ? リーリヤは無事だったし、心配事はなくなったろ」
「仕事が……ありますから」
「今はやめろ。疲れたままだと効率が悪いってお前もわかってるはずだ。とりあえず休んで、後でまとめてやれよ」
「そんなに顔色が悪いですか、私は」
「悪い。起きたばかりのリーリヤを心配させるな。もう寝ろ」

 ノアは言い返さずにうつむいた。多分、自分で鏡を見ても酷い顔だとわかるのだろう。体も限界のはずだ。けれど意地っ張りだから、休みます、と簡単に言えないのである。そんなところがまだ子供っぽいというか。
 レーヴェは大きく息を吐くと、ノアの腕をつかんで寝台に近づく。先に寝台に横たわって空いた隣を手で叩いた。

「ほら、来い」

 ノアは眉根を寄せて戸惑った顔をした。

「そういう気分じゃないんですが」
「アホ。誰が抱くって言ったよ。添い寝だ、添い寝。お前は俺の隣で寝るのが一番安眠出来るだろ?」

 そうですね、と言って寝転がるような男ではない。レーヴェは強引に寝台に引き倒してやった。抵抗が弱いのは精魂尽き果てているからだろう。

「レーヴェ……っ」

 逃がさないように抱きしめる。頭を胸に押しつけさせた。

「はい、よしよし。頑張ったな。泣きたかったら俺の胸で泣いていいぞ」
「泣くほどの出来事はなかったように思いますけど……」

 子供扱いしないでもらえます? 何で兄貴面するんです? とごちゃごちゃ文句を言っていたが、そのうち静かになった。
 力をゆるめて顔をのぞいてみたところ、なんともう眠っている。こうして添い寝をすると早く寝付くことがあったが、今回は最速記録を更新した。余程限界だったと見える。

「ほんとに寝た?」

 半信半疑で声をかけるが、ノアは答えない。そのうち寝息を立て始めたのでレーヴェは苦笑した。
 そうしてしばらく、ノアの寝顔に見入っていた。

 昔からこうして、横で寝てやると不思議とノアはよく眠ることがあった。
 基本的にノアは眠りがかなり浅く、ちょっとした物音や何か思い出してすぐに起きるのだ。
 けれど稀に、レーヴェが隣にいる時にこうやって深い眠りにつく。

 頭を撫でてやっても気がつかない。
 だからレーヴェはその柔らかい髪を何度も撫でたし、綺麗な寝顔も間近で堪能した。
 安らかな寝顔は、彼をいくつも若く幼く見せた。無防備で、安心しきったような姿だ。
 ノアが身じろぎして、レーヴェの胸に額を寄せる。

(信頼されてるって思うのは、自惚れかな……)

 勿論抱くのも好きだが、こうして何もせず密着しながら横たわるのも悪くない。ノアの体温が伝わるのが心地良いのだ。
 上手く表現出来ないが、ああ、確かにここにいるな、と思うのだ。安心しているのはノアより自分の方かもしれない。

 これを世間では幸福と呼ぶのかもしれないが、レーヴェのこの感情はそれほど単純なものではなかった。何かしら苦いものも含まれている。自嘲だとか、悔恨だとか。執着と、未だ消えぬ凶暴性。

(しかしまあ、可愛い顔しちゃって……)

 レーヴェは何度もノアの頭や頬を撫でた。日頃あれほどつんけんしている男があどけない顔をして寝ているので、笑いをこらえきれない。もしここで目を覚ましたら、何がおかしいんですか、とつむじを曲げるだろう。
 そうやって一時間ほど添い寝をしてから、レーヴェは寝台を抜け出した。一度こうなったノアは当分目覚めないのを知っている。

 着替えをさせるほどではないだろうからとベストだけを脱がせて掛け布を肩まで引っ張り、部屋を出ようとした。
 と、扉が少し開いていて、誰かが顔をのぞかせる。
 リーリヤだ。

「動いて大丈夫なのか」
「ええ。ノア様はお休みになられましたか?」
「ぐっすり」
「良かった」

 にっこりすると、リーリヤはお茶でも飲まないかとレーヴェを誘った。腕は固定しているので、茶の用意は他の者にしてもらう。
 山奥の館は、夜になってもさほど強い明かりを灯さない。この薄暗さが懐かしく思えた。
 ノアの部屋に入った時も既視感を覚えたのだ。若かった頃、ああして何度もあいつの部屋に忍び込んだ。

 迷惑そうなノアの顔。何度も睦み合った寝台。
 何もかも一緒で、ふとあの頃に戻ったような錯覚に陥る。自分は変わったが、ノアとリーリヤはさほど外見が変わらないのでなおさらだった。
 リーリヤは改めて今回の騒動について謝意を口にし、そしてため息をついた。

「ノア様に心労をかけてしまいましたねぇ」
「寝れば回復するから大丈夫だろ。あいつはいつまでもくよくよする方じゃないし。俺が添い寝してやったからばっちり明日の朝まで寝るはずだ」

 リーリヤがくすくす笑った。

「ノア様にあんな顔をさせられるのは、レーヴェルト様だけですね。私ですら、あそこまで安心して眠らせることは出来ませんでしたよ。親は恋人にはかなわないものです」
「恋人……」

 さすがにレーヴェも苦笑いを浮かべた。

「俺が恋人なんて言うと、あいつ怒るぜ」
「そうですか?」

 リーリヤはわざとらしく、不思議そうな顔をして見せた。それ以上話を掘り下げたくないレーヴェは黙って茶をすする。この場にノアがいればもっと変な空気になるだろうから、いなくて良かったと思う。
 他人に言われるならいざ知らず、リーリヤはノアの身内で、育ての親だ。関係性について触れられると茶化しにくかった。

 自分もふざけて付き合ってるだのなんだの言ったことはあるが、何よりもノアのことを大事にして、先日死にかけたばかりのリーリヤに不誠実なことは言えない気がした。
 恋人。

 そんなものじゃ――ない。

 ではどんなものだと問いつめられても困るのだが。
 ノアを恋人だと認識しているなら、もっと優しくするだろう。大切にするし、――責任を、取るはずだ。

(じゃあ、本当は愛していない? あいつのことを)

 いや、愛してる。俺なりに。

 ノアの寝顔が頭に浮かぶ。
 あいつは俺にとって大切なもので、失くしたくないものであることは間違いない。
 でもきっと恋人じゃないだろう。恋人だと言い張るのなら、もっと別の行動をとらなくてはならないし、とっているはずだから。

(なんだよ、めんどくせーな。どうでもいいわ、そんなもん)

 勝手に考え始めて、勝手に腹を立てている。
 世の中に存在する言葉に、必ずしも自分達の関係性を当てはめなくてもいいはずだ。「とか何とか言ってお前はただ責任とりたくないだけだろ」などと糾弾してくる奴がいても自分は気にしない。

 それが実は外からではなく自分の内なる部分から響いてきた指摘の声であってもだ。
 苛々して、レーヴェは葉巻が吸いたくなった。だが生憎ここのところばたばたしていて切らしている。

「いいか、リーリヤ。俺から変な言質を取ろうとするなよ。俺はあいつを一生守るから心配するな。ノアに何か悪さする奴がいたらどんなのだろうが殺す。あいつがどれだけ迷惑がっても、世話焼くって決めてるからな」
「いやあ、レーヴェルト様は案外恥ずかしいことをはっきり仰る。感服しますね」

 レーヴェはじっとリーリヤの顔を見つめていた。リーリヤは美しい顔に微笑を浮かべてまばたきしている。

「……俺のこと、からかってんのか?」
「ええ、まあ、少し」

 * * *

 館にはレーヴェが寝泊まりする部屋もあるのだが、そちらには行かずにまたノアのところへと戻った。ノアは相変わらず、すやすやと寝息を立てて気持ち良さそうに眠っている。
 寝返りを打って端に寄っているのをいいことに、レーヴェは隣に寝かせてもらうことにした。

 リーリヤに頼んで出してもらった酒をしこたま飲んだが、酒精が体に回った感じはさほどしない。
 ノアの顔が見たいが、こちらには背を向けている。無理に向きを変えさせるのも可哀想だから、仕方なく背中を凝視していた。

「お前さぁ、……俺のこと、好き?」

 眠っているから答えはない。

「俺はお前のこと好きなんだけどさ、でもたとえばお前が望むような好きって感情が……」

 レーヴェはぼそぼそ喋っていたが、そこで口をつぐんだ。もしかすると自分は酔っているのかもしれない。

(酔っ払い独り言おじさんじゃん……)

 感情も思想も日々少しずつ変化する。根幹が変わらなかったとしても、その表面の形は異なっていったり、色は移ろう。経験というものが影響を及ぼしていくのだろう。

「老いってやつだな」

 いろんなことを割り切ってきたはずだが、三十半ばになっても人はまだ惑うらしい。
 とりあえず、自分がノアを好きだという事実は何も変わらない。それでいい。
 レーヴェはそう結論づけると、ため息をついて目を閉じた。


 朝になり、自然に目が覚める。
 すると幸運なことにノアはまだ眠っていた上、レーヴェと向かい合う形になっていた。
 朝陽が射し込む部屋で見るノアの寝顔はまた格別だった。

 花瞼に長い睫。瑞々しい白い肌。うっすらと開いた唇。
 柔らかな光の中にその姿が浮かび上がる。
 絵画の中の美青年みたいだなぁ、とレーヴェは思う。絵と違って触れるのだが。何なら俺は触り放題だ。

 レーヴェはノアの頬に触れた。
 するとノアが瞼を震わせる。ゆっくりと、その目が開いていった。
 目覚めた直後のぼんやりとした表情はレーヴェの心をくすぐった。衝動的に口づけをしたくなったがどうにかこらえる。

 ノアは孵化したばかりの雛みたいに無垢な顔をしてレーヴェを見つめていたが、一気に二十八年のせっかちな人生の記憶を取り戻したらしく、みるみる気難しそうに顔をしかめた。

「そんな顔すんなよ。可愛くなくなる」
「ここで、何を?」
「添い寝するって言っただろ」
「一晩中ですか?」
「いや、ずっとじゃなかったけど……俺は飯食ったし」

 がばりと起き上がったノアは、自分の体を軽く抱きしめてレーヴェに疑いの眼差しを向けた。

「寝ている間に妙なことをしなかったでしょうね」
「俺ってどういう人間だと思われてんの?」
「日頃の行いを振り返ってみては?」

 振り返ってみた。強姦魔扱いされても仕方ないかもしれない。
 でもそれは好きだから繋がりたいわけで、ノアも言うほど嫌がっていないし、頻度は多すぎるかもしれないがさほど問題ではない気がする。

「今からする?」
「一人でどうぞ」

 ノアは掛け布をはねのけて寝台から下りた。素早く着替えて身だしなみを整える。実家なのだからもっとのんびりすればいいと思うのだが、どこであろうが彼は気を抜きたがらない。
 ノアはこれからリーリヤの様子を見に行って、館の設備のあちこちを点検して回り、持ち込んだ仕事も片づけるらしい。

 たっぷり寝たので見違えるほど顔色が良くなった。元気になったせいか威圧感も増している。健康なノアは眼光が鋭いのである。

「え? 俺とセックスする暇もないわけ?」
「あるはずがないでしょう。馬鹿なんじゃないですか」
「じゃあチューしてくれよ。それくらいいいだろ!」
「朝から下品な人だ」
「俺は年がら年中、朝昼晩下品なの。なあ、俺寂しいんだよね。ちょっとでいいからイチャイチャしない?」
「しません」

 ノアは部屋を出て行こうとし、レーヴェは寝台に寝そべったまま目をつぶって、わあわあとノアが構ってくれないことに文句を言う。
 すると不意に光が遮られた感じがして、レーヴェは目を開いた。

 ノアが唇を重ねている。体温の低い、やや温い感触がした。

 ぽかんとしているレーヴェから身を離すと、ノアは言った。

「リーリヤを助けてくれて、ありがとうございました。感謝しています」

 にこりともせずに踵を返し、扉の向こうへと消えていく。
 不意打ちの、それも貴重な向こうからの口づけ。レーヴェにとってはこの上ないご褒美である。
 寝顔が可愛いと思ったが、あいつは無表情でも可愛い。どんな顔もいい。

「あー、やっぱり好きだなぁ」

 レーヴェは満たされた気持ちで呟き、二度寝をする為に再び目をつぶるのだった。
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