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第二部 君に乞う
70、蹄の音
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「俺、そろそろこのうち出るわ」
唐突に、ノアとリーリヤがいる部屋へ顔を出したレーヴェがそう言った。
彼がアンリーシャの館に転がりこんで、半年以上が経っていた。
早く出て行ってほしい。そう思いながらも、この男は一生ここに住むのではないかと考えていたノアは、正直驚いていた。顔には一切出さなかったが。
いつもの無表情で尋ねる。
「王都に帰るのですか」
彼は王家の騎士エデルルークの人間であり、聖剣の使い手ならばなおさら騎士団に戻るべきなのだ。国王陛下にもそれを望まれているし、王都で働くのは義務なのである。
いつまでも山奥にいていいはずがない。
「あー、いいや」
レーヴェは頭を掻いた。
「あちこちに貸しがあってな。借金返すために働かねーと。踏み倒したら地獄の果てまで追いかけてきそうな奴がいる。もっと体を動かさないとなまっちまうしな」
というわけで、また雇われの兵隊をやってくるのだそうだ。騎士団に戻って働けばいいと言えば、それは嫌だと口を尖らせる。
引き留める理由もないから、ノアは「そうですか」と返した。レーヴェが王都に戻ろうが戦場に顔を出そうが、ノアには関係ないのである。
支度をして出て行く時に、一応見送りをした。名残惜しさなどないが、よく考えれば相手はこんな性格でも貴族なのだし、礼儀は失してはならない。今更だが。
「あのさ」
レーヴェが振り向いた。
「仕事終わったら、またここに戻ってきてもいい? 俺、住む家がないんだよ。宿見つけんのもダルいしさ」
いいわけがあるか。この館は宿代わりではない。
「よろしいですよ」
ノアよりも先に口を開いたのは、隣に並ぶリーリヤだった。
「ねえ、ノア様」
「どうして」
ノアがどうにか言えたのはこの一言だった。
「レーヴェルト様がいらした方が、賑やかで楽しいでしょう。村の子供も懐いてますし、力仕事をしていただけるのは助かります。お強いので防犯の点でも安心ですし」
だが。
だがこの男は。
この男はただ飯を食らう。食費は馬鹿にならない。下品だし、すぐいやらしく触ってくる。何より性欲が強すぎて、付き合うこっちは身が持たないのだ。
頭の中には文句が溢れたが、どういうわけか口まで下りてこなかった。
「じゃあ、数ヶ月したら戻ってくるわ。ってことで。じゃあな」
ノアが何も言わないうちに、許可を得たと思ってレーヴェは出発してしまう。
ノアは立ち尽くし、瞬きを繰り返していた。では、あの男はまた戻ってくるということか。
「数ヶ月戻って来ないんですって。寂しくなりますねぇ、ノア様」
手を額に庇のようにしてあてて、リーリヤは遠ざかっていくレーヴェの姿を見送っていた。
「何故あんなことを言ったのです」
「戻ってきたがっていたじゃないですか。突っぱねたら可哀想でしょう」
もう大人なのだから、行くあてがなければそれなりにさがすと思うのだが。リーリヤは日頃は気をつけているものの、たまにレーヴェを子供扱いする。彼から見れば、大体の若者は皆子供なのだろう。
出て行ってから半年が経過したが、レーヴェは手紙の一枚も寄越さなかった。どう見ても筆無精なので、滅多に字など書かないだろうから期待もしていなかったが。
(あの人は、どこでどうしているのだろう。まさかあっさり戦地で死んだわけではないだろうな)
ノアの心を読んだように、リーリヤが「レーヴェルト様の動向を調べさせましょうか」と提案してきたが断った。
気になどしていない。ちょっと思い出しただけだ。
季節は冬になり、やはりレーヴェの消息は伝わってこない。
気まぐれな人間だから、仕事にはきりがついたが、ここへ戻ってくる気がなくなったのかもしれない。それならそれでいい。この静けさが乱されなくて、ノアには都合が良かった。
自室で、机に向かって書き物をする。
リーリヤにほどほどにするよう言われるが、睡眠時間はなるべく削って作業をしていた。侯爵家の家令として必要な知識は膨大で、学ぶことに終わりはない。情報も常に更新しなければならない。
誰も止めに入らない。夜中に部屋に侵入してくる不埒な男はいない。
体を壊すぞ。そう言って、いたわるようなふりをして、組み伏せてくるような勝手な奴はいなくなったのだ。
――せいせいする。
その時、静まった外から、馬の蹄の音が聞こえてきた。滅多に誰も訪れないこの館を、真っ直ぐ目指して駆けてくる。家の者は全員いる。よそから来た何者かだ。
ノアは筆記具を落として立ち上がった。自室を飛び出し、階段を下りて玄関ホールへと走る。
扉が開閉する音と、リーリヤが誰かと話す声。
そこへたどり着いた時、訪問者の姿はなかった。
「どうしても必要な薬があって、早馬で届けさせたのですよ」
リーリヤは小さな荷物を掲げて見せた。
「……どうしました?」
「いいえ、何でも」
ノアはかぶりを振って後ずさりし、歩いて部屋へと戻っていった。
自分の行動が、理解不能だった。
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