上 下
84 / 115
第二部 君に乞う

84、哀れな女

しおりを挟む

 * * *

「お前とは、離縁する。アリエラ」

 アリエラは、夫のトリヴィスが何を言っているのかわからなかった。言葉の意味というより、どうしてそのようなことを言うのかがわからない。
 青天の霹靂である。

「お前は領地に戻りなさい」
「どうしてそのようなことを?」
「わからないか」
「わかりませんとも」

 トリヴィスは、アリエラがこれまでやってきた、彼いわく「行き過ぎ」な行為について非難した。これ以上は見過ごせない。そして、アリエラはここで、トリヴィスの妻として暮らしていれば、行いを改めることはできないだろうと言う。

「納得いきません。あんなこと、どの家でもやっているではありませんか!」

 邪魔者を、刃向かうものを、消す。表立って吹聴することはなくても、誰も彼もがやっているのだ。清い行いばかりでは上手く回らない場合も多い。全く手が汚れていない、血を少しも流さなかった貴族の一族がいるとは思えない。

「お前の言う通りだ」
「では、何故……!」
「やりすぎなのだ! 私はいつも、そう言っていたではないか! お前は聞く耳を持たなかった。もう限界だ」
「あなた、これはみんな、エデルルークのためです」

 騎士一族、エデルルーク。
 エデルルークとは、古語で「救う者」という意味だ。

 かつてアリエラは、まだ少女だった頃、親に連れられて行った王都の行事で、国王陛下の周りに控えるエデルルークの騎士を見た。
 そして、恋をした。猛烈な恋を。アリエラは清く美しく、忠実なる騎士エデルルークを愛したのだ。

 光る甲冑。輝く剣。主に忠誠を誓った騎士達の瞳は宝玉のように透き通り、その意志の強さがあらわれている。
 中でもエデルルークの名を持つ者は、抜きんでて存在感を放っていた。
 これが、騎士。国と王を守る者。

 エデルルークは国より古くから続く家であり、太古の昔から聖剣という遺物を守り続けている。その騎士一族の話はどれもアリエラを夢中にした。狂喜させた。

 騎士、まさしく騎士。騎士の中の騎士。誰よりも気高く、身を捨てて守るべきものを守るこの潔さ。勇猛さ。

 歴史に名を刻む唯一の騎士、エデルルークに――「なりたくなった」。

 いつしかアリエラの中で、エデルルークは全てになった。この一族のためなら何を投げ出しても惜しくはない。
 そして運良く当主の後妻に落ち着いたアリエラは、誰よりもこの一族を愛し、エデルルークであろうとした。

「これまでのことは全て不問に付す。お前は病気だ。出て行ってくれ、アリエラ」

 アリエラは唐突に、足下の床が崩れていくような錯覚を覚えた。
 頂きにいたはずなのが、全て崩れて落下していく。たくさんのもので――数え切れない骸で――築いた山が、今、落ち行くアリエラの上に降り注ぐ。

 慟哭と怨嗟の声が聞こえる。しかしアリエラには響かない。
 どうして。何がいけないというの。

「よくも……そんなことが言えたものですね。あなたの命を救ったのは私ですよ」
「そのことには感謝している。そしてお前のやることにはなるべく口を出さないようにしていた。いや、出せなかったと言うべきか。私が間違っていた。この家の主導権は私が握るべきだったのだ」
「私がエデルルークを守ってきたのです!」
「そのお前が! 今度は我が一族の醜聞となるのだ! わからぬのか!」

 一喝され、アリエラはよろめいた。
 首を横に振りながら後退する。どうしても、間違ったことをしたとは思えないのだ。

 エデルルークを守ることだけに心血を注いできた。家族を守り、名誉を守ろうとした。それを損なおうとするものは、全ていらないのだ。何であったとしても。

「お前は呪いになりつつある。酷なようだが、お前にはエデルルークの血は一滴も流れていないし、私との子を産んだわけでもない」
「だから他人だと言うのですか」
「他人に戻ろう。お前のためにもその方がよい」
「私を愛してはいないのですね」
「お互い様だ。お前が愛していたのは私ではなく、『エデルルーク』ではないか」

 トリヴィスは苦々しい笑みを浮かべた。
 指摘されて初めて気がついたが、この人と離ればなれになるかもしれないと思っても、一抹の寂しさも感じなかった。アリエラにとって大切なのは当主の妻という立場であり、その当主はトリヴィスでなくても構わなかったのだろう。

 トリヴィスは何度もこうすることを悩んで、そして先延ばしにしてきた。アリエラのしてきたことが明るみに出る恐れがあると聞かされて、ようやく決断したのだという。

「レーヴェルトを手にかけようとするのはやめなさい。先日、陛下が私をお呼びになられた。陛下はレーヴェルトを聖剣の使い手として認め、いずれは重用するつもりでいるという。あれを殺せば、お前は陛下に反目したことになる」

 アリエラは胸を押さえた。

 どうして――どうして。
 私は何を間違ったというの。

 あのろくでなしは望みもしないのにエデルルークの血を継いで、私はどれほど望んでも赤の他人にしかなれない。

「私が悪かった、アリエラ。お前のためにも、私は命を賭けて、このエデルルークを守り、役目を果たそう」

 アリエラはその場にうずくまって、顔を覆った。
 涙は出ない。泣き方をもう、忘れてしまったようだった。

 エデルルークの騎士を初めて見た時のあの光景が脳裏に浮かぶ。
 熱気。歓声。光。熱に浮かされた、恋する少女。
 少女はエデルルークの騎士に近寄り、花を手渡した。その花から抽出された成分で、毒薬が作れるのを幼い伯爵令嬢は知っている。しかしただ愛でる分には害はない。

 誓いを捧げる花でもあった。

「きっとお役目を果たせますように!」

 少女の微笑みに、騎士は頷いて応えた。

 それらの記憶が遠ざかっていく。白く焼けて、溶解する。

 夫が出て行き部屋に一人残され、やがて化粧台の鏡に映った自分の顔と目が合った。
 妄執にとりつかれた、一人の哀れな女がそこにいた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

モフモフになった魔術師はエリート騎士の愛に困惑中

risashy
BL
魔術師団の落ちこぼれ魔術師、ローランド。 任務中にひょんなことからモフモフに変幻し、人間に戻れなくなってしまう。そんなところを騎士団の有望株アルヴィンに拾われ、命拾いしていた。 快適なペット生活を満喫する中、実はアルヴィンが自分を好きだと知る。 アルヴィンから語られる自分への愛に、ローランドは戸惑うものの——? 24000字程度の短編です。 ※BL(ボーイズラブ)作品です。 この作品は小説家になろうさんでも公開します。

『これで最後だから』と、抱きしめた腕の中で泣いていた

和泉奏
BL
「…俺も、愛しています」と返した従者の表情は、泣きそうなのに綺麗で。 皇太子×従者

大好きな旦那様が愛人を連れて帰還したので離縁を願い出ました

昼から山猫
恋愛
戦地に赴いていた侯爵令息の夫・ロウエルが、討伐成功の凱旋と共に“恩人の娘”を実質的な愛人として連れて帰ってきた。彼女の手当てが大事だからと、わたしの存在など空気同然。だが、見て見ぬふりをするのももう終わり。愛していたからこそ尽くしたけれど、報われないのなら仕方ない。では早速、離縁手続きをお願いしましょうか。

君のことなんてもう知らない

ぽぽ
BL
早乙女琥珀は幼馴染の佐伯慶也に毎日のように告白しては振られてしまう。 告白をOKする素振りも見せず、軽く琥珀をあしらう慶也に憤りを覚えていた。 だがある日、琥珀は記憶喪失になってしまい、慶也の記憶を失ってしまう。 今まで自分のことをあしらってきた慶也のことを忘れて、新たな恋を始めようとするが… 「お前なんて知らないから」

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。

黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。 この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。

【完結】運命さんこんにちは、さようなら

ハリネズミ
BL
Ωである神楽 咲(かぐら さき)は『運命』と出会ったが、知らない間に番になっていたのは別の人物、影山 燐(かげやま りん)だった。 とある誤解から思うように優しくできない燐と、番=家族だと考え、家族が欲しかったことから簡単に受け入れてしまったマイペースな咲とのちぐはぐでピュアなラブストーリー。 ========== 完結しました。ありがとうございました。

完結・オメガバース・虐げられオメガ側妃が敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン王から溺愛されました

美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!

処理中です...