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亡霊と夢に沈む白百合

28、白百合の微笑み

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 * * *

 ノアがこちらをのぞきこんでいる。

 これは二人目のノアだ。正直、ちっとも二人のノアは似ていない。
 能力は二人目のノアの方が高かったが、一人目のノアは人付き合いが上手くて何事もそつなくこなしていた。愛想もあった。

 二人目のノアは、まだ少し心配なところがある。冷徹な面もあるが自分を制御しきれていない。素直になりきれず、自分で自分に困惑してしまっている。
 真の一人前と呼べるようになるには、もう何年かかかりそうだ。

「三日も寝ていましたよ」

 ノアが言う。
 天井も寝台の感触も、なじみ深いものだった。アンリーシャの館の自室だ。
 ノアと会うのはいつぶりだろうか。何年も経つが、出て行ったあの日から顔かたちはちっとも変わらない。

「あなたがいたのは、赤銅伯爵がかつて管理していた銅鉱山でした。とうに廃鉱になっていましたが、そこが隠れ家になっていたようですね」

 身体を動かそうとすると、肩に鈍い痛みが走った。リーリヤがかすかに顔をしかめたのをノアは見逃さない。

「薬が効いているみたいで、治りは良いですよ。あのウリトカの作ったもので、忌々しくはあるのですが、あなたの身体に合うのでこだわらずに使わせてもらっています。あそこから運び出したんです。成分を調べて、追加で作っているところです」

 だとしたら礼を言うべきかもしれない。好かれた甲斐はあった。何にせよ、効く薬というのはありがたい。
 リーリヤはかすれた声を発した。

「館に戻ってきてはいけないと言ったはずですよ。いくら私の為であっても。いえ、私の為ならなおさらです」

 それに対し、ノアは眉間に皺を寄せ、早口で言い返した。

「仕事を放擲して駆けつけたわけではありません。ここでも仕事はこなしています。今回、クリストフ様と話し合って、私の身に万が一のことがあった場合、どういう対処をとるか予行しておいた方がいいということになったのです。絶対ないとは言い切れませんからね。ですから一週間ほど館を離れてここに。あなたの見舞いは、ついでです」

 リーリヤは笑いそうになった。無茶苦茶な言い分である。こういうところがまだ甘い。
 しかしジュードやレーヴェと一緒にあの場所に駆けつけなかったのは、彼なりに配慮してこらえたのだろう。
 ノアはため息をついた。

「私に無理をするなと教えてきたあなたが、そんな無理をしては説得力がありませんが、リーリヤ」
「さほど無理をしたつもりはないですよ」
「もう少しで死ぬところだったと聞きました」

 死ぬ予定ではなかったが、死んだら死んだ時とは腹を決めていた。なるようになる、というのがリーリヤの考えである。
 とりあえず助かったわけだし、怪我は重傷というほどでもないし、自分の身については問題はない。周囲に迷惑をかけたのは非常に申し訳ないが、もうどうしようもなかった。

 館を離れてからどれだけ日数が経ったのだろう? 何かやりかけていることがあったような気もするが。
 そしてリーリヤは菜園のことを思い出した。

「そういえば、今育てている薬草に虫がつき始めたんです……。誰か取ってくれてますか。水やりは?」

 害虫が増えてきて困っていたところだったのだ。指示する前にこんなことになってしまって、どういう状況なのか心配だ。
 ノアは呆れた表情になる。

「草を気にしている場合ですか」
「しかしノア様、あれは高いんですよ。発芽させるのも何度も失敗して、ようやく……」

 会話を聞きつけたレーヴェが部屋に入ってきた。

「ノアの言う通りだぞ。薬草よりも自分につく害虫の心配をしろ」
「レーヴェルト様。この度はとんだご迷惑を……。まさかこんな老いぼれが狙われるとは思いませんから」
「言ったじゃん。どんだけ歳とっててもさ、お前美人なんだから。油断すると食われるぞって。まだまだ美味そうだもんな。色気があるもん。うん」

 この発言を聞いたノアが、ひくりと頬をひきつらせ、レーヴェを睨んだ。レーヴェが「なんだよ」と口を尖らせる。

「俺はまだリーリヤに手を出してないぞ。そんな目で見るなよ」
「けだもの。部屋から出て行きなさい」
「妬くなよー」
「妬いてない!」

 声を張り上げると、ノアはレーヴェを室外へと追いやった。扉を勢いよく閉めるが、思い直して水差しをひっつかむと、まだ外にいたレーヴェに押しつけて「新しいものに入れ替えてきなさい」と命令して再度閉め出した。

「よくもまあ、あんなに下品なことばかり言えるものだ」

 憤慨したノアはそう呟いた。
 そんなノアを、リーリヤは微笑ましい気持ちで眺める。すっかり人間らしくなった。

 リーリヤを始めとする周囲の人間が、ノアは感情がないのではないかと悩んでいた頃が懐かしい。本人がどこまで気づいているのかは不明だが、喜怒哀楽の感情表現が豊かになった。主に「怒」ばかりではあるが。

「ノア様」
「リーリヤ、あなたの言いたいことはわかります。すぐに侯爵家本邸に戻れと言うのでしょう。しかし一週間の予定で私は出たのです。今更戻れません。絶対にその期間はここにいます。あなたを忘れろとの言いつけを忘れたわけではありません。しかしですね」
「ノア様、本音を言ってもいいでしょうか」
「どうぞ」
「……あなたに、会いたかった」

 リーリヤが微笑むのを見て、ノアは唇を引き結んだ。

「こんなことを言ってはいけないのはわかっています。けれど、あなたの顔を見たかった。ここに来ないことが万事上手くいっている証だとわかっていても」

 本当は、寂しかった。
 巣立つ子の背中を見るのが切なかった。送り出すことこそが役目であると知っていても。

 ――戻ってきませんように。
 ――でも、一目会いたい。

 どちらもリーリヤの本心だった。愛するあの子の顔をもう一度見て、手を握りたい。
 ノアは横たわるリーリヤに眼差しを注ぎ、目を閉じて一度深呼吸をした。
 寝台に近づき、リーリヤの手を握る。

「私は昔、ものの好悪が判断できなかった。覚えてますね? リーリヤ。あなたはそれをとても心配していた。でも、もう大丈夫です。私は自分が何を好んでいるか知っている。何が大切なのかわかります」

 ノアはリーリヤの体の上に顔を伏せた。

「一番好きな花は、白い百合です」

 二人でよく庭の花を見て回ったのを思い出す。小さかったあの子はもう、こんなに大きくなったのだ。

「あなたは私にとって、大切な人です。愛していますよ、リーリヤ。あなたが私にそういうことを、みんなみんな教えてくれた」

 リーリヤはノアの頭を、慈しむように撫でた。もう、頭を撫でるような歳ではないけれど。幻でもない、夢でもない。ノアがまたここにいて、触れられるのが嬉しかった。

「長生きしてください、リーリヤ」
「もうたっぷり生きたんですよ、ノア様」

 いつか自分も消える時が来るだろう。ノアより先になるか、後になるか。
 もうそろそろ、見送るのは疲れてきた。叶うならばこの子よりも先に。そんなことを言えばノアは悲しむだろうから、思いは胸に秘めておくけれど。

「しかし、あなたの一番は侯爵様でお願いしますよ」
「一番がジュード様、二番目があなたです」
「えー、じゃあ俺三番目ってこと?」

 水差しを持ったレーヴェが部屋に乱入してくる。ノアは相変わらずの冷たい目つきでレーヴェが不必要に近づいてこないよう牽制した。

「あなたは私の大切なものの順位付けの中に入っていませんよ」
「いや、入ってないってことはないだろ。よく考えろ。どこかに入るはずだ」
「では二十三番目です」
「二十二番目は?」
「ウェントス達です」

 ウェントスというのは、侯爵家で飼われている空を駆ける黒い馬の名である。

「馬より下なのかよ俺は」
「あなたなんて百番以下でもいいくらいですよ」

 リーリヤはそんなやりとりを聞いて笑い声を立てた。実際、ノアは大切なものに順位付けなどしないのはリーリヤも知っている。優しい子だから、みんな大切にしているはずだ。
 あんまりレーヴェがうるさいので、ノアはついに腕を引っ張って連れていってしまった。

 リーリヤは天井を眺めた。
 一度は死を覚悟したが、まだ生きている。肩の痛みでそれを実感する。
 生きていると、痛みが多い。苦しみと悲しみを拾えば、きりがない。それでも。

「ノア様」

 一人になった部屋で、リーリヤはもう一人のノアを呼ぶ。

「リーリヤはとても幸せでしたし、今も幸せです。本当に。アンリーシャに生まれてきて良かった」

 * * *

 ノアが去った後も、レーヴェが何度も様子を見に来た。もう大丈夫、何も問題はないと言っているのだが、ああいうことがあったばかりなので仕方がない。
 アンリーシャの館は厳重に防護魔法がかけられることとなった。リーリヤからしてみれば大げさ極まりないのだが、ノアが頑として譲らない。

 アンリーシャの分家の一人もスリーイリの村に住むことになったがこれも防犯のためだろう。
 どうもまたあちこちに迷惑がかかっている。
 その上、侯爵家からも見舞いの品が届いて恐縮しきりだった。

「あなたは見た目はおとなしそうなのに、案外大胆ですよね」

 クリフが庭の手入れをしながらリーリヤに声をかけてきた。

「まあ、子供を何人も育ててきましたからね。物事に動じなくもなりますし……」

 何せ二百五十年近く生きている。可憐な見た目のせいで、精神までか弱く感傷的だと大体誤解されるのだ。

 子育てしかしてこなかったとはいえ、それは楽なことではなかったし、肝も据わる。長い人生の中ではいろいろな経験があり、リーリヤもそれなりに世の中に揉まれていた。
 見た目がどれほど若かろうが、中身は歳をとっているのだ。自分が老人だという自覚はある。

「リーリヤ様ー!」

 スリーイリの子供達が、果物の入ったかごを抱えて遠くから呼んでいる。

「父さんと母さんが、皆さんで食べてくださいってー!」
「今行きますよー」

 雑草を抜いていたリーリヤは立ち上がった。
 柔らかい日差しが降り注ぎ、リーリヤの白い髪を輝かせている。
 風が吹き、草木が揺れる。

 完爾として笑うその面に、幾年もの間に積もった憂いは見当たらない。花脣の奥に闇は包まれ、花は寡黙に、ただ光を想う。
 
 アンリーシャの白百合は、確かにここに咲いていた。




(終)
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