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亡霊と夢に沈む白百合
23、血の魔力
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追憶は途切れ、リーリヤはゆるゆると目を覚ました。
あの頃短かった髪は腰の辺りまで伸びている。いつからそうしていたのだろう。切ると伸びるのだが、腰まで伸ばすとそれ以上の変化はない。だからいつもこの長さになっている。
寝台から起き上がった。朦朧とする薬を飲んでいることもあって混乱しがちだが、肩より長いこの髪が過去ではないことを教えている。
これは夢の中ではなくて、現在の、現実だ。
重い体を動かして、寝台から下りると歩き出す。以前伯爵がいた隠れ家の洞窟は黒っぽい岩壁だったが、ここは赤茶けた岩が目立つ。
長い年月暮らしているらしく、住まいとしてしっかり整えられていた。いくつもの部屋があり、まるで蟻の巣だ。
リーリヤはひと気のない通路を進んでいく。魔法の炎が壁に灯されていて、どこも暗くはなかった。
書庫らしき部屋に入る。所狭しと書架が並び、年代物の書物がびっしりと詰められていた。壁際に置かれている長机の上にも本は重ねられていた。中には古くて傷み、綴られていたのがばらけているものもある。
リーリヤは机の上の羊皮紙を一枚めくり、わずかに目を見開いた。
これは、伯爵の字だ。随分古いものなので、もしかしたらリーリヤが出会った当時に書かれたものかもしれない。
確認してみると、どれもこれも、ここにおさめられているのは伯爵の著書である。主に術や人体の研究について、それから日々の日記のようなものが大半だった。
――リーリヤ。
流麗な字の中に己の名前を見つけ、視線がそこに吸い寄せられる。
――アンリーシャのたおやかなる白百合。お前は私のものだ。
まるで、耳元で囁かれたような気がして胸がざわついた。優しく抱き寄せられ、指で髪を梳かれたあの感触を思い出す。
当時、リーリヤは確かにそこに歪んだ安息を見出していた。
善悪などどうでもよかった。自分では見つけることの出来ない価値を与えてくれる彼に、心が動かされたのだ。
(足の傷は、かなり良くなっている)
リーリヤは微苦笑を浮かべた。歩くのに支障がないほどに回復している。やはり、彼の薬は効くようだ。
頁をめくる。
リーリヤ、リーリヤ、リーリヤ。
リーリヤのことばかりが書き連ねてあった。髪の色、目の色、声、手触り。自分以上にこの書き手の方が自分に詳しいとすら思えた。
自分が魅入られていたように、相手もまた魅入られていたのかもしれない。おかしな具合で、リーリヤと伯爵は結びついてしまったのだ。
「リーリヤ、こんなところにいたのか」
書庫の入り口に伯爵が立っていた。
「あなたは……昔とお召し物が違いますね」
リーリヤはぼんやりとした表情で伯爵を眺めながら言った。伯爵が笑う。
「二百年以上昔の服を身につけていれば、人目を引きすぎてしまうからね」
「それは、そうですね」
リーリヤも微笑む。
亡霊も流行を気にするのだろうか。今の彼が着ているものは、さほど高価ではないが洗練されていて、田舎っぽくはない。
リーリヤは人と滅多に合わないから、昔から同じような形の服をまとっていた。アンリーシャの家に代々伝わる文様を、目立たない白の糸で刺繍した服だ。今は白の無地で簡素な、前を合わせるだけの心許ない服を着ている。
「おいで、リーリヤ」
手を差し出されて、リーリヤはその手を取った。すると伯爵は満足そうに目を細める。かつてもこうだった。彼を見ていると、過去と現在がどうしてもだぶる。
洞窟の通路を歩きながら、伯爵はリーリヤの血を調べた結果を説明した。
「君の血液には魔力がある」
「しかし私は……魔力が使えません」
「そう、操れるような類の魔力ではないんだな。でも確かに魔力反応があるんだよ。我々魔術師が使うのとは別種のエネルギーだな。変わっている。君の長寿の秘密もここにあるのだろう」
魔法を使う為のものには使えないだろうという話だった。魔法が使えないというのはリーリヤが一番よく知っている。今まで生きてきた長い年月、諦めきれずに、万が一の奇跡を期待して幾度となく試してみたのだ。結果は、そよ風一つ起こす魔法すら使えずに終わった。
「要するに、私を長く生かすのと、ちょっとした毒を取り除く効果しかないということでしょう? 今までわかっていたことと変わらない」
「そう拗ねなくてもいいじゃないか。望むものではなかったにしろ、君には魔術師の血が流れているのは間違いない」
「それではアンリーシャとは言えないのですよ」
「まだこだわっているんだね? いいじゃないか。君は特別なんだよ、リーリヤ。もうアンリーシャなんてどうでもいいだろう。私にとって特別なんだから」
こだわっている、ということは否定しない。自分は何者なのだろうという思いは、ずっと心の中にあった。
長く生きたせいでそれは厚みを失って扁平になったが、まだ消えてはいない。抱えているというほどのものではないが、ぺたりとくっついたままだ。
「リーリヤ。アンリーシャのことなど忘れるんだ」
足を止め、伯爵はリーリヤの両手を握って瞳をのぞきこんだ。
「君はアンリーシャの子供を預かって育てるだなんて、乳母みたいなことをしていたけれど、もうそんなことはしなくたっていい。義務感と罪悪感から引き受けた仕事なのだろう? もうそんなことはやめにしよう。君の居場所は私の隣だ。ねえ? 可哀想な君を私は迎えに来たんだよ。あの時、私と一緒にいるのは心地良かっただろう」
「……はい」
嫌だとは思わなかった。望んであの場所にいたのだ。
「今、君を心から必要としている人間はいるのかい?」
「いませんよ」
こんな台詞を聞いたら、親しくしている者は皆こぞって怒るだろう。しかし実際問題、リーリヤは「特にいなくても構わない存在」であり、必要不可欠な人物ではない。
ノアに教えることは全て教えたし、無事に館から出て行った。館はリーリヤが管理しなくても、別の者に任せられる。
これまでだってそうだったのだ。アンリーシャの子を育てるのは、必ずしもリーリヤでなくてはならなかったわけではない。何の技能も持たないリーリヤは、ただ慈しんで彼らの面倒を見ただけだ。誰でも出来た。
「リーリヤ。では、私と一緒にいてくれるね? 私は君が必要だ」
「私が欲しいのですか?」
「欲しい」
「私だけを愛してくれると言いましたね?」
「ああ」
「…………」
リーリヤは潤んだ瞳で伯爵の顔を見上げると、安堵したように微笑んだ。寂しげで、どこか不安そうなその笑顔は、伯爵が好んだ表情だ。
「私のリーリヤ」
伯爵はリーリヤを抱擁した。
しばらくそうしていたが、満足して伯爵は歩き出す。
「今はまた、新しい実験を始めていてね。とにかく臭うんだが、臭気が広まらない術を編み出したから、君は気がつかなかっただろう?」
伯爵に案内された部屋はやけに広くて、ほとんど広間と言ってよかった。入り口に防壁が張ってあるらしく、臭いとやらはそこでとどまり、通路まで流れていかないようだ。
凄惨な光景がそこには広がっていた。
何十人もの男女の死体が逆さ吊りにされ、血が滴って下の容器に集められている。
「人間の血液と呪術を合わせて、薬を作るんだ。よく効くものができる。人間の薬は人間の血が大量に要るから、こうして多少の犠牲は生まれてしまうけれどね」
死体の下では、ローブを来た彼の部下である魔術師達が無言で働いている。
「気味が悪いかな? でもまあ、牛や豚もああして血抜きをするだろう。変わらないよ。慣れたら気にならなくなる。ああ、心配しなくても、君に使っている薬は植物性だ。君は植物性のものがよく合うんだよ。やはり、百合だね」
笑って、伯爵はリーリヤの肩を抱く。リーリヤはそのどこか非現実的な景色を、黙って見つめていた。臭いもそうだが、音も聞こえてこない。魔法の壁に隔てられているからだろう。
だが、リーリヤの耳には、チャプ、チャプ、という、血が容器の中で揺れる音が届く。幻聴だ。
「こうして私は人を救っているんだよ。少ない犠牲で、たくさんの人間を救えるようになる。君にはわかってもらいたいな」
広間の奥には、新しいものと古いもの、多くの屍が積み重ねられていた。
誰かの頭蓋骨が、失われた目で虚空を見つめている。
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