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哀しいほどの空回りの先_3

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 強い力で手首を引っ張られ、そのまま成瀬くんは無言で廊下を歩いた。すれ違う生徒が尋常じゃない雰囲気に廊下の端に身を寄せた。
 必死でなだめようとしても、成瀬くんは無言だった。

 そして人気が少なくなった1階端の教材準備室のドアを乱暴に押し開けた。

 ドアが音を立てて締め切られた瞬間。

「センセ、あん時と同じ目してんだよ」

 私の手首を離さないまま、成瀬くんは振り返ってきつい口調で言った。

「あの時?」

「センセが実習生だった時、オレをフッて歩き去ったあん時の目。オレがその目を忘れると思ってんの?」

 息を飲んだ。

「間中さんに聞いた。何か思いつめてたって」

「気のせい――」

「そんなわけないだろ!」

 バンッと手近な机の上に積み上がった書類の上を思いきり叩いた。
 プリントの山が崩れて、足元になだれた。

「忘れるわけない、あの時のセンセの、目。自分1人で引き受けて、誰にも見送られず、あの、背中を、オレは!」

 成瀬くんが激しく言い募る。

 こんな成瀬くんを、私は知らない。

「あん時ほど自分が無力だって思い知らされたことない。好きな女が、自分のせいで夢も失って、自分の手の届かないとこに行く。そんな想い、二度としたくないし、させたくない。だからこんな走り回ってんだよ、二度と杏を失いたくないから!」

「成瀬くん……」

「なんで橘のとこにいた?」

 全身がこわばった。

「ニヤけた面を見せられたよ」

 吐き捨てるように成瀬くんが言った。

 1年生を相手にした数学の授業中、机の間を巡回しながら進めていた時、教室から見えた中庭を挟んで建つ校舎の理科の準備室。
 ちょうど反対側にある、その準備室の窓にはクリーム色のカーテンがほぼ引かれている。
 その隙間から見えた、橘光基の白衣姿。
 顔を見るだけで腸が煮えくりかえるような怒りが瞬間的に湧き上がりかけて、慌てて授業に集中しようとした。

 でも窓から一瞬だけ見えた、見覚えのある服の色。

 地面が揺れたのかと、そう思った。
 もう周りなんて見えなかった。
 指導教員の制止する声も聞こえず、廊下に飛び出した。

 準備室にたどり着いても、そこには、橘だけ――。

 そう早口で私に説明した成瀬くんは手首を引っ張った。

「何があった? あいつのとこで何された?」

 強く握られたままで、痛みが走って顔をしかめた。

「言って、センセ。オレがセンセの辛いこと全部ひき受けるから、センセ」

 必死な声に、我慢していた涙が1つこぼれ落ちた。

「センセ、」

 成瀬くんの手が伸びてほおに触れた。
 優しく包みこむように。

 これ以上は泣いてしまう。

「お願い、離して」そう言おうとしたとき、ドアがノックされた。

「片桐先生! 成瀬先生! いらっしゃいますか? 何があったんです?」

 女性教師の声だ。
 心配と不安とが入り混じっている。

「もしいらっしゃるなら返事をしてください! ほら、みんなは授業に戻りなさい! 教室に戻って!」

 青ざめた。
 騒ぎになってしまっている。
 でも成瀬くんは動じず、ドアの方を黙って見つめ、それから私の手首を離した。

「センセ。オレには実習なんてどうだっていいんだよ。センセに会うために……センセさえ、無事なら」

 どこか哀しい響きを伴いながら言うと、成瀬くんはドアの方に体を向けた。
 嫌な予感がした。

「成瀬くん、待って、」

 止めようとした言葉は空を切るように届かないまま、成瀬くんはドアを開けた。
 そこにいた2人の先生が、その背後で野次馬のように背伸びをしている生徒たちが驚いたように息を飲んだ。

「せ、な、成瀬先生。いったい何事ですか」

 落ち着きを取り戻した女性の先生――ベテランの英語教師だったはず――が成瀬くんを見て、それから奥に立ち尽くす私を見た。

「こんな狭いところで何をしてるんですか。あらぬ誤解を招きかねませんよ?」

「成瀬先生、君、前もそこの片桐先生と問題起こしかけてなかったか? いったいどういうことですかね?」

 隣にいた中年の――数学科主任、つまり成瀬くんと同じ科目にあたる男性が言った。

「これは問題ですよ? あなた、教育実習に来てるんでしょう? こんなことして、どういうつもりで実習に来てるんですか?」

「違います!」

 思わず声をあげると、ドアの向こうの先生2人が私を見た。

「片桐先生。いったいこれはどういうことですか? 成瀬先生、授業中だというのに飛び出していったんですよ?」

「成瀬くんは悪くありません」

 必死で言い募ろうとした私の言葉を成瀬くんが断ち切った。

「あーあ、先生ってなんでこう無粋なのばっかなわけ? こんな狭いところで大事な話って言ったら一つしかないでしょ。つうか、ヤボなこと聞かないでくんないかな?」

 ふいに昔の軽い調子で面倒そうに成瀬くんが言い放った。
 それが今までの成瀬くんの印象にはなかったせいか、目の前の2人の先生も、そしてまだぐずぐずと距離をとりながらもおもしろがって様子を見ていた生徒の数人も唖然とした顔になった。

「そんなだから生徒の気持ちなんてわかんねんだよ」

「な、何を言ってるんだ!」

「ま、今も昔も変わんないってことか」

「成瀬、何をしてたんだ、君は!」

「だからー。オレ、ここ来た時から杏ちゃんセンセがもうかわいくてさー。だから告ってたの。オレとつきあって、って。せっかく迫れるチャンスだったってのに台なし。サイアクだわ」

 呼びけようとしても、成瀬くんは私に背を向けたままだ。

「違います、違うんです」

 2人の先生に必死で訴える。
 このままでは、あらぬ誤解で成瀬くんが窮地に陥ってしまう。

「いいんだよ、杏ちゃんセンセ。そうやってかばってくれるから、オレ、センセのこと諦めらんないんでしょ?」

 成瀬くんが苦笑するような、それでいて悪戯めいた顔つきで、振り向いた。

「ねえ、オレ諦めないよ? あなたに会いたくて実習に来たんだし」

「成瀬先生。いい加減にしなさい。実習期間中にこんなふうに女の先生に迫るなんて前代未聞です。今すぐその教室から出てきなさい」

「だってさ。杏ちゃんセンセ、またね」

 成瀬くんは英語の女性教師の険しさに面倒そうに肩をすくめると、そのまま準備室を出ていった。
 そして男性教師がその成瀬くんの腕を掴んだ時、振り返って私に笑みを向けた。

「杏ちゃんセンセ、ごめんね?」
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