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第一部 聖剣とろくでなし

38、逃げ切れ

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 魔法による攻撃は止まない。レーヴェが逃げれば、新たにそこここから火が出る。隠れられるのを防ぐためだろう。

「俺一人のために、こんな……」

 気を散らしていると、ぬっと目の前に黒ずくめが現れた。息をのんで剣を持ち上げるがやや遅れる。かろうじて防いだが側頭部を殴られてよろめいた。そこでわき腹を切りつけられる。
 まずい。殺される。

 もつれる足を動かして逃げようとしたが、体に何かが巻きついて、もんどりうって転がってしまった。見れば、輝く鎖のようなものに拘束されている。
 本で読んだことがある。これは確か――

 ――捕縛の鎖。
 上級魔法である。一部の魔術師しか使えない術だ。
 逃げるのも絶望的になったというのに、顔を上げれば前の方から似たような格好をした男がこちらに歩いてくる。仲間だろうか。

 もう一人の敵は鞘から剣を抜きながら、しっかりとした足取りで向かってきた。

(首を落とすつもりか)

 レーヴェは膝をついて立ち上がろうとした。
 殺されるわけにはいかない。どうにもならない状況だが、だからといって降参しておとなしくあの世に行くのは我慢ならない。

 せめて一矢報いなければ。
 そう立ち上がったところで、背後に気配がした。
 何者かがレーヴェの背後に上空から降ってきて、手にした刃で捕縛の鎖を断ち切る。鎖が消えて、レーヴェはつんのめった。

「行け、レーヴェルト」

 ミルドだった。

「お前には勝てん。逃げ切れ」

 レーヴェは逡巡した。それはミルドも同じではないか。ミルドはもう若くなく、いくら強くても全盛期は過ぎている。一方敵はかなりの手練れだ。
 ミルドが呪文を唱え、黒い炎が石畳を走る。
 二人の敵がその炎に包まれるが、すぐに打ち消されてしまった。

「レーヴェルト!」

 怒鳴られ、レーヴェは走り出した。ミルドが声を張り上げるのを、初めて聞いた。
 おそらく一人はついてくるだろうと考えた。敵の力を分散させた方が、まとめてかかってこられるよりはミルドもどうにかなるかもしれない。
 現実的な考えを好む自分としては、らしくない希望ではあったが。

 案の定、後から現れた二人目がレーヴェを追ってきた。一人目の方はミルドが足止めをしている。

『切り裂け!』

 敵が呪文を口にして、無数の短い刃が宙を飛んで襲いかかってきた。避けようがなく、いくつも背中に突き刺さる。
 魔法で石畳がめくり上がり、また建物が壊されて瓦礫が降ってくる。
 退路を断たれたレーヴェに、敵が迫った。

 何度か防いだものの、深手を負っているせいもあり、体力が尽きかけていた。
 剣が弾かれ、上半身を切り裂かれる。
 地面に倒れこみ、頭をしたたかにぶつけた。

(――そんなに憎いか)

 血の気が引いていくのがわかる。あちこちから命の元が流れ出て、手先が冷たくなっていく。痛みはあまり感じないのだが、体が重くて呼吸が苦しかった。

(そうかよ。俺だって憎い。お前らが)

 腹の中が煮えている。死への恐怖よりも、理不尽への怒りが勝っていた。

(死んでたまるか。死んでたまるか。俺が死ねば喜ぶ奴がいる。絶対にそんなことは許さない!)

 笑う女の顔が脳裏に浮かび、それがレーヴェを奮い立たせた。
 レーヴェは飛び起きて、敵の手から剣を弾き飛ばした。
 目元以外は隠しているその男は、飛んでいく剣を無感動に目だけで追う。レーヴェの前髪をつかむと、懐から出した短剣を腹部に突き刺した。

「……っ」

 兎でもさばこうとしているような手つきだ。なめている。
 血を吐いて、レーヴェは横たわった。
 飛ばされた剣を拾い上げ、敵が今度こそ首を落とそうと歩いてくる。レーヴェにはこれ以上反撃する力が残されていなかった。

 敵は一瞬歩みを止めて、振り向きざまに誰かを突き刺す。
 しかし同時に、敵も剣に貫かれていた。
 倒れたのは敵だった。

「………………ミルド」

 血だらけになった顔色の悪いミルドが胸に剣を刺したままの状態で立ち、レーヴェを見下ろしている。表情は普段のものと何ら変わらない。つまらない小言をたれる時の、些細な注意をする時のあの顔だ。

「何を寝ている、終わっていないぞ。逃げろと言っているだろう」

 言っている間にも巨大な火の玉が飛んできて、ミルドは魔法で応戦した。胸の剣を抜かないでいるのは、血が噴き出すのを防ぐためらしい。
 すでに片手も使い物にならなくなっていた。最初の敵はまだ倒していないのだろう。レーヴェを助けるためにこちらの敵を優先したらしい。

「稽古を怠るからこうなる。驕慢は死を招く。何度も言ったはずだが。これに懲りたら気を抜くな」

 つかんで無理矢理起こされ、レーヴェは這うようにして動き出した。
 あちこち穴だらけで、まるで力が入らない。だが怪我の程度はミルドの方がずっと深刻だった。立って、喋っていられるのが不思議だ。

 歩くどころか息を吸ったり吐いたりするのすらままならない。
 レーヴェは腹を抱えながら、一歩、ただ一歩と足を動かすことだけに集中した。無意識だったが、剣だけは手放さなかった。

 夜空が燃え上がる火によって赤く照らされている。今まで遠ざかっていた音が戻ってきて、悲鳴やら泣き声やらが耳に入る。
 レーヴェはもう何一つ考えることができなかった。呆然と、何の感想も持たず、歩き続けた。
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