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第二部 君に乞う

64、自分を見つけて

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 * * *

 波紋が広がっていく。

 静かな水面に石が投じられ、動くことがなかったそこに波が立つ。
 ノア・アンリーシャの世界はいつも凪いでいた。そよとも風は吹かず、水面にさざ波が立つことすらない。

 それは穏やかと言えば聞こえが良いが、無に近いものだった。
 ノアに感情の起伏がないことを早くに気づいたリーリヤは、途方に暮れているらしかった。アンリーシャの白百合――「リーリヤ」の名は百合を指す――は乳は出ないが乳母のようなものであり、教育係でもあった。侯爵家を支える人物になれるよう、アンリーシャの子を育て上げる使命がある。

「ほら、ノア様。この花は綺麗でしょう。どちらが好きですか? お好きな方を切って、部屋に飾りましょう」

 幼いノアはリーリヤに抱えられて館の外に出た。朝露をつけた白い薔薇と桃色の薔薇を見せられる。

「どちらでも」

 ノアはそう答える。リーリヤは瞬きを繰り返して、首を傾げた。

「どちらかといえば、どちらの方が好みでしょうか?」

 好み、というのがノアには理解しにくかった。さほど差異があるようには思えない。色は違うが、白色も桃色も、色という以上に意味を持たない。

「では、こちらを」
「白いのがお好きですか」
「こちらの薔薇の方が、長持ちすると本に書いてありました。観賞用として室内に持ちこむなら、枯れるまでに時間がある方が良いでしょう」
「ううん」

 期待した回答とズレていたらしく、リーリヤは「それはそうなんですが」と苦笑した。
 ノアは利便性の高さだとか、効率の良さを重視する子供であり、何かを選り好みなどしたことがなかった。

「お化けが怖くはありませんか、ノア様」
「お化けなどいるとは思えません、リーリヤ」
「悲しいと思うことはありますか?」
「よくわかりません」
「何をしている時、あなたは一番楽しいですか?」
「楽しいと思うことは、特にありません」

 ノアが答える度、「ううん」とリーリヤは額に手をあてて悩んでいた。

「アンリーシャ本家の御方は代々、真面目で物静かで理屈っぽい方が多かったのですが、あなたは何というか、そうですね……飛び抜けていらっしゃる」

 感情というものはノアも知っていた。本に書いてあるし、周りの人間は当然だが感情を持っている。
 リーリヤの感情パターンは実を言うと少ない。穏やかに微笑んでいることが多く、怒りをむき出しにしたり、激しく嘆いたりはしないのだ。叱られたこともない。

 他の使用人はそれよりも感情豊かであった。こんな山奥でこれといった出来事もないから、自然と皆穏やかだったが、仕事を失敗したりしくじれば、悲しがったり悔しがったりする。農作物の出来が良ければ喜ぶ。
 リーリヤはスリーイリの村にノアを連れて行き、同年代の子供と遊ばせたりもした。

 子供の感情はめまぐるしく変わる。玩具を取られると火のついたように泣く。
 アンリーシャはスリーイリの村人から見れば貴族のようなもので敬われていたが、子供らはそんなことはお構いなしだ。
 遊んでいる最中に、突き飛ばされることもあったし、物を取り上げられたりもした。

「悲しいですか、ノア様」

 リーリヤが近寄ってきて慰める。

「何とも思いません。もめ事が起きて怪我人が出ないようルールを設けるか、玩具の数を増やした方がいいかもしれません。暴力を振るう者には教育が必要です。あまり酷くなるようなら、罰則を設けることを考えるべきかもしれないでしょう」
「ノア様。四、五歳の子供の遊びに、そこまできっちりしたルールは要りませんよ。悪い子がいたら、コラ、と叱れば十分です」

 とリーリヤは言って、首を傾げた。

「皆と遊ぶのはどうですか」
「良い運動になります」
「運動……」

 リーリヤが空を見上げる。きっと、「楽しい」と答えるのが正解なのだろう。だが彼はノアの嘘を見抜くので、望んだ回答をしたところで真実でなければ意味がない。
 喜怒哀楽というものが自分には欠けているようだ。それを知っても、ノアはまずいことだとは感じなかった。そういう欠陥は普通の生活を送る上で、これといった不便はないのである。

 それどころか、そんなものはない方がいいのではないか、邪魔なのではないかとすら思っていた。
 歳を重ねると館を出て人のいる街にも行った。笑ったり泣いたり怒ったり、人々は忙しない。感情に振り回されて無駄な争いや失態を繰り返すのを見ると、自分には不要だとの確信を強めていった。

「家令を勤める上で、感情というものは不必要ではないでしょうか。一生を主人とその家に捧げるのだから、私個人の意思だの感情だのは排斥すべきでしょう」

 ある晩、ノアが無表情でそんな話をした。すると茶を飲んでいたリーリヤは面食らった顔をして、それから頭を抱えた。

「うーーーーーーーん……」

 まぶたを閉じ、リーリヤはしばし考えこむような仕草をする。

「ノア様。私は確かに、あなたに優れた執事になれるよう、教育を施してきたつもりです。侯爵家は特別な一族です。彼らを支えていく上で、失態は絶対に許されない」

 けれど自分を完全に殺せとまでは言った覚えはありません、とリーリヤはかぶりを振った。

「まず第一に、人の心の動きを理解していないと、人間関係を築く中で必ず歪みが生じるでしょう。あなたが思っている以上に、人間というのは不合理な行動を取るものです。侯爵家のお歴々も同様です、彼らも人間です。よく理解して補佐をしなければならないのですよ、あなたは」

 そうだとしても、無理なものは無理なのだ。ノアは自分の中に、普通の人間のような感情の動きを見つけることができない。

「このままだと、侯爵様にご迷惑をかけてしまうでしょうか。アンリーシャの者なのに、使えない奴だと」
「いいえ、いいえノア様。そんなことはありません。あなたはアンリーシャの中でも抜きんでて優秀な方ですよ。侯爵様のお役に立てるでしょう。リーリヤは無理を言いましたね、すいません」

 柔らかく笑って、リーリヤは立ち上がって近づくとノアを引き寄せた。ノアを抱きしめて背中をさする。

「私はただあなたに、自分というものを見つけてほしいのです」
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