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亡霊と夢に沈む白百合
24、誓い
しおりを挟む「このまま研究を続けていけば、宿願を遂げることが出来るな」
赤銅の貴公子――ファラエナ伯爵を名乗るその男は、部下を前にして笑った。自室に戻り、部下に資料を運ばせてきたのだ。
最終目的はただ一つ。かつてアンリーシャを意のままにした術を、もっと進化させ、多くの愚民を操る。
いつまでもこんな地の底で、こそこそと暮らしてなどいられない。誰かに気取られる前に完成させなければならない。
実験は順調に進んでいる。後数年すれば、術は完成するだろう。
「リトスロードとアンリーシャの動向はどうだ?」
「リトスロードには動きがありません。アンリーシャ――ノア・アンリーシャはリーリヤがいなくなったという情報はつかんでいるようです」
「そうだろうな」
今頃血眼になってさがしているだろう。かつてと同じように。
もう一度、伯爵はアンリーシャにあの術をかけようと企んでいた。アンリーシャ本家の力を受け継ぐ者を手中におさめればかなり大きな手駒となる。
しかし相手はリトスロード侯爵家の家令であり、そう簡単に手出しは出来ない。
「ノア・アンリーシャと接触しろ。リーリヤを餌におびき出すんだ。冷酷なふりをしているが、アンリーシャ一族は昔から仲間意識が強い。同胞を決して見捨てない。母代わりのリーリヤの命がかかっているんだ、あの男は要求をのむだろう」
リーリヤもアンリーシャも手に入れる。愚鈍な民も操って、リトスロードに復讐をする。失われたファラエナ伯爵家の数百年を取り戻す時が、今来たのだ。
リーリヤは与えられた部屋に一人、ふらふらと戻った。
寝台に腰かける。
二人のノアのことを思い出していた。リーリヤより年上だった一人目のノア・アンリーシャ。リーリヤが乳児の頃から育てた二人目のノア・アンリーシャ。
同じノアの名を持つアンリーシャが生きる時代に、赤銅伯爵が現れるのだから不思議なものだ。これも運命なのかもしれない。
無表情で、リーリヤは左手の人差し指をくわえた。指の腹を噛み切ると、血が流れ出す。くわえたままでいると、口の中にじわじわと血は広がり続けた。
――君の血は甘い。知っているかい?
昔、伯爵がそんなことを言っていた。
指を口から抜いて、唇の端に滲んだ血を舌で舐めとる。
自分の血の味は、よくわからなかった。
* * *
見つからない。手がかりが乏しい。
レーヴェは捜索の結果を手短にまとめてノアに報告し、また出て行った。
早い話が、足取りがつかめないのである。
ここ数年、ぽつりぽつりと目撃情報はある。リトスロード侯爵領の内部では、五件ほどだ。他につかんだのは十件だが、いずれもこの領内、国内ではなく、隣国であるスコートリアだ。
赤銅伯爵ことトル・ファラエナは、歴史書の中の人物で、とうに忘れ去られている。大公国が存在したのはごく短い間であり、リトスロードの当主の暗躍によって滅び去った。
ノアは額を押さえた。このままの調子で行くと、情報を集めるにはかなりの時間がかかる。無闇に動いたところで成果はないだろう。
さがすにしても、確実なところに絞りたい。
散々迷ったが、意を決して執務机の椅子から立ち上がった。
部屋の隅には銀細工で装飾が施された姿見がある。ノアはその前に立った。
「クリストフ様。少々お時間を頂いても宜しいでしょうか」
声をかけると、鏡面がゆらゆらと揺れ始める。崩れた像は次第に新たな像を結んでいった。
「ああ、構わないが」
鏡の向こうに現れたのは、侯爵家長男、当主代理であるクリストフ・リトスロード・フォートア子爵であった。
これはノアが作り出した通信装置だった。
現在、当主であるジュード・リトスロード侯爵は療養のため親族の領地にいる。よって代理であるクリストフにあらゆる決定権が委任されていた。
実質、現在侯爵家を仕切っているのはクリストフになる。
侯爵家本邸は黒い荒野のただ中にあり、本来であればクリストフもここで執務や魔物の駆除をするはずなのだが、元々任されていた仕事も忙しく、別邸に落ち着いている。
本邸の館には侯爵家の機密が隠されており、それを守るノアはここを滅多に離れられない。しかし家令として、クリストフと緊密に連携を取らなければならなかった。
そこでどうにか技術を結集させて、この鏡を作り出したのである。何枚も作れたら便利な代物だが、技術的な問題で対になる二枚しか作れず、使用もできない。
「地下にある、リトスロード家の年代記の資料を閲覧する許可を頂きたいのです」
本邸の地下には様々な資料がおさめられている。当主や家令が記したものが残っているのを、ノアも知っていた。
だが、使用人であるノアは勝手にそれをのぞく権利を持っていない。重要な文書であることから、それを手にとるには当主の許可を得ないとならないのである。
クリストフはノアの顔をじっと見つめていた。
「何かあったのか」
「……少し、確認したいことが」
ノアがこういった言い方をするのは珍しい。いつも誰かに「そんな歯切れの悪い言い方をするのはやめなさい」と叱る立場だ。
クリストフは眉をひそめ、口元に手をあてた。
「理由は、言えない?」
その言い方に、ノアは微妙な含みを感じた。ひょっとすると、クリストフの耳には今回の件の一端が届いているのかもしれない。
だが、リトスロードの誰にも、迷惑をかけるわけにはいかなかった。
「ご容赦下さい」
頑なな一言に、クリストフは眉を下げてため息をついた。彼はリトスロード侯爵家の三兄弟の中で、もっとも温厚で表情豊かだ。周囲の評価は「親しみやすい」と「威厳がない」で二分している。
「申し訳ないんだが、私は許可を出すことが出来ない。代行で、当主ではないのでね。父上のところに行きなさい」
「しかし、ジュード様はお体が……」
「私も先日会ってきたが、もう話せるし、杖をついて歩けるよ。今すぐ行って、許可を取ってきなさい。いいか、人を使わないで、君が行って話すんだ。今、仕事はそれほど詰まっていないだろう。館を離れるのを私が許可する。急いでいるなら、すぐに行くんだ」
ノアは目を伏せて黙っていた。そんな姿を見て、クリストフが困ったように笑う。
「もう切るぞ、ノア。これだけは言っておくが、君は使用人である前に私の大事な家族だ。リトスロードとアンリーシャの絆は強い。そうだな? アンリーシャは我々にとっては片腕で、かけがえのない存在だよ。そんな君が、酷い顔をしているのは見ていられない。ノア、鏡を見たか? あまり抱え込むな」
クリストフの姿が揺らいで消える。
ただの鏡に戻ったそこに映るノアの顔は、目の下の隈が濃く、まともな状態でないのがありありと見てとれた。自分では取り繕っているつもりでいたが、これでは誰だって気づくだろう。
迷っている時間もないので、他の者に仕事を任せてノアは館を飛び出した。黒い馬に乗り、ジュードの従姉妹であるリーゼリア・イリシーグ伯爵夫人が治めている伯爵領を目指す。
ほとんど無心で馬を飛ばし、身なりを整える暇もなく伯爵邸へと駆けこむ。
突然の来訪の不躾さを詫び、女主人に事情を説明してジュードがいる部屋へと通してもらった。
寝台の上のジュードを一目目にした途端、ノアの足が動かなくなる。
――こんな問題を、持ち込むべきではなかった。我々の問題で、ジュード様を煩わせるわけにはいかないのだ。
ジュードは枕を高くして、背もたれのようにして座っていた。さほど面窶れはしていないが、健康そのものとは言い難い。しかし当然だ、彼は死ぬ寸前だったのだから。
ノアは踵を返して立ち去ろうとすら思った。
いつもであれば、そんな無様な振る舞いは考えることすらしない。どんな失態も、侯爵家への不義理になると思っていたから。完璧であることが自分が出来る精一杯の忠誠の証なのだ。
それがどうだろう。これほど取り乱して、みっともない醜態を、他でもない侯爵その人にさらしている。
「申し訳御座いません」
ノアは何を言うよりも先に、詫びの言葉を口にした。
「どうした」
聞かれて当然だろう。ジュードは今、仕事のほとんどをクリストフに任せており、そのつもりで動くようノアにも命じている。ノアがジュードのもとを訪れるのは何かしらの用事があるということだ。それも、危急の。
ノアは先ほどクリストフにも言ったことを繰り返した。資料を閲覧する許可を、と。
ジュードは一言、こう返す。
「何があった」
短い問いは、重くノアの心にのしかかった。ノアは返答の言葉を思いつくことが出来ないでいた。ジュードの胸の辺りに目を据えたまま、黙っているなど失礼極まりない、と焦り、しかし硬直している。
決して、侯爵家の方々を煩わせてはならない。アンリーシャは彼らを支える身であって、足を引っ張るようなことをしてはならないのだ。
言えない、と思った。
来るべきではなかったのだ。
「ノア」
低く、自分を呼ぶ絶対的な存在に、ノアは動揺して肩を震わせた。ゆっくりと視線を上げると、ジュードの視線とぶつかる。
射るような視線だった。それに貫かれて、ノアは息をのむ。彼が自分に、これほど厳しい目を向けるのは初めてだったので気圧された。
「私に隠し事をするなと、言ったはずだ」
しばらく、ノアはジュードと見つめ合っていた。やがて観念したようにうなだれる。
「ジュード様…………リーリヤ、が…………」
かつて彼の前で発したことがないほど弱々しい声で、ノアはこれまでの事情を語り始めた。
自分は家令失格なのかもしれない。伏せっている主を目の前にして、頭に浮かぶのは一人の身内のことなのだから。
ジュードは一言も口をはさまず、ノアの話に耳を傾けていた。それが終わると、無言でかけていた布をよけ、寝台から足を下ろす。
「ジュード様……?」
「着替えを手伝え、ノア」
サイドチェストに立てかけてあった杖にジュードが手を伸ばす。
「約束を忘れたか。我らリトスロードは、必ずアンリーシャを守ると誓った。何代過ぎようとも、その約束は違えぬ」
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