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亡霊と夢に沈む白百合

19、救い

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 * * *

「君を故郷に帰す。そして仲間を連れてきてもらう。あんなにはいらないから、間引きしてもらおうかな。抵抗する者と役に立たない者は殺しなさい」

 書き物を終えた伯爵が振り向いた。
 ノアは真っ青な顔をして突っ立っている。自分が唾を飲む音がやけに大きく聞こえた。
 この頃、度々気が遠くなるのをどうにかこらえているのだが、今もまたくらりと目眩がした。意識が白く霞むのだ。

 いずれそんな命令が下されるのではないかと恐れていたものの、ついにその時が来てしまった。

「君は秘技なんて使って私を倒すことは出来ないようだ。あれはでまかせなんだろう? 万が一と思って用心していたが、可能だったらとうに行動を起こしていただろうからね」

 ノアが反抗心を露わにするので、聞き分けを良くするためにと仲間が一人殺された。それ以来、ノアはほとんど口をきかなくなり、諾々と指示に従っていた。
 ノアは目をつぶる。どうしたところで現実は変わってくれない。全てはこの男の思うままなのだ。

「やめてくれ」

 弱々しい声で、ノアは訴えた。一言喋るのにも、かなりの力を消耗する。

「それ以外のことなら何でもする。それだけは私にさせないでくれ」
「駄目だ。君にはこれから出て行ってもらうよ。私も近くで見届けるからね」

 どうして自分はこんなにも弱いのだろう。たった一人の敵すら討つことがかなわない。
 この先一生、伯爵の手先となり、彼の玩具となって蹂躙され続け、手を汚し続けるのか。これほど打ちひしがれていても、膝から崩れ落ちる自由すらない。

「何でもする。仲間を助けてくれ」
「いい目をするようになったじゃないか。完全に落ちるまで後一歩というところだな。同胞の死体をもっと目にすれば、自分を捨て切ることが出来るだろう」

 彼にとってこれは実験に過ぎないのかもしれない。何をしたところで、さほど昂揚している様子は見られなかったから。
 どれだけ頼みこんだところで、この男は予定を変更しないだろう。
 限界だった。心が軋む音がする。壊れて、粉々になりそうだ。

(誰か……)

 ――私の代わりに、どうか皆を助けてくれ。 

 ドン、という物音がして、伯爵が部屋の入り口に目を向けた。気がそれたからなのか、ノアも首から上の自由がきいて同じようにそちらを向く。
 すると両開きのドアに斜めに亀裂が走って、豪奢なドアは内側に倒れてきた。あれは術によって施錠されており、伯爵の許可なしには開けられない仕組みなのだ。

 砂埃の向こうに姿を現した何者かが、砕けた扉の残骸をまたいで部屋に入ってくる。
 長身の見知らぬ男だったが、いかにもただものではない風格を漂わせていた。身につけている衣装はさほど贅沢なものには見えなかったが、高貴な雰囲気だ。

「どちら様かな?」

 伯爵は闖入者を前にしても、それを止める使用人が一人も駆けつけないという異常事態にも動揺せず、落ち着いた様子で名を尋ねた。

「ディルラート・リトスロード」

 愛想のない顔で、男が名乗る。リトスロード、と伯爵は呟いた。
 ノアも名前は知っている。この国より東にある、黒い大地を治める氏族の名である。リトスロードの一族。長きに渡り、数々の国が土地を奪おうと攻めてきたがその全てを退けてきたという。一族の長はいつであれ豪傑だったそうだ。

「大公は先ほど死んだ」

 冷えた声で、ディルラートは唐突に告げた。それでも伯爵は顔色を変えず、椅子に座ったまま「ほう」と感嘆のようなただの相づちのような声を出す。

「何故かな」
「私が討ったからだ」

 慌ててはいないが想像もしない展開ではあったらしく、伯爵は少々黙り、間を空けてから口を開いた。

「あの方はグレンディン国国王陛下の弟君であらせられるのをご存知ではないのかな。帝国とも繋がりがある。全面戦争になれば、いかに武勇をうたわれるリトスロードでも多勢に無勢、勝ち目はないのでは?」
「そのグレンディン国国王と帝国の皇帝から頼まれた。今まさにグレンディン国の軍が大公国の領地へと入ってきたところだ。この地はグレンディン国が治めることになろう」

 大公の蛮行が目に余っていたのは事実だろう。ただ、大公は周囲を腕の良い魔術師数人に守らせていたので手は出せなかった。このディルラート一人で、手強い魔術師も倒したというのだろうか。

「ノア・アンリーシャだな」

 不意に声をかけられて、ノアはまばたきをすることしか出来なかった。この現実に理解が追いつかず、二人のやりとりを部外者のように傍観していたのだ。
 ディルラートは足音を響かせながら大股でこちらに近づいてくる。

「遅くなった。根回しに時間がかかってしまった」

 言うなり、ディルラートはノアの体の前に手を伸ばす。そして、見えない何かをつかんだ。

 その途端。

 ノアと伯爵を繋ぐ、魔法の糸が光を帯びて宙に浮かび上がる。それをディルラートが左手でしっかりつかみ、右手ではノアの肩を支えるように抱いていた。
 青白い光が迸っている。複雑に絡み合った糸は一本の太い糸になっており、目映い光は目もくらむほどの眩しさだった。

 力を込めてディルラートが握りしめる。火花が散り、目映さはさらに増してその場にいる三人を照らしていた。
 ノアは、彼が何をしようとしているのか悟った。

(無茶だ)

 ディルラートはこの強力な術による糸を、「引きちぎろうとしている」のだ。

「やめないか!」

 立ち上がった伯爵が初めて大声をあげ、魔法弾をディルラートに向かって撃つ。両手が塞がっていたディルラートだったが、ひと睨みで魔法弾はかき消えた。防護壁を張っているのがうっすらとわかる。

 ディルラートは眉間の皺をより深くし、目を見開き、ぐっと糸を握ったまま引いた。容易にそれは動かない。抵抗するように凄まじい火花が散り続け、煙が上がる。
 術を解除するのは伯爵にしか不可能だった。高度で強力な術であり、何人たりとも断ち切ることはできない――はずなのだ。同じ魔術師であるからこそノアにはわかっていた。

 煙はディルラートの左腕からもあがっていた。衣服が焼けていっている。
 ノアは声もなくその光景を見つめ、抱かれる肩に彼の手の温もりを感じていた。

「馬鹿な……」

 伯爵が驚愕の声をもらして凍りつく。
 ディルラートが歯を食いしばり、糸を引く。その手は黒く焼け爛れていた。

 ぶちり、ぶちりと呪いの糸はちぎれていく。ちぎれて一本ずつ消えていく。思い切りディルラートが引いて、拳に力をこめると、一際光り輝いて、ついに糸は全て消失した。
 突然体が重くなり、ノアは立っていられなくなった。だが、倒れないようディルラートが支えている。

「死をもって償え、トル・ファラエナよ」

 ディルラートの前に魔法陣が浮かび上がり、術によって生まれた光が伯爵に襲いかかる。
 伯爵はにやりと笑うと、光芒に貫かれる前にそこから消え去ってしまった。ノアが見る限り、彼が初めて見せた、余裕のない笑みだった。

「逃がしたか」

 伯爵は何に魂を売ったのか知らないが、奇妙な術ばかり使う。その場から消えて別の場所に移動するというのはおそらく大陸では彼しか扱えない術だろう。
 ノアはすっかりディルラートに体重を預けていた。まるでまともに立っていられないのである。

「足が……」

 何週間も寝込んだのでもあるまいに、足が萎えてしまったかのようだ。膝が震えて力が入らない。

「しばらくは動けないだろう。己の意思で動かしたのは久方ぶりのはずだ」

 言われてみて、腕が動かせることに気づいた。自分の体が自分のものになっている。当たり前のこの感覚が、とても懐かしかった。

「貴方は……どうして、私を……」
「サイシャという女が私のところに来て助けを乞うた」

 サイシャが。
 では彼女はあの後無事に帰り、リトスロード一族のところまで向かったのか。

「お前の郷の者は皆無事だ。念のために我々の土地まで護衛をつけて移動させている。心配はない。囚われていたお前の仲間も先に助けた」

 足の震えが止まらなかった。よくわからない感情がこみあげてきて、大きな波に飲み込まれそうだ。
 とにかく皆が無事であるということは、この上なく喜ばしい報せだった。

 しかし。

「しかし……貴方の……腕が……」

 ディルラートの左腕は真っ黒に焼けて、なおも煙が上がっている。破れた袖の下も焼けており、爛れた皮膚がのぞいていた。呪術を無理に破ったせいだ。本来、どうにか解こうとするならかなり長い時間をかけて手順を踏まなければならない。

 それを強引に破れば当然、無事では済まない。
 ディルラートの腕はほとんど使い物にならなくなっているように見えた。彼は腕を一本犠牲にしてノアを救ったのだ。
 ディルラートは己の腕にちらりと目を落とし、すぐにノアの顔に視線を移した。

「お前の受けた屈辱と苦痛に比べれば些末なものだ。よく生きて、耐えた。リトスロードがアンリーシャを必ずや助けよう。あの男は私が仕留めると約束する。休むがいい、ノア・アンリーシャ」

 ノアは目を見開いた。
 来るはずのなかった救いは訪れたのだ。

 目縁から、一滴の涙がこぼれて頬を伝った。
 そしてノアの意識は、暗闇へとゆっくり、吸いこまれていくのだった。
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