75 / 115
第二部 君に乞う
75、唯一助けられたもの
しおりを挟む今まで冷静に鼓動を打ち続けていた心臓が、緊張から動きを速めていく。
男が近づいてきて、しゃがみこんだ。
「アンリーシャ。何か話す気になったかね?」
「……」
ノアは引き結んでいる唇に力を入れた。
「なるほど、そうか」
男は倒れているノアにのしかかるようにしてかぶさり、脚衣を脱がすために手をかけた。
「っ……」
とっさに逃げようとしたが、体を押さえつけられる。
「いい顔ができるじゃないか。そうそう、そういう顔が見たかったんだよ」
――嫌だ。
嫌悪感が全身を駆け抜けた。
別に、性交なんて未経験でもないのに、どうしてこれほど恐怖を感じるのだろう。
パニックで頭が真っ白になりかけたが、必死で冷静になろうとする。
――我慢をすればいい。数時間我慢をすれば手枷は外れる。脱出できる。一時、この時間さえ耐え忍べば……。
目をつぶった。
耐えろ。すぐに終わる。奥歯を強く噛みしめて、声が出ないように力をこめる。
だが、どれほど強がろうとしたところで情けないことに心の奥では悲鳴をあげていて、ノアはその自身の悲鳴を聞いていた。
――誰か。
生温かいものが、顔に降りかかった。飛び散ったとも言う。
それが大量の血液だと気づいたのは、一拍遅れてのことだった。
目を開ける。
ノアの体は血塗れになっていたが、それは自分のものではなかった。自分を襲おうとしていた男が、いや、「男だったもの」が体に倒れかかってくる。
男の頭部はなくなっていた。
男の頭が切り離されたせいで、ノアは血飛沫を顔に浴びることになったのだ。
今までいなかったはずの誰かが、そばに立っている。
手にした剣から血が滴った。
砂色の髪。灰青の瞳。
レーヴェルト・エデルルークだ。
「……誰のものに手を出してるんだ?」
一切抑揚のない声が、静まりかえったその場に響いた。
レーヴェは引きずってきたものを手放した。赤い肉塊で、それが人の形をとっていると理解するまでノアは数秒を要した。
皮膚がはがされているのである。拷問を受けたその人間は、とうに事切れて苦悶の表情を浮かべていた。多分――だが、ノアの魔法を封じた魔道具を作った魔術師だろう。
血をかぶったままのノアは、開け放たれた入り口まで目線をのばした。誰かの頭部が転がっている。見覚えのある、口髭をたくわえた男。
「……、」
ノアは口を開けたが、声を発することができなかった。
「俺のものに手を出して、生きていられるとは思わないよな?」
非常に緩慢な足運びだった。
レーヴェに向かってくる者達は素早いのに、レーヴェだけがゆっくりと動いている。
一人の男の首が落ちた。ノアには視認できない速度で剣が動かされたのだ。
もう一人は右肩から脇腹へと切りつけられ、二つに分かれて倒れた。血飛沫が舞う。血溜まりが増える。
外からも誰かが駆けつけてきて応戦するが、ノアの耳は一時的に音を聞き取れなくなっており、全てが無音の中で繰り広げられた。
人が死ぬ。次々に。いとも容易くレーヴェが殺していく。
魔法の術が放たれれば、その何倍にもして返す。誰も彼に、指一本すら触れられない。それはほとんど殺戮だった。
逃げようとする者も捕まえて、両足を切り落として転がす。顔を一突きにする。
レーヴェは笑みを浮かべていた。いや、あれは笑みだろうか? そういう形をしているだけで、あれを笑っているととっていいものだろうか。
「レー……ヴェ」
声を出した瞬間、世界の音が戻ってくる。誰かの断末魔が耳をつんざく。
「レーヴェ」
ノアは体を起こし、力の入らない足でどうにか立ち上がった。歩き出すと、血溜まりで滑りそうになる。
すぐに死ねない程度に、しかし執拗に切り刻まれた男が血を吐いて、横たわりながら懇願していた。
「あ……あ、助け……ごぶ」
軽いため息をつきながらレーヴェが喉を切り裂く。
その瞳を見たノアは、戦慄した。
何もなかった。本当に、何も。空っぽだ。
怒りも喜びも昂揚もない。何の感慨もなく人を殺していた。
これが、レーヴェルト・エデルルークの真実の顔なのだ。
大切なものを持っていない。実は生にすら執着しておらず、心の中にはただ虚無が広がっている。
ふざけた人格は仮面であり、自分でもそれを自分だと思いこもうと腐心している。仮面はほとんど彼と癒着していて、その目論見は成功しつつあった。
だが今は、はがれかかっている。
彼は、簡単に、越えてはならない線を踏み越してしまうことができるのだ。
生まれ持った虚無に飲みこまれたなら。
「レーヴェ!」
ノアは死体を刻もうとするレーヴェに後ろから抱きついた。
「しっかりして下さい。私は無事です」
ノアに焦点を合わせるレーヴェの瞳は、はめこまれた石のようで、作り物に近かった。
「……怪我は?」
「これは返り血です。大した怪我はしていません」
レーヴェはノアの頬に触れ、血を指で拭う。
「そうか。よかった。一度助けたお前を、みすみす死なせるわけにはいかないもんな」
声の響きすら虚ろだった。目の前にいるのに、遠く感じる。
「俺のノア」
ノアは全てを理解した。
レーヴェにとって、ノアはたった一つの証なのだ。剣の師も、身ごもらせた女も、赤子も、みすみす死なせた自分が、唯一助けられたもの。
そう信じてしまっている。
レーヴェはノアに、執着しているのだ。
レーヴェが無言でノアの背中に手を回し、外に出るよう促した。歩きながら、レーヴェが呟く。
「俺が怖いか?」
「いいえ」
本心だった。もう恐怖は感じていない。またこの男に救われたのだ。「誰か」。その悲鳴を聞きつけたかのように。
ノアは立ち止まって、レーヴェの顔を見上げた。その瞳には確かに自分の姿が映っている。虚無の中に、ただ一人――ノアだけが。
「助けてくれて、ありがとうございます」
1
お気に入りに追加
51
あなたにおすすめの小説
イケメンチート王子に転生した俺に待ち受けていたのは予想もしない試練でした
和泉臨音
BL
文武両道、容姿端麗な大国の第二皇子に転生したヴェルダードには黒髪黒目の婚約者エルレがいる。黒髪黒目は魔王になりやすいためこの世界では要注意人物として国家で保護する存在だが、元日本人のヴェルダードからすれば黒色など気にならない。努力家で真面目なエルレを幼い頃から純粋に愛しているのだが、最近ではなぜか二人の関係に壁を感じるようになった。
そんなある日、エルレの弟レイリーからエルレの不貞を告げられる。不安を感じたヴェルダードがエルレの屋敷に赴くと、屋敷から火の手があがっており……。
* 金髪青目イケメンチート転生者皇子 × 黒髪黒目平凡の魔力チート伯爵
* 一部流血シーンがあるので苦手な方はご注意ください
魔性の大公の甘く淫らな執愛の檻に囚われて
アマイ
恋愛
優れた癒しの力を持つ家系に生まれながら、伯爵家当主であるクロエにはその力が発現しなかった。しかし血筋を絶やしたくない皇帝の意向により、クロエは早急に後継を作らねばならなくなった。相手を求め渋々参加した夜会で、クロエは謎めいた美貌の男・ルアと出会う。
二人は契約を交わし、割り切った体の関係を結ぶのだが――
モフモフになった魔術師はエリート騎士の愛に困惑中
risashy
BL
魔術師団の落ちこぼれ魔術師、ローランド。
任務中にひょんなことからモフモフに変幻し、人間に戻れなくなってしまう。そんなところを騎士団の有望株アルヴィンに拾われ、命拾いしていた。
快適なペット生活を満喫する中、実はアルヴィンが自分を好きだと知る。
アルヴィンから語られる自分への愛に、ローランドは戸惑うものの——?
24000字程度の短編です。
※BL(ボーイズラブ)作品です。
この作品は小説家になろうさんでも公開します。
転生悪役令息、雌落ち回避で溺愛地獄!?義兄がラスボスです!
めがねあざらし
BL
人気BLゲーム『ノエル』の悪役令息リアムに転生した俺。
ゲームの中では「雌落ちエンド」しか用意されていない絶望的な未来が待っている。
兄の過剰な溺愛をかわしながらフラグを回避しようと奮闘する俺だが、いつしか兄の目に奇妙な影が──。
義兄の溺愛が執着へと変わり、ついには「ラスボス化」!?
このままじゃゲームオーバー確定!?俺は義兄を救い、ハッピーエンドを迎えられるのか……。
※タイトル変更(2024/11/27)
大好きな旦那様が愛人を連れて帰還したので離縁を願い出ました
昼から山猫
恋愛
戦地に赴いていた侯爵令息の夫・ロウエルが、討伐成功の凱旋と共に“恩人の娘”を実質的な愛人として連れて帰ってきた。彼女の手当てが大事だからと、わたしの存在など空気同然。だが、見て見ぬふりをするのももう終わり。愛していたからこそ尽くしたけれど、報われないのなら仕方ない。では早速、離縁手続きをお願いしましょうか。
君のことなんてもう知らない
ぽぽ
BL
早乙女琥珀は幼馴染の佐伯慶也に毎日のように告白しては振られてしまう。
告白をOKする素振りも見せず、軽く琥珀をあしらう慶也に憤りを覚えていた。
だがある日、琥珀は記憶喪失になってしまい、慶也の記憶を失ってしまう。
今まで自分のことをあしらってきた慶也のことを忘れて、新たな恋を始めようとするが…
「お前なんて知らないから」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる