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第二部 君に乞う

75、唯一助けられたもの

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 今まで冷静に鼓動を打ち続けていた心臓が、緊張から動きを速めていく。
 男が近づいてきて、しゃがみこんだ。

「アンリーシャ。何か話す気になったかね?」
「……」

 ノアは引き結んでいる唇に力を入れた。

「なるほど、そうか」

 男は倒れているノアにのしかかるようにしてかぶさり、脚衣を脱がすために手をかけた。

「っ……」

 とっさに逃げようとしたが、体を押さえつけられる。

「いい顔ができるじゃないか。そうそう、そういう顔が見たかったんだよ」

 ――嫌だ。

 嫌悪感が全身を駆け抜けた。
 別に、性交なんて未経験でもないのに、どうしてこれほど恐怖を感じるのだろう。
 パニックで頭が真っ白になりかけたが、必死で冷静になろうとする。

 ――我慢をすればいい。数時間我慢をすれば手枷は外れる。脱出できる。一時、この時間さえ耐え忍べば……。

 目をつぶった。
 耐えろ。すぐに終わる。奥歯を強く噛みしめて、声が出ないように力をこめる。
 だが、どれほど強がろうとしたところで情けないことに心の奥では悲鳴をあげていて、ノアはその自身の悲鳴を聞いていた。

 ――誰か。

 生温かいものが、顔に降りかかった。飛び散ったとも言う。
 それが大量の血液だと気づいたのは、一拍遅れてのことだった。
 目を開ける。

 ノアの体は血塗れになっていたが、それは自分のものではなかった。自分を襲おうとしていた男が、いや、「男だったもの」が体に倒れかかってくる。

 男の頭部はなくなっていた。
 男の頭が切り離されたせいで、ノアは血飛沫を顔に浴びることになったのだ。
 今までいなかったはずの誰かが、そばに立っている。

 手にした剣から血が滴った。

 砂色の髪。灰青の瞳。
 レーヴェルト・エデルルークだ。

「……誰のものに手を出してるんだ?」

 一切抑揚のない声が、静まりかえったその場に響いた。
 レーヴェは引きずってきたものを手放した。赤い肉塊で、それが人の形をとっていると理解するまでノアは数秒を要した。

 皮膚がはがされているのである。拷問を受けたその人間は、とうに事切れて苦悶の表情を浮かべていた。多分――だが、ノアの魔法を封じた魔道具を作った魔術師だろう。

 血をかぶったままのノアは、開け放たれた入り口まで目線をのばした。誰かの頭部が転がっている。見覚えのある、口髭をたくわえた男。

「……、」

 ノアは口を開けたが、声を発することができなかった。

「俺のものに手を出して、生きていられるとは思わないよな?」

 非常に緩慢な足運びだった。
 レーヴェに向かってくる者達は素早いのに、レーヴェだけがゆっくりと動いている。
 一人の男の首が落ちた。ノアには視認できない速度で剣が動かされたのだ。

 もう一人は右肩から脇腹へと切りつけられ、二つに分かれて倒れた。血飛沫が舞う。血溜まりが増える。
 外からも誰かが駆けつけてきて応戦するが、ノアの耳は一時的に音を聞き取れなくなっており、全てが無音の中で繰り広げられた。

 人が死ぬ。次々に。いとも容易くレーヴェが殺していく。
 魔法の術が放たれれば、その何倍にもして返す。誰も彼に、指一本すら触れられない。それはほとんど殺戮だった。

 逃げようとする者も捕まえて、両足を切り落として転がす。顔を一突きにする。
 レーヴェは笑みを浮かべていた。いや、あれは笑みだろうか? そういう形をしているだけで、あれを笑っているととっていいものだろうか。

「レー……ヴェ」

 声を出した瞬間、世界の音が戻ってくる。誰かの断末魔が耳をつんざく。

「レーヴェ」

 ノアは体を起こし、力の入らない足でどうにか立ち上がった。歩き出すと、血溜まりで滑りそうになる。
 すぐに死ねない程度に、しかし執拗に切り刻まれた男が血を吐いて、横たわりながら懇願していた。

「あ……あ、助け……ごぶ」

 軽いため息をつきながらレーヴェが喉を切り裂く。
 その瞳を見たノアは、戦慄した。

 何もなかった。本当に、何も。空っぽだ。
 怒りも喜びも昂揚もない。何の感慨もなく人を殺していた。

 これが、レーヴェルト・エデルルークの真実の顔なのだ。
 大切なものを持っていない。実は生にすら執着しておらず、心の中にはただ虚無が広がっている。
 ふざけた人格は仮面であり、自分でもそれを自分だと思いこもうと腐心している。仮面はほとんど彼と癒着していて、その目論見は成功しつつあった。

 だが今は、はがれかかっている。
 彼は、簡単に、越えてはならない線を踏み越してしまうことができるのだ。
 生まれ持った虚無に飲みこまれたなら。

「レーヴェ!」

 ノアは死体を刻もうとするレーヴェに後ろから抱きついた。

「しっかりして下さい。私は無事です」

 ノアに焦点を合わせるレーヴェの瞳は、はめこまれた石のようで、作り物に近かった。

「……怪我は?」
「これは返り血です。大した怪我はしていません」

 レーヴェはノアの頬に触れ、血を指で拭う。

「そうか。よかった。一度助けたお前を、みすみす死なせるわけにはいかないもんな」

 声の響きすら虚ろだった。目の前にいるのに、遠く感じる。

「俺のノア」

 ノアは全てを理解した。
 レーヴェにとって、ノアはたった一つの証なのだ。剣の師も、身ごもらせた女も、赤子も、みすみす死なせた自分が、唯一助けられたもの。

 そう信じてしまっている。
 レーヴェはノアに、執着しているのだ。
 レーヴェが無言でノアの背中に手を回し、外に出るよう促した。歩きながら、レーヴェが呟く。

「俺が怖いか?」
「いいえ」

 本心だった。もう恐怖は感じていない。またこの男に救われたのだ。「誰か」。その悲鳴を聞きつけたかのように。
 ノアは立ち止まって、レーヴェの顔を見上げた。その瞳には確かに自分の姿が映っている。虚無の中に、ただ一人――ノアだけが。

「助けてくれて、ありがとうございます」
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