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第二部 君に乞う
80、消えたいのかもしれない
しおりを挟む焼けるような苦しみは痛みに代わっていて、楽になったとは言い難いものの、多少はましになっていた。
目を開けると、ノアとリーリヤが立っている。
「後どのくらいで死ぬ?」
レーヴェが掠れ声で尋ねると、リーリヤが首を傾げた。
「あなた次第ですね、レーヴェルト様。まだ五分五分でしょう。気をしっかり持って下さい。お水をお持ち致します」
リーリヤが部屋を出ていき、ノアはレーヴェの耳に口を寄せた。
「レーヴェ。あなたにリーリヤの血を飲ませました。リーリヤの血には解毒作用があるのです。効果はあるのですが、容態によります。飲ませるのが遅かったので、効き目がどれくらいあるか」
死ぬ一歩手前から、二歩ほど後退した感じがするので効果はあったのだろう。運ばれてきた水を時間をかけて一口飲み下し、レーヴェはまた眠った。
劇的に症状が改善することはなかった。良くなったと思えばまた少し血を吐く。手の震えや頭痛などは和らいできていた。
ほとんど眠っていてたまに覚醒し、少量の水を飲んでまた眠る。これの繰り返しである。
そんな生活が半月続いた気がしたが、ノアに聞くと「まだ五日ですよ」と返ってきた。信じられなかった。苦痛を伴う時間は長く感じるらしいが、どうも本当らしい。
内臓に毒が蓄積されているだろう、と何度かリーリヤの血を追加で飲まされたが、コップに半分というかなりの量だった。
色は人間のものと同じだが、さっぱり血の匂いも味もしないから、飲むのに難儀はしなかった。が、これほど血を流してリーリヤは大丈夫なのかと心配になった。以前、「リーリヤはかなり体が弱い」とノアがこぼしていたのを思い出す。
部屋に訪れたリーリヤを問いただすと、「この程度の量の血液を失ったくらいで、どうにもなりませんよ」と笑っていた。
だがリーリヤは見るからにひ弱であり、特異な体質である。横で会話を聞いていたノアの表情からしても、リーリヤの発言を鵜呑みにはできなかった。
なのでリーリヤがいなくなった時に、ノアの胸倉をつかんで引き寄せた。
「死にかけの割には、力がありますね」
「リーリヤは平気なのか? 正直に答えてもらわないと、俺は拗ねるぞ」
「死にはしません。ただ、リーリヤは傷の治りが異常なほど悪いのです。血も止まりにくい」
リーリヤの性格から考えると、一刻を争う事態だったこともあり、それなりに思い切って傷をつけて血を絞り出したに違いない。
「馬鹿。何でそんなことやらせた」
「他に方法がなかったのです」
「そこまでして助けるような人間じゃないだろ」
「同じことをリーリヤの前で言ったら、あなたをひっぱたきますよ」
襟元をつかんでいた手をそっと離させ、ノアは道具を片づけると出て行った。
あえてノアがその秘密を喋ったのは、リーリヤがここまでしたのだからしっかり治せという圧力だったのだろう。
だが、申し訳ないという気持ちはあっても、それに報いて元気を出そうという前向きな気持ちは生まれなかった。
そのせいか、峠は越したが症状が長引いていた。
食事もとれずに沈黙したままでいることが多いレーヴェに、ノアはため息をつく。
「死にますよ」
「死ぬかもな」
ついさっきも、胃に何も入っていないのに嘔吐を繰り返して体力を消耗した。衰えてきていると実感する。
ノアはレーヴェにものを食べさせるのを諦めて、スープ皿を下げた。
「後数日したら、俺はここを出る」
ノアが訝しげな顔をした。正気かと目つきで問うてくる。
「俺が弱ってるって確証があったら、敵がとどめを刺しに来るかもしれないからな。もう迷惑はかけてられない」
「寝言は寝ている時に言ってもらえますか。そんな体では馬に乗るどころか、歩くのも無理ですよ」
ノアの方がまともなことを言っているのは確かだが、レーヴェは予定を変更するつもりはなかった。歩けなければ這ってでも出て行く。
「長く話せるようになったのなら、事情を教えていただきたいのですが。どうしてこういうことになったのですか? 毒を盛った相手に、心当たりはありますか」
隠すほどでもないし、その気になればノアならすぐ調べられるだろう。であれば、調べる手間を省いてやろうとの親切心で、レーヴェは全てを打ち明けた。
父親の弟。その妻のアリエラに、何度か命を狙われていること。おそらく、としか言いようがなかったが。
ノアは無表情で最後まで話を聞き、口を開く。
「どうしてその、アリエラ・エデルルークを放置しておくのですか」
「俺を殺そうとしたという証拠がない。したたかな女だからな。足がつかないようにやってるらしい」
アリエラの話をしていても、もうさほど憎しみがわいてこなかった。今目の前にいてチャンスがあっても、殺せるかわからないほど、あの女のことがどうでもよくなってきている。
「諦めたのですか」
「ああ」
「あなたらしくもない。その女はあなたの敵でしょう。追いつめて仕留めなさい。その女がしていることは……」
「疲れたんだ」
口に出して、初めて自分の思いに気がついた。
「なあ、ノア。俺だって疲れることくらいあるよ」
殺されたって死なないつもりで生きてきた。死んで、あの女を喜ばせるのが癪だから。ずっとあてつけで生きていた。
だが、そんな動機では恨みや怒りを保持し続けてはいられない。いつしかそれらも虚無に飲みこまれて消えていった。
時間と共に決意は磨耗していく。その決意すら実は中身は空で、形だけのそれを指標にしていた。
「俺に死んでほしいって奴はたくさんいるんだよ。アリエラだけじゃない。何で生まれてきたんだよってさ、最初からそういう目で見られ続けて、俺も疲れた。これ以上、何かするのが面倒なんだ」
――死ぬなら死ぬでいい。
喜べばいい。俺が死んだことで祝いの宴を開いて騒いでくれても結構だ。
どうせ祝福されない人生で、自分はろくでもなくて、誰も救えず、目標もない。
踏ん張らなければ消えてしまうとしたら、それでよかった。
俺はもう、消えたいのかもしれない。
「死ぬつもりですか?」
ノアの問いかけは、囁きに近かった。顔も綺麗だが、声も綺麗だ。低すぎず、聞き取りやすくて、するりと心地よく耳の中へと入ってくる。
レーヴェは答えなかった。
「私の人生を散々かき乱しておいて、あなたはそのくだらない女の執念に負けて、消えるというのですか?」
そうだ。俺の負けだ。
レーヴェはノアと目を合わせずに、ずっと天井を見つめ続けていた。
ノアも長いこと黙っていたが、やがて椅子から立ち上がり、何も言わずに部屋を出る。
扉の閉まる音を聞きながら、レーヴェはまぶたを閉じた。
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