狐の声がきこえる

ゴトウユカコ

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狐面のこども

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 シンクには、通夜振る舞いの名残そのままに、茶やビールのグラス、料理を用意していた時に使った鍋やタッパーの類が投げ込まれていた。
 水道の蛇口をひねると、勢いよく出てきた水は切るような冷たさだ。
 透明な水はあっという間に洗い桶の中の器を浸していく。

 白彦と会わなくなったのは、同時にこの本家に遊びに行かなくなったというのと同じだ。
 会わなくなって十年以上と白彦は言っていたけれど、実際は十五年にもなる。

 小学五年を過ぎた頃からだった。両親の仲がうまくいかなくなり始め、中学生にあがると同時に、父と母は離婚することになった。別れるとか別れないとか、皐月たち姉妹の親権とか養育費とか、それぞれの思惑がぶつかり、日を追うごとに両親の間には喧嘩が増えていった。

 振り回され、めまぐるしかったあの頃のことは、正直もうよく覚えていない。

 ただ両親が揃っていても家の中の空気が重苦しく、その印象ばかりが記憶の底で澱むように残っている。
 その毎日の中で幼い妹の笑顔を守れるのは自分だけだと、妹の目に両親の醜さを見せまいと、皐月は必死だった。

 離婚の原因が父の浮気だと知ったのは、両親が離婚した後だった。

 ある晩、珍しく深く酔って帰ってきた母がこぼした愚痴からだ。つきあいで飲むことはあっても、深酒することは少ない母だったから、その記憶は鮮明に残っている。

 離婚するまで外に働きに出たことがなく、ずっと主婦だった母は、いきなり娘二人を抱えて生きていかなくてはならなくなった。父から定期的に振り込まれる養育費だけではとうてい足りず、しばらくはこの本家からの援助も受けながら働き口を探していた頃だったと思う。

 あの時の母の父への恨み節は、今も腹の底にどんよりと残っているような気がしている。

 正直、離婚前にその事実を知ってしまったら、皐月の心はもっと自暴自棄になっていたかもしれない。それを留めたのは、ただひとえに依舞がいたからだった。

 母は、運よく正社員として採用してもらって毎日朝から晩まで働きに出るようになった。
 当然、それまでことあるごとに帰省していた祖父母の家に行く余裕などもてなくなる。
 皐月も母が不在の分、まだ小学生低学年だった妹の世話や家事を引き受けることが多くなり、おのずと毎日は追い立てられるように忙しくなった。
 だからといって、勉強も部活も疎かにはできなかった。

 母は、母子家庭であることを理由に同情されることも、そのことで後ろ指さされかねないことも極端に嫌った。両親が揃う家庭と同じ水準を自らに課し、同時に長女である皐月にも課した。

 いつのまにか祖母のことも、白彦のことも、息がつまって溺れそうな日常の狭間に落として遠くなっていった。

 もちろん、狐の嫁入りのことも。


 つらつらと思いふけりながら茶碗を洗っていたその時、ふとパンツの後ろポケットに入れているスマホが震えた。仕方なくスマホをとりだした。

 神宮寺陽平じんぐうじようへい

 スマホの画面に映し出されたその名前に、視界が覚めるように現実に引き戻され、慌てて皐月は通話ボタンをタップした。

「もしもし」
「オレ。仕事あがったとこでさ、今平気?」
「少しなら」

 周りを気にして皐月は声を潜めた。

「有休とったんだって? 教えてくれりゃ合わせたのに」

 どこか不服そうな声に責められているような気がして、皐月は土間の陰鬱な床に視線を落とした。
 足元にまとわりついていた冷たい空気がさらに温度を下げたように思えた。

「ごめん、おばあちゃんが亡くなって、それで」
「え、あー……そっか……、それは大変だな。いつ帰ってくんの?」
「3、4日くらいしたら……」
「じゃあ、帰ってくる時連絡してよ。いつもんとこで会おう」
「うん」とすぐには言葉が出ず、つまった。彼氏に会えるのに、素直には喜べない。
 つまり、もうそういうことなのだろうと、一抹の虚しさが胸の奥に落ちた。

「……皐月? 聞こえてる?」
「あ、ああ……うん、聞こえてる」
「なんだよ、どうしたんだよ? 会えないの? 会いたくないの?」
「そんなことないよ。久しぶりだし、会いたいよ」

 希薄になっていく現実の向こうで、上滑りした言葉が反射的に答える。ホッとしたような陽平の気配を感じて、少しだけ気持ちが震えた。

 とたんにスマホの向こう、遠くから陽平の名前を呼ぶ女性の声が響いた。
 甘えの滲んだ声は、たぶんいつか見たことのある女性だろう。
 胸の奥が鷲掴みされたようにきしんで、陽平の反応に切なく震えた自分の気持ちを握り潰したくなった。

「悪い、友達待たせてんだ、また」

 友達と言いながら慌てて切られた通話の向こうで、通じなくなった音が鳴り響いた。
 それを消すと、暗くなった画面と無音が一人きりの台所に落ちた。

 自然とため息がこぼれた。いつまで嘘で塗り固め続けるのだろう。

 今考えるには重すぎることに蓋をして、再び食器洗いを開始した。

 見たくない現実ばかりがのしかかって、気持ちがどんどん落ちこんだ。
 苦い気分に水の冷たさが加わって、それを振り切ろうと、茶碗を洗う手つきが少し乱暴になった。
 それを嫌がるように、ふいに茶碗が手の中から滑った。

 声を上げる間もなく、土間のかたい床に向かって茶碗が落ちていく。
 その動線が見えるのに、指の一本さえも動かせないまま、皐月は茫然と見送った。


 弾けるように陶器でできた茶碗は割れて、灰色の土間に白い欠片が飛び散った。


「あー……」

 大きく息を吐きだす。割れた茶碗からこぼれた水が土間に黒い染みをつくった。
 皐月はのろのろと土間にしゃがみこんで、欠片に手を伸ばした。


 その時、ふと開け放したままの勝手口から伸びる細長い人影に気づいた。


 ドアのところに誰かが立っている。


 田舎だからか、普段から外と接するドアや玄関に施錠する習慣がない。
 開け放したままなんてざらだ。
 防犯のために施錠が推奨されるようになっても、長年の習慣はなかなか抜けない。
 のんびりした気風は構わないけれど、都会育ちの皐月には落ち着かない。

「何かご用、」と問いかけながら顔をあげかけた先に、子どものふっくらした足が見えた。


 そこに、まだ小学校低学年くらいの男の子が、立っていた。


 それだけなら驚くくらいで済んだろう。
  でも皐月は小さく悲鳴をあげかけて、目を見張った。


 顔の上半分を覆う、狐の半面。

 昔ながらの張り子の面は、白塗りに朱の模様が際立ち、目の周りが金色で縁どられていた。まるで祭りが始まる夏の宵にいつのまにか紛れ込んだような錯覚を覚えて混乱する。

 どこかで出会った気がしたのは気のせいだったか、すぐに我にかえった。

 今、皐月がいるのは祖母の葬儀という大事な時だ。
 いたずらにしてはたちが悪い。
 注意しようとして、その子が半ズボンの素足に藁で編まれた草履を履いているのに気づいた。

 今度こそ本当に言葉を失った。

 通夜客が連れてきた子どもにしては異様ななりだ。

 しかもその狐面の目の奥からじっと皐月を見つめる視線は強すぎるほどだった。

 狐の嫁入りを見た時のような恐怖がよぎった時、男の子はくるりと身を翻した。

「あ、ちょ、待って……!」

 茶碗の欠片を拾うことも忘れて、理由が分からない焦燥感に背中を押されるように皐月は土間を飛び出した。

 狐面の男の子は母屋の脇を回って黒く炭焼きされた板塀に沿って走っていく。
 サンダル履きのせいで走りにくく、思うように狐面の男の子に追いつけない。かといって見失うわけでもない。まるで皐月が彼の姿を見失わないように、でも決して捕まえることができないように、敢えてそのスピードを保っているかのようだった。

 視界の隅に小さな背中を捉えながら、ツツジのそばを通り過ぎて建物の角を曲がった。

 そこにふいに現れたのは、薄闇に包まれた裏庭だった。
 沈みかけた太陽のかそけき光に手をのばすみたいに、そこここの暗がりに背の高い草が沈んだ世界で風に揺れている。

 そして男の子の姿は、まるで攫われたようにかき消えていた。

 代わりに母屋の濃い影に隠れるようにして、漆喰が剥げかけた土蔵が建っていることに気がついた。
 角の部分など土壁が剥がれ落ちて芯材や木組みがむき出しになっている部分もあるほど、古い。

 記憶の中に、この土蔵の印象はない。

 静まり返った裏庭の空気を吸い込むようにして、荒い息を整える。
 追いかけていた男の子の姿を目の端でなんとはなく探しながら、皐月は誘われるように足を踏み出した。

 おそらく人が定期的に通っていたのだろう。
 土蔵の入り口へ、雑草をのけたように人ひとり通れるほどの道が一筋できている。

 足首を細い葉がくすぐる中を歩き、土蔵の前に立った。
 民家の二階ほどの高さはないのに、大きい印象を与える。
 その正面、コンクリートの階段を三段のぼったところに、錆びの浮いた重そうな鉄の扉が開きかかっていた。
 鍵はかかっておらず、わずかに開いている。無理に体を押し込めば、子ども一人くらいは中に滑り込めそうだった。

 隙間から覗くと、高窓から差すうっすらとした琥珀色の光に中の様子がほのかに見えた。
 皐月が身動きした気配で風でも起きたのか、斜めに走る光の筋の中で埃が舞っている。
 小さな光が踊っているようなきらきらしさも、目の前で刻一刻と日没に引きずられて薄れていく。

 土蔵の奥は真っ暗で、何があるのか見えない。
 目を凝らそうとした時、かすかに音がした。

 あの男の子が中にいるのかもしれない。そう思って、鉄の扉を押した。
 びくともしない。体重をかけて力をこめると、耳障りな音を重たげにたててわずかに開いた。
 音の不気味さに気持ちが怯みそうになるのを堪え、もう少しで体を滑り込ませることができそうだと両手に再び力をこめた時だった。

「……皐月ちゃん?」

 草を踏みしめる足音と不思議そうな声に、目の前の赤茶色の扉に集中していた皐月は思わず声をあげた。

「き、きよくん……!」
「ごめん、びっくりさせて。座敷の裏窓から皐月ちゃんの姿が見えたから。もう暗いのに、こんなとこでどうしたの?」

 白彦はゆっくり辺りを見回しながら土蔵に近づいてきた。

 皐月はなんと言えばいいか分からず、「ちょっと」と曖昧に笑みを浮かべた。
 さすがに狐面をつけた男の子を追いかけていた、とは言えない。

 白彦は深く追及することもなく、皐月の前の鉄の扉を触った。

「ここ……、懐かしいね」

 言われて記憶を探る。思い出せない。
 一抹の不安とともに黙っていると「かくれんぼしたの、覚えてない?」と、優しい口調で問われて皐月はかすかに表情を曇らせた。

「ごめんね、小さい頃のことあまり覚えてなくて」

 あはは、と誤摩化すように笑っても胸の奥がうすら寒い。

 裏庭はますます暗くなっている。
 地窓から漏れてくる座敷の淡い光に揺れる草が、影ばかり濃くして、淋しげに揺れている。

「十年以上も前だから仕方ないよ。でも皐月ちゃん、この蔵に閉じ込められて、大騒ぎになったからすごく思い出深くて」
「私が?」
「そう。僕も皐月ちゃんがこのまま蔵から出られなかったらどうしようって一緒に大泣きして、もうパニック」

 冬の湖のように澄んだ瞳をした白彦は、皐月の手をとると蔵の扉に続く階段に座るように促した。
 その自然なエスコートの仕方に、なんとなく気持ちがざわつきながら白彦の長い指が滑らかでひんやりしていることに気をとられた。さきほどまで水を使っていた皐月の乾いた指とは大違いだった。

 座ると、白彦は長い手足をもてあますように投げ出して隣に座った。

「鍵はかかってなかったんだ。でも僕の両親も皐月ちゃんの両親もこの扉をどうしても開けられなくてさ。出かけていたおばあちゃんが帰って来るまで誰も手をだせなかったんだよね。その間に皐月ちゃんの泣き声は聞こえなくなるし、僕も泣き疲れてうとうとしちゃって」
「おばあちゃんが開けてくれたんだ?」
「うん。あの時のことはよく覚えてる。大人の男がかかっても開けられなかったのに、一番力もなさそうに見えるおばあちゃんが、するする開けたんだからね。びっくりして目が覚めた。親父たち、ぽかんとしてたなあ」

 白彦は楽しそうに思い出し笑いをした。
 それは皐月が知る男性にはない柔らかな上品さがあって、思い出の中の白彦の面影からは少し遠い。

「それで私は?」
「うん、蔵の中で泣き疲れて寝ちゃってた。おばあちゃんが中に入って、揺り起こしたみたいだよ」


ーーいいか、ここさ1人で入っちゃなんね。連れていがれっからよ。


 降ってくるように祖母の声が耳の奥に響いた。
 皺に埋もれそうな細い目を思い出す。

 埃をかぶった和箪笥や櫃、行李が並ぶ隙間に身を寄せるようにして眠っていた皐月を祖母が見下ろしていた。
 涙が乾き薄く汚れがこびりついた頬を、祖母は節くれだった指でそっと叩いた。

 目を開けて認めたそのしわだらけの顔とぬくもりに、ようやく皐月は怯えていた何かから解放されたことを知って、安堵のためにまた泣き出したのだった。
 祖母の言葉は、幼かった皐月にとても響いた。それほどに、なぜかひどく怖かったのだ。

 土蔵の存在を封印していたのは、この時のことがあったのかもしれない。

 危ないから一人で蔵に入るな、というなら理屈は分かる。
 でも「連れていかれる」とはどういう意味なのだろう。
 何に対して怖がったのだろう。

 暗がりの中で、何かを引きずるような音を、聞いた。どこかで水が滴り落ちる音が聞こえた。

 耳の奥に蘇った記憶の音に、ぞわっと鳥肌が立った。

 次の瞬間、狐面の男の子のことを思い出した。
 この土蔵に誘導されたのだろうか。

 狐の嫁入り、狐面の男の子、祖母の言葉、土蔵……。

 自分の鼓動が激しく警鐘を鳴らしているようだった。
 自分は何か大事なことを忘れているのではないか。そんな不安がぬぐいきれない。

「思い出した?」

 自分の世界に沈んでいた皐月の耳元で、からかうような軽い笑いが聞こえた。
 ハッと顔をあげると、白彦がいたずらっ子のような光を瞳に湛えて至近距離から皐月を見つめていた。
 端正で硬質な顔が驚くほどそばにあって、皐月は思わず座っていた位置から後ろにいざった。

「危ない!」

 あっと思う間もなく階段から転げ落ちそうになった皐月の腕を、敏捷に動いた白彦がとらえた。そのまま白彦の方に強く引っ張られ、なかばその腕の中に倒れこむ。
 見た目よりも力強い腕の感触に、思い出せそうな何もかもが吹き飛んで体が強張った。

「小さい頃は僕よりもすばしこかったのに……」言葉にしなくても言いたいことは伝わる。
「ちょっと!」ムッとして、お礼を言う気も失せて白彦から離れた。
「きよくんこそ、昔はもっと素直でかわいかった!」

 皐月の嫌味もどこ吹く風で笑いを抑えながら、白彦は皐月を見つめた。

「10年以上も経てば僕だって変わる。でも皐月ちゃんは変わらない」
「どういう意味?」

 どうせお転婆だとか世話を焼かせたとか、散々会う親戚に口にされてきた言葉に身構えた。

「今も素直でかわいい」

 思いも寄らない言葉に、絶句した。

 皐月の反応に、白彦は今度こそ肩を揺らして大きく笑い始めた。
 白彦が成長したら、なんて想像する暇もなかったけれど、外見にときめいたひとときの乙女心を返してほしい。そう思いながら、皐月は乱暴に白彦から離れて立ち上がった。

「支えてくれてどうもありがとう。でもきよくんはだいぶ変わったみたいね」

 つっけんどんな言葉に白彦は顔をあげて、切れ長の瞳を皐月に向けた。
 その瞳は少し潤んでいて、目尻に小さく涙が溜まっている。
 笑い過ぎたらしい。それがまた皐月を呆れさせもして、土間で再会した時の胸いっぱいの懐かしさに水を差された気分だった。

「戻ります」とそっけなく言って踵を返した。
「皐月ちゃん」背中を追いかけるように呼ばれた。

 無視するのもさすがに社会人としては子どもっぽ過ぎる気がして、「何、」と険のある声で振り向いた。

 土蔵の階段に座った白彦は、そよとも動かない雑草の沈黙に包まれて、真剣な表情で皐月を見ていた。

「僕にとって、ここでの皐月ちゃんとの思い出はすごく大事なものなんだ。だから皐月ちゃんにまた会えて嬉しいよ。とても」

 噛み締めるような物言いに、本心からそう思っていることが伝わってくる。
 白彦のみずみずしい想いの底にあるものが親愛でも情愛でも、まっすぐな言葉の力に叶うものはない。
 一瞬にして毒気を抜かれて、皐月もまたまっすぐ見つめ返した。

「……うん、ありがとう。あまり覚えてなくてごめんね。……戻らないの?」
「しばらく涼んでく。親父たちに絡まれるから」と白彦は苦笑いした。

 小さく頷いて背を向けた時、背後からざあっと吹いてきた風に背中を押された。
 裏庭にはえたさまざまな草が、まるで存在を主張するように音を立てて、皐月の気を引いた。

 もう一度土蔵を振り返ると、ほんの数分の間なのにはや夜の帳が降りて、階段に座っているはずの白彦の姿は、その陰に隠れようとしていた。
 すらりとした足ばかりが、おぼろげな座敷からの明かりの中に浮かぶ。
 まるで彼の上半身は、土蔵から溢れてくるような闇の中に飲み込まれていくかのようだった。


 きよくん、そこにいちゃダメだよ。今度こそ、連れていかれてしまうよ。


 そう皐月は言いかけて、びくりとした。
 無意識の底からせり上がってきたような言葉だった。

 もう十分に大人の男性を相手に、何を言おうとしていたのだろう。
 何に、連れていかれるというのだろう。

 その先を考えることを阻むように、再び周囲の草が風に揺れて擦れ合う音をたてた。
 早く去ね、とでもいうように。

 なんとなく怖くなって、早足で裏庭から表玄関のある母屋の正面へとまわった。
 ぼんやりと明るい門前提灯のそばを通り過ぎる、通夜客のそぞろな気配を感じてようやく皐月はホッとした。

 狐面の男の子も、何か見間違いだったのかもしれない。
 狐の嫁入りを見た時のように、たった一度きりの、人間にはうかがい知れない時間の隙間をのぞいただけなのかもしれない。




「さすがに土間は冷えるわあ……」
「話長すぎなの、ママたち。座敷から移動しなきゃよかったのに」
「だって圭吾兄さん達が棺守りでそこにつめるっていうんだもの」

 話し声とともに襖が開き、パジャマの中の体を縮こめるようにして座敷に母と依舞が入ってきた。二人は腕で体をさすりながら、敷かれていた隣の布団にすぐに滑り込んだ。

 布団の中でうつらうつらしていた皐月はうっすらと目を開けて、視線を隣に向けた。

「姉妹が四人もいると気が紛れるんじゃない?」

 母は末の妹だ。
 上に三人の姉と四人の兄がいる。
 ここに残っているのは一番上の兄と姉だけで、他はみんな都心や地方に散っていた。

「そうねえ。さすがに昨日はお棺の中に納められたおばあちゃん見た時は参ったけど、泣くだけ泣いたからね。やっぱり風子姉さんたちがいると、少し気持ちが楽になる感じはあるわね」

 亡くなった祖母のそばに夜通しつめる役割も含め、家の遠い親戚は泊まることになっていた。
 そのため久しぶりに集った母たち姉妹は、通夜がひと段落した頃から祖母の思い出話に花を咲かせていたのだ。
 途中までは輪に加わって話を聞いていた皐月も、近況や親戚内の結婚の話が出たあたりから話の雲行きが怪しくなり、仕事の確認を口実に席を外してしまっていた。

 親族の多い場は得意ではないし、とりたてて他の従姉妹たちと交流が深いわけでもない。
 何より伯母達の話の矛先がいずれ自分に向くことが見えていた。

「そうだお姉ちゃん、逃げたでしょ。風子おばさん、彼氏とか結婚とか気にしてたよ」
「そうそう、そうなのよ。ねえどう、皐月。お見合いする気ない?」

 まるで世間話の一つでもしているような母の軽い言葉に、気持ちがざらついた。
 土間での様子からその辺りの話が出るのは見通していたものの、母との間でその手の話をするのは苦手だ。

 なにより見合いで人生の伴侶を決めたいとは思っていない。
 結婚というものに対して、ひどく醒めている自分がいた。

「まだ早いって」
「そんなことないわよ。私が皐月くらいの年の時は、お見合い写真たくさんもらってたし、別に見てみるくらいどうってことないじゃない」
「早いうちから目を養っておくってことも必要じゃん? 別に見合いしたからって、そのまま結婚にすぐ結びつくわけじゃないし、そっちの方が珍しいんだし」

 呼吸の合った母と依舞ほど手強いものはない。思わず小さく嘆息した。

「じゃあ依舞がお見合いしてみたら?」

 押し切られる前に投げやりに言うと、依舞は皐月と母に挟まれた真ん中でおおげさに枕に突っ伏した。

「えーまだ学生だし、彼氏いるし。なのに、見合い相手にすっごい惚れられちゃったらどうすんのよぅ」

 理想の旦那様でも想像しているのか、にやにやしている。

「できれば高収入で、+αで見た目もいいといいわよねえ」
「高収入は絶対条件! 経済的にしっかりしてないと子ども育てることも難しい時代だしー」
「今彼はどうすんのよ」

 何度か挨拶したことのある依舞の彼氏を思い出す。
 誠実そうな雰囲気をもつ、好青年だった。なのに依舞は見合い話にまんざらでもなく、恋愛と結婚は別物と当然のように達観している。

「いいとこ就職してくれたら考えないでもないけど、あいつ意外と夢見がちなのよねー。ダメになる時はそれまでだし、ま、ああいう彼氏も経験のうち、みたいな?」
「そうね、何事も経験。それにママみたいに失敗しないように見る目養っとくのは大事よー。写真見るだけなんてどうせタダなんだから」


 ママは失敗したから。


 いつもの口癖に、依舞の向こうで眠る態勢に入っている母の横顔に視線を走らせた。
 ショートボブの黒髪には白髪が交じり、余計な肉がついていないシャープな輪郭が強くなったその顔は、年齢よりも老けて見える。
 離婚する前は天真爛漫だった母のこれまでの年輪が、くっきり浮かび上がっていた。

 母が、娘二人を抱えて苦労を重ねてきたことは十分分かっているつもりだ。
 自分にできることなんてたかが知れていたから、せめても心配や迷惑はかけないようにしてきた。

 でもいつ頃からか、母の口から自分の人生を失敗したものと捉えた言葉が増えた。
 それを聞く度に、皐月は、自分という存在の虚しさを突きつけられているような気がしていた。

 父と母の結婚は、結果として失敗だったかもしれない。
 でも確かに愛し合い、その結晶として自分と依舞がいる。

 でもすべてが失敗だというなら、娘たちはどう生きていけばいいのだろう。

「皐月、おばあちゃんにおやすみの挨拶してから寝なさいね……」

 すでに夢と現実をいったりきたりし始めている母に、皐月は「わかった」と返事をした。

「ママ、だいぶ疲れてるね」

 スマホをいじりながら依舞は皐月の方に向きを変えた。

「おばあちゃん亡くなったばかりだし……。それに兄弟姉妹だからといって、こんなに多いと、ね。家族もそれなりに出入りするから。どうしたってこういう場は気疲れするよ」
「お姉ちゃん、そういう意味では、疲れてなさそうだよねー」

 笑いながら皐月を見て、すぐに依舞はスマホに視線を落として指を動かした。
 おおかた話題に出た彼氏とメッセージでもやりとりしているのだろう。
 依舞が、言うほどには彼氏を信用してないわけではないことくらい分かっていた。よく軽口や冗談を言いはするけど、それは依舞なりの処世術だ。
 実際は慎重で、軽はずみな行動をしないのが依舞だった。

「これでも気張ってるんだけど……」
「お姉ちゃん分かりにくいからね。ほんと将来生きていけるのか心配だよ」
「なに言ってんの。少なくとも社会生活は営めているわよ」
「そうじゃなくて。なんかこう、……うまく言えないけど、なんか、違うの」

 少し怒ったような拗ねたような口調になった依舞を静かに見つめた。
 本気で心配してくれていることが分かる。
 いつのまに六歳下の妹は、自分のことよりも姉の心配をするようになったのだろう。
 心配させているつもりはないのに、心配させる何かがあるらしい。それが何かは、皐月にはどうしても分からなかった。

 皐月は小さくため息をついて依舞の向こうで眠る母を見つめた。

 主婦をしていた頃の無邪気な母の姿からは信じられないほど、母は通夜振る舞いで気を配ってきびきびと働いていた。あの気遣いは、離婚後に勤めるようになった保険の営業の仕事で培われたものだと容易に分かるくらいに。

 棺に入って穏やかな顔で眠る祖母を見た時の、母の号泣を思い出す。
 あの時だけ、母は皐月や依舞のことも忘れて対面していた。
 普段、娘の前では「おばあちゃん」と呼んでいたけれど、あの時ばかりは、母はまぎれもなく娘だった。

 その様子を見つめながら、皐月はというと泣けないでいた。

 どんなに穏やかな表情に見えても、祖母はすでに血の通っていない、機能を止めたただの肉体に還っていた。
 それまで祖母を構成していた核みたいなものは、それは魂というものかもしれないけれど、一体どこに消えたんだろう。

 母の号泣が響いて、それを支えようと寄り添う依舞をぼんやり見つめながら、皐月はただ黙って蝋細工のような肌の祖母を見下ろしていた。

「ねえ、お姉ちゃん、ホントにお見合いとか考えてみなよ」
「だから、私の結婚のことはいいって」
「だってさ、ずっと彼氏いないじゃん。大学生の時にできたかな、って思ってたけど、別れてるっぽいし。社会人って出会い少なそうなんだもん」
「別に出会いなんて求めてないもの」
「そんな枯れたこと言わないでさあ。行かず後家なんて、あたしやだからね」
「行かず、って……すごい言葉知ってんのね」

 隣を見ると、スマホをいじっていた依舞が私を見てにやりと笑った。

「人生設計しっかり考えてると、いろんな言葉がひっかかるんですー。やっぱほら、年上の未婚の身内がいるいないでは、ちょっと違うじゃん?」

 痛いところを容赦なく突いてくる。
 心配して言ってくれているのは分かるけど、なかなか素直にきくのは難しい。

「だからさ、写真見るくらいいいじゃん」
「見るくらいってね、相手に期待させたり、なにより見合い写真をもってくるおばさんたちの顔だって潰せないでしょう?」
「そんなの、相性だってあるんだし、プッシュされたら会うだけ会って、ごめんなさいでいいじゃん」
「そんな軽いもんじゃないの。ほら、明日も忙しいから、そろそろ寝ないと」

 依舞のおしゃべりを止めるため、天井からぶら下がった電灯の紐を引っ張ろうと体を起こした。

「あ、でも、お姉ちゃん出会いあったね」
「え?」

 依舞は、秘かな楽しみを見つけたみたいに笑った。

「ほら、えっと悟おじさんとこの、白彦さん? 見た目はクリアしてるから、あとは財力よねー。なんかいい感じになっちゃったりー?」

 おしゃべりに飽き足らず、想像力までもたくましくし始めている。

「ならないから」

 言い切ると、依舞は疑わしそうな目で皐月を見上げた。

「幼なじみみたいなものだし、依舞が期待しているような関係じゃないの。小さな頃はよく遊んだけど、もういい大人だしね。それにあれだけ顔も性格もよいんだもの、私なんかより素敵な彼女か、奥さんとかがすでにいるわよ」
「どうかなー、いないと思う。あの人、ちょっと変だもん」
「変、ってそんな失礼な」
「だってスマホ、持ってないんだって。ガラケーもだよ? 電波系一切ダメとかでメールもしないって。スマホなくて平気な仕事ってあんのかなあ。今じゃ就活にだって必須ツールなのに、このご時世、よく生きてけるよね」
「生きてけるっておおげさ……っていうか、ちょっと待って、なんでそんな話になったの」
「連絡先、教えてって言ったー」
「……なんでまた」

 呆れた顔をすると、依舞は楽しげに笑った。

「だって、あんなモデル顔負けの彼氏、は無理でも知り合いいたら自慢できそうじゃん?」
「あのね、いちおう従兄弟なんだから、この先何かあればその都度顔合わせるかも知れない相手を、一時の感情でどうこうしようって思わないの」
「わーかってるって。それにもうそんな気ないもん。なんか、スマホ持ってない時点でありえなーい」

 連絡先を聞き出そうとした割に、ありえないとか言い出し始めた依舞につき合っていられず、大きなため息をついて電灯を消した。

「おばあちゃんに挨拶してくるから、先寝てなさいよ」
「うん、おやすみー」
「おやすみ」と言いおいて、廊下に出た。


 わずかに他の座敷の襖から漏れる明かりと、ところどころの電灯がぼんやりと濡れたような板張りを照らしている。先ほどまでの喧騒を忘れたかのように、しん、と静まり返っていて、五月とはいえ、夜の空気が床の方に溜まった廊下はひんやりと冷たく、素足に染みた。

 祖母の棺が安置された仏間に近づくにつれて、線香の匂いが強くなるのに気づいた。
 日中は人が動いて空気が常に攪拌されていたせいか、それまで感じていなかった線香の、どこかしんみりさせる匂いは、この古い屋敷が今まさに死を纏っているのだと思わせる。

 その気配の中を歩いていくと、普段は親族が集う居間として使われている座敷から廊下に明かりが漏れていた。

 祖母の遺体が安置されている仏間の隣からだ。
 皐月はそこで足をとめて、襖を開けた。

 母の兄である二番目の圭吾伯父と三番目の悟伯父が棺守りのためにつめていた。
 といっても、座って腕を組んだ圭吾伯父は毛布をかぶって舟を漕いでいる。

「皐月ちゃん、眠れねえのか?」

小さな音声でテレビを見ていた悟伯父は、切れ長の瞳を細めて皐月を見上げた。白彦に似た涼しげな雰囲気は、さすが親子のものだ。

「ううん、おばあちゃんにおやすみの挨拶しに」
「そうが。まあゆっくり挨拶してけ。もうこの世にいられんのも、残り少ねえしな」
「この世?」

 もう祖母は、この世にはいない。
 おかしな言い回しに聞きとがめると、悟伯父は答えるのが億劫そうに手を振った。

「ああ、ああ、なんでもねえ」

 そういえば、悟伯父のいい評判は聞かない。
 白彦の父といはいえ、関わり合いになるのは避けた方が良さそうだった。



 襖が取り払われた奥の仏間には、棺のそばに立派な祭壇が設けられていた。
 でも明かりは薄暗く、香炉に赤く灯る線香がぼうっと浮かんでいる。
 それらだけが仏間を照らす唯一の明かりらしい明かりだった。

 正座して祭壇を見上げると、生前、祖母の長寿祝いで撮った写真が遺影として掲げられている。
 九十歳を迎えた祖母は、まだまだ赫灼としていた。

 私は仕事の都合で行けなかったけれど、依舞の話では親族もだいぶ集まり、かなり盛り上がったらしい。

 細々とした明かりに揺れる祖母の顔は、嬉しそうで、でもどこか心配そうにこっちを見ているようだった。

 手を合わせてから、棺についた小さな扉を静かに開ける。
 目を閉じ、死化粧した祖母の顔はきれいなままだ。その不変さがよけいに、祖母の死を際立たせた。

 可愛がってもらった遠い記憶の中の祖母は、しわはやっぱり多くて体も人並みより小さかったけれど、張りつめた気のようなもので実際より大きな存在に見えていた。
 でも今はとても小さい。こんなに小さな人だったんだろうかと疑わしくなるほどに。

 かけたい言葉もかけなくてはならない言葉も喉の奥につまったまま出てこない。
 その代わりのように、ふとあの日見た狐の嫁入りのことや、今日の狐面の男の子のことが脳裏をよぎった。

 祖母は何か知っていただろうか。

 考えていた皐月の耳に、蝋燭の芯が燃える小さな音が届いた。


ーー皐月、あんたは魅入られっちまった。この世のものでねものに、好かれっちまったんだ。


 そう言って、皐月の頭をゆっくり撫でていたのは祖母だったか。
 少し困った顔をしていたのを覚えている。でもしわに埋まってしまうほど細い目の奥はとても優しかった。


ーーでもばあちゃんの目さ黒ぇ内はなんとかすっぺ。皐月は、なーんも心配することねえがら。


 縁側に座る祖母の膝に抱っこされた幼い皐月は頭の手から伝わるあたたかさに安心しきっていた。
 祖母の言葉が意味することよりも、その声音とリズムが心地よくて午睡に誘われていた。

 突如蘇ってきた記憶にハッと目を開け、一瞬、自分がどこにいるのか分からなくて辺りを見回した。

「どうした?」

 悟伯父の声が隣の座敷から届いて、現実に引き戻された。

「え? あ、ううん、なんでもな、い……」

 なにげなく祭壇が写りこむ縁側の窓に目をやった。
 窓には、パジャマ姿の自分が途方に暮れた顔で立ち尽くしている。
 なんとなくホッとしたのも束の間、写りこんだ物の向こうに目が吸い寄せられた。


 月明かりに照らされ、つつましく手入れされた庭がある。
 昼間はしっとりと花弁を垂らしていた花菖蒲や杜若も、緑陰をもたらす竹もすべて闇の中だ。

 でもそこに、ぼんやりと白いものが浮かび上がっていた。


 小さな、影ーー子どもだ。


 時間帯も立つ場所も尋常ではない。
 なによりその子どもの顔がやけに白く見えることの方に気を取られた。
 そのせいか両目の部分は、周囲の闇を吸い上げたようにぽっかりと黒く空いている。

 自然と目を凝らして、ぞわりと背筋に寒気が走った。

 肌や顔色が白いのではない。
 あれは、顔の上半分を覆う狐面をかぶっているからだ。


 夕刻、追いかけた、あの男の子だ。


 こんな夜更けに、と思いかけてゾッとした。
 こんな夜更けに、葬儀のあった他人の家に、たった一人で子どもがいるものだろうか。
 むしろ、子どもの顔をしているだけではないのか。

 背筋に怖気が走ったその時、シャーッとカーテンを引く音がして皐月は反射的に音がした方角を見た。

 悟伯父が長い廊下の向こうからカーテンを引きつつ歩いてくる。


シャーッ、シャーッ、シャーッ。カーテンレールの音がやけに響いた。


「閉めるの忘れてたわ」

 悟伯父は、あっけらかんと笑いながらそう言って、その場に固まった皐月の前を通り過ぎ、仏間のある廊下の端までカーテンを引いて歩いた。
 予想もしていなかった悟伯父の行動に気を取られていたのも束の間、ハッと窓に駆け寄った。

 カーテンの隙間から、外を見た。

 いない。

 窓から庭に目を凝らして狐面の男の子の姿を探していると、背後から声が届いた。

「ちゃんと開けた扉は閉めてやんねと。おばあちゃん、怒っちまうぞ」

 振り返ると、仏間に移った悟伯父が棺の小さな扉を閉めていた。
 その手つきがあまりにぞんざいで、眉を顰める。
 私の心中を知ってか知らずか、悟伯父はだいぶ芯が低くなった蝋燭を面倒そうに取り替え始めた。

 その様子に湧き上がってきた怒りを飲み込もうとして、口の中が乾いていることに気づいた。

「なあ皐月ちゃん」

 鷹揚な口調は穏やかに聞こえるのに、空気が緊張を孕む。
 皐月が怒りをもって悟伯父を見つめていたから、というには異様に空気が強ばっていた。

「皐月ちゃんは、結婚してねかったよな?」
「え?」唐突すぎる内容についていけず、ぽかんと口を開けてしまう。
「うちの息子、どうだね?」
「へ?」

 棺に向き合っていた悟伯父が、そのままにじりながら皐月を見た。

 切れ長の瞳は、白彦に似ているはずなのに冷たくて鋭い。
 そこに刃があれば、否応なしに相手を一刀両断できそうなほど情の欠片も見えない。なのに、話していることのちぐはぐさが、余計に悟伯父の怖さを際立たせた。

「小さい頃、あんな仲良かったべ? 皐月ちゃんなら、白彦任せられんなあと思ってたんだ」
「ちょ、ちょっと待ってください。あの、急に困ります。っていうか、そんな話する時じゃないですよね、今」

 あまりの展開にうろたえて、きつめの口調で答えた。

「おばあちゃんは亡くなった。だからよ」
「だから、って意味分かりません! きよくんだってそんなこと望んでないでしょうし、」
「そんなことねえ。皐月ちゃん、あんたがこの家にまた帰ってくんのを待ってたんだ、白彦は。あんたがこの地に来なくなってから、ずっとな。皆、あいつを、白彦を見てきたんだ、分かってる」

 祖母が安らかに眠る前での諍いに情けなくなりながらも、伯父の非常識さは覚えていた怒りに拍車をかけた。

「あのですね、大きくなれば自然と来なくなることだってあるでしょう。だからって、なんで急にきよくんと私が!」
「ううん……なんだあ、兄貴、うっせーぞ……」

 荒らげた声に、座敷の方で唸るような声が聞こえた。
 座敷を向いた悟伯父がため息をついた。

「なんだよ、どうしたよ。お? 皐月ちゃん? 起きてたのか、もう二時近えぞ?」

 頭をかきながら起きてきた圭吾伯父のおかげで、いっきに場が緩んだ。

「皐月ちゃん、本気で考えといてくれ。皆、あんたが白彦に応えてくれんの、待ってんだがら」

 有無を言わさない口調に言い返そうとした皐月を制して、悟伯父は勢い良く立ち上がった。
 そして「おめえが寝てっから、蝋燭取り替えてたんだ」と言いながら圭吾伯父の方に行ってしまった。

 悟伯父の言う皆がどのあたりまで指すのか分からないけれど、親戚中が自分ときよくんをそんな目で見ているとしたら、身の置き所がない。
 皐月は圭吾伯父にだけあからさまに「おやすみなさい」と断ると、依舞たちのいる寝間へと早足で歩き始めた。



 祖母の葬儀の場もわきまえず、自分の息子との結婚をすすめる常識がどこにある。
 苛立ちがおさまらず、そのまま戻るべき部屋を通り過ぎて玄関へと向かい、サンダルをつっかけて外に出た。
 庭に狐面の子どもがいた怖さも飛んで、大股で長屋門の方まで歩いた。

 夜気が皐月を取り巻こうと手をのばしても、それすら振り払ってさらに外へ、屋敷の敷地から出た。
 目の端をわずかに通り過ぎた門前提灯のほのかな明かりさえ、ささくれた気持ちを宥めはしない。

 しばらく風を肩で切るようにして行き、あぜ道の途中でふと立ち止まる。

 振り返ると離れたところでぽつりと、長屋門の提灯の明かりが寂しげに浮かんでいる。周りは、なみなみと水が張られた田んぼが広がり、月の光が描く筋模様の中で稲の苗が渡る風に揺れている。

 田んぼと田んぼの間で、黒い点のように沈んだどの家にも明かりはない。
 しきりにカエルが鳴いている。

 都心ではありえない静けさに身を沈めていると、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
 皐月は大きく息を吸い込んで、体のうちに渦巻く感情をのせて吐き出した。

 大人げない態度だったとしても、男と女という生々しい関係に、白彦と自分を当てはめたくなかった。
 例えつぶさに覚えていなくても、あの頃過ごした幸せな時間は、自分だけの宝物としてとっておきたかった。

 白彦と会わなくなった、その後めまぐるしく過ぎ去っていった日々との差が大きいだけに。


 冷静さをとりもどすうちに、またため息が出た。
 月光の中で田んぼの上を渡ってくる風の冷たさも身にしみた。都会の雑踏に慣れた目には目の前の風景はとても淋しい。

 片腕で体をあたためるようにさすりながら、皐月はポケットからスマホを出した。
 画面に勤務先の営業部グループから「神宮寺陽平」の名前を呼び出す。

 通話ボタンを押しかけて、ぐっとこらえた。
 無意識に呼び出した相手が、つきあって一年半になる男だと思うと、割り切れない自分に情けなくやりきれない。

 簡単に別れることができたら、どんなに楽だろう。
 軽い遊びのひとつさえ、皐月にはうまくできない。

 涙がにじみそうになって、慌てて目を見開いて空を仰いだ。
 その時、道を擦るような雪駄の音が聞こえてきて、その方角に顔を向けた。

 丹前の袖に両手をいれて浴衣姿で歩いてくる白彦だった。

「皐月ちゃん? こんな時間にどうしたの?」

 白彦が早足で皐月に近づいてきた。
 月明かりのせいか、それとも依舞や悟伯父から聞かされた話のせいか、少し顔を見づらい。

「……別になんでもない。きよくんこそ、こんな時間にどうしたの?」
「ちょっと眠れなくてね、散歩してたんだ」

そう言って白彦は丹前から手を出すと、皐月の肩に触れた。

「ああ、やっぱり。そんな格好でいるから……。五月といっても、この辺は夜になると寒いんだ。女の子なんだから気をつけないと」

 白彦は自分の丹前を脱いでふわりと皐月の体にかけた。

 性別関係なく遊んでいた相手が、自分を自然に女性扱いしていることにうろたえ、慌てて誤摩化すように俯いた。
 丹前の衿を合わせると、寸前まで着ていた白彦のぬくもりが、ささくれていた気持ちを溶かして、引っ込んだはずの涙がまたわきあがった。

「ありがとう……、あったかい」そう呟くと、白彦が「いいよ」と小さく笑った。
「思い出話、していい?」

 顔をあげると、白彦は皐月を少しからかうようにのぞきこんだ。
 黒く深い目の光が柔らかくて、なんとなく先に視線をそらした。

「昔、こんな夜に皐月ちゃんと2人で家を抜け出して大目玉くらったんだよ」

 大切な宝物のように愛しげに言う白彦に視線を戻すと、白彦は屋敷の前に広がる光景に視線をうつしていた。
 どこか切なそうな横顔が月明かりに照らされて、本当にこの男性は人じゃないみたいにきれいだと思った。

 そう思って、そういう風に白彦の横顔を見たのが初めてじゃない気がした。

「急に皐月ちゃんが夜の冒険しようって言いだして。やめようって言っても聞かなくてさ」
「私が?」
「うん、小さい頃の皐月ちゃん、すごく好奇心旺盛でしかも勇敢でどこにでも行くから困った」
「皆そう言うけど、そんなに?」
「うん、こんなに女性らしくしとやかになるなんて、びっくりだよ」

 なにげない言葉に、白彦が自分をどう見ているのかが垣間見えて、またうろたえる。
 もう、小さい頃のように無邪気ではいられないのだ。

 どう振る舞えばいいのか分からなくて、聞かなかったフリをして言葉を返した。

「もしかしてその時きよくん、すごく怖かった、とか?」
「そう、本当はこの辺って夜はすごく怖いし、やだった。でも女の子の皐月ちゃんが全然平気そうで、僕が怖がってるとこ見せらんないでしょ」

 苦笑しながら白彦は田んぼの奥を指さした。

「あそこ、あの林のそばまで行ったんだよ」

 目を凝らすと、月明かりに浮かび上がる田んぼを凌駕して、山の黒々とした輪郭が聳えていた。
 この辺りの集落では、その険しい山容からすぐ目に入る里山ーー古宇里山だ。
 山頂に断崖絶壁の岩肌を見せて荒々しい雰囲気だけれど、中腹から裾野にかけて豊かな山の幸がとれる恵みの山として、昔から神の山として大切にされてきたと聞いたことがある。

「だいぶ行けたんだね、子供の足なのに」
「だから余計、怒られたんだよ。一番はおばあちゃんが怒ってたなあ」
「え、おばあちゃんが?」
「あれで怒るときは怒る人なんだよ、おばあちゃん。ほら、僕は家も近いから頻繁に遊びに来てたし、その分、厳しかったというか。あれしちゃなんね、これしちゃなんね、って口うるさいところもあったんだよ」

 いつも穏やかに笑んでいた祖母が怒ったというなら、それはきっと子どもだった皐月にはインパクトを残しただろうに、思い出せない。
 日々に追われるように生活していると、過去の記憶や思い出は簡単に忘却の淵へと追いやられてしまう。

「ごめん……、私、あまりあの頃のこと覚えてなくて」

 白彦は、緩く頭を振って微笑んだ。

「忘れていてもいいよ。僕がその分覚えてるから。どんな遊びをして、どんなことで笑い合ったか、泣いたか、ケンカしたか、知りたくなったら僕に聞いてくれればいい。皐月ちゃんは無理して思い出さなくてもいいんだ」

 大きな腕に受け止められているような安心感が胸の奥に満ちてきて、堰を切りそうになる。
 ありがとうもごめんなさいも、どんな言葉も白彦の優しさの前ではかすれそうだった。

「きよくん、こっちにいる間は時々でいいから、こうして昔の話、聞かせて。なんていうか、両親が離婚してからずっと目の前のことで精一杯で。おばあちゃんも、この家に遊びに来ることも、そこできよくんと遊ぶことも大好きだったはずなのに」

 相づちを打つ白彦の優しさに堪えきれず、涙がこぼれて俯いた。

 白彦は一歩足を踏み出すと、皐月の体に腕を回してあやすように静かに背中をたたいた。

 カエルや虫の鳴き声の間を風が吹いて、さらさらと道の脇に生えている草の波打つ音が聞こえた。
 どこかで動物が甲高く鳴いて、それに反応した民家の犬が遠吠えをした。

 白彦の優しい手のぬくもりが、張りつめてきた気持ちを緩やかにほぐしていき、同時に照れくささが少しずつ戻る。
 涙をぬぐって、白彦から一歩下がって離れた。

「なんか、恥ずかしいとこ見せた。もういい大人なのに」

 皐月が笑ってみせると、白彦は少し哀しそうに頭をふった。

「泣きたい気持ちに大人も子どももないよ」

 また感情が揺さぶられそうになる。

「……なんか、いい男に成長しすぎ。これじゃ私ばっかり情けない」

 自分の内側に広がる動揺と、真剣な眼差しの白彦から逃げるように軽い口調を装った。

「そろそろ戻らない? このままじゃきよくんに風邪ひかせちゃう」

 これ以上視線を合わせているとどうにもならない感情を呼び起こされそうで、白彦を見ずに屋敷の方へ足を踏み出した。

 すぐに白彦が少し切羽詰まった声で「皐月ちゃん」と呼び止めた。
 そのまま振り返ったら取り返しのつかないことが起きそうで、皐月は落ち着こうと深く呼吸を繰り返した。

 今はまだ、無邪気な子どもの頃のままで、そっとしておいて欲しかった。

「……皐月ちゃん」

 もどかしげに、さっきより少し強い口調で、白彦が呼んだ。
 ひと呼吸置いて「風邪、ひいちゃうよ」と言って振り返った。

 真剣な、熱を孕んだ眼差しが皐月に注がれていた。

 穏やかな光を湛えるばかりだった切れ長の瞳が、月明かりの下で言葉よりも雄弁な強い光を放って、まるで金色に光っているようだった。
 それは白彦の凜とした佇まいに似合って、とてもきれいだった。

 いつから、白彦はその瞳で、皐月を見ていたのだろう。

 悟伯父の、ずっと待っていたという言葉がよみがえった。

「もし。もし、皐月ちゃんが助けてほしい時はきっと呼んで。皐月ちゃんがどこにいても、必ずそばに行く」

 胸の奥が大きく跳ねて、なびきそうになるのを堪えた。

「……どうして、そこまでしてくれるの?」

 掠れた声で尋ねると、白彦はハッとしたように視線を揺らし、それから狼狽えたように目を伏せた。

「……僕は昔、君に救われたから」
「救う? 私……が、きよくんを?」

 命を助けたことでもあったのか。
 記憶に思い当たる節はなく、そんな大事なことさえも忘れているのかと血の気が引いた。

「そんな大事なこと」
「あ、いや、忘れていて当然なんだよ、思い出す必要ないんだ」

 慌てた白彦が動揺する皐月をなだめるように一歩近づいた。

「当然って、なんで、」憮然として、白彦の顔を見たつもりだった。
 でも上半身をわずかに屈めた白彦の肩の向こう、二人で遊びに行ったという古宇里山の林が目に入った。

 そこには、いくつもの小さな光が松明のように揺れていた。
 車のライトや誰かの懐中電灯ではない。

 不規則に上下左右に揺れる無数の、青白い光。

 小さな悲鳴がもれた。
 皐月の様子に、白彦が素早く背後を振り返った。
 そして苛立たしげに唸った。

 林の中、青白い光が一列に揺れるように浮かんでいて、それはどんどん増えていく。

「あれ、きよくん、あれ何、」

 いくつかは明滅している。
 皐月の全身を今までにない恐怖が包みこんだ。

 金縛りにあったように目を離せない皐月の視界を遮って、白彦は肩を強く抱いた。

「皐月ちゃん、家に入ろう!」体の向きを強引に変えると長屋門へと歩き出した。

 脳裏を狐の嫁入りのあの列がよぎった。

 怖いのに、見たい。
 見ちゃいけない。
 でも、確かめたい。
 あれは、きっと。

 もう一度背後を振り返ろうとした。

「見ちゃダメだ!」

 白彦の激しい声に皐月は身をすくませた。そして白彦の歩調に引きずられるようにして、長屋門をくぐって表玄関へと向かう。
 一瞬、視界の端で悟伯父と圭吾伯父が詰めている座敷のカーテンが揺れて、人影を見たような気がした。

 勢いのまま表玄関に入ると、白彦は肩を抱く力を緩めた。

 さっき見た光景が忘れられない。


 あれは、そう。
 祖母の声がよみがえった。


ーー皐月、夜に誰もいねえ、火の気のねえところに松明みてえな光がたっくさん浮かんどったら、逃げねとだめだかんな。

ーー狐火っちゅうて、この世のもんではねえがら。


「ねえ、きよくん。あれって、狐火……」

 言い終わらぬうちに、白彦が両肩を強く掴み直して、皐月の顔をのぞきこんだ。

「皐月ちゃん、僕の目を見て」

 呆然としていた皐月は、白彦に言われるがまま至近距離に近づいた切れ長の瞳を見返した。
 そこにあったのは、月明かりの下でもないのに、燦然と金色に輝く虹彩だった。
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