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第二部 君に乞う
81、外出
しおりを挟む「出かけてきます、リーリヤ」
ノアは普段着を脱ぎ、特別な服へと着替えた。
詰め襟の、体にぴったりとした上衣は夜空の色で、銀糸によってアンリーシャの家に代々伝わる紋様が刺繍されている。
布も魔力がこもった糸で織られた特注品だ。
これらの衣装は、主に魔物の駆除の際に身にまとう。軽いが丈夫で、戦闘に向いているのだ。
最後に、両手に黒手袋をはめる。
「どのくらいかかるかはわかりませんが、さっさと片づけて戻ります。いない間のことは任せます」
もう深夜である。
リーリヤは部屋で眠っておらず、広間で一人編み物をしていた。まるでノアがここへ来て、何か言うのを待っていたかのようだった。
長い袖の下には、包帯が巻かれた腕がある。傷が痛むだろうに、彼は少しもそんな素振りを見せなかった。
リーリヤは大昔、まだ彼が若かった頃、その血が特別なことを知ったが、秘匿するようリトスロードの当主に言いつけられていた。
以来彼はその秘密をなるべく口外しないようにしているし、ノアもそうするべきだと頷いた。アンリーシャの白百合は、あまりにもか弱くて無理をさせられないのだ。
それでもすがってしまった。レーヴェを生かすために。
リーリヤには悪いことをしたが、後悔はしていない。
「お気をつけて」
リーリヤは目を細めて優しく笑う。
どこへ、とも、何を、とも尋ねない。
彼はいつだって、ノアのことを信用しているのだ。それがまたノアの心を強くする。リーリヤの信頼と尊重は、ノアの精神を健やかに育ててきた。
正しい道を選び、その責任は己が負う。
ノアは一人馬に乗り、月明かりもない闇の中、館を離れていった。
* * *
その日レーヴェは一日中うつらうつらとしていて、リーリヤに何か食べるよう促されたがやはり応じずに横になっていた。
その気になれば食べられるだろうとは思う。だが口に入れたもので散々苦しんだ後は、どうしても食事というものに抵抗が出てくる。
ノアもリーリヤも気をつかって体の負担にならないものを用意してくれていたと知っていた。食べるべきだ。
そして、少しなりとも体力をつけて出て行かなければ。アリエラなら何をしてくるかわからない。
レーヴェは寝たまま葉巻をくわえていた。灰が落ちてそこら辺が汚れるが、構う気力がない。ノアには本数を減らせと叱られていたが、いつしか手放せないものになっていた。精神安定剤だ。
そういえば、昨晩部屋を出て行ったきり、ノアは一度も顔を見せていない。あんな会話をした後だから、呆れているのかもしれない。
ため息をついて寝返りを打ったが、レーヴェはふと動きを止めた。
――部屋に来ないどころか、今日は一日、あいつの気配を感じていない。
気配を探るのは得意だし、ノアがこの館にいるなら、どこにいるのかなんとなく見当がつくのだ。リーリヤと会話をするなり、足音なり、何かしらノアの存在を示す音をとらえられるはずだった。こと山奥の館は静まりかえっていて、レーヴェは聴覚が優れている。聞き落としはしない。
いないのだ。ノアは今日、館にいない。
そう気づいた瞬間、レーヴェは身を起こした。胃がぎりぎりとまだ痛むし、腰の辺りも痛い。以前より体が三倍近く重くなったようで、動くのも楽ではなかった。
寝台から足を下ろして立ち上がる。歩くのは何日ぶりだ?
自分では一ヶ月くたばりかけていたという感じだが、おそらくそれより寝ていた期間は短いのだろう。だが数日横になっているだけで筋力というものは衰える。特に足が萎えていた。
――弱りすぎだな。
外には夜の帳が下りていて、ふくろうの鳴き声が館の中にも聞こえている。手燭も持たず、暗い廊下を歩いた。
少し動くだけで体中が痛んだ。
階段を下りていくと、広間に誰かがいるのが見えた。リーリヤだった。いつもなら寝ている時間のはずだったが、一人編み物をしているらしい。まるでそこで、人が来るのを待っているかのようだ。
「おや、レーヴェルト様。歩いても平気なのですか」
「ノアはどこに行った」
「何か召し上がりますか? 山羊の乳をご用意しましょうか」
「ノアはどこに行ったと聞いている」
同じ質問を繰り返すレーヴェを見つめ、リーリヤは手にしていた道具を卓に置いてよけると、書類らしきものを取り上げた。
「実を言いますと、あなたが伏せっていた間、あなたの今までの毒殺未遂の件やエデルルークについて調べました。あなたの叔父にあたるトリヴィス・エデルルークの二番目の妻、アリエラ・エデルルークはただの婦人ではないようですね」
リーリヤは書類をながめている。
「アリエラ様のご実家であるスウェンデア伯爵家は、派閥で言うと王家側です。しかしスヴェンデアは、王家以上に、エデルルークに心酔していた。エデルルーク家当主のトリヴィス様、並びに長子イーデン様がお命を狙われた後、その首謀者と思われる者を葬ったのはアリエラ様です。そのこともあって、トリヴィス様はアリエラ様を後妻に迎えられた」
「ノアはスウェンデア伯爵家に行ったのか?」
スウェンデア伯爵領は、ここからかなり離れている。王都よりも東だ。向かうとしたら、かなり長旅になるだろう。
「いいえ。あなたの件に、アリエラ様のご実家はさほど絡んでいないようですよ。暗殺はお家芸のようですが。アリエラ様は立場が危うくならないよう、慎重に使う人間を選んでいるようです。ところで、アリエラ様の手先は、あなたの師であるミルデアス・イスヴァニカを始め複数おり、彼らは逆らえないよう徹底的に弱みを握られていたそうです」
ミルドの本名を、レーヴェは今始めて知った。ノアやリーリヤの手にかかれば、その程度を調べるのなど朝飯前なのかもしれない。
「アリエラ様が指示を出して毒殺されたとおぼしき人々の詳細を調べました。気に入られている毒物がいくつかあるらしい。稀少で美しい花から抽出される成分です。私ならば、もっとありきたりな毒を使いますが、こだわりでもあるのでしょうね。まあ、あまり知られておりませんから、いずれにせよ余程植物に詳しくない限り、露見はしないでしょうが」
毒物の入手ルートをたどったのだという。意外にもこのリトスロード侯爵領内で栽培されていることが判明した。
そこの菜園を管理している人物は、スウェンデア伯爵家から、アリエラがエデルルーク家に嫁ぐ際に一緒に家を出て、その後アリエラの元から去ったとされる使用人だった。
「アリエラ様から指示を受けているのはその男です。その男がさらに慎重に選んだ手先を使って仕事をさせている」
聞けば、その菜園とやらは、馬で行けばアンリーシャの館から一日程度で着く範囲にあるそうだった。
レーヴェは踵を返して出て行こうとした。それをリーリヤが引き留める。
「何でもよいので、一口召し上がってからになさい。途中で行き倒れるわけにはいかないでしょう」
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